第五夜 戦いの時


 ディアがユアを現世に留めてからというもの、魔界には張り詰めた空気が流れていた。

 〝月〟の奪回のために名立たる死神達が現世に送り込まれ、そして帰ってこない。若い死神達は、いつ自分が奪回を命じられるかと戦々恐々している。


 王の苛立ちを示すかのように、魔界の天候は不安定となり、絶え間なく雨が降り続いているような状態だ。


 町のすぐ横を流れる赤い川は、王城の近くにある湧き水から流れるものだった。その湧き水は壮観で、城の近くに聳え立つ尖状の土柱の上に水が湧き出ており、そこに巨大な湖ができている。

 古より禁忌の場所として、近づくことは許されていない湖だったが、その湖からあぶれた水が滝のように地面に落ち、川を作っているのだった。

 川の近くに町を建てるなど自殺行為だと言えないこともないが、雨季の激しい豪雨でも、この川は氾濫したことがなかった。


 激しい雨で痛んでいる石畳に、溶けて捻じ曲がっている柵。路地を歩く死神の姿は少ない。

 暗い灰色の町には明るい色彩を与えるものなど何もなく、時が止まってしまったかのような退廃的な雰囲気しか残っていなかった。

 そんな重苦しい空気に包まれる町の裏路地の酒場には、若い死神達がたむろっていた。杯を交わしながら、小声で囁きあっている。


「ディア様が反旗を翻すとはな……」

「いつか来る日が、たまたま今だっただけだろう」


 若い者達が集まって話をしているというのに、その様子は活気などとは程遠い。誰もが声を潜めながら、周りを憚るように話している。


「相手はあのディア様だぞ……?」


 一人が呟けば、元より重苦しい空気がさらに沈鬱なものとなる。


「……勝てるやつなんて、いるのかよ」


 一人の若者の口から戸惑ったように紡がれた言葉だったが、それが若者達の心情を表すのに一番ふさわしい言葉だったかもしれない。



 幼いディアが王城に連れてこられたのは、ドルゴンが王となったばかりのことだった。

 城では、ドルゴンのもとではなく将軍の家族と暮らしていたディアだったが、しばらくの後、その名は魔界を轟かすこととなる。


 母を失った悲しみと、誓った復讐のため、表では従順な息子を演じていたディア。しかし煮えたぎるような黒い感情を心に秘め、ディアは必死に鍛錬に勤しんだ。

 死神である己すらを憎むような限界ぎりぎりの鍛錬の結果、本気のディアと戦って勝てる者はいないとまで囁かれるようになっていたのだ。


 そんなディアが王に反旗を翻した。王が〝月〟の奪回を命じれば、魔界最強とまで言われたディアと戦わなくてはいけなくなる。

 そんなことは、若者達にとって想像しただけでも身の毛がよだつような恐怖だった。


「大人数相手でも……。ディア様と戦えるのは、王様くらいだろうよ」

「本当に、王様直々に行けばいいのにな」


 辺りをうかがいながら、一人が言った。しかし若者達は難色を示した。


「……もともと天界を敵に回してるんだぞ? それで陛下が直々に現世に行ってみろよ。その時点で戦争の始まりだぞ」


 呆れたように言った若者に、もう一人が口を開いた。


「戦争なら、とっくに始まってるだろうよ」

「……ほんと、王様も、なんであんなに〝月〟にこだわるんだ……」


 酒をあおりながらここまで暗い雰囲気になるのも珍しいだろう。


「シンシア様なら、ディア様を止められないのかな……」

「そう祈るばかりだよ……」


 ふと、いつもディアの隣にいた若い女死神の名が出た。ディアと並んで戦闘能力に秀でており、共に一番近くにいた彼女なら、あるいはというわけだ。

 頭を抱えてしまっている若者達の机に、店の女将が近づいてきた。


「あんた達、そろそろ帰ったほうがいいよ。嵐が来るらしい」

「またかよ」


 口々に文句を言う彼らを見て、女将はため息をついた。


「王様の心が荒れているからねぇ……これから、もっと荒れるわよ」


 重苦しいため息に、さらに若者達が頭を抱えた。


「しっかりおし。さ、帰った帰った」




 心地よい微睡の中にいたユアだったが、耳に届いた騒々しい話し声に、ユアは目を開けた。目を開いたユアの視界に、一番に入ってきたのは、茶色い毛皮だった。


「おう、おはよう」

「ブオ……?」


 ユアの目が明いた瞬間に声をかけてきた、包帯の取れたその姿に、ユアは目を見張った。


「もういいの?」


 起き上がりながら、訊ねられたブオはうなずいた。


「ああ、もう骨はくっついてる」

「……随分、丈夫なのね」


 呆れたように呟いたユアが顔を上げると、黒い死神の姿が目に入った。その顔には穏やかな笑みが浮かんでいる。

 ディアと目が合ったユアは、そっと目を伏せる。そしてそれをブオが見咎めた。


「おいおい、なんだ、それは」

「何って、何よ」


 かすかに頬を染めたユアが、口を尖らせながらブオを睨みつける。目を細めたブオが鼻で笑った。


「とにかく、良かった」

「……うん」


 ぶっきらぼうだが、本当に喜んでいる様子のブオに、ユアも微笑んだ。


「あらあら、見せ付けてくれるんだから」


 からかうような声にユアが顔を上げれば、我が物顔で部屋にいるシンシアが、意味ありげな笑みを浮かべていた。どうやら先ほど聞こえた話し声の主は、ブオとシンシアのようだ。

 そして、シンシアは仁王立ちになると眉を吊り上げた。


「ほらっ、ブオもディアもとっとと出た出た。ユアが着替えるんだから」

「人間の女の裸には興味はな……」

「うだうだ言ってないで!」


 微笑みながら部屋を出たディアをよそに寝台の上に居座ったブオを、シンシアは問答無用で部屋の外へ放り投げた。

 ユアはそれを見て、目を丸くした。


「できたら、シンシアも出て行ってくれると嬉しいんだけど……」

「あら、貴女と私の仲じゃない。着せてあげるわよ」


 ユアの制止の声も聞かずに、シンシアはユアの洋服箪笥を遠慮なしに開いた。そして、綺麗に収納された洋装を見て感心したような声を出す。


「あら、素敵な服を持ってるわね」


 口元に笑みを浮かべながら服をあさるシンシアを見て、ユアは疑問に思ったことを口にした。


「死神は、黒装束しか着ないの? シンシアはこんな服を着たことはないの?」

「え?」


 白地に黒の装飾が施された服を手にし、自分に当てていたシンシアが、呆けた顔をした。そして、己が身に纏っている衣装を見下ろした。


「ああ、この黒装束は戦闘員の衣装なの。そうね、私は昔からディアを追って戦闘訓練をしていたから」

「昔から?」


 ユアが寝巻きを脱ぎながら、首をかしげた。シンシアは遠い昔を懐かしむように目を細め、手にしていた服をユアに渡す。


「ディアが王城に連れてこられた日、王様はディアをうちに預けたの。私の父が将軍で、王城の中に部屋を与えられていたから」


 シンシアの言葉を聞いたユアは目を見張った。


「それじゃあ、お母さまから引き離されたディアは、シンシアのおうちに……?」

「ええ」


 手渡された服に袖を通しながら、ユアは黙ってしまう。


「あら、どうしたの?」

「……いえ」


 口ごもるユアの様子を見ていたシンシアは、身を乗り出した。


「何かくだらないことを考えてる顔ね、これは」


 シンシアがおもむろにユアの頬をつねった。


「い、痛いっ」

「思ったことは口にしなさい。我慢しないの」


 シンシアに押し切られ、ユアは目を伏せる。


「え、えっと……悪いこと訊いちゃったかなって、思ったの」

「辛気臭い顔するんじゃないの! 私に遠慮なんかしないで」


 遠慮がちに告げるユアに対して、シンシアは微笑んだ。


「私は今でも、ディアのことが好きよ。でもね、ユア。だからって貴女は私に遠慮なんかしなくてもいいの」

「でも……」


 力強いシンシアの言葉にもなお、ユアの表情は暗い。


「でもも、へったくれもないの。同情なんて、くそくらえよ」


 シンシアの桃色の瞳に光が灯った。


「だから貴女は、思いきり幸せになりなさい」

「……っ」


 シンシアが、ユアの頭をなでる。ユアが驚いたようにシンシアを見た。


「人を愛することを、諦めなくていいのよ。生きることも」

「シンシア……」

「……ディアを愛してあげて」


 ユアが息を呑む。シンシアはどこまでも切なく、どこまでも優しい顔をしていた。


「私の分も、幸せになるの。いいわね」


 シンシアの勢いに、ユアは思わず頷いた。その様子に、シンシアは口元を緩めた。


「安心して。きっとディアは、貴女を愛してくれるから」

「シンシア、ありがとう」


 ユアが泣き笑いの笑みを浮かべる。そんなユアの頭を、シンシアは三日月の笑みを浮かべながらなでた。


「その代わり!」

「え」

「ユアがディアを泣かせたら、そのときは容赦しないんだからね」


 そんな冗談交じりのシンシアの言葉に、ユアは本当に嬉しそうに微笑んだのだった。




 シンシアに部屋を追い出されたディアとブオは、屋根の上にいた。


「おい」


 声をかけられ、ディアがブオを見た。


「あの女を信用していいのか?」

「……シンシアのことか?」


 兎の姿をした悪魔はうなずいた。


「ドルゴンがシンシアをこちらに送り込んだのは、状況をつかむためとしか思えないだろ」


 ブオの言葉に、ディアが眉をひそめた。


「今までは何も起こっちゃいないが、起こってからじゃ遅いんじゃないのか?」


 ディアはしばらく沈黙を守った。

 風に乗ってやってくる蹄の音が、この辺境の屋敷に来訪者があることを告げるが、ディアは遠くに見える馬の姿を見つめながら考え込む。

 ブオがそれに気づいて、鼻で笑った。


「あの男、懲りないな」

「私は」


 ブオがディアを見る。


「私は、シンシアを信じる」


 そう言ったディアの赤い瞳は、少しも揺らいではいなかった。彼らの足元では、ちょうどトマスが馬から下りて屋敷を訪ねようとしているところだった。


「なんにせよ、俺達にできることはユアを守ることだけだ」

「何が何でも守る。彼女のためなら、私はこの忌まわしい死神の血をも受け入れられる」


 黒き死神はそう言ってユアの部屋の陽台に降りた。着替え終わったユアと目が合う。


「もう、ディアってばせっかちね。今呼びに行こうと思ったのに」


 腰に手を当てて眉を吊り上げながらも、シンシアの声は笑っていた。


「似合ってる」


 ユアの髪に結われた装飾の施された色帯に触れながら、ディアは微笑んだ。その顔を見て、ユアも微笑む。

 そのあまりに幸せそうな雰囲気に、シンシアは口を閉ざした。そんな彼女の肩にブオが乗ると、シンシアの口元に笑みが浮かんだ。


「なんだ、ずっと好きだった男が他の女に取られても笑ってられんのか?」

「笑えるわよ」


 その桃色の瞳は、何か眩しいものを見るかのように細められていた。


「見て、ディアの幸せそうな顔。ディアは、やっと幸せを手に入れようとしているのよ? 好きな人が笑っていられるなんて、幸せなことでしょう」


 シンシアの言葉に、ブオは耳をすばやく動かす。


「そういうもんか」

「そういうものよ」


 シンシアとブオが、ぎこちなさが残る二人を見守っていると、扉をたたく音がした。扉に視線を飛ばしたディアが笑う。


「あの男が来たようだ」


 ディアの言葉に、ユアが戸惑う。


「え? トマスのこと?」

「そうだ」


 ユアが躊躇いながら扉を開くと、そこには確かに仏頂面のトマスがいた。しかし、ユアを見た途端、その頬に朱がさす。


「どうしたの?」

「いや、昨日はあの死神の女に無理やり帰らされたから……」

「あら、残念ね」


 ユアの肩越しに、シンシアが顔を出した。その瞬間、トマスが身を強張らせる。


「ユアはディアを受け入れたの。貴方の出る幕なんてないわよ」


 シンシアの言葉に、トマスがユアを見た。ユアは頬を染めながら俯いてしまう。その様子を見たトマスが、肩を落とした。


「そうか……そうなのか」

「あら? 聞き分けがいいじゃない」


 意外そうに目を丸くするシンシア。そのときユアの手をディアがそっと引いた。ユアはそれに導かれてディアの隣に並ぶ。


「聞き分けがいいも何も、ユアのこんなに幸せそうな顔を見たら黙るしかないだろう……」


 小声で呟くトマスの視線の先には、何かを囁きあっているディアとユアの姿がある。その視線を追って、シンシアも微笑む。

 それを見たブオは、面白そうに口を開いた。


「お前もなのか?」

「……何が」


 口元を引き締めたトマスがブオを睨みつける。ブオはからかうような視線をトマスに向けた。


「いや、お前はもっと融通が利かないと思っていたからな」

「だから、どういうことだ?」


 不機嫌を隠すこともせずに、トマスが訊ねた。


「ブオが言いたいのは、愛するユアを私にとられても良いのかってことらしい」


 ディアが割り込むと、トマスは心底嫌そうな顔をした。


「お前が言うなよ」

「ふふ」


 シンシアが笑ってトマスを部屋に引き入れた。


「おい……」

「立ち話もなんだから、ゆっくりしましょうよ」


 腕を掴まれたトマスが、訝しげな顔をする。それにシンシアは微笑み返した。


「……私の部屋で?」


 ユアが困ったような顔をした。部屋を見回せば、二人の死神とトマス。ブオと自分も入れれば、五人もいる。

 ユアの部屋は充分広いが、少々窮屈に感じる。しかも侍女からすれば、ユアとトマスが二人きりで部屋にいるということになるのだ。


「……中庭に行かない? 一言断れば、誰も来ないから」

「そうだな。この男が部屋から出なければ、侍女達も不審がるだろうし」


 ディアのその言葉で、一行は中庭に移動することにした。




 雨の季節を終えた庭園には濡れたような緑が茂り、生命を感じさせた。以前は蔦だけだったものにも、小さな蒼い花が咲いている。

 花が咲き乱れるそこにある白い長椅子が、風雨に晒されていたはずにもかかわらず美しい姿を保っているのは、使用人達が手入れを欠かさないためだろう。


 この大きな屋敷には何人もの使用人が働いているのだと、ユアはこういうときに実感する。

 しかしユアが言葉を交わしたりしていたのは、母親代わりであったアイナだけだった。そのアイナを亡くしたユア。

 今までのユアだったら孤独を覚えるしかなかっただろうが、今こうやってトマスや死神達と一緒にいることが、どこか不思議でくすぐったかった。


 肌をなでていくような柔らかい風が流れていく。


 ディアがユアに手を貸した。舞い上がった白い裾を押さえながら、ユアが長椅子に座った。

 シンシアが我が物顔でその隣に座り、ブオが当たり前のようにユアの膝の上に載る。ディアはユアの正面に立ち、トマスは仕方なくシンシアの前に立った。


「綺麗な庭園ね、ここ」


 あたりを見回して、シンシアがそう言った。


「ユアが歌えば、幻の鳥も姿を見せるぞ」

「幻の鳥?」


 ブオが自慢げに言えば、シンシアが首をかしげた。どうやら、幻の鳥という言葉になじみがないようだ。


美啼鳥ファティーツル、声が聞こえても、滅多に姿は見せない美しい鳥だ」


 シンシアの疑問に、ディアが答えた。すると、シンシアは隣のユアに話しかける。


「あら、ユアは歌えるの?」

「え、えっと、歌うのは好きよ」


 トマスも興味を持ったようだった。


「そういえば噂では、申し子はあまりの歌の巧さに闇に愛されたって……」

「なになに噂って?」


 独り言のように呟いたトマスの言葉をシンシアが耳ざとく拾い、面白そうに身を乗り出した。ユアが困ったように顔をしかめる。


「いや、僕がこの屋敷に来るきっかけになった噂なんだ。闇に愛された申し子がいるって。その申し子を一目見たくて……」


 困ったようなユアの様子を横目で気にしながら、トマスが説明した。それに、シンシアは面白そうに微笑んだ。


「なるほど、それでまんまとユアに心を奪われちゃったわけね」

「シンシア……」


 赤面しながらユアがシンシアをつつく。


「やめて、恥ずかしい」

「本当のことじゃないの。で、ここにいる黒い死神さんもまんまとユアに心を奪われちゃったわけだし」


 シンシアが横目でディアを伺うが、ディアはすました顔をしていた。それにひきかえ、ユアは耳まで赤くなっている。


「そうだな、私もユアに心を奪われた一人だ」

「ディアまで……っ」


 ユアが目の前にいるディアに向かって蹴る仕草をする。ディアが微笑みながらそれをたしなめた。


「こらこら、はしたないぞ、私の姫君」

「もうっ」


 その様子を眺めていたシンシアが呆れたように肩をすくませた。


「ディアのこんなに穏やかな顔、初めて見るわ」


 まるで満腹だというようなシンシアのぼやきに、ブオがさもありなんと言ったふうにうなずいている。


「そうだな、これほど穏やかな気持ちになれたのは初めてだ。それも、ユアのおかげだな」


 ディアが笑顔で言うと、トマスもうなずいた。


「僕もユアがこんなに穏やかな顔を見せているのを初めて見るよ。全部、君のおかげなのかもしれないね」


 そんなトマスの言葉に、ユアは照れたように顔を背けた。トマスは、まっすぐにディアと向き合った。


「……ありがとう」


 トマスが真摯な瞳をディアに向ける。そのことに、ディアが赤い瞳を見張った。


「お前に礼を言われる筋合いは……」

「言わせてくれ」


 ユアとシンシアが、驚いたようにそんな二人を見つめた。ブオは耳をすばやく動かす。他の者など目に入っていない様子で、トマスが続けた。


「君が現れたおかげで、ユアは命を取り留めたし、ユアが生きてくれた」

「それまでだって生きてたのに……」


 ユアが不満そうに告げる。しかしトマスはすぐに首を横に振った。


「でも、君は何もかもを諦めていた。あれでは、生きているだなんて言えなかった。僕は、君に生きて欲しかったけど、僕ではどうにもできなかった」


 ユアは困ったように首をかしげる。トマスは微笑んだ。


「今の君は、とても輝いてるよ。今まで見たことがないくらい。それも、君達のおかげなのかもしれないな」


 どこかから、鳥の声が聞こえてくる。トマスの言葉で、なぜかディアを纏う雰囲気が凍りついた。

 シンシアもユアも、そしてブオもすぐにその理由に気が付いた。


 今確かにある絆。穏やかな時間。しかしそれは一時のものでしかなく、ディアがユアの命を救ったせいで、騒乱に巻き込まれているのも事実なのだ。

 ディアのお蔭で得られた穏やかな時間は、命をめぐる騒乱の合間のひと時にすぎないのだ。


「どうしたんだい?」


 固まってしまったディアを、トマスが不思議そうに見返す。


「いや……」


 口ごもるディアの赤い瞳が伏せられる。そっとため息をついたシンシアが言葉を紡ごうと口を開いたが、それをユアがさえぎった。


「トマス。私、言わなかった?」

「え?」


 唐突なユアの言葉に、トマスが困惑する。


「アイナは、私の命を狙って現れた死神に殺されたって」

「君の命って……」


 隣で聞いているディアの顔が、悲痛に歪められている。ユアはそっと自分の胸元にある月を指差した。


「全ては、これのせいなの。この月を、死神が狙ってる。ディアが私の命をこの世につなぎとめたせいで」

「……どういう、ことだ……?」


 唖然としたトマスが、ディアを振り返った。


「……私は、復讐のために月を横取ることを決めた。そのためにユアに命を与えたんだ」

「その月を狙って、何人もの死神がここに送られてきている。その一人が私よ」


 ディアとシンシアが続けて言うのに、トマスが言葉を失う。この穏やかな時間の裏で、よもや、そのような状況になっているとは想像だにしていなかったのだ。


「こいつらは、ユアの命を守るために必死になってる。俺もな」


 何とも言い難く、顔を歪めてしまった死神二人にの代わりに、ブオがそう告げた。


「でも……それなら、ユアは一生命を……?」


 トマスの言葉に、ユアが不安げにディアを見た。しかしその手を、隣から握った者がいた。驚いてユアがシンシアを見る。


「大丈夫。私達が、貴女を守る。この命に代えても」


 その瞬間、ユアは不思議な感覚に囚われた。固く握られた手から、光が灯ったかのように暖かい気持ちがあふれてくる。

 それは何物にも代えがたい、かけがえのない感情に思えた。


「シンシア、命に代えてだなんて、そんなことは言わないで」


 ユアが言うと、シンシアは微笑んだ。


「そうね」

「そうよ、シンシアがいなくなったら……寂しいわ」


 それは明るく真っ直ぐに接してくれるシンシアに、ユアが少し心を開き始めた兆しだった。


「あら、可愛いこと言ってくれるじゃない。嬉しいわ」


 そうやってくすぐったそうに笑うシンシアだったが、何か考え込んでいるディアに気づく。


「あらあら、王子様は一体何を悩んでいるのかしら」

「……いつまでもこのままではいけないと思ってな」


 ディアの憂鬱な声に、ユアが自分の月をなでる。


「でも、この月がここにある限りは……」

「いや?」


 今まで会話に興味がなさげだったブオが、ユアの言葉を遮って顔を上げた。


「一つだけ方法がある」


 トマスとユアが同時にブオを見た。ブオはディアに視線を向けた。


「そうだろ、ディア?」

「……ああ、そうだな」


 疲れたように呟いたディアに、シンシアの表情が強張る。


「どういうこと?」


 ユアは不安げにシンシアを振り返った。その桃色の瞳に恐怖の色が強く映されていることが、ユアの不安を煽る。

 固くつながれた手から、不安が伝染してくる。


「……ディア、貴方……」

「君達だけで納得しないでくれよ」


 トマスが困惑したように言葉を挟む。ブオが我関せずといったふうに耳を動かした。それ以上は口を開きそうにないブオに代わって、ディアが口を開く。


「死神達が月を狙っているのは、魔界の王がそれを望むからだ。その王さえ月を狙わなければ、死神は動かない」

「それって……」


 ユアが息を呑んだ。ディアは言葉を続ける。


「王を倒せば、この襲撃は止まるだろう」

「待って、ディア。それは、貴方のお父様なんでしょう……?」


 父親という言葉に、トマスが衝撃を受け、ディアは顔をしかめる。


「私はあいつのことを父親だと思ったことはない」

「ディア……」


 心配そうに見つめるユアだったが、ディアの険しい表情が和らがないと悟ると、そっとため息をついた。

 そんな重苦しい空気を紛らわすかのように、トマスが口を開いた。


「そ、そうだユア。君の歌声を聞かせてもらえないかい?」

「え?」


 突然のトマスの言葉に、ユアが戸惑う。


「あら、いいじゃない。私も聴きたいわ」


 乗り気になったシンシアに、ユアはますます困惑した。

 歌うことは好きだったが、これほど大勢の前で歌ったことがなかったのだ。しかも、トマスとシンシアの瞳には明らかに期待の光がある。

 それを、裏切りたくはなかった。


「いいじゃないか、ユア」

「でも……」

「聴かせてあげればいい、君の素晴らしい歌声を」


 先ほどの険しい表情が一転、穏やかに言葉をかけるディアに、ユアは小さくうなずいた。その膝の上で、ブオも姿勢をただしてユアを見る。


「それじゃあ……」


 ユアは視線を上に向けて、しばし考えた。そして納得したようにうなずくと、深く息を吸った。


 清々しいほどの晴天の空の下、足元を流れる川に白い花びらが流れている。

 その花弁から匂いたつ香りに誘われて、一人の女が川を覗き込んでいた。手を伸ばそうとしても、その花びらには届かない。


 そんな匂いたつような光景が、薄紅色の歌声となってユアの口から紡がれ、庭に立ち寄った小鳥達までもが羽を休めて聴き入っている。

 目を細めてそれに聞き惚れるディアに、恍惚の表情で耳を立てながら目をつぶっているブオ。

 ユアの歌声を初めて耳にするシンシアとトマスは、驚いたような表情で固まっていた。


 やがて女は、川からその花弁を拾うのを諦めて立ち上がる。しかしその拍子に川に落ちそうになった。

 蜂蜜色の髪が確かな煌きとなって空を飾った瞬間、女の身体は抱きとめられていた。


 急速に早くなる旋律が、女の見ていた世界が一転したことを伝える。その場面転換を、ユアは完璧に表現していた。

 ともすれば水の音さえ聞こえてきそうなほど、歌の世界に引き込まれる。

 いつしかシンシアとトマスも、目を閉じてユアの歌に浸っていた。


 驚いた女が自分を助けた主を確認すれば、それは遠くの町に出稼ぎに出ていたはずの幼馴染の男だった。

 男は女に待つように伝え、自分は水に濡れるのもかまわずに川に手を伸ばす。そして戻ってきた男の手には、女が諦めた花びらが握られていた。


 諦めたものを拾い上げてくれた男に、再会の喜び以上の感情を抱く女。そんな爽やかな恋情を歌うその曲を、ユアは透き通るようなその声で表現した。


 まるで、全てを諦めていたユアを救ってくれたディアに、その想いを伝えるかのように。


 歌の余韻が風に乗って消えていく彼方で、美啼鳥ファティーツルがユアの歌声を賞賛するかのように鳴いていた。



 静まり返ってしまった一行を、歌い終わったユアが不安げに伺った。


「どう、だったかな?」

「最高!」


 ユアの問いに、シンシアが真っ先に立ち上がって手を打った。


「ユア、素晴らしいわ。こんな歌声、初めて! 本当に凄い」


 興奮に頬を染め、ありったけの力で拍手を送るシンシアに、ディアも笑顔で手を打つ。一方のトマスは未だ歌の世界に取り残されたかのような、夢心地の様子でユアを見ていた。


「ユア、素晴らしいよ、本当に」


 皆からの惜しみない賞賛の声に、ユアもまんざらではない様子で微笑んだ。褒めてもらえてよほど嬉しかったようだ。

 白い肌をほのかに桃色に染めて微笑むユアの、風で乱れてしまった髪をディアがなでる。まるで歌の中の幼馴染の男が、女の蜂蜜色の髪を整えたように。


「ユア」


 トマスが声をかけた。ユアがそちらを見れば、トマスは穏やかな笑みを浮かべていた。


「君は今、幸せかい?」


 思いがけない質問に、ユアはきょとんとする。しかしすぐに、輝くような笑顔でうなずいた。


 そんな穏やかすぎる幸せな時間が、円弧の飛梁と尖塔が飾る灰色の屋敷の中庭で、確かにすぎていた。



 しばしの談笑と時折ユアの歌を聴く時間の後、疲れたのかユアが部屋に戻ると告げると、ディアは当たり前のように彼女に付き添う意を見せた。

 その二人の様子にシンシアとトマスはどことなくついていくのが憚られた。


「僕はそろそろ帰るよ」

「そう、気をつけて」


 ユアがトマスに笑みを向ける。それは今までトマスに向けられることのなかったものだった。

 それにしばし面食らって、それに見とれたトマスがやっとのことで声を紡ぐ。


「ユア、本当に素敵な時間をありがとう」

「こちらこそ」


 向かい合ったままでユアが動こうとしないので、トマスは一礼すると彼女に背を向けて屋敷を後にするために歩き出した。

 それを見たユアが自分の部屋に向かおうと一歩を踏み出す。その際、シンシアも、いつの間にか彼女の肩に座るブオもその場を動こうとしないので、ユアは不思議そうに振り返った。


「シンシア?」

「私は後で行くわ」


 シンシアが笑顔でそう告げた。


「そう?」


 ユアは小首を傾げながら、ディアと並んで歩き出した。それを見届けたシンシアが動き出す。

 跳躍して屋根に乗ろうとしたシンシアだったが、ブオが離れようとしないのでそちらを見る。


「一緒に来るの?」

「なんだ、一緒に来られたら困るのか?」


 何の感情もこもらぬ声で金色の瞳が、女の死神を見返す。お互い、感情の探り合いをしていた。


「いいえ」


 桃色の瞳は斜塔の先を見つめると、悪魔を肩に乗せたまま勢いよく跳躍した。そして、馬に乗ろうとしているトマスを見つける。

 シンシアはそのまま彼の元へと跳んだ。


「ねえ」

「うわっ」


 突然声をかけられ、蔵に手をかけていたトマスは飛び上がった。ブオはいぶかしげにシンシアを見ている。


「ちょっと話さない?」

「……君と?」


 意外な申し出に、トマスは戸惑う。シンシアは口元に魅惑的な笑みを浮かべた。


「あら、私とじゃあ、嫌なのかしら?」

「い、いや、とんでもない」


 獲って食われそうな雰囲気を感じたのか、トマスは慌てて首を横に振った。


「なら良いわよね」


 死神ならぬ小悪魔の様相で微笑むシンシアに、トマスがつばを飲み込む。さながら蛇に睨まれた蛙だった。

 それを見たシンシアが口を尖らせた。


「そんなに怖がらなくても、獲って喰いやしないわよ」

「わ、わかってるよ」


 二人は森に入り、開けた場所にある木立に腰掛けた。

 シンシアは済ました顔で落ち着いている一方、トマスはどこか所在なげに落ち着かない様子だ。忙しなく両手を組んでは指を動かしている。


「どうして僕と……?」

「話がしたかったの。同じ状況にいる、似た者同士でね」


 トマスは意外そうにシンシアを見た。


「私はディアを愛している。昔から、ずっと」


 トマスはシンシアの真意を探るように、彼女を見つめた。ブオといえば、シンシアの膝の上に移動した後、気配を消してじっとしている。


「ねえ、貴方はディアのものになったユアでも愛することができる?」

「……え?」


 シンシアの問いに、トマスは困惑した。


「君が何を意味しているかはわからないけど……僕はユアが今でも好きだよ」

「憎くはないの? 他の男のものになったのよ? 長い時間一緒にいた貴方を差し置いて」


 まるでトマスの心に土足で入り込むかのように、シンシアは黒い感情に満ちた言葉を吹きかける。

 まるで暗示をかけるかのようなその口調に、トマスは固い顔をした。


「ユアが、ディアが、憎くはないの?」

「やめてくれ!」


 トマスが声を荒げる。そして肩で息をした。


「やめてくれ。僕は……そんなふうには思っていない」


 かぶりをふったトマスを見て、シンシアは小さく笑う。すると、シンシアから放たれていた黒い気配が嘘のように霧散した。

 トマスは呆気に取られて彼女を見た。


「もしかして……試したのか、僕を?」


 怒りを含んだトマスの声に、シンシアは申し訳なさそうな顔をした。


「ごめんなさい。でも、そうする必要があったのよ。貴方がどれだけユアのためにできるのか、知りたかったの」

「どういうことだ?」


 トマスがいぶかしげに眉をひそめる。シンシアは、深く息を吸うと空を仰いだ。


「私は、ディアのためならなんでもできる。ユアを守るって決めたのも、ディアのためよ」

「……君こそ、ユアが憎くはないのか?」


 トマスが訊き返すと、シンシアはしばし沈黙した後口を開いた。


「憎くないと言ったら、嘘になるかもしれない」


 シンシアが桃色の瞳を細める。その目はどこか、遠くの光景を見つめていた。目の前には存在しない、過去の憧憬を見つめているのかもしれなかった。


「考えてもみてよ。ずっと一緒にいたのよ。魔界で一緒にいたのに……ディアは一人、どこか違う場所にいた」


 ひどく不明瞭なシンシアの言葉に、トマスは疑問を覚えるが、それを口にすることはなかった。

 シンシアはトマスに話しかけているようでいて、どこか自分を納得させるために呟いているかのようだった。


「知っていたわ。ディアがお母様の影を追い続けていることも。人間から生まれた存在であることも。死神である自身を忌み嫌っていることも。

 それでも、一緒にいたら、私を見てくれるって思ってた。近くで、必死にディアを追って、あの赤い瞳に映るようにって……でも、結局ディアは、人間を好きになった」


 今にも泣き出しそうな声でシンシアが呟くので、トマスは焦った。しかしシンシアは遠くを見つめながら続ける。


「馬鹿ね、私」

「君……」

「私が死神である時点で望みなんかなかったのに……本当に馬鹿よ」


 吐き出すように、自身を罵倒する言葉を連ねるシンシアに、トマスは目を伏せる。彼女にかける言葉など、思いつかなかった。


「何が憎いといえば、死神に生まれてしまった私自身よ。ディアを好きになってしまった私よ。ユアじゃない」


 小さくかぶりを振るシンシアの肩を、トマスは恐る恐る抱いた。シンシアは抵抗もせずに身を任せる。


「……僕は、意地になっていたのかもしれない」


 桃色の瞳が、トマスを見つめた。


「初めて会ったとき、ユアに心を奪われたのは本当だ。笑わない彼女を笑わせたいと、僕は意地になっていたのかもしれない。もしかしたら、特別な彼女を振り向かせて、特別な存在になりたかったのかもしれない」


 意外な告白を、シンシアは黙って聞いていた。


「でも、ディアと一緒にいて、あんなに穏やかに笑うユアを見てやっとわかった。僕はただ、彼女の笑顔が見たかったんだって」


 トマスの口元には、笑みが浮かんでいる。


「ディアの隣で彼女が笑っていられるのなら、僕はそれで満足だ。この感情に偽りはない。彼女の笑顔を守れるのなら、僕は何だってできるよ」


 トマスの言葉に、シンシアは微笑んだ。


「私も、ディアの笑顔を守るためなら何だってできる」


 そう断言すると、シンシアはトマスの手から逃れ、姿勢を正した。


「貴方にお願いがあるの」

「なんだい?」

「ユアを支えてあげて欲しいの。もしもディアが彼女のそばから離れてしまったら」

「なんだって?」


 トマスは思わず訊き返した。


「彼がユアのそばを離れるなんて……そんなことがあるわけないだろう?」


 先ほどの仲睦まじい様子を思い浮かべ、トマスが疑念を口にする。しかしシンシアは続けた。


「問題はユアの命が狙われていることよ」

「ならばなおさら、彼はユアを守るためにそばにいるだろう?」

「そうね……」


 シンシアはうなずく。


「ディアは強いわ。魔界で誰も彼に手を出そうだなんて考えもしないくらい。いくら死神達がユアを狙っても、ディアがそばにいる限りは手出しができないはずよ。たとえ大人数で襲ってきたとしてもね」

「なんだ、それなら何の心配もないじゃないか」


 呆れたように言ったトマスを、シンシアが哀れむように見つめた。


「貴方、馬鹿?」

「何!?」


 シンシアの歯に衣を着せぬ罵倒に、トマスが飛び上った。


「問題はユアのほうよ。貴方、ユアが命を狙われ続ける日々に耐えられるとでも、本気で思ってるの?」

「そ、それは……」


 シンシアは険しい顔で続ける。


「ない脳みそ使って考えなさい。愛しい人が自分のために戦う。傷を負う。もしかしたら自分は殺されるかもしれない。そんな生活に、あの子が耐えられるとでも本当に思うわけ?」


 トマスは首を横に振った。


「そう。そしてディアも、ユアをそんな状態に置いておくなんてことできないのよ。だから、今も悩んでいるんだわ。私は、ディアがいつか現状を打開するために、元凶を潰しに行くと思っている」

「さっき言っていた、彼の父親ってやつかい?」

「そうよ。魔界で唯一、ディアが敵わない相手」


 シンシアの言葉に、膝の上で気配を消していたブオが少しだけ反応した。


「力で敵わないから、月を奪うことで邪魔をしたのよ。復讐のためにね。でも今のディアは、ユアのために戦いに行くかもしれないわ。そのとき一人になったユアを、貴方が支えてあげて」

「……ディアは、ユアのために命を擲つと言うのかい?」


 そうとしかとれない言葉を紡いだシンシアだったが、首を横に振った。


「ディアは命をかけられない。ディアが死んだら、ユアの命も尽きるから」


 静かに言ったシンシアに、トマスは当惑する。シンシアの言葉はどこか矛盾しているように聞こえた。


「それならディアはユアの元を離れないんじゃないかい?」

「……とにかく、ユアをお願いね」


 有無を言わさない態度でシンシアがそう告げるので、トマスは思わずうなずいていた。




 ユアが椅子に座ると、ディアはその正面に座った。向かい合って見つめるうち、どちらかとなく笑みがこぼれる。


「トマスの前でも、あんなふうに笑えるなんて思わなかった」

「綺麗になった、ユア」


 ディアがそう言えば、たちまちユアが照れて赤面する。その手をディアが握った。


「貴方のおかげよ、ディア」

「……怖いか?」


 紫水晶の瞳が、己を見つめる赤い瞳を見つめ返した。


「貴方がいるから怖くないわ」

「そうか」


 ディアはそっとユアの手に口づけを落とす。そして見つめあった後、二人は口づけを交わした。

 二人の心の奏でる旋律が重なり、穏やかな共鳴を起こす。ディアは、ユアの心の波長が静かに自分のものと重なるのを感じ、己の心が満たされる喜びを感じた。


「ずっと、一緒だ」

「うん」

「ずっと、私達は一緒だ」


 ユアは身を乗り出して、ディアの首に抱きついた。ディアもユアを抱き返す。


「一緒よ。何があっても」

「ああ」


 二人だけの穏やかな時間が、流れていた。




 翌日ユアが目を覚ますと、すぐ隣でディアが寝息を立てていた。足元ではブオが丸くなって眠っている。

 ユアはそっとディアの頬をなでた。すると黒い死神が身じろぎをして、うっすらと目を開ける。細められた赤い瞳がユアを捉え、微笑んだ。


「おはよう、私の姫君」

「おはよう」


 ディアが身を乗り出してユアの額に口づけをしようとした時、二人を影が覆った。


「おはよう、二人とも」


 二人が視線を上げれば、満足げな笑みを浮かべるシンシアが、ことさらゆっくり発音しながらそう言った。


「いい朝ね。ブオはまだ寝てるの?」

「ブオは夜通し見張っていたからな」


 ユアとの二人の時間を邪魔されたディアが不機嫌そうに身を起こした。それを見たシンシアが余計におかしそうに微笑んだ。


「いちゃいちゃしてるとこ邪魔してごめんなさいね?」


 明らかにからかっている口調である。ディアの機嫌がますます悪くなるのを見て、シンシアがその肩をたたいた。


「ごめんごめん。そんなに怒らないでよ。今日来たのはユアと話したかったからなんだから」

「ユアと?」

「そう、女同士、二人っきりでね」


 ディアの返答をシンシアが待っていると、眠っていたブオが身を起こした。


「いいんじゃないか? ディア、二人っきりにしてやれよ」


 開口一発そう言ったブオは、眠そうに目をこすると、ディアの肩に飛び乗った。そのまま寝息を立てるのを見たディアは、呆れたように肩をすくめた。


「……また後で」

「ありがとう」


 ディアがその場から消え、ユアは不思議そうにシンシアを見た。


「話って?」

「随分警戒されてるわね」

「え?」


 思わぬシンシアの言葉に、ユアは驚いた。


「試されてるのね、二人にして大丈夫か」


 平和には程遠い言葉に、ユアは当惑する。


「試すって……」

「ブオよ。私のことを疑ってる」

「……なんで?」


 シンシアは寝台に腰掛けながら、安心させるように微笑んだ。


「ごめんなさい、私のせいなの」


 そうは言ったものの、シンシアはそれ以上告げようとはしなかった。

 王城に連れて来られて、ディアはシンシアの家族に迎え入れられたと言っていたはずだ。一緒に育ったと。

 シャラからディアを頼まれていたブオも、ディアと一緒にいたわけで、それならば、ブオとシンシアも長い付き合いだということになる。


「シンシア……」


 それでも疑われているシンシアが、ひどく哀れに思えた。

 ユアは黙ってしまったシンシアの手を握る。


「私は、貴女を信じているわ」


 ユアがそう告げると、シンシアが驚いたように紫水晶の瞳を見つめた。ユアは安心させるように微笑む。


「シンシアは、私を守ってくれるのでしょう? ディアのために」

「……そうよ。何が何でも、私は貴女を守る。ディアのために」


 応えたシンシアも、微笑み返した。それは、同じ男を愛す二人の女の共同戦線でもあった。


「不思議」

「何が?」


 ユアの言葉にシンシアが首をかしげると、ユアは微笑んだ。


「私、女の友達って、初めて」

「……友達と、呼んでくれるの?」


 驚いたようなシンシアの言葉に、ユアはうなずく。


「シンシアさえよければ」


 ユアの心に抱かれていたシンシアへの感情。こうして言葉を交わすことでそれは強固なものとなっていた。

 同じ男を愛す、二人の女。しかしその間にある感情は憎しみではない。ただ、男が愛しいという感情だけだった。


 思いがけないユアの言葉に面食らっていたシンシアが、心底嬉しそうに微笑む。


「ありがとう」

「どういたしまして」


 ユアがシンシアの手を握る。


「私、本当はね、ずっと友達が欲しかったの」

「私もよ」


 秘密を告げるかのように口を開いたユアに、シンシアは激しく熱い感情を抱いた。


「貴女を絶対に守るわ」

「お願い」


 ユアが着替えるために、立ち上がった。




 ユアの部屋を出たディアは、いつものように尖塔の先に立った。

 朝露に濡れた葉が柔らかな陽光を反射させ、森が煌いて見えている。それを横目に、ディアは空に目を向けた。

 薄い青がどこまでも広がる下で立っていると、己の小ささが思い知らされるようであった。


「おい」


 ディアの肩に乗って寝息を立てていたブオが、身体を起こした。


「シンシアには注意しろよ」

「……注意しろと言うわりに、二人きりで部屋に残してきたじゃないか」

「尻尾を見せるなら、泳がせたほうがいい」


 ディアは自分の左胸に手を当てた。そこから、確かにもう一つの感情が伝わってくる。心地よく揺れるその波は、ディアの心をも穏やかにしてくれるものだった。


「シンシアが、ユアに危害を加えるとは思えないんだ」

「お前はまたそんな甘いことを……」


 ブオが舌打ちをして、ディアの肩から飛び降りる。ディアは納得がいかないようにブオを見た。


「だがな、追っ手が途絶えているのは事実なんだぞ?」

「シンシアが情報を止めているのは確かだ。だが……」

「っ」


 何かを言いかけたブオだったが、突然身を震わせたディアに気づいてそちらを見た。


「どうした?」


 途端に険しい顔をしてディアを見るブオに、黒い死神は訝しげな顔した。その赤い視線が自分の胸元に向いている。


「いや……ユアが、悲しんでる……?」


 ブオが苛立ったように舌打ちをする。


「どうせあの女が余計なことを言ったんだろう。今すぐ行ってやらないか」

「いや……」


 ディアは首をかしげた。もう一つの心の波長から感じるのは負の感情に違いないが、悲しみというには痛みを感じなかった。

 アイナを失ったときのユアの悲しみの色を知っているためか、ディアはすぐには判断しかねたのだ。


「さっきまでは嬉しそうだったんだが……」

「だから行って確認すればいいだろうが」

「ちょっと待て」


 今すぐにでも飛び立ちそうなブオを、ディアが止めた。

 ユアの心の波長がまた、変わっていた。今度は、ひどく喜んでいるかのように。


「……あの二人はうまくやってるみたいだ」


 ブオは納得がいかないような顔をしていたが、息を吐いてその場に腰を下ろした。




 服を選んでいたユアは、ふとシンシアの視線に気づいた。シンシアはユアの背中を羨ましそうに見つめていた。

 そしてユアが何かを思いついたかのように、洋服箪笥に頭を突っ込んだ。そして一着の洋服を手にして、シンシアを振り返った。


「シンシア、これ着てみて」

「えっ!?」


 黒い服を手にしたユアが、シンシアに詰め寄った。


「絶対似合うと思うの! 着てみて」


 本当に楽しそうに自分を見るユアに、シンシアは困り果てた顔をする。


「いや、待って、ユア……私そういうのは……」

「……着てくれないの……?」


 今にも泣き出しそうな顔でユアが眉を下げた。


「……似合うと思ったのに……」

「ユ、ユア?」


 心底残念そうにユアが肩を落とす様子を見て、シンシアがうろたえた。


「似合うと思ったのに……」

「ユアってば、あの、そんなに落ち込まないで?」

「だって、着てはくれないんでしょう?」


 がっかりした様子で服を戻そうとするユアの手を、シンシアがつかんだ。


「き、着てみるから、そんなにがっかりしないで」

「本当?」


 ユアの声の調子が跳ね上がった。花が咲いたように微笑むユアに、今度はシンシアがたじろぐ。


「それなら今すぐ着てみて!」


 豪奢な装飾をされた光沢のある洋装を手渡され、シンシアは喉を鳴らす。


「着るから、ちょっと後ろ見てて」

「ええ!」


 ユアは嬉しそうに寝台に飛び乗り、シンシアに背を向けた。シンシアは困惑半分期待半分の面持ちで、袖に腕を通した。


「一人で着れる?」

「き、着れるから、もうちょっと待って!」


 そして数刻の後、シンシアが震える声で呼びかけた。


「ユア、もういいわ」


 その呼びかけに、ユアは思い切り振り返って、感嘆の声を上げた。


「素敵! 本当に似合ってる!」


 落ち着かない様子で漆黒の洋装を纏ったシンシアだが、たしかにしっくりと似合っていた。


「本当に……?」

「ええ、本当に素敵よ、シンシア」


 そう言ってユアは自分も着替えた。その間、シンシアは手袋をつけた自分の手を見つめたり、裾をつまんでは、所在無げにしている。


「ねえ、シンシア、ディアを呼びましょうよ」

「えっ!」

「ディアに見てもらいましょう?」


 見る間にシンシアの顔が赤くなる。


「や、やめてよ、恥ずかしい!」

「ディア!」


 シンシアが止める間もなく、ユアは窓の外に呼びかけていた。すぐに室内に黒い死神の姿が現れる。

 ブオも一緒に現れた。


「どうした?」

「見て!」

「ちょっ、ユア……ッ」


 ユアがシンシアの背中を押して、ディアの前に連れてきた。赤い瞳が驚愕に見開かれる。赤面したシンシアは、顔を背けるように俯いた。


「どう、綺麗でしょう?」


 嬉しそうに訊ねるユアに、ディアはうなずいた。


「ああ、見違えるように綺麗だ、シンシア」

「ほ、本当?」


 ディアの言葉に驚いたシンシアが、顔を上げた。ブオが鼻を鳴らす。


「ふん、馬子にも衣装だな」


 そんな皮肉の声も聞こえないかのように、シンシアの桃色の瞳はディアを見つめていた。


「本当に、そう思ってくれる?」

「ああ、綺麗だ」


 輝くような笑顔を浮かべるシンシアに、ユアも微笑む。面白くなさそうな顔をしているブオを、ユアは抱き上げた。


「ブオってば、そんなに仏頂面しないで」

「何かあってからでは遅いんだぞ?」

「でも、シンシアはここにいるのに……一体何ができるの?」


 金色の瞳が意味ありげにシンシアに向けられた。ユアもそちらを見るが、ディアに褒められて少女のように喜んでいるシンシアがいるだけだ。


「あいつは……どこにいようと、関係ないから問題なんだよ」

「どういうこと?」


 ユアが訊ねるが、ブオはそれ以上何も言わなかった。ユアはため息をついて、嬉しそうに照れているシンシアを見つめるしかできなかった。




「どうしたんだい? 浮かない顔をしてる」

「うん」


 ブオとシンシアが喧嘩をしたり、ディアがユアをからかって困らせたりする何事もない平凡な日々が続いていた。

 そんなある日トマスが訊ねてきた。


「なんだか、命を狙われているっていう実感がなくて」

「何もないに越したことはないけど、油断はしちゃいけないと思うよ」


 中庭にやってきたトマスとユア。死神達は遠慮してか、ユアの部屋に残っていた。


「うん。それもなんだけど、ブオがシンシアを信用していないみたいで」

「ブオが?」


 トマスも意外そうな顔をした。


「でも、彼女はユアを傷つけるようなことはしないと思うけど」

「私もそう思うのに……」


 トマスも肩をすくめる。


「僕らにはわからない何かがあるのかもしれない」

「あるのなら隠さないで欲しいわ。ともかくシンシアは、ディアのことが好きなだけなのよ」

「それは僕にもわかるよ」


 こうしてユアと会話をしていると、トマスは不思議な気持ちになる。以前は二言三言交わせれば上出来だったのに、今ではきちんと会話が成り立っている。

 そして、トマスの感情にも変化が出てきていた。


「こう言ったら、変かもしれないけど」

「何?」

「ユアのこと、好きだと思っていたけど、今はなんだか違う感情が芽生えてきてるんだ」


 ユアの紫水晶の瞳が見開かれる。トマスが照れたように頭を掻いた。


「なんだか、妹のように……思えてきたんだよね」


 トマスの言葉に、ユアは笑った。


「なんだよ、やっぱおかしいかな?」

「いいえ。だって、私は随分前から、トマスのこと兄のように思っていたから」


 ユアの告白に、トマスは呆れたように肩をすくめた。


「それじゃあ、最初から僕に望みはなかったんだな」

「ごめんなさい」

「謝ることじゃないさ、仕方ない」


 二人は笑いあう。以前の二人であれば、こんなふうに笑いあう日が来るとは、夢にも思っていなかったに違いない。

 そのことを考えれば、ディアがもたらしてくれた貴重な関係は、本当にありがたいものであった。




 トマスが訪ねてきて、ディアとブオは尖塔にいた。人間達の二人の時間を大事にしたいと思ったのだ。そして、シンシアの姿はそこにはない。


「あいつはどこ行ったんだ?」

「シンシアか?」


 ディアが気配を探ってみるが、近くにはいないようだった。


「お前も、いい加減にシンシアを疑うのはやめたらどうだ?」


 咎めるようなディアの言葉に、ブオは面白くなさそうに鼻を鳴らした。


「逆にあいつを信用できるお前の気が知れないよ」

「お前な……」


 そのとき、ディアは何かを感じて顔を上げた。そして、そちらの方へと気配を立てることなく近づく。

 飛梁に、シンシアが腰掛けていた。ディアとブオは顔を見合わせる。シンシアの様子が、どことなくおかしかった。

 思い悩んでいるような面持ちで、一点を見つめていた。ディア達に気づいた様子はない。

 ディアは敢えて声をかけることもせず、シンシアを伺っていた。しかししばらく動く様子もないと見えたので、そのままその場を後にした。

 もとの場所に戻ってきたとき、ブオが口を開いた。


「今のは、なんだろうな?」

「さて……」


 ディアは首をかしげる。すると眼下ではトマスが馬で去っていくところだった。


「お、ゆっくりしていくと思ったんだが、案外早く帰るんだな」

「何か用でもあるようだ」


 ディアがため息をついた。


「ん、どうした?」

「いや……」


 黒い死神の顔には照れのようなものが浮かんでいた。


「最近、シンシアとユアの仲がいいものだから……私の出る幕がない」

「女の友情ってやつだな」

「ああ、なんだか私が邪魔者のようだ」


 ブオも苦笑する。

 晴れ渡る空に、雲の流れが速い。渡り鳥達が鳴声をあげながら南へと飛んでいった。

 その青い空を見つめながら、ディアはしばし自分が生まれ育った場所を思い出していた。暗く、不気味な色の空を。


「あそこに戻る日は、来るのだろうか」


 ブオがディアを見る。


「こんなにも穏やかで幸せな日々が続くと……私はこのままでいいのではないかと思ってしまうよ」

「……それも、いいんじゃないか?」


 ディアが目を閉じた。幸せな日々が続くことを祈って。

 だがしかし、平穏が破られる時は、すぐそこまで近づいていた。


「さて、トマスも帰ったことだし、ユアの元へと……」


 今にも破れそうな黒衣をディアが翻した瞬間、突如、階下で弾き飛ばされそうになるほどの殺気が生まれた。




 トマスを見送り、ユアは部屋に戻った。ディアが戻ってくるのを待っていると、黒い姿が部屋に現れる。


「シンシア」


 笑顔でユアが出迎えるが、シンシアはどこか浮かない顔をしていた。


「どうしたの? どこか具合でも悪いの?」

「いいえ」

「シンシア?」


 桃色の瞳が何か言いたげにユアを見つめている。ユアは首をかしげた。


「……ユア、今までありがとう」

「え?」


 そのとき、シンシアが右手を振るった。その手に、長らく目にしていなかった黒い鎌が握られた。

 状況が掴めず、ユアが当惑する。


「シンシア!?」


 突如、シンシアの身体から、息が詰まるほどの気迫が噴き出した。


「シン……シア……?」

「ユア、私のために、死んで」

「っ!」


 ユアが息を呑んだ瞬間、シンシアが鎌を振り上げ迫ってきた。


「……ッ」


 硬直し、身動きできないユアが死を覚悟した瞬間――、ユアは赤の中にいた。




「シン……シア……」


 シンシアの口から、血の塊が吐き出される。その口元が、笑っていた。


「ふふ……」


 シンシアが、膝を突いた。彼女の後ろに、ディアが立っていた。


「シンシアっ!」


 シンシアの胸を、ディアの放った黒い刃が貫いていた。初めてできた友人を、愛する男の刃が貫いていた。


「ディア、愛……して、る……」


 シンシアがその場にくずおれる。ユアが声にならない悲鳴を上げて、シンシアを抱き起こした。


「シンシア! シンシア!」


 シンシアの口元が動く。


「な、何……?」


 ユアがシンシアの口に耳を当てた。ディアは、鎌を構えたまま硬直していた。自分の行動が信じられない、そんな面持ちで。


「どうせ、死ぬなら……ディアの、手で……」


 その瞬間、何度も聞いた澄み切った破裂音と腐った果物が潰れるような鈍い音がした。それと同時に、シンシアの身体がはじけて消えた。


「嘘……嘘……っ! シンシア!」


 ユアが泣き叫んでその姿を探すが、その手についた血さえも空気に溶けるように消えていく。まるで、シンシアがいた証がこの世から消えていくように。


「嘘よ……っ! シンシア!」

「まさか……あいつ……」


 ブオが、呆然とした声を出す。


「嫌あああっ」


 錯乱するユアを、黒が包み込んだ。


「落ち着くんだ」

「ううっ……、ディアっ、シンシアが……っ」


 ユアが泣きながら、自分を抱きしめる黒衣にしがみつく。ディアが力強くユアを抱きしめる。


「ユア……っ」


 ディアが、震えていた。それに気づいたユアが顔を上げた。


「ディア……?」

「……くっ」

「あいつは……」


 ブオが、口を開いた。目に涙をためたユアがブオを見た。


「ドルゴンの奴……シンシアを責めやがったに違いない」

「どういう、こと……?」


 ブオが、悲痛の面持ちで続けた。


「シンシアがディアに手を貸しているのに気づいたんだろう。それで、選ばせた。ユアを殺すか、ドルゴンに殺されるか」


 ユアが息を呑んだ。


「それじゃあ、シンシアは……私を殺すことを、選んだの……?」


 ディアの身体が、震えていた。


「……最期、なんて言っていた?」

「どうせ死ぬなら、ディアの手で……って」


 低く鈍い音が響き、ユアは身をすくませた。ディアが、勢いよく床を殴っていた。


「シンシアはお前を殺そうとなんて思っていなかっただろうよ。きっと……ユアを狙えば、ディアが自分を殺してくれると思ったんだろう」


 ブオの言葉に、ユアが唖然とする。


「……なんでそんなこと」


 ディアが、震える口を開いた。


「このままシンシアが私といれば、私とシンシアを倒すために今までよりも多くの死神がやってきただろう。このまま魔界に戻っても、王に殺されていたに違いない。どちらにしろ、シンシアに生き残る道はなかった」

「そんな……」


 ユアの脳裏に、初めてできた女の友達の笑顔が浮かぶ。ディアのことを愛していると言った、友達の笑顔が。


「だからあの女は、自分が愛した男の手にかかることを選んだ」


 ブオが、震えているディアを見る。


「ディアの背中を押すために……」


 もう一度、ディアが床を殴りつける。そして、立ち上がった。その手が、怒りに震えていた。

 ユアは不安げにそちらを見る。その胸に、ある可能性が浮ぶ。きっと、ディアが選ぶであろう選択肢が。


「もう、許せない」

「ディア……?」

「私は魔界へ行く」


 赤く燃え上がるような闘志を纏うディアのその一言は、ユアの予想と何一つ違わなかった。




 月に照らされた木の先に、人影があった。

 夜の冷たい風が肌をなでるのも気にする様子もなく、頭まで隠している黒衣を風にたなびかせている。

 頭を覆っている布の隙間から、無造作にあちこちに跳ねた煌くような白金の短髪が、月明かりに光っていた。

 透き通る銀の瞳が時折蒼を帯び、細められている。


「動き出したな……」


 風が、木々を揺らす。


「今行くよ、――……」


 その口が、声もなくある名を呼んでいた。




 夜霧が辺りを包み、月明かりをひどくおぼろげにしている。

 ユアが落ち着いてきた頃には、外はすでに夜の装丁をしていた。


「ユア」


 低く、心地よい声がユアを呼ぶ。泣きはらして赤くなった目が、ディアを見た。


「ユア、愛している」

「私も」


 黒い死神の顔には、決意の色が見て取れた。


「これは、これからのためだ」

「……ええ」

「私があいつを倒せさえすれば……月を諦めさせることができさえすれば、私達は平穏無事に生きていける」


 ユアがうなずいた。


「だから私は、あいつを倒しに行く」

「お願い……シンシアを追い詰めた人を、倒してきて」


 そう告げるユアの顔には、決意のようなものも見て取れた。


「私、一人でも大丈夫だから。ディア、お願い」

「わかっている」


 ディアがユアの手を取った。


「私にとっても、シンシアは友だった」


 ディアの顔が、苦しげに歪められる。


「私に、シンシアを殺させたあいつを許せない。あいつのせいで、私の大切な人達が、死んでいる」


 ディアの母も、ユアの友も、魔界の王のせいで死んだ。


「私の大事な姫を、あいつに殺させてたまるものか」


 ディアの気持ちが痛いほど伝わってきて、ユアはまた泣きそうになる。


「ブオは置いていく。何かあったら君を守ってくれるはずだ」

「うん」

「私の命は、君と共にある」


 紫水晶の瞳から一筋の涙がこぼれる。しかし揺るぎなくディアを見つめていた。


「私は、この手で私達の未来をつかみに行く」


 ディアが右手を振るった。そうすると、ディアの半身ともいえる大鎌が現れた。


「この忌まわしい鎌を振るうことも、最後になろう」

「うん……」

「ただ君のためだけに、私と君がずっと一緒にいられるために」


 ディアの手を握るユアの力が強まる。


「必ず戻ってきて」

「ああ、必ず」

「お願い……」


 ディアが鎌を消して、ユアの涙をぬぐう。そして、愛しい彼女の唇に己の唇を落とした。


「愛してる」


 そう言い残すと、ディアはユアの目の前から去っていった。


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