第六夜 月の真実


 ディアがユアのもとを去ってから、ひと月の月日が流れた。


 眩しい陽光が窓から差し、若葉は青々と日光を浴びている。

 随分気温も高くなり、汗ばむことも多くなった。特に全身毛皮で覆われているブオは、大変そうだ。

 今日も机の上に寝転がり、完全にばてていた。


「ブオ、大丈夫?」

「……大丈夫じゃない」


 ユアはそんなブオを面白そうにつついている。そんな彼女を横目で見て、ブオはため息をついた。


「案外、平気なものなんだな」

「何が?」

「ディアがいない生活さ」


 その言葉に、ユアの表情が一瞬陰った。しかし、祈るように自分の胸に手を当てた。


「ディアは生きているもの。きっと、大丈夫よ」

「強いな」


 ブオが力なく微笑むと、ユアも微笑んだ。


「あれから私の命を狙う死神も来ないわ。きっと、ディアはうまくやっているはずよ」


 そうは口で言いながらも、ユアは心配していた。うまくやっているにしては帰りが遅いからだ。

 だが、ユアが生きているということは、ディアも生きている。ただその事実だけが、ユアを支えていた。

 しかし彼女の心の中で、疑問のようなものが生まれる。


「でも、やっぱり寂しい」


 ユアはディアを待つだけしかできない自分を、疑問に思っていた。


「ふん、俺がいるだろう」

「ふふ、そうね」


 笑って遮光幕を開いたユアは、硝子の向こうに黒い人影があるのに気づいて息を呑んだ。


「ディア!?」

「何?」


 ユアの驚愕の声に、ブオが身構えた。ユアが慌てて陽台へと繋がる扉を開くと、そこに黒衣を纏った人物が立っていた。

 その姿を確認した瞬間、ユアは後ずさった。本能的に、それはディアではないとわかったのだ。

 ブオがユアのもとへと近づく。すると、黒衣の人物が振り返った。頭をすっぽり覆っていた黒い頭巾を脱ぐと、その下から白金の髪が現れる。あちこちに跳ねた短髪に、透き通るような白い肌、そして蒼く光る銀の目を持っている。

 どことなく幼い印象を持っている男だった。その男が笑って口を開いた。


「はじめまして、可愛い姫君」


 自分の命を狙ってきた死神かと思い、ユアは息を呑んだ。ブオも完全に警戒している。


「そんなに警戒しないでくれよ、可愛い子ちゃん?」


 軽薄な口調でごまかしているが、その男は異様な雰囲気を纏っていた。悪戯を思いついた子供のような笑顔の裏に、何かを隠していそうな印象を受ける。

 とにもかくにも、怪しい男だった。


「誰、貴方……」

「俺? 俺はピーノ。よろしく」


 笑顔で差し出された右手は、重たいものなど持ったこともないように柔らかそうで、白い。しかしユアは、その手を取らない。


「あれ、まだ警戒してる?」

「……警戒しない、わけがないじゃない」

「ユア、どいてろ」


 ブオが人型になり、ユアを部屋の中に引き入れた。そして牙をむいて、ピーノと名乗った男に激しい敵意を見せる。

 そこまであからさまな敵意を見せられているにも関わらず、ピーノは少しも動じた様子がなく、伸ばしていた右手でそのまま頭をかいた。


「そんな警戒しないでよ。別に、獲って食いに来たわけじゃないんだから」

「お前、何者だ……?」


 警戒しつつも、ユアは二人の様子を覗き見る。銀蒼の瞳が真っ直ぐにユアを捉え、ユアは身体を震わせた。


「愛しい死神においていかれて、可哀想になぁ」

「おいていかれたわけじゃないわ」


 ユアがむきになって言い返す。ピーノは面白そうにユアを見ていた。


「おいていかれたわけじゃないなら、どうしてまだ迎えに来ないんだろうな?」

「お前、いい加減にしろ」


 ブオが唸って、牙をむく。ピーノはそんなブオを相手にせず、意味ありげに笑うだけだ。ユアは眉をひそめた。


「貴方……何か知っているの?」

「君の愛している死神のことかい?」

「おい!」


 痺れを切らしたブオがピーノに掴みかかった。その瞬間、面倒くさそうにピーノが右手を振るう。


「うるさいな、お前」

「ブオ!?」


 ピーノの右手の一振りで、ブオが弾き飛ばされた。


「何するの!」

「いっ……」


 壁に激しくぶつかり、ブオは身動きが取れない。ユアはそちらに駆け寄った。


「俺は君と話をしているんだ。邪魔されたくない」

「ブオ……」


 痛みに顔を歪めているブオだが、その目はピーノを睨みつけている。そんな視線もものともせず、ピーノはユアに微笑を向ける。


「君は、気にならないのかい? 君の愛する死神が今どういう状況にあるのか」


 ユアが息を呑んで顔を上げた。そしてもう一度訊ねる。


「貴方、何か知っているの……?」

「さて?」


 ピーノが目線を合わせるかのようにその場にしゃがみこんだ。そしてユアを伺う。


「決めるのは君だ」

「決めるって……何を?」

「俺と一緒に魔界へ行くか、否か」


 その申し出に、ユアが息を呑んだ。そしてブオが顔をしかめる。


「お前、いい加減なことを言うな!」

「いい加減なことかな? 君にはこうしてお姫様を守っていることしかできないかもしれないけれど、俺は彼女を望む場所へ送り届けることができる。彼女の愛する死神のところへな」


 呆然とピーノを伺っていたユアが口を開いた。


「いきなり現れた貴方の言うことを、信じろと?」

「そうだ、ユア。こんな得体の知れない奴の言うことに耳を貸すな」


 ブオが立ち上がって、ユアをその背に隠す。しかし、ピーノは動じない。


「俺は君を傷つけようだなんて思っていない。ただ、君があの死神に会いたいだろうなと思ってね」

「……どうして私のことを知っているの?」


 その質問に、ピーノの口端が上がった。


「この世で君のことを知らないのは、この世界に住む人間くらいだよ」


 その言葉に、ユアは己の胸元にある月に触れた。¬¬¬¬¬

 命の源だと、黒い死神が教えてくれたその石に。


「……これのせいよね」


 ピーノの瞳が一瞬、鋭く細められた。しかしユアが見返したときにはもとの笑顔に戻っていた。


「そうだよ」

「ユア」


 ピーノと話すことをやめないユアに、ブオが苛立った声を向ける。しかし、ユアの瞳はピーノを見つめていた。それはユアの中に一抹の不安があったせいだ。


 ユアが生きているということは、ディアも生きているという証拠である。だが、その姿が見えなければ不安になるのも当然だった。

 ディアにはユアの心の波長が伝わるのに、自分には伝わってこないということも、ユアの不安を助長させていた。


「ディアは、無事なの?」

「結論から言って、無事ではない」


 ピーノの言葉に、ユアの顔から一気に血の気が引いた。そしてそれは、ブオも一緒だった。


「なん……だって?」

「君も知っているだろう? あの魔界の王は一筋縄では行かないよ」


 顔色を変えたブオに、ピーノが初めて話しかけた。ユアは思わずピーノに歩み寄っていた。


「ディアは、ディアはどうしたの!? 無事ではないって、どういうこと!」


 今にも泣き出しそうな悲痛なユアの叫びに、ピーノは落ち着かせるようにユアの髪をなでた。


「きっと、君が行けば事態は変わる」

「え……」


 ピーノが、どこまでも優しい笑みを浮かべた。


「愛の力がそこにあるのなら、何でもできるはずだろう? 命を投げ出すことさえも」


 その言葉に、ユアが息を呑んだ。そして、ブオが牙をむく。


「お前何を……!」

「やめて」


 ユアがブオを抑える。


「私、行く」

「ユア!?」


 ユアが今にも泣き出しそうな顔で、ブオを見た。その悲痛な面持ちに、ブオは言葉を噤む。


「もう、待っているだけじゃ嫌。守ってもらうだけなのも、嫌。今もし、ディアが私のために頑張ってくれているのだったら、私もディアのために頑張りたい」

「ユア……」

「ディアに会いたい」


 吐き出すように呟いた瞬間、ユアの瞳から涙がこぼれた。


「ディアに、会いたいの」


 紫水晶の瞳からこぼれた涙を、ピーノの手がぬぐった。ユアが驚いたようにそちらを見る。


「俺が連れて行ってあげる、可愛い姫君」


 ピーノがユアの手を取り、ユアがその輝く蒼銀の瞳を見た瞬間、ユアの意識は消し飛んでいた――……。




 黒い雷鳴が、空を彩っていた。しかしその雷光が大地に降り注ぐことはなく、遥か上空で弾けるように光っている。

 赤い大地の上に、雷光に黒く照らし出される灰色の街があった。靄のような土埃が、街を霞んで見せていた。


 その街の中央で、まるで赤い大地が街を貫くように天に伸びている。その崖の上に、王城があった。

 崖の周りでは、何体もの黒い羽根を持った巨大な影が旋回しており、時折不気味な鳴声をあげている。


 その鳴声をかき消すかのように、紫色の濁流が崖の上から降り注ぎ、轟音を撒き散らしていた。

 上流に近いところは仄かに蒼く輝いて見えるが、崖を下るにつれ赤みを帯び、街を流れる運河に着く頃には、濁った赤となっている。



 そのどこまでも陰気で、不気味な光景を、寂しげな蒼銀の瞳が見つめていた。




 朦朧とする意識の中、自分の名を呼ぶ声が聞こえたような気がして、ユアは目を開いた。


「……ん」

「ユアっ」


 身体がひどく重く、意識がはっきりしなかった。靄のかかった暗闇に堕ちた意識が、ゆっくりと浮上してくる。

 何度も瞬きをして、やっと焦点があってきた。


「ユア!」

「……ブオ」


 そしてようやく視界がはっきりとしたユアの目の前にいたのは、人型のブオだった。


「ここは……?」


 辺りを見回して、ユアは戸惑った。豪奢な赤い天鵞絨の寝台に寝かされていたのだ。誰かの部屋のようだが、物は極端に少なく、私物のようなものは目に入ってこない。


「ここは……」

「起きたのね」


 ブオの言葉を遮るようにして入ってきた女の声に、ユアは息を呑んだ。そしてそちらを見て、再度言葉を失った。


「シ……ンシア……?」


 そこには、黒の豪奢な洋装に身を包み、盆の上に水の入った容器を持ったシンシアがいた。

 しかし、ユアは眉をひそめる。顔や声は同じなのに、髪の毛の長さも、身に纏う雰囲気も全く違っていたからだ。


 すると、シンシアの姿をした女が微笑んだ。月が輝くような笑みで、それもシンシアのものとは違っていた。


「私は、ティーア。シンシアの、双子の姉よ」

「双子の……」


 思いもよらぬ言葉に、ユアは硬直する。そしてすがるようにブオを見た。するとブオは、黙ってうなずいた。

 その様子を見ていたティーアが、寂しげに口を開いた。


「妹のお友達になってくれて、ありがとう。ユア」


 その言葉に、呆気に取られていたユアが震えだした。そして見る間に紫水晶の瞳に涙が浮かんだ。


「ごめんなさい……っ」

「どうしたの」


 顔をうずめて泣き出したユアを、ブオが支える。ティーアが戸惑ったようにそちらを見た。


「シ、シンシアは、私のせいで……っ」


 ユアが吐き出すように言った言葉に、ティーアは表情を消した。そして、嗚咽をあげるユアの肩に手を置いた。


「私とシンシアは、心が繋がっていたの」

「……え」


 ユアが涙に濡れた瞳で、ティーアを見た。ティーアは、寂しげに微笑んでいる。


「心が繋がっていたから、どんなに離れていても意思の疎通ができたの。そのせいで、シンシアが貴女の世界に偵察に送られたのよ」


 ティーアの言葉に、ユアの瞳が見開かれた。ティーアが己の胸に手を当てる。


「王は、時折私を訪ねては、訊いていた。姫の具合はどうなのかと」


 込みあがってくる嫌な予感に、ユアは震える。そして案の定、ティーアが桃色の瞳を伏せた。


「あの日、王は言ったの。これ以上は待たない、と」


 予想できたその言葉に、ユアは唇を噛んだ。


「姫の命を奪うか、王を裏切って王に殺されるか。シンシアは究極の選択を迫られた」

「そんな……」


 友人が置かれていた状況を考えるだけで、ユアは身が引き裂かれそうなほどの痛みを覚えた。

 どれだけ、シンシアはユアのために苦しんでいたのだろうかと、そう考えるだけで溢れる涙を抑えきれなかった。


「シンシアは私に言ったわ。ユアは友達なの、と。大切な友達なのだと。そして、ディアを愛していると」


 ティーアがユアの髪の毛をなでる。


「どうせ殺されるなら、愛する人の手にかかりたいと、妹はそう言った。自分は、幸せだと。あの子の強い想いに、私もあの子を止められなかった……守れなかった」


 ユアが、ティーアに抱きついた。そのユアを抱きとめ、ティーアが一筋の涙を流した。


「シンシアが思っていたことよ。貴女は、何も諦める必要なんてなかったと。生きることも、人を愛することも……」


 しばらくして二人とも落ち着くと、ユアは涙をぬぐって姿勢を正した。


「シンシアは、私の初めての、女の子のお友達でした」

「妹にとっても、貴女は特別なお友達だったはずよ」


 ティーアは微笑みながら、部屋にあった洋服箪笥から黒い装束を取り出した。


「これを着て。今の格好では、目立ってしまうから」


 渡された黒装束を手にして、ユアははっとしてブオを見る。


「ブオ、ピーノは?」

「こっちに来てすぐに、ティーアの家に連れてこられた。そして、用があるとか言って出かけたぞ」

「そう……。それで、ディアは」


 ユアが不安げに訊ねると、ブオもティーアも顔を伏せた。その様子に、ユアが身を乗り出す。


「ど、どうしたの」


 言いようのない不安が、ユアを包む。ティーアが躊躇いがちに口を開いた。


「ディアは……」

「君の愛しい死神は、身動きが取れない状態だ、ユア」


 ティーアの言葉を遮って突然入ってきたピーノに、三人がそちらを見た。先ほどまでの笑みが嘘のような無表情を見せている。


「どういうこと?」


 驚くほど低い声が、ユアの口から放たれた。眉間に皺が寄り、恐ろしいほど険しい顔をしている。

 ピーノが真っ直ぐユアを見た。


「君は、約束できるかい?」

「何を?」


 ユアの険しい瞳が、ピーノを睨みつける。


「俺には君の死神を助けることができる。そのためには、君の協力が必要だ」

「ディアのためなら、なんでもできるわ」


 間髪入れずに言ったユアに、ピーノが微笑んだ。


「それなら約束して欲しい。俺が君の死神を助けたら、君は俺の願い事を一つ聞いてくれると」

「もちろんよ」

「ユア……ッ」


 即答したユアに、ブオが顔をしかめた。しかし、ユアの決意は揺るぎそうにもない。

 するとピーノは顎で、ユアの手元にある黒装束を指した。


「それを着て、ついておいで。いい物を見せてあげる」

「ディアは……」

「来ればわかる」


 じっとピーノを見つめていたユアだったが、意を決したように立ち上がった。そしてティーアを見た。


「着替える場所はどこ?」

「こちらへ」


 ティーアが素早く奥の扉を指した。ユアが姿勢を正し、そちらへ向かう。その背に、ピーノが声をかけた。


「ごゆっくり」

「……大急ぎで着替えるわ」


 振り返りもせずユアは扉の向こうに消えた。そして十分と経たずに、再び扉が開く。そこには、黒装束を身に纏ったユアがいた。


「行きましょう」


 そう言うユアの表情はかなり険しい。ブオがため息をついた。


「ユア、ディアは……」

「ブオ、私は自分の目で確かめたい」


 ピーノの口元が三日月の形になった。その時、おもむろにティーアが前に出る。


「貴方は、あの人を解放する気なの?」


 力強い桃色の視線が、ピーノを捉える。しかしピーノは応えずに、ユアの手をとった。


「行くよ、可愛い姫君」


 ピーノに手を引かれながら部屋を出るユアは、振り返ってティーアを見た。


「ありがとう!」

「気をつけて」


 祈るような声でティーアが告げた。それを聞き届け、ブオがユアの後に続いた。



 部屋を出ると、そこは厳かで暗い渡り廊下だった。濃い赤の敷物が、石畳の上に敷かれている。


「ここは……?」


 ピーノに手を引かれるがまま歩いていたユアが、首をかしげる。その問いに答えたのは、ブオだった。


「王城だよ」

「……え?」

「シンシア達の親父は、将軍だ。ドルゴンの奴は自分でディアを見る代わりに、シンシア達の親父に預けたって話を聞かなかったか?」


 唖然としているユアをよそに、ブオは自嘲気味に辺りを見回した。


「ここが、ディアが育った場所だ。復讐だけを胸に抱き続けて」


 ユアの唇が真一文字に結ばれた。ピーノが手を引いていなければ、その場で足を止めていたかもしれなかった。


 それくらい、胸が苦しかった。



 しばらく暗い廊下を歩いていると、回廊に出た。

 肌にまとわりつくような冷たい空気がユアを包む。そんなユアの耳に、唸るような水音が届く。


「……?」


 ユアは音のする方を見た。妙な胸騒ぎがユアの心を支配する。細く尖った枝葉が心をなでるような、そんな感覚だ。


「おいで」

「きゃっ」


 突如、ユアの身体が宙に浮いた。ほんの少し浮き上がった状態だが、床からは足が離れている。

 どうやら、ピーノがやっているようだった。

 不安定な状態に、ユアは不安げにブオを見るが、ブオは諦めたようにうなずいた。


「行くよ、君の大切な死神に会いに」

「え?」


 ピーノがそう言うと、ユアの身体ごと回廊の外へと移動した。完全に外界に出た瞬間、二人の身体が勢いよく上昇した。

 風を切るように上昇し、みるみる地面が遠くなっていく。



 手を繋いでいるだけで浮いているが、落下するかもしれないという恐怖がユアを襲う。思わずピーノの手を握り締めた。

 ピーノが繋いでない方の手をブオが取り、少しだけユアを安心させた。


 恐怖で言葉を失うユアだったが、上昇するにつれ目に入った激流に目を奪われる。


 不気味な灰色の城は、空に向かって伸びた崖の上に立っていた。そしてその崖の頂上から激しい水の流れが生まれていた。

 その流れを見たとき、ピーノの身体が震えたのがユアに伝わった。不思議に思ったユアがピーノを見るが、その顔に変化はなかった。


 崖よりも高く上昇して初めて、ユアはその全貌を視界に映した。


「綺麗……」


 それは、この暗い赤黒の世界には不似合いなほどに美しい光景だった。

 崖の上に湖がある。そこから水が流れ落ちて激流となっていた。湖の水はどこまでも透き通る蒼い色をしていて、仄かに光っている。

 その蒼が流れ落ちていく際に血のような赤が混じり、紫色に染まってゆく。そして地上を流れる頃には赤の濁流になっていた。


「なに、これ……」


 ユアが蒼い湖に目を奪われている中、ピーノは徐々に湖に近づいていく。それに、ブオが難色を示した。


「おい、堕天使のガンデルツェンには……」

「立ち入っちゃいけないって? それなら君はここで待っていなよ」


 振り返りもせずに、ピーノが険のある声を出した。それにブオは何も言い返さなかった。ユアがピーノの顔をうかがうが、その顔から何を考えているのかは読み取れない。

 だが、あの湖にピーノが何かを感じているということは、繋いでいるその手から伝わってきていた。


 ピーノが徐々に下降し、湖面が見えてくる。やはりどこまでも蒼く、渦巻く水流までが見える。それは光の奔流のようだった。


 そこで、ユアは何かに気づいた。湖の中心に、何かがいる。


「?」


 目を凝らすが、黒い点にしか見えない。しかし近づくにつれ、それの正体に気づいたとき、ユアは絶句した。



 そこには、天使がいた。



「ディア……っ!?」


 ピーノの手を振り払って身を乗り出そうとするユアを、ピーノが止める。


「離して!」

「無理だ。君にはどうにもできない。近づいたら君も、同じことになるよ」


 止め処ない涙がユアの瞳からこぼれる。湖の中心には天使がいた。そしてその天使に、食らいつかれているディアが、いた。

 ユアの愛しい死神は、湖の中央で半身を水中に沈めていた。その胴には、天使の鋭い爪が食い込んでいる。そして、天使の牙はしっかりとディアの首元に食い込んでいた。


「ディア……っ」


 蒼の湖の中心にいる天使は、湖の中から伸びている鎖に拘束されている。長い髪を持ち、美しい羽を広げた天使の像だ。

 その石像に、ディアが捕まっている。黒い死神の瞳は固く閉ざされ、ぴくりとも動く気配がない。

 結われた黒い髪が、力なく水の流れに揺れていた。その様子を見たユアが激しく取り乱す。


「ねえ、ディアを助けてよっ! 私をあそこまで……っ!」

「無理だ」


 泣き叫ぶユアを、ピーノは抱え込む。大して力をこめているようには見えないのに、それだけでユアは動けなくなる。


「どうして!」

「君がトウィンテルを持っているから」

「え」


 ピーノの言葉に、ユアは間抜けな声を出した。


「これ以上近づくと、君もあいつに食われてしまうよ」

「どういうこと……?」


 ユアは混乱する頭で、ピーノを見た。あいつ、とそう呼んだ声が、酷く親しい者を呼ぶ声に聞こえたからだ。

 ピーノは、酷く寂しげな表情を浮かべていた。その銀蒼の視線は天使を見つめていた。


「お前、まさか……」


 ブオが金色の瞳を見開いてピーノを見る。


「まさか、堕天使ルシファーの……」

「その名で呼ぶな!」


 突然の怒号に、ユアは身をすくませる。ピーノはどこか自嘲気味の笑みを浮かべながら、嘲るようにブオを見た。


「今頃気づいたのか、俺の正体に」

「お前は人間でも死神でない。おそらくは天使なのだろうとは思っていた。だが……」

「よもや慈愛の天使ルシフェルの知り合いだとは思わなかった?」


 ピーノが、身に纏っていた黒衣を片手で脱ぎ去った。そこから現れたのは、この暗い世界では眩しいほどの、純白の衣だった。そして、その背中に生えた翼。


「天使……?」


 そのあまりに輝かしい姿に目を細めたユアが、呆然とした声を出した。


「そう。俺は、友愛の天使ラキュピーノ。太古から神に仕える神聖なる者だ」


 そしてピーノは悲しげに湖にいる天使の像を見た。


「ユア、よく見ろ」

「え……?」

「あいつが、慈愛の天使ルシフェル。かつて君の魂を愛した男だよ。全ての、始まりだ」


 そう言って、ピーノはユアの胸にある月をなでた。その瞬間、ユアの脳裏に全く知らない光景が流れこんできた。




 目の前に現れた美しいルシフェル

 死に行く「私」を、泣きながら助けたいと言った人。


 そして、神を裏切り、禁忌の罪を犯したルシファー――。




「いやああああああああああああああああああああああっ」

「ユアっ」


 突如、喉が張り裂けそうな悲鳴を上げたユアに、ブオが息を飲む。


「前世の記憶を見せることは、辛いことだったね」


 泣き叫ぶユアの目を覆うように、ピーノがユアを抱きしめる。


「だけど、忘れていて欲しくなかった。君を、かつて愛した男のことを」

「ち、違う……っ! あれは私じゃ……」

「ああ。君じゃない。だけど、君の魂だ」


 震えるユアを抱きしめるピーノの腕に力が入る。


「思い出して。禁忌を犯してまで、かつての君を助けたかった男を――」


 そしてピーノは額を、ユアの額に押し付けた。

 極限まで見開かれる、ユアの紫水晶の瞳。その瞳は、ここではない光景を映していた。



 この世のものとは思えないほど美しいルシフェル

 闇を患うユアルナを助けるためだけに、生命のトウィンテルを盗んだ人。


 そしてトウィンテルが闇を照らしたとき、闇もろとも全てが砕け散った。


「いやああああああああああああああああああああああああああああっ」


 蒼い涙を流して、自ら魔界に身を投げた、罪深きルシファー




 見知らぬ記憶の奔流に、ユアは気が狂うかと思った。むしろ気を失わないのが、不思議なほどだった。

 無理やりにユアの心を、記憶をこじ開け、見知らぬ――しかしそれでいて知っている記憶が、感情が、ユアの心と記憶を塗り替える。

 それでもなお、ユアは意識を失わない。


 誰かが、今にも消えてしまいそうなユアの意識を、無理やりにこの場所にとどめ続けているかのようだった。



 愛していると囁く、美しい人の記憶がユアを満たす。


 しかし、ユアの心はそれを拒絶する。


「ディアあああああああああああああああっ」


 喉が、張り裂けるかと思った。心を侵食するかのように、蒼い記憶がユアを襲う。しかしユアの愛しい人は、黒い死神なのだ。


「ディアああああああああああああああああああっ」


 美しい音を紡ぐはずの、ユアの声がしわがれたように潰れる。その様を、ブオは全く動けずに見ていた。


 ブオには、一体何が起きたかすらわからなかった。

 ピーノがユアに触れたかと思った瞬間、ユアが悶え、叫びだしたのだ。それは、断末魔の叫びにも似ていた。


「ユア……一体……」


 その時、ブオは変化に気づいた。周りを取り巻く空気の匂いが変わったのだ。


「っ!」


 ぴたりと、ユアの悲鳴が止んだ。震えながら、頭を抱えている。そんな彼女を片手で抱えながら、ピーノはブオに視線を飛ばした。正確には、ブオの後方に――。


「我が姫君に手を出すとは、いい度胸だな。天界の使者がこんなところで、協定違反か?」

「お前に言われたくないぞ、強欲者ドルゴン


 魔界の王がいた。灰色の髪を風に揺らしながら、黒い翼を持った天馬に乗っている。その赤い瞳が鋭く細められていた。

 その視線の先には、ピーノに抱えられている気を失ったユアがいた。


「ふ、まあいいわ。お前がわざわざ連れてきてくれたんだろう? よこせ、そいつを」


 近づこうとするドルゴンの前に、ブオが立ちはだかった。酷く険しい顔をして、両手を広げている。

 それを見たドルゴンが鼻で笑った。


「何の真似だ?」


 ドルゴンの言葉に、黒い天馬も小馬鹿にするように嘶いた。


「ユアは渡さない」

「同じことを言うんだな」

「何?」


 ドルゴンの視線が一瞬、真下に向けられた。蒼い湖に広がる、黒に。


「あの愚かな出来損ないもそう言ったわ」

「お前……っ」

「なぜ怒る?」


 ブオの毛が逆立つ様子に、ドルゴンは不可解なものを見るようにブオを見た。


「私にはお前らの感情が理解できんよ。あれも、お前も、かつての月姫シャラの影をあの小娘に求めているだけだろうが」

「何を言ってる!? シャラとユアは関係ないだろうが!」

「へえ?」


 突如あがった冷やかすような声に、ブオは思わず振り返った。ユアを抱えているピーノが嘲笑を顔に浮かべている。


「関係ないって、本当にそう思っているのかい? 同じ魂を持った人が?」

「は……?」


 ピーノがそっとユアの胸元をなでた。


「この子の前世は、あの死神の母親だ。そしてもっと遡ったところに、起源の女性がいるんだよ。ルシフェルが心を奪われた、あの子のね」

「なん、だって……?」


 そのとき、気を失っていたユアが身じろぎをした。そして、半目を開く。まだ霞んでいるらしい眼をこすりながら、ピーノを見上げた。


「私は……」

「前世の記憶を見て、気を失っただけだよ」

「前世の……?」


 甘い声を出してピーノがユアに告げた。そこに、ドルゴンの苛立ったような声が邪魔をする。


「さあ天使よ。くだらない話をしていないで、その姫君を渡すのだ」


 その声を聴いた瞬間、ユアの身体が硬直した。そして、恐る恐るドルゴンを見る。


 そこにいる禍々しい気配を隠そうともしていないのは、愛しい男と瓜二つの顔を持つ男だった。

 一目で、それが愛しい男が世界一憎んだ、魔界の王だということがわかってしまった。


「茶番はもう良いだろう? あれは愛がどうの言っていたが、あれが月を求めるのは、母親への想いゆえ。あれの身体にも月があるせいだろう」

「何を、言っているの……?」


 魔界の王の言葉に、ユアが身を乗り出す。それをピーノが支えた。


「貴方でしょう、貴方がディアの父上なのでしょう?」


 ユアの言葉に、ドルゴンが嫌そうな顔をした。


「あのできそこないを息子だと思ったことは一度もない」


 その言葉を聞いた瞬間、ユアの顔が激昂で赤く染まる。


「貴方は……っ」

「何だ? あのできそこないも、私のことを父親だなんて思っていないだろう」


 それが事実だけに、ユアは何も言えなかった。だがそれが事実ゆえに、酷く悲しく、心が痛かった。

 母親を幼くして亡くし、父親を父とも思えず、復讐の鬼と化してしまったディアを思って、苦しかった。


「ふん、心優しいことだな。だが、お前が愛だと感じているものは錯覚だ。お前の月が、かつて分け与えた命を感じてあのできそこないに惹かれているだけだ」


 馬鹿にしたようにドルゴンが言った。ユアの紫水晶の瞳が、その赤い視線を睨み返した。


「その月がなければ、お前とあのできそこないが会うこともなかっただろうし、惹かれることもなかっただろうよ」


 反論しようとしたユアの言葉を遮って、ピーノが口を開いた。


「まあ、その通りだとは思うよ」


 ドルゴンの言葉を肯定するピーノの言葉に、ユアが絶望したかのように振り返る。ピーノは困ったような顔で、ユアを見ていた。


「ルシフェルがトウィンテルをあの子に使ったとき、あの子の魂とトウィンテルは砕け散った。もともとトウィンテルは神しか扱えない代物だ。人の身体では、トウィンテルを許容できなかった」


 ピーノが、ユアの胸元にある月をなでる。何かを思い出すかのように遠くを見つめながら。


 水流の轟音が、なぜか酷く遠く聞こえていた。

 もともと暗い魔界の空が一層暗くなり、黒い森がさらに闇を纏ったかのようにも見える。いつの間にか赤い月が空に浮かび、宙に浮いて話をしている四人を見つめていた。


「気が遠くなるほど長い時間をかけて、融合してしまったあの子の魂とトウィンテルは実体化しようとしていた。そして、不完全な形で転生したのが月姫シャラだ」

「……それじゃあ」


 ユアとブオがピーノの話を聞いている一方で、興味がなさそうにドルゴンがユア達を伺っていた。話に口出しをする様子は見て取れない。

 そんなドルゴンを、ピーノが横目で見る。


「あの男は、月姫シャラが子を産めば、その子にトウィンテルが継承されると思ったようだが、そんなことは有り得なかった。トウィンテルは魂に融けてしまっていたのだから。そしてあの死神の母親が死んで、転生して、君が生まれた」


 ユアの心臓が異様に大きく鳴った。ブオが、信じられないものを見るかのようにユアを見る。

 かつて大切に想っていた、いや、今もなお大切に想い続けている女性の面影を、ユアに見ようとして。


「つまらない茶番だろう?」


 ドルゴンがさもありなんというように、呆然としている二人を見た。


「お前達が何を必死になっているかは知らないが、全てはその月が、あの堕天使ルシファーが招いた茶番だ」

「堕天使と呼ぶなと言っているだろう!」


 ピーノがドルゴンの言葉に、声を荒げた。その一瞬に、全ては起こった。


「もらっていくぞ」

「え?」

「なっ」


 ピーノが取り乱した一瞬のうちに、ドルゴンが間合いに入っていた。そしてユアの身体がドルゴンに抱えられる。

 ユアが、すがるようにピーノとブオを見た。ユアとピーノが同時に伸ばした手が、虚しく宙を切った。


「月はもらった」

「待てっ」


 その場を去ろうとする黒い天馬をブオが追いすがる。しかし、ドルゴンが顔をしかめた。


「邪魔だ」

「ブオっ!」


 ドルゴンの腕の一振りで、ブオの身体が叩き落され、遥か下降で水がはじけるような音がした。

 ユアが声にならない悲鳴を上げる。


「それじゃあな」


 黒い天馬が去っていく様子を、ピーノは何をするでもなく見つめていた。そして、そっとため息をつく。


「全部、お前のせいだぞ、ルシフェル……」


 そして頭上の赤い月を一瞬忌まわしげに睨み付けた後、ピーノは湖面へと急降下していった。


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