第四夜 戸惑う心


 轟音に反応して、ブオが身構えた。先ほど襲撃が終わったばかりで油断していたが、これはただ事ではない事態が起きたらしい。

 ユアが蒼白になりながら寝台から飛び起きた。


「な、何の音?」

「それがわかったら苦労しねぇ」


 ブオは顔をしかめる。ユアは怯えてブオに身を寄せた。


「一体……」


 ユアが不安げな声を出した次の瞬間、ブオがユアを守れたのは、まったくの僥倖だった。ブオがユアを突き飛ばしたと同時に、そこには黒い鎌が現れ、その鎌から派生した黒い蛇がブオに食らいついたのである。


「ブオっ!」

「くっ」


 あと一瞬でも遅ければ、あの蛇の獲物はユアであっただろう。ブオは怯まずに黒い蛇を噛み切り、その場に現れようとしていた黒い影に襲い掛かった。


「っ」


 そのにわかには信じられない様子に、ユアは目を見張った。自分の腕の中に納まるほどであるはずのブオの大きさが、増していく。


「え……」


 こんなときだというのに、ユアは呆けた声を出していた。今目の前で、先ほどの黒い鎌を振った死神の右肩を左手で貫いているのは、見慣れた姿のブオではなかった。

 茶色の肩までの髪に、兎の耳、額には角、そして背中には蝙蝠羽――死神を貫きながら、止めを刺そうとしてる目の前のものは、人の形をしていた。


「ユアっ、逃げろ!」


 焦ったように叫ぶそれは、確かにブオだった。鋭い牙で死神の首元に食らいつこうとする。

 しかし死神の方も、大人しくはやられはしない。あちこちから血を流しているブオの腹に、蹴りを入れた。


「何をしてる! 早く逃げろ!」


 吹き飛ばされそうになるブオに、襟元を掴まれた死神は体制を崩した。


「押さえているうちに! 早く!」


 ユアは怒鳴り声にはっとして、ふらつきながら駆け出した。

 持ちうる限りの力で走り出したユアの背後で、何かが炸裂するような激しい音がしたかと思うと、何かが追いすがってくる気配が近づいてくる。

 ユアは必死に入り組んだ廊下を駆けるが、その気配はどんどん近くなる。ユアが恐怖を振り切るように角を曲がったときだった。


「ユア様?」

「っ!」


 部屋の掃除をしていたらしいアイナが廊下に出てきた。走っているユアを見て、目を丸くした。ユアははっと足を止め、振り返った。


「どうなされたんですか?」


 尋常ではないユアの様子に、アイナは首をかしげる。

 そこに、死神が追いついてきた。右肩は砕けて血を垂れ流し、左手にかろうじて鎌を握っているその死神は、アイナの正面に立ってにやりと笑った。そして、その姿はアイナには見えていないようだった。


「アイナ! 逃げて!」

「え……?」


 嫌な予感から叫んだユアだったが、アイナは困惑して首をかしげるだけで、その場から動かない。

 その彼女に、死神が黒い鎌を振り下ろした。


「アイナああああああああああああああっ!」


 その瞬間、アイナには何が起こったのかわからないようだった。振り下ろされた鎌はアイナを傷つけてなどいない。

 一見、何も変化がないように見えた。しかし、そんなわけがないのだ。


「うっ……」

「アイナっ!!」


 突然、アイナが胸を押さえて苦しみだした。その一方、死神の悲惨な有様だった右肩が、みるみるうちに元通りになっていく。そして、アイナはその場に倒れてしまった。

 今すぐアイナの元に駆け寄りたいユアだったが、目の前の死神がそれを許さない。


 死神の鎌にかかれば、自分は殺される。殺されるだけでなく、魂を囚われる。


 ユアは泣きながら逃げ出した。しかし、廊下の突き当たりに来てしまう。退路を断たれ、ユアは背中を壁に押し付けた。その様子を見た死神が、ことさらゆっくりとユアに近づいてくる。


 振り落とされた鎌から、黒い蛇が放たれユアに迫ってくる。それを見たユアの身体から、力が抜けた。

 蛇が、ユアの身体を拘束する。じわじわと、首を絞めてきた。


「うくっ」


 ユアは必死で蛇を引き剥がそうとするが、黒い蛇は締めつける力を緩めるどころか、逆に力を込めた。

 意識が朦朧とする。酸素を欲した身体が弛緩していく。口を開いても、そこから空気を得ることができない。

 ユアが死神を睨みつけた。そのときだった。


「がっ」


 死神の悲鳴と共に、風を斬る鋭い音と肉が斬れる鈍い音がした。何か硬いものが、確かに砕けた。

 ユアの目の前で、死神の身体から鎌が生えていた。右肩から左わき腹にかけて――。


「っ! げほっ、げほっ……」


 突然喉を締め付けていた蛇が消え、ユアは咳き込む。そして何度も聞いた、あの音が響いた。あの、死神とその鎌が霧散する音が。


「……大丈夫?」


 右手を振るって、その手に握っていた鎌を消しながら、声をかけてきたのはシンシアと呼ばれた女の死神だった。

 喉を押さえて、呆然と彼女を見上げたユアだったが、はっとして駆け出した。


「ちょ、どこ行くの!」

「アイナ!」


 さほど走らずに、ユアは廊下に倒れているアイナを見つけ、縋りついた。


「アイナ! アイナ!」


 揺さぶっても、アイナが目を覚ます気配がない。恐る恐る胸に耳を当ててみると――鼓動も、聞こえなかった。


「嘘……嘘よ! アイナ!」

「無駄よ、もう、死んでるわ」


 シンシアが声をかけた瞬間、ユアが泣き出した。


「嫌っ、そんなの嘘! アイナ! いやああああああっ」

「お嬢様!?」


 シンシアの姿が不自然なくらい唐突に消えた。そしてそこに執事が若い侍女を連れ立って現れた。そして倒れているアイナに縋りつくユアを見て、息を呑んだ。


「今すぐ、医者を!」

「はっ、はい!」


 執事に促され、若い侍女は駆け出した。その場に残った執事の方は、ユアをなだめる。


「お嬢様、興奮されてはお体が……今は自室にお戻りください」

「いやっ! 放して!」


 頑としてその場を動こうとしない様子のユアを、執事は無理やり部屋に送り届けた。

 部屋の扉が閉められ、ユアはその場に泣き崩れる。


「開けてっ! アイナがっ!」

「お嬢様が落ち着かれたら、呼びに来ますから」


 そう言い残すと、扉の向こうの気配が消えた。扉の前で泣いていたユアだったが、ふと顔を上げてあるものに気づいた。


「ブオ……っ!」


 寝台の向こうで、ブオが倒れていた。ユアは涙をぬぐってブオに飛びついた。


「ブオ!」


 先ほど人の形をしていたブオは、今はいつもどおりの姿だった。体中傷らだけで、血まみれだった。

 先ほどのアイナの姿と重なり、ユアは半狂乱になってブオの身体をゆすった。


「ブオっ、起きて! ブオ!」

「んっ……」

「ブオ!」


 ブオがうっすらと目を開けた。


「ユア……無事、だったか」

「ちょ、あんた大丈夫!?」


 そこにシンシアが現れ、ブオを抱き上げる。そしてユアに向かって叫んだ。


「早くっ、何か布を! 血を止めなくちゃ」

「わ、わかったわ」


 ユアは慌てて箪笥から織布を取り出し、シンシアに手渡した。シンシアは慎重にブオにこびりついた血をぬぐい、止血を施した。


 ぐったりとしているブオは、荒い息をしていて、シンシアのなすがままにされていた。

 傷をある程度塞いだ後、シンシアがブオに息を吹きかける。すると、青白い霧のようなものがブオの体を包み込み――消えた。

 それを確認したシンシアが一息をつく。


「これで、血は止まったわ」


 ブオの体を机の上に寝かせ、シンシアがユアを見た。恐怖を顔に貼り付け、じっとブオを見つめている。


「……助かる、の?」

「こんな傷で死ぬほど、悪魔はやわじゃないわ」


 ユアはブオの昔話を思い出した。瀕死の重傷を負ったブオを救った、自分と同じ月を持っていた人のこと――。

 死後もなお、魂を捉えられ――死んだ人。


 しかしそのことよりも、気がかりなことがあった。


「……シンシア」

「何?」


 声をかけてから、ユアは俯いた。震えるこぶしを握って、意を決して訊ねる。


「アイナは……さっきの女の人は……」

「……死んでいたわ。あいつに魂を斬られたのね」


 予想していた答えに、ユアは真っ青になった。そんなユアの様子をじっと見ていたシンシアが、口を開いた。


「大事な人?」


 ユアがうなずくと、その拍子に涙がこぼれた。涙が止まらなかった。アイナはユアのせいで死んだようなものなのだから。


 アイナはユアが幼い頃から、母親代わりになってくれていた人だった。本当の子供のようにユアと接してくれていた。

 人付き合いが苦手なユアに深く干渉することなく、それでも優しく見守ってくれていた。


 その、彼女が死んだ。それもユアの命を狙った、死神のせいで。


 急速に心が冷えていくのを感じた。黒い茨の蔦が、心に食い込んでくるようで、ひどく息苦しい。

 黒い霧が、ユアを包み込んでいくような気がした。


「わ、私があの時死んでいたら……こんなことにはならなかったのに……っ」


 寝台に崩れこんで泣きじゃくるユアを、シンシアは困ったように見つめた。

 本来のシンシアの目的は、ユアを殺すことだ。しかし時間差で仲間が襲ってくることを知っていた彼女は、ユアを助けた。

 柄でもなければ自分の役目ではないとは思いつつも、シンシアはユアの背中をなでてやった。


「ほんと、ここにいなくちゃいけない人はどこにいるのかしらね」


 ため息混じりに呟いたシンシアが誰を指しているのか、ユアにはわかった。しかしその人のことを思い浮かべるだけで、心が沸騰するかのように荒れるのが自覚できた。


「……貴女は、どうして私を助けたの」


 かすれた声でそう訊ねるユアに、シンシアはなんとも言えない顔をした。気づけば紫水晶の瞳がじっとシンシアを見つめている。

 その眼を見て、シンシアは駄目だと直感した。この透き通る瞳に見つめられたディアが何を考えるか、手にとるようにわかってしまった。


「……ずるい人」


 ユアの、今は泣きはらして赤くなっているその紫水晶が訝しげに歪められる。


「貴女って、本当にずるい」

「どういう意味」


 シンシアはそっと息を吐いて、ユアの隣に腰を下ろした。ユアが少し身を硬くする。


「私はずっとディアのことが好き。初めて会ったときから、ずっと」


 ちくりと、何か鋭いものがユアの胸の奥を突き刺した。

 シンシアは険しい表情でユアを見つめている。


「なのに、ディアは私を見てくれることなんてなかった」


 怯んでいるユアに、ふとシンシアが微笑んだ。寂しい表情で。


「貴女を助けたのは、貴女が死んだらディアが悲しむからよ」

「悲、しむ……?」


 ユアが怪訝そうにシンシアを見る。


「ディアが悲しむとは思えないわ」

「貴女は何も知らない」


 一見、シンシアの顔にはなんの表情も浮かんでいなかった。しかしその桃色の瞳は、複雑な感情が絡み合っているようにも思えた。


「貴女は、何も知らないのよ」


 その言葉にユアは憤然と立ち上がった。


「ディアは何も言わなかった!」


 ユアの顔が紅潮し、肩で息をしている。目元には新たな涙が浮かんでいた。生まれてから今まで感じたこともないような激しい感情が沸き起こり、ユアを支配していた。


「私が生きるという選択をすることで、こんなことになるなんて一言も言わなかった! 私の命が狙われるのは良いわよ。でも、他の人に危害が加わるだなんて、一言も言ってない! それに守ると言ったのに! 私を守ると言ったのに! いったい何をしているというのよ!」


 心が、体が、今にも爆発しそうだった。今までこんなにも怒ったことはないんじゃないかと思った。

 シンシアの瞳に、怒れる紫の炎が確かに見て取れるほど、ユアは怒り狂っていた。


「私は! 道具なんかじゃない! 貴方達死神に弄ばれる玩具なんかじゃない!」

「ディア……っ」


 シンシアがはっと息を呑んだ。ユアが振り返ると、いつの間に入ってきたのか、眠っているブオの隣にたたずむように、ディアが立っていた。

 その白皙の顔からは、感情が読み取れない。ただ、その赤い瞳がユアを見つめていた。ユアはその瞳を睨み返した。


「私は、貴方の道具じゃない」


 ディアは何も言い返さない。ただ、ユアを見つめていた。二人の間になんとも言えぬ空気が流れる。

 そのとき、ディアが頭を下げた。ユアがはっと息を呑む。


「君の大切な人を死なせてしまって、申し訳ない」

「何をぬけぬけと……っ」


 ディアが言葉を発するたびに、表現できないほどの激情が込みあがり、ユアの目じりに涙が浮かんだ。

 ともすれば噴き出しそうになる涙を、ユアは必死にこらえていた。それでも叫ぶのを、やめられない。


「私を解放して……っ」

「それは……できない」

「これ以上私を苦しめないで」


 言葉に詰まり、何も言わないでいるディアを見かねて、シンシアがユアの前に立った。


「貴女は何もわかってないっ!」

「貴女こそ何もわかってない!」


 シンシアの言葉に、ユアは叫び返していた。己の胸を叩き、そこに在る月の感触に顔をしかめる。


「私はただ、普通に生きたかった! 昔から、長く生きられないと言われ続けて……本当はそんなの嫌だった! 普通の人みたいに、学校に行って、友達を作って――恋をして、結婚もして、子供も産んで……普通に生きたかった! でもそれは言ってはいけないことだった。望んでもいけないことだった! 生きると決めたら、こんな、死神に命を狙われるなんて……あんまりよ」


 ユアが寝台にあった枕をディアに投げつけた。避けることは簡単だったろうに、ディアはそのまま、まともにくらった。

 間抜けな音を立てて枕が床に落ちるのは、何とも滑稽な情景だった。しかし、その場にいる誰も笑わなかった。


「あの時生きたいなんて、思わなければよかった……っ! 貴方と契約なんてしなければよかった! 私は死ぬことが決まっていた。その運命を受け入れていればよかった! 貴方に、心を開かなければよかった……」


 ユアは、自分で言ってやっと気づいた。ディアに心を開きつつあった自分に。そして、シンシアに道具扱いされ、ひどく傷ついた自分に――。


「夢を見させるなら、夢の中で死なせてくれればよかったのに……!」


 黒き死神の白皙の顔が、歪められていた。その胸の中に確かに存在する、黒い心。復讐という名の、悍ましい感情。

 始めは確かにそれだけだったのだ。ディアにとってユアは、ただの道具でしかなった。


 しかし、それだけではないのだ。


 ユアが傷ついているのが、ひしひしと伝わってくる。その心をなだめてやりたいのに、傷ついているのは自分が原因なのだ。

 どんな言葉をかければいいのかすら、復讐だけに生きてきたディアには、わからなかった。

 優しい言葉の一つも、思いつかなかった。


「……落ち着けよ、ユア」

「ブオ、あんた……」


 よろめいて倒れこみそうになる小さな体を、シンシアが支えた。


「まだ寝てなきゃ駄目よ」

「ユア、落ち着け……」


 ブオがディアを見た。傷だらけで満身創痍ながらも、強い意志を秘めた金色の視線が、黒い死神を貫く。


「俺の口から言ってもいいが……っ」


 言葉の途中でブオが激しく咳き込んだ。シンシアは心配そうにそちらを見る。肩を怒らせ興奮していながら、ユアもブオのことが心配な様子は隠せていなかった。そんな二つの視線を浴びても、ブオはディアしか見ていなかった。


「お前が、言わなくちゃ……いけないだろ」


 ユアはディアに視線を移した。今まで少しも反応しなかったディアの赤い瞳が、揺らいでいた。


「……私は……」


 ディアが震える口を開く。その瞳が、ユアを見つめた。


 赤と紫の視線が絡んだとき、ユアは初めてその赤い眼を見たときのことを思い出していた。

 闇の中で死に身を預けていたユアを、この世につなぎとめた眼だ。

 ユアを優しく見つめ、心を落ち着かせた眼だ。

 彼女の歌を聴いて、感動に細められた眼だ。

 そして、ユアの魂が囚われることから助けてくれ――、道具としてこの世に捕らえた眼だった。


「……アイナが死んだのは、貴方が私を生かしたせいでしょう?」


 ユアの問いに、ディアは口を閉ざした。眼を伏せ、口を噛み締めている。


「私は、この人に道具と言われたとき、哀しかった」


 ユアの心は冷え切っていた。ひどく冷めていた心を暖めてくれていたその死神に、傷つけられたせいだ。


 雨が、窓を打つ音がした。それはユアの涙を、空が代弁しているかのような静かな雨だった。

 雨の滴が大地を打つ音だけが、しばらくその場を包んだ。


「……すまない」

「……っ」


 突然ディアが口にした謝罪の言葉に、シンシアが息を呑んだ。ユアは、冷え切った心でディアを見つめていた。


 ユアの心が、ディアの言葉を受け取ってはくれなかった。




 暗雲の中、静かな雨が途絶えることなく地を打ち続ける。霧が立ちこめ、悲しみにくれる屋敷を包み込んでいた。

 分厚い雲が晴れる気配はなく、人々の気分までも沈鬱にさせている。

 普段は荘厳な姿を見せる尖塔と円弧の屋敷が、この日は哀切に包まれていた。


 黒い喪服に身を包み、顔も透布で覆ったユアは、大広間に置かれたアイナの棺にすがりついていた。

 眠っているようにしか見えないアイナを、じっと見つめている。棺を見守るようにして立つ侍女達のすすり泣く声が呼び水となり、哀しみを増長させていた。


「ユア……」


 名前を呼ばれ、ユアが顔を上げた。そこに立っていたのは、同じく喪服に身を包んだトマスだった。


「……トマス」


 紫水晶の瞳が、トマスを捉えた瞬間、トマスは息を呑んだ。

 どんなときも最高級の紫水晶のように輝いていたユアの瞳だったのに、その瞳に光がなかった。


「ユア、君……」

「アイナは」


 それは感情のこもらない、冷たい声だった。ユアがそっと棺をなでる。


「私のせいで、死んだの」


 ユアの尋常ではない様子に、トマスが顔を歪めた。そして、そっとユアの肩を抱いた。黒服に包まれた細い体は、異様に冷えている。


「気をしっかり持って……」


 そんな言葉しかかけられない自分が、悔しかった。


「……アイナ、ごめんなさい……」


 大切な人の死に心を痛める愛しい人を、慰めることすらできない自分が、もどかしかった。


「お嬢様、トマス様、そろそろ……」


 涙をぬぐいながら、侍女の一人が声をかけてきた。見れば、屈強な男達が待機している。

 ユアは眉をひそめた。


「もう……?」

「お嬢様、このままではアイナもゆっくり眠れません」


 雨の止まない中、埋葬の準備は進んでいたらしい。



「身内はいなかったはずよ。どこへ……」

「森の高台の、見晴らしのいい場所を用意いたしました」


 その場所は、ユアも知っていた。そしてうなずく。


「あそこなら、きっと良いわね」


 ユアは棺を覗き込んだ。清められたアイナは、いつも身に纏っていた質素な侍女の服ではなく、高級な白い服を身に着けていた。

 そのアイナの顔をなでるように、二人を遮る硝子をなでる。


「さようなら、アイナ……」



 雨の中、きちんと埋葬されたアイナ。その様子を、ユアはトマスに支えられながらずっと見つめていた。


 そんなユアの様子を、ディアの赤い瞳が捉えていた。雨に濡れながらも、高い木の上からじっと見つめている。

 白皙の顔に雨の雫が滴り、黒い髪が顔にまとわりついていた。


「……辛気臭い顔してる」


 ディアの隣に現れたシンシアが、音を立てて両手を合わせた。すると二人を雨から守るかのように、二人の頭上に障壁が現れる。

 そしてシンシアはため息をついた。


「馬鹿みたい」

「……わかっている」


 呆れたように呟いたシンシアに応えるディアの声に力がなかった。


「ブオは?」

「ああ、あれだけ減らず口を叩いていれば平気よ。今は寝てる」

「そうか……」


 眼下のユアは、どこからか摘んできた白い花を、墓に供えている。そして、その場から離れようとしない。トマスもユアに付き合っている。

 死神二人を、雨の音が包んでいた。雨のせいか動物達は静まり返っていて、人間達の声も、雨の音にかき消されてここまでは届かない。


「あの男は、あの子のことが好きなのね」

「ああ」


 甲斐甲斐しいトマスの様子を見つめていたシンシアが、呟いた。ディアもうなずく。


「でもあの子の目には入っていないみたい」

「そうらしい」


 シンシアが意味ありげに目を細めた。


「可哀想な人」


 ディアが横目でシンシアを見た。それはトマスに向けられた言葉だったのだろうが、ディアにはシンシアの想いに気付いてしまった。


「……すまない」

「謝らないでよ、馬鹿」


 謝ったディアをシンシアは鼻で笑うと、背伸びをする。


「でも、一番馬鹿なのは私だから」


 シンシアの自嘲気味な言葉に、ディアが目だけで先を促した。


「だって、そうでしょう? 始めから望みがないことくらいわかっていたのに、未だに貴方のことを想っているんだから」

「シンシア……」


 桃色の瞳が、おかしそうに細められる。


「私は、貴方が好きよ」

「……しかし」

「何も言わないで。貴方の気持ちはわかってる」


 シンシアが、濡れて張り付いてしまっていたディアの髪の毛をそっと直した。


「貴方とブオだけでは、手に余るでしょう? 私も手を貸すわ」


 ディアが目を見張った。


「シンシア、駄目だ。私は世界を敵に回したんだ」

「わかってる。よく、わかってる」

「シンシア」


 咎めるようなディアの声に、シンシアは笑った。


「ディア、それくらいさせてくれてもいいじゃない」


 ディアの口から沈黙が返ってくる。


「貴方の大切な人を、私にも守らせてよ」

「ユアはそんなものでは……」

「往生際が悪いわよ」


 シンシアが赤い唇を三日月の形にする。


「貴方の気持ちなんて、丸わかりだわ。あの子が恋しくて、気が狂いそうなのよ。そして何をすればいいのかわからない、ってそんなところでしょう」

「何を愚かな……」


 ディアは顔を歪めた。


「戯言だ」

「あら、本当にそう?」


 目を細めてシンシアを睨みつけた赤い瞳が、桃色の真剣な瞳とぶつかった。

 面白おかしく話していたはずのシンシアの、意外なほど真剣な瞳に、ディアは戸惑う。


「……私は死神だ。人間などに心を奪われるはずがない」

「本当にそう思っているのなら、いいわよ」


 そう言ってシンシアがディアに背を向けた。


「貴方に見えていないものが、私には見えているということ、忘れないで」

「シンシア?」


 訝しげにディアが彼女の背に声をかけたが、シンシアはそのままその場から消えてしまった。

 それと同時に、彼女が発生させた障壁が消える。再び雨がディアの体を打ちはじめた。

 視線を眼下に戻せば、いつの間にか人間達の姿が消えていた。


「心を奪われるなど、そんなことが……」


 あってはならないと言い聞かせるように木の幹を殴りつけたディアだったが、その胸に確かにある不可思議な感情の存在は、ディアの心を揺らしに揺らしていた。




 私服に着替えたユアは、トマスの待っている応接間に姿を現す。やはりユアの表情は精彩を欠いていた。


「ユア、アイナが死んだのは君のせいなんかじゃ……」

「アイナは、私の目の前で殺されたの」

「え」


 トマスが驚いて訊きかえした。


「でも、心臓発作だって……」

「私の命を狙って襲ってきた死神に、殺されたの」


 しばらく二人の間に沈黙が訪れる。そして、トマスが恐る恐る訊ねた。


「その死神というのは、あの黒い髪の……」

「いいえ、ディアじゃない」


 ユアが目を伏せた。


「私は、生きたいなんて思ってはいけなかったのよ」

「君のせいなんかじゃないだろう? あのディアという死神のせいだ」

「生きたいと願ったのは、私よ!?」


 そう叫んだユアが、こぶしを握る。身体が緊張して硬直しているのがわかった。ここまで感情を顕わにしたユアを見たことのないトマスは、困惑する。


「契約を持ちかけたのは、確かにディアよ。でも、その契約にのったのは私。生きたいと願ったのは、この私よ」

「ユア……」

「私が生きたいと願ったばかりに、アイナは死んだの。私のせいで……」


 いつの間にか、雨が止んでいた。しかし空は未だに薄暗く、雲も分厚い。

 そんな重く暗い空が、人々の心までをも沈鬱にさせ、鉛色に染めていくようだった。


 真一文字に口をつぐんでそれ以上何も言わないユアを、トマスはじっと見つめていたが、意を決して口を開いた。


「それでも僕は、君が生きていてくれて嬉しい」


 憚るように紡がれたトマスの言葉に、ユアの顔が歪んだ。そしてその瞳から大粒の涙が零れ落ちた。

 トマスはすぐに立ち上がってユアの震える身体を抱きしめた。その胸に顔をうずめて、ユアが泣き出す。

 今にも消えてしまいそうなユアを、トマスは支えてやった。



 一方ユアは、泣きながら己の冷えきって凍りついたはずの心が砕かれそうな痛みを覚えているのを感じていた。

 アイナが死んだこともかなり衝撃的な出来事だった。だがそれ以上に、道具呼ばわりされたことを気にしている自分がいた。

 そのことが、余計にユアを傷つける。


 自分を娘のように思ってくれていた大切な人の死よりも、自分を生かした死神に裏切られたということの方に衝撃を受けている自分が、嫌だった。


「ユア……泣かないで」


 そして今、自分を支えてくれているのはトマスなのに、未練たらしく黒い死神の姿を追い求めている自分が、情けなかった。


 今、この世で生きてしまっている自分が、ふがいなかった。




 どんよりとした暗い空を見上げていると、ディアは嫌でもあの忌まわしい場所を思い出してしまう。

 それは愛しくて仕方がなかった人を捕らえた牢獄のあった場所でありながら、自分が生まれ育った場所だった。


「ユ、ア……」


 先ほどから、シンシアに言われた言葉がディアの頭から離れない。


「私は……」


 復讐のことを考えない日などなかった。それなのに、今のディアはユアに気をとられている。

 始めはただ、復讐のために〝月〟を手に入れるだけでよかったのだ。月のより代となっている人間のことなど、どうでもよかった。


 それなのに、一人の少女をこんなにも傷つけたという事実が、ディアをここまで揺らしている。

 真っ黒に染まっていた己の心が紫水晶に蝕まれ、いつの間にか大事なところに居座っていた。そして今、その紫水晶が消えそうになっている。それだけで、今まで守り抜いてきた黒い感情が、揺るがなかった想いが、揺さぶられている。


 今すぐにユアを抱きしめ、落ち着かせたいと思っている自分がいた。


「くそ……っ」


 おもむろにディアは右手を己の左胸に突き刺した。みる間にその白い手が赤く染まっていく。

 雨が、赤く染まっていく。


「く……っ」


 手を引き抜いて、荒い息のまま木に寄りかかる。その間にも、確かにあった傷が消えていった。


「忌まわしい……っ!」


 いくら傷が塞がっても、内側から身を焦がす、疼くような感情が消えてくれない。不協和音を奏でるものが、消えない。


「ユア……」


 だがそんな痛みを抱えながらも、復讐をやめるわけにはいかなかった。ディアはそのためだけに生きてきたのだから。

 忌まわしい死神の身体で、それに耐えて生きてきたのだから。


「私はここで、立ち止まるわけには……いかないんだ」


 そっと自分に言い聞かせるように囁かれたディアの言葉は、不穏な空に吸い込まれるように消えた。




 しばらく泣いていたユアだったが、ゆっくりとトマスから離れた。


「……ごめんなさい」

「いや……」


 再び沈黙が訪れる。泣き止んだユアは一向に顔を上げない。


「ユア」

「やっぱり、私は死んでいたほうが……」

「そんなことを言わないで! ユア、君はあの死神に憑かれておかしくなっているんだよ。今すぐあんなやつから離れればいい」


 ユアが訝しげにトマスを見た。


「ディアは……」

「そうだろう? あの死神が現れてから君は……」

「ディアから離れれば、ユアは生きていけないぞ」


 割って入った第三者の声に、トマスが眉をひそめる。いつの間にか机の上にいたのは、包帯だらけのブオだった。その姿に、トマスは目を見張った。

 ユアが困ったようにブオに近づいた。


「ブオ、部屋で寝てなくちゃ……」

「ディアがいなかったらユアは死んでいた。死後も苦しむような、そんな状態で、だ」


 ユアを無視して、ブオはトマスを睨みつけていた。金の視線に貫かれ、トマスはたじろぐ。


「で、でも! ユアはこんなに苦しんで……」

「お前は言った。ディアと離れるべきだと。お前は、ユアがディアと仲良くしているものだから、悔しいだけだろう」


 ブオの言葉に、ユアが顔をしかめた。


「お前は目障りだという理由だけで、ユアの命を懸けるのか?」

「ブオ、いい加減にして」


 ブオがユアを見る。


「私は、もともと死んでいた身なの」

「ユア、そんなこと言わないでくれ……」

「そもそも、貴方はいったい誰なの?」


 再び、その場に割って入った声にトマスが驚いた。部屋に入ってきたのは、シンシアだった。


「き、君は!?」


 シンシアが驚き狼狽えるトマスに一瞥をくべる。そして背筋も凍るような笑みを浮かべた。


「私はシンシア。死神よ」

「死神……っ」


 シンシアが身を乗り出してトマスに顔を近づけた。トマスが思わず身を引く。


「貴方、いったい誰? 何も知らない、当事者でもない人間ごときがごちゃごちゃぬかしてんじゃないわよ」

「なっ」

「そもそもね、人間ごときが私達のすることに口出ししないで」


 絶句しているトマスをよそに、シンシアが鼻で笑ってちらりとユアを見た。


「それに、貴方にこの子の心は手に入れられないわ」


 しかしトマスは顔を紅潮させてシンシアに向かった。


「それでも! ユアを玩具のように扱ってもらいたくない! ユアの命を、心を、なんだと思ってるんだ! 彼女は道具なんかじゃないぞ!」


 その言葉に、シンシアが口をつぐんだ。その途端、空気が震える。応接間の硝子戸が小刻みに音を立て、その場の空気が不穏に曇っていく。

 そしてシンシアの右手に、黒い鎌が握られていた。それを見たユアの顔色が変わった。


「もうやめて!」


 ユアがシンシアを見た。その紫水晶の瞳に涙が浮かんでいた。


「最初に、私を道具扱いしたのは貴女よ、シンシア」


 すると、面白いくらいに室内の空気の色が変わった。シンシアの手元から鎌が消える。そして、あろうことかシンシアがユアに向かって頭を下げた。


「……っ」

「ごめんなさい。でも、私は貴女にディアを拒絶してもらいたくないの」


 ユアが息を呑んで、胸を押さえた。一際大きく胸が鳴り、身の毛がよだつような興奮を覚える。

 大きく肩で息をするユアに、とうとうトマスの堪忍袋の緒が切れた。


「いい加減にしてくれ! 君達に比べたら、僕達人間は小さな存在かもしれない! それでも、心があるんだ! これ以上ふりまわさないでくれ!」

「貴方は何もわかっていない! ディアの気持ちも知らないで……っ」


 ふと襲いくる感情に震えていたユアが顔を上げた。


「ディアの気持ちって、何……?」


 シンシアが、どこか泣きそうな顔でユアを見る。


「ディアを、信じてあげて」

「まだわからないのか! この人の世でお呼びでないのは君達の方だ!」

「ディア……」


 ブオの呟くような声に、三人がはっとしてそちらを見た。部屋の中にいつの間にか、ディアが現れていた。

 息を呑んだユアを、赤い瞳がまっすぐ捉えた。口を開きかけたトマスだったが、その場の雰囲気に圧倒されてそのまま口を閉じた。


 ユアがじっとその黒き死神の姿を見つめる。それだけでユアの胸は張り裂けそうになっていた。

 嫌でも思い出すのは、優しく触れるディアの白い手だった。


「ユア」


 ディアの端正な顔が、歪んでいた。その痛みを堪えているような表情に、ユアは息を呑む。


「私の話を、聞いてはくれないだろうか」


 静かに紡がれた穏やかな声に、ユアは強ばらせていた身体の力をそっと抜いた。


「……どのような、話なの?」


 見つめ合っている少女と死神を、三人が固唾を呑んで見守っていた。そして、ディアが意を決したかのように口を開いた。


「君と私の、これからを考えるために必要な話だ」


 そのとき、シンシアがブオを抱え、トマスの背を押した。トマスは盛大に顔をしかめる。


「なんだっ」

「黙りなさい。ほら、行くわよ!」

「押すんじゃないっ」


 騒々しい音を立てながら、三人が応接間を出て行った。それを見届けたディアが、もう一度ユアを見る。

 ユアの瞳は、揺らいでいた。


「私と、貴方のこれから……?」


 ディアは頷く。縋るようなその赤い瞳に、ユアの胸の奥がひどく痛んだ。亀裂が入ってしまった氷の心に、赤い視線が触れる。


「君を巻き込んでしまった、その理由を説明させて欲しい」

「……それを聞いたら、何かが変わるの?」

「それは、君次第だ」


 俯いたユアが自分の月に触れる。それが、全ての始まりとなったものだった。そして意を決したように顔を上げる。


「話を、聞かせて」


 再び、紫水晶と赤の瞳が交錯した。


「……私の最初の記憶は、黒と赤の景色の中でも霞むことのない、眩い白金の光だった」


 そして、その話が始まった。




 傷もすっかり癒えたブオだったが、そのままシャラの元にとどまっていた。


「ブオ、傷が癒えて本当に良かったわね」

「ああ、シャラのおかげだ」


 この一人ぼっちだった暗い世界で、いつのまにかブオはシャラにとって、心の支えとなっていた。

 あれから何度かドルゴンが訊ねてきたが、いつも何をするでもなく、シャラの様子を見てはすぐに帰っていった。


「ブオ」

「ん?」


 シャラが目を細めて微笑む。その穢れることのない笑みに、ブオは自分の鼓動が早くなるのを感じた。


「私のところに落ちてきてくれてありがとう」

「シャラ……」


 ずっと独りだったブオにはわからなかった。しかし、今こうしてシャラと過ごすようになってわかったことがある。


 孤独の辛さだ。


 華やかな人の世から無理やり連れてこられ、異世界でたった一人過ごしていたシャラは、どれだけ辛い思いをしていたのかと、ブオは思った。

 そう思ったからこそ、怪我がよくなった今も、彼女のそばを離れないでいるのだ。


「私、ブオがいるから……頑張れる」


 ブオはその小さな頭を振った。


「それは俺の台詞だ。シャラと……会えて、良かった」

「ふふ、嬉しい」


 眩いほどの笑みに、ブオの心臓が掴れたようになる。


「なあ、また歌ってくれよ」

「あら、良いわよ」


 にこりと微笑んだシャラが、美しい旋律を紡ぎだす。目を閉じたブオは、その旋律の向こうに見たことのないはずの、白い花の咲いた野原を確かに視た。


 美しい人と言葉を交わし、歌に酔いしれる。ブオはこの心地よい日々に満足していた。



 それはこの黒い森の中で、それは平穏すぎる日々だった。

 そしてその場違いな安息はある日、轟く黒雷と赤い雨によって唐突に壊された。



「嫌な雨ね」


 窓の外を見て、シャラが呟いた。その視線の向こうでは、大地を抉るような雷と赤い雨が地面を揺らしている。

 ブオは呆れたように首をかしげる。


「魔界の雨はこんなものだろう」

「それでも、本当に不気味だわ」


 そう呟くシャラの透き通る翡翠の瞳には、どのような光景が写っているのだろうかと、ブオはたまに不思議に思う。

 この魔界しか知らない自分に比べ、シャラは人間達の生命溢れる世界からやってきた。シャラのように透明な人間が生まれた世界を、見てみたいとも思った。


「シャラの世界は、どんな世界だったんだ?」


 ブオの問いに、シャラが目を見張った。そして、二度と帰れぬ世界を思い出して目を細めた。


「とても、眩しい場所よ」

「眩しい?」

「そう……とても、素敵な世界」


 胸に手を当て、憧憬に胸を焦がすシャラが、ブオの目には眩しくて仕方がなかった。


「たとえばどんなものが……」

「きゃっ」


 ブオの声を遮ったのは、雷鳴だった。近くに落ちたらしく、地面が激しく揺れ、爆音の後も耳鳴りがする。


「大丈夫か?」


 驚いて身をすくめたシャラに近づいたとき、ブオの耳はかすかに馬の蹄の音を聞いた。


「あいつが来る……」

「……っ」


 馬の嘶きと共に来訪を告げるのは、いつものことだった。そして、シャラの顔が強ばるのも。


「ブオ、隠れていて」

「わかった」


 しかしその日、ドルゴンはいつもと様子が違っていた。

 嘶きと共に戸棚に身を隠したブオだったが、尋常ではない物音とシャラの悲鳴に、その長い耳をそばだてた。


「いっ、嫌やめてっ!」

「うるさいっ! 占術師の話にのるわけじゃないが……このままでは意味がないのだ!」


 いつにも増して穏やかでない気配に、ブオは息を呑んだ。


「いやああああああああああっ」

「黙れ、この人間がっ!」


 低く、鈍い音が響き、何かが倒れこむ音がした。布ずれの音と、シャラの叫び声が響く。


「シャ……ラ……」


 泣き叫ぶシャラの声が聞こえているのに、ブオには何もできなかった。



 大切な人が、無理やり犯されているのを前に、ブオは何も出来なかったのだ。



 事が終わり、馬が去っていく音を確認したブオは、戸棚から出た。

 倒れた家具に、引き裂かれた服。シャラが床に倒れていた。


「シャラ……っ」


 ブオが慌ててシャラに近づくが、シャラは気を失っていた。その頬が赤く腫れ、体のあちこちに傷と痣ができている。


「くそ……っ」


 ブオは人型に変化すると、シャラの身体をそっと抱きかかえた。冷え切ったシャラの身体から、赤に染まった白い液体がこぼれた。

 寝台にシャラを寝かせると、ブオは布切れを濡らしてシャラの身体を清めた。そして、服を着せる。


「シャラ……」


 酷く抵抗したせいで、四肢に手形になった痣がくっきりと出ていた。


「……ひっ」


 ブオの頬を、熱いものが伝う。悔しくて、不甲斐なくて、仕方がなかった。近くにいたのに、救えなかった。一番、近くにいた大切な人を、綺麗で美しい人を、救えなかった。


「……くそっ!」


 そのまま、ブオは家を飛び出していた。



 赤い雨に打たれながら、ブオは己の持ちうる力を振り絞って飛んだ。あの男の匂いのする方へ――。



 赤く濡れ、息を切らせたブオが辿り着いたのは、魔界の王の住まう城だった。その門が開き、あの男が中へ入ろうとしていた。


「貴様……っ!」


 叫んだブオは、そのまま男に殴りかかった。


「くっ」


 馬から落ちた男が、自分に襲い掛かったものを見て、口を歪めた。そしてブオの腕をつかむ。


「ドルゴン様!」


 慌てた家臣が声を上げるが、男はそれを遮る。


「いい、来るな」

「はっ」


 赤い瞳を細め、男がブオを嘲笑っていた。


「お前、あの女の匂いがするな」

「……っ」

「悪魔ごときが、私に勝てるとでも思ったか?」


 ドルゴンと呼ばれた男の腕の一振りで、ブオはねじ伏せられてしまった。赤く濁った泥が、口の中に入ってくる。


「ふん、悪魔をたぶらかすとはな……」

「……んで……」


 悔しさに爆発してしまいそうなほど熱くなった心が、ブオを動かした。


「うん?」

「なんであんなことしたんだよ!」


 ブオが叫ぶと、ドルゴンの顔にますます蔑みの色が広がった。


「悪魔のくせに、人間なぞに恋慕か? 馬鹿らしい」


 そこまで言ったドルゴンだったが、はっと息を呑んだ。


「貴様っ、あれに種付けなどしておらぬだろうな!」

「ふざけるなっ! お前と違って……俺は……」

「ふんっ、ならいい」


 ドルゴンはブオを押さえつけていた腕を放した。


「ちょうどいい、お前、あれの世話をしろ」

「……は……?」


 ドルゴンが赤い目を細めてブオを見た。


「あれはな、月を産む女だ」

「……何を……」

「あの女の月は、不完全なものだった。どうすればいいか困っていたところ、占術師が言っていた。あの女を孕ませれば、月が完全なる結晶化して生まれるとな」


 その残酷な言葉の意味を理解するのに、時間はかからなかった。


「お前っ、そんなことのために……っ」

「それ以外の利用価値など、あれにはない」


 怒りで言葉を失うブオに、ドルゴンが嘲笑を投げかける。


「血迷うなよ、子兎め。お前の命など、一ひねりに出来るのだ。あれの魂もな」


 そのままドルゴンが背を向ける。


「生まれてくる子供も、あれも、お前が世話をしろ。王直々の命だ。ありがたく受け取るんだな」


 そして赤い雨の中、ブオの目の前で城に続く門が閉じられた。

 ブオはその時初めて、あの嫌な笑みを浮かべる男が、この魔界を統べる王なのだということを知った。



 力なく家に戻ったブオは、まっすぐシャラの元に向かった。白金の髪を持つ美しい人は、未だ目を覚ました気配はなかった。

 ため息をついたブオは元の姿に戻る。そして夜通し、寝台のそばでシャラを見守った。



 シャラが目を覚ましたのは明け方のことだった。


「……ブオ……」

「シャラ? 大丈夫か?」


 呼びかけに小さくうなずいたシャラは、ゆっくりと身を起こした。


「私……」

「大丈夫だ。俺が、守るから」


 掠れた声に、痛々しい頬に、その頬を伝う涙に、ブオは顔を歪める。


「ブオ……」

「なにがあっても、守るから」


 シャラの手を握り、ブオはそう誓った。




 そして数ヵ月後、シャラは一人の男の子を産み落とした。




 暗い太陽が照り、ひび割れた大地を焦がしている。激しかった雨季が去り、黒い森の木々が暗い色の葉を伸ばし、黒紫色の花を咲かせていた。


 森で真っ赤な花を摘んだブオは、むせ返るような熱気に耳を垂らしながらも、大切な人が待つ家へと急いだ。


「シャラ、様子はどうだ?」

「ブオ、おかえりなさい」


 赤子を抱いて微笑むシャラは、以前にも増して美しくなっていた。憎いであろう男の子を抱いて微笑むシャラの心境は、ブオには理解しがたかった。


「……見れば見るほど、似てるな」

「そうね」


 赤子は、母親の腕の中で気味が悪いほど静かにしていた。母を見上げているその瞳は、真っ赤だった。

 黒い髪と赤い瞳を持つその赤子は、シャラをこの世界に捕らえたあの男にそっくりだった。



 ブオにとって、その子供は気味が悪い以外の何物でもなかった。

 シャラが妊娠していた期間が異常に短かったのもそうだが、生れ落ちてからも、その子供は異常な速さで成長しているように見えるのだ。

 当の父親のほうは、あれから一度も姿を見せていない。よもやすると、自分の子供がすでに生まれていることにも気づいていないのかもしれなかった。


 そしてブオには気になることがもう一つあった。

 子供を身ごもってから、シャラの胸にあった月の痣が薄れ、臨月を迎える頃には消え去っていたのだ。

 あの男は月のためにシャラをこの世にとどめているのだから、月の消えたシャラに用はないはずだった。


 ドルゴンは確かに、シャラが月を産むと言っていた。そのために身ごもらせたのだから、そう信じていたことは間違いないだろう。

 それなのに生まれてきた赤子には、月どころか、痣一つなかった。

 成長が異常に早いということ以外、ただの赤ん坊と何一つ変わりなかったのだ。



 赤い花を活けたブオの視線の先で、シャラはぐずりだした赤子をあやしていた。


「ディア、強い子に育つのよ」


 にわかには信じられないことだが、シャラはディアと名づけた赤子に愛情を注いでいる。自分をこのような場所に連れてきた男の、無理やり自分を犯した男の子供だというのに。

 ブオにはやはり、理解できないことだった。


「ブオ」

「ん?」


 話しかけられ、ブオははっと我に返った。すると、どきりとさせられるほど真剣な翡翠の瞳と目が合った。


「この子を、お願いね」

「え?」


 シャラは、ディアの頭をなでながら、目を細めた。


「この先、私に何があろうと、この子だけは守って。お願い」

「何を、言ってるんだ……?」


 そう告げたきり何も言わないシャラだったが、彼女にはこの先起こることがわかっていたのかもしれなかった。



 ディアが生まれてからというもの、シャラは毎日ディアに歌を聴かせていた。もともと大人しい子供だったが、シャラの歌を聴いていると、ディアは本当に嬉しそうに笑う。

 それがあまりに死神に似つかわしくない笑顔で、ブオは心配になった。


「そいつは、もしかしたら人間なんだろうか」


 小さな声で呟いたブオを、シャラが驚いたように見つめた。


「この子が、人間?」

「いや……だって、育つのが異常に早すぎるし……」


 その頃、ディアは掴まり立ちが出来るようにまでなっていた。生まれてから半年と経っていないにも関わらずだ。


「人の世では、ここよりも早く時間が過ぎていると聞くから」

「そうなの? 知らなかった」


 シャラはブオの言葉には興味を示さず、ディアを抱き上げて微笑んだ。


「この子が人間であろうと、死神であろうと、他の何者であろうと、私の子供には変わらないわ」

「シャラ……」


 意を決したブオは、かねてから疑問に思っていたことを訊ねることにした。


「シャラ」

「何?」

「なんで、その子供を愛せるんだ?」


 ブオの言葉に、その場の空気が凍りついた。ディアも敏感にその空気を悟ったのか、母親にしがみつく。


「……ブオは、不思議なことを訊くのね」


 怯えているディアの頭をなで、シャラがため息をついた。


「しかし、それはあの男の子供だぞ? シャラの命を狩り、シャラの魂をここに捕らえ、あまつさえ子供まで……」

「私ね」


 ブオの言葉は、清らかな人の美しい声に遮られた。


「自分の子供をこの腕で抱けるなんて、想像だにしていなかったの。本当に、まったく」

「どうして?」

「だって私、長くは生きられないって知っていたから」


 シャラが困ったように呟いた言葉に、ブオは息を呑んだ。


「言い方はおかしいかもしれないけど……生きていたときは身体が弱かったの。だから、子供を産むなんて考えたこともなかった」


 静かに語りながら、翡翠の瞳は腕の中の赤ん坊を見つめていた。


「どんな形であれ、この子が私の子供だということが、嬉しいの」

「シャラ……」

「だってね、私がいなくなっても、私はこの子の中で生き続けるのよ。この子がいなくなっても、この子の子供がいるかもしれない。私は、そうやって生き続けるの。私の魂が、受け継がれていくのよ?」


 シャラがブオに向かって微笑んだ。


「それって、とても素敵なことだと思わない?」


 とっさには、ブオは反応できなかった。言うべき言葉が思い浮かばず、開きかけた口をそのまま閉じる。


「とても愛しいの。この子は、私の子供だから」


 言葉が思い浮かばないかわりに、ブオの中に奇妙な感情が浮かんでくるのがわかった。その生暖かいような、どこかくすぐったいような感情は、ブオの空っぽだった心を満たしていく。


「ブオ……?」


 驚いたようなシャラの言葉に、ブオは我に返った。その黄金の瞳から、涙がこぼれていた。


「……幸せだな」

「え?」

「そいつは、シャラのところに生まれてきて、幸せだ」


 両親の記憶などないブオは、自分がどうやって生まれてきたかを知らない。もちろん親の愛など、知る由もなかった。

 それを、シャラが教えてくれたような気がした。


 そしてブオは、シャラの愛を一身に受けるディアを羨ましいと思った。


「そいつじゃなくて、ディアよ」

「そうだったな」


 笑いながら訂正するシャラが、ブオの涙をぬぐった。


「きっと、ブオのご両親も、貴方のことを愛してる」

「……そうかもな」

「かも、じゃないわ。きっとそうよ」


 自分を産み落としたものに興味を持ったことなどなかったブオだったが、シャラの言葉で初めて、見落としていた何かを手に入れたような気分になったのだった。



 その翌日、ディアの父親が訪ねてきた。



 ディアを抱きしめ、シャラは震えながらドルゴンと対峙していた。一方のドルゴンは信じられないものを見つめるように、抱かれている子供を見つめていた。


「それが、月だと?」


 蒼白になって口を硬く閉ざしたシャラに代わり、ブオが立ち上がった。


「お前の子供だよ。そっくりだろ」


 ブオの言葉に、ドルゴンは低く唸った。


「……私の子供なんてものに興味はない。月は、どうした」

「消えたよ」


 ドルゴンの顔に、絶望の色が広がった。その絶望が、次の瞬間には激昂に変わっていた。


「ぶざけるんじゃない!」


 大地をも揺るがすような怒声に、身をすくめたディアが泣き出した。そのディアを、ドルゴンはシャラから奪い取る。


「やめて! ディア!」

「っ!」


 放り投げられたディアをブオが身を呈して受け止める。一方ドルゴンはシャラに向かっていった。


「きゃっ」

「黙っていろ!」


 そしてシャラの服を引き裂き、胸元を見たドルゴンは言葉を失った。そこに確かに在ったはずの月の痣は、消えて跡形もなくなっていたのだから。


「こんな、ことが……」


 そしてその怒りは、ブオに向けられた。


「この小童! 悪魔ごときでこの女に種付けしていたのだろう! さもなくば、こんなにも赤子が大きくなっているわけがなかろう!」

「ふざけるな!」


 ブオはディアをドルゴンに突きつけた。


「その腐った目をよくこすって見るんだな! この黒い髪に、赤い目! お前とそっくりだろうが! こいつは、ディアは、紛れもなくお前とシャラの子供なんだよっ!」


 シャラが泣いているディアを、ブオの腕から奪い取る。そして、必死に抱きしめた。


「私の、子供……月が……」


 ディアと同じ赤い瞳が、シャラを睨みつけた。いつもは震えるだけだったシャラが、その瞳を真っ直ぐ睨み返す。


「……くそっ」


 ドルゴンはそのまま家を出て行った。

 それを見送ったシャラが、安堵のため息をつく。今までの張り詰めた空気が嘘のように穏やかな時間が流れ始めた。


「大丈夫か」

「ありがとう」


 ブオが手を貸して、ディアを抱えたままうずくまっていたシャラを立ち上がらせた。


「……これから、どうなるんだろうな……」


 ブオが重苦しい声を出したのは、ドルゴンが月のないシャラをここにとどめる必要がないせいだった。

 そして月を持たず生まれてきたディアの必要性など、何一つないのだから。



 そんな大人達の心配や思惑をよそに、ディアは目を見張るほどの速さで成長していった。



「お母さん、歌って」

「ディアってば、二言目にはそれなんだから」


 三歳児くらいの大きさになったディアは聡明な子供で、きちんと言葉を理解するようになった。

 生まれてから、魔界の時間で一年しか経っていないというのにだ。


「ほんと、お前は歌ばっかり聴いてるくせに、自分は全く歌えないんだよな」

「うるさい。私は、お母さんの歌を聴くのが、好きなんだ」


 舌足らずながらも一人前に言い返すディアに、ブオは笑ってその頭をなでた。母親の一人称が私であるせいか、ディアまで私を使っていることをブオはおかしく思う。


「全く。こいつは、俺には生意気なんだから」

「ふふ、ディア、駄目じゃない。ブオに優しくしてあげなきゃ」


 母親になだめられ、ディアは首をかしげた。その拍子に小さく結われた黒髪が揺れる。


「なんで?」

「ブオは、お母さんの大切なお友達だからよ」

「友達?」

「そう、友達」


 ディアの顔に、ありありと疑問が浮かんでいた。母親とブオ、そして自分だけのこの世界で暮らしているディアには、友達というものがどういうものなのか想像しにくかったに違いない。


「友達って、何?」

「そうね。信頼できる大切な人よ」

「しんらい?」

「そう。ディアも大きくなればわかるわよ」


 納得がいかない様子のディアを膝に乗せると、シャラは歌いだした。


 ブオはシャラが生まれ育った世界を知らない。

 それでも、シャラの歌声を聴きながら目を閉じれば、彼女の心の中にある情景を感じ取ることができた。

 どこまでも透き通った心の持ち主の奏でる歌声が、この暗い世界で確かな光となって、灯火となってブオの心に宿るのだ。

 それはディアにとっても同じだった。この暗い世界で、眩い白金の光が確かなものとなってディアの中に宿っていた。


 シャラの歌声が、光の奔流を紡ぎだす。

 その光に押されるように、木の葉が一枚舞い遊んでいた。その木の葉が空に舞い、水の中を泳ぎ、旅をしていく。

 そんな光景が、歌を通して確かにブオとディアの心に刻まれていた。


 パティヴという曲名にふさわしい世界を、シャラは歌声だけで生み出すことができるのだ。


 その奇跡の歌声を聴きながら、幸せなひと時を送れればいいと、ブオはそう願っていた。



 しかし、しばしの時間が過ぎたころ、異変が始まった。



 ブオが食料を調達に出かけようとしたところ、ディアが血相を変えて走ってきた。


「ブオ!」

「どうした?」


 すでに五歳児ほどの大きさになったディアだったが、この頃になってもドルゴンが母子の前に現れることはなかった。

 それでいいと思っていたブオだったが、尋常ではないディアの様子に首をかしげる。


「お母さんが、動かない……!」

「何!?」


 息を呑んだブオは、慌てて部屋に引き返した。すると、シャラが机にもたれるように倒れていた。


「シャラ!」


 人型に変化したブオは、シャラを抱えあげて揺さぶる。しかし、目を覚ます気配がない。


「シャラ……っ」


 血の気が引いて蒼白になってしまったシャラに、ブオは唇を噛む。息をしているが、先ほどまで普通に会話していたのに、この変化は急すぎた。

 焦って取り乱しそうになったブオだったが、自分の服の裾を握った小さな手が、理性を繋ぎ止めた。


「お母さん……大丈夫?」


 震える声で見上げてくる赤い目を見たブオは、冷静さを取り戻した。そして、シャラの腕を取って脈を診る。

 蒼白で冷たいシャラの手だったが、脈拍はしっかりとしていた。


「……大丈夫だ。ただ、気を失ってるだけだ」

「本当?」


 不安な様子が隠しきれない小さな黒い頭を、ブオはなでた。


「大丈夫だ。シャラに、何かあるわけないだろう?」

「……うん」


 いつもは生意気な口を利くにもかかわらず、不安げにブオにしがみつくディアを見て、ブオは自分がディアを守らなくてはいけないのだと悟った。


 この先何があっても、この小さな存在を、守らなくてはいけないのだと悟った。


「とりあえず、寝台に寝かせよう」

「うん……」


 シャラが随分前から感じていた異変は、この頃から確実に始まっていたのだ。




 シャラが気を失ってからというもの、ブオは念のために人型でいた。そしてシャラが目を覚ましたのは、それから数日後だった。


「お母さんっ」

「シャラ!」


 細められた瞼の向こうから翡翠の瞳が覗いた瞬間、ディアとブオがシャラに飛びついた。


「……ディア?」

「お母さん、大丈夫?」

「おい、無理はするな」


 起き上がろうとするシャラに、ブオが手を貸した。そして身を起こしたユアは、そっとため息をつく。


「……何が起こったか、覚えているか?」


 ブオの問いに、シャラは目を伏せた。その手が、ディアの小さな手を握っていた。


「……ディア」

「何?」

「お母さんね、湖のほとりにある赤い花が欲しいの。採ってきてくれるかしら」


 ディアが顔を輝かせる。


「うんっ!」

「一人でも大丈夫よね?」

「任せて!」

「気をつけるのよ」


 跳ねるように部屋を飛び出していったディアを見送った後、シャラが口を開いた。



「私を留めている力が、とても弱くなっている。月がなくなってから、それを感じていたの」

「それじゃあ……」


 恐ろしい予感に、ブオは言葉を続けられない。一方のシャラは、落ち着いた声を発していた。


「おそらく、私はこのまま消える」

「そんな……っ!」

「聞いて、ブオ」


 取り乱すブオの手を握ったシャラの真剣な瞳に、ブオは狂おしいほどの動揺を抑え込んだ。


「ディアを、お願い」

「シャラ……」

「あの子を、守って。自分の身を自分で守れるように、してあげて。お願い」


 ブオの手を握っているシャラの手が、震えていた。


「お願い」


 震えながら、痛いほどの力で握り締めるシャラの手を、ブオはそっと解いた。


「……わかった。あいつを、ディアを、一人前にする。そして、絶対に守る」

「ありがとう」


 安堵の声とともに、シャラの瞳から一筋の涙がこぼれた。それをブオはそっとぬぐってやった。

 そのとき、小さな足音が駆け戻ってくるのが聞こえた。


「お母さん!」


 部屋に飛び込んできたディアが、濡れている母親の瞳を見て目を丸くした。その小さな腕は、持てるだけの赤い花を抱えている。


「お母さん、悲しいの? どうしたの?」


 ディアが駆け寄ってきた。


「お母さん、お花摘んできたよ。ほら、だから、泣かないで」


 泣きそうな顔で訴えるディアの腕から花を受け取り、シャラは微笑んだ。


「こんなに沢山……ディア、ありがとう」

「もう、悲しくない?」


 シャラはディアを胸に抱いた。赤い花が、その場に舞い上がる。


「お母さん……?」

「愛してる、ディア」


 赤い花びらが二人を取り囲むその様子を見届けたブオは、そっと部屋を出た。

 扉に背を預け、俯きながら目を閉じたのは、こみ上げてくる熱いものが零れ落ちないようにするためだった――。



 それから、ブオはディアに生きるための術を教えた。

 死神の血を確かに引いているディアが、この死神の統べる魔界で生きていくためには、死神としての力を使いこなせるようにならなくてはならなかったのだ。


 己の魂から造りだす鎌や、それを扱う身体能力。この世を生きるための知識や、己が何たるか。

 ブオは自分が知る限りの全てをディアに伝えた。


 最初は戸惑っていたディアだったが、いつの間にか戦うことに興味を持ち、そしてブオが目を見張るほどの速さで、物事を飲み込んでいった。


 そしてディアが強くなるにつれ、シャラが寝込む時間も長くなっていた。



 不気味なほど静かな湖のほとりで座り込んでいたディアは、そっとため息をついた。

 元より暗い空は、夜が迫るにつれ漆黒に近づいていく。それでも、ディアはその場を動こうとしなかった。


「どうした、帰らないのか?」


 声をかけたブオを見上げ、ディアは口元に笑みを浮かべた。


「昔はいつも兎の姿だったのに、最近はずっとその姿だね」


 赤い瞳に見つめられ、ブオは小首をかしげた。


 目覚しかったディアの成長は、戦うことを覚えるようになってから緩やかになっていた。

 それは、戦うことによって死神としての血が作用したせいなのかもしれない。


「帰らないと、シャラが心配するぞ」

「……お母さんは、大丈夫なのかな」


 不安げに呟かれたディアの言葉に、ブオは苦笑した。


「大丈夫に決まってるだろ」


 そう言って、ブオはディアの頭を乱暴になでた。


「痛いよ」

「ほら、くだらないことほざいてないで、さっさと帰るぞ」

「……わかったよ」


 立ち上がったディアの頭は、ブオの胸元にも届かない。この小さな身で母親を案じているディアのことが、ブオは不憫でならなかった。


 並んで帰路についた二人だったが、最初に異変に気づいたのはディアだった。


「あれ? なんだろう……」

「何が……」


 ディアの呟きに問い返そうとしたブオは、目に入った黒い馬に言葉を失う。家の前に、ドルゴンが使っている馬がいたのだ。


「くそっ!」

「ブオ!?」


 突然走り出したブオを、ディアが驚いて追いかけた。家に飛び込んだ二人の目に映ったのは、黒い髪と赤い目を持つ男だった。

 その姿を見たディアが、息を呑んだ。湖面に映った自分と、そっくりな姿をしている知らない男だ。


「……お前」


 唸りながら睨みつけるブオを、ドルゴンは冷ややかな目で見つめる。そしてその瞳に、ディアが映った。


「……それが、あの女の子供か」

「お前の子供でもあることを、忘れるな」


 低い声で交わされる会話に、ディアが戸惑う。細められる赤い瞳に怯えたディアが、ブオの服の裾を掴んだ。


「ブオ……?」

「心配するな」


 痛いほどの沈黙がその場を包み込む。

 無表情でディアを見つめるドルゴンと、その視線から逃れるようにドルゴンを横目で伺いながらもブオを見るディア。そして、ドルゴンを睨みつけるブオ。

 三種の視線が交わることなく、不気味な沈黙だけが三人を見守っていた。


「……迎えに来たのね」

「シャラ!」

「お母さん!」


 そんな沈黙を破って、奥の部屋から声がかかった。出てきたシャラに、ブオとディアが弾かれるようにそちらを見た。

 ドルゴンだけが、ゆっくりとそちらに視線を向ける。


「ふん、まだ消えていなかったか」


 口元に笑みが浮かぶドルゴンを、シャラは睨みつける。


「迎えに来たのでしょう、ディアを」

「お母さん!?」


 息を呑んで言葉を失ったブオとは対照的に、ディアは驚いて声を上げた。そんなディアに、シャラは笑いかける。

 ドルゴンは不機嫌そうに顔を歪める。


「……ふん、小賢しい。まあ、そこまでわかっているのなら話は早い。おい、そこの悪魔。その子供を連れて私と来い」

「な……っ?」

「え……?」


 ディアがドルゴンを見た。しかし、同じ色をした二つの瞳は、決して交わることがない。そしてブオは動揺を隠せない。


「ま、待てよ。ディアをって……シャラは……」

「二度も言わせるな。その小僧を連れて、一緒に来るのだ!」


 地を割るようなドルゴンの怒号に、ディアがブオにしがみついた。ブオが揺らぐ瞳でシャラを見る。


「ディアを、お願い」

「シャラ……」


 その間にも、ドルゴンは部屋を出て行ってしまう。


「行って。あの人と一緒に」

「しかし、シャラは……!」

「良いから行って!」


 ブオを現実の世界に引き戻すのは、いつも翡翠の瞳だった。その瞳が揺らぐことなくブオを見つめていた。


「……くそっ」


 身が引き裂かれるような思いというのは、このことを言うのだとブオは実感した。

 その痛みに耐えながら、ディアの手を引いてブオは扉をくぐろうとする。しかし、その小さな手がブオを引っ張った。


「嫌だ、私は行かない!」

「一緒に来るんだ、ディア」


 いくら戦うことを覚えたとはいえ、ディアがブオの力に抵抗することはできなかった。


「お母さん!」

「ディア!」


 シャラの悲痛に満ちた声に、ブオが足を止めた。しかし、振り返ることはできなかった。


「親愛なるディアルノ、強く生きるのよ……っ!」

「お母さんっ!」


 血が出るほど唇を噛み締め、ブオは再び足を動かした。そうやって、必死に抵抗するディアを連れて、ブオはドルゴンと共に王城へと向かったのだった。




 黒い死神の口から長い昔話を聞かされたユアは、硬直していた。

 今までの荒ぶった感情も、冷え切った心も嘘のようで、紡ぐ言葉さえ思い浮かばなかった。


「それが、私が母を見た最後の記憶だ」


 吐き出すように紡がれたディアの言葉に、そのことを予感していたユアの瞳から涙が零れ落ちる。


「王城で暮らすようになった私だったが、やはり母が心配で一度王城を抜け出したんだ。しかし、あの家に行ってみると……そこはもぬけの殻だった」


 今にも泣き出しそうな声で続けるディアに、ユアは震える手を伸ばしていた。そして、そっとディアを抱きしめた。


「あの日から、私は復讐を誓ったんだ。母を魔界に閉じ込めた男を、全ての根源となった月を使って、苦しめようと。それだけを考えて生きてきた」


 大人しく抱かれているディアの出す切なすぎる声に、ユアの涙が止まらなくなる。


「あの男の血が流れている己を恨んだ。死神である己を憎んだ……っ! 死神の証であるあの忌まわしい鎌も、母のためなら振るえたんだ……」

「ディア……っ」

「すまなかった……私の復讐に、君を巻き込んでしまった……。辛い思いをさせてしまった……っ」


 ディアが、ユアを抱き返す。いつもは冷たいディアの身体が、燃えるように熱かった。


「最初は、復讐のための道具だったんだ……っ! 使い捨ての駒に過ぎなかった! だが、私は君を……っ」


 その荒れ狂う炎のように激しい言葉に、ユアの凍り付いていた心が動き出していた。


「君のためなら、あの忌まわしい鎌を振るうことを厭わない……っ!」

「ディア……っ!」


 痛いほどに抱きしめられながらも、ユアの中の不安がすぐには消えてくれなかった。燃えるような愛に包まれながらも、心に刺さった棘が消えてはくれなかった。


 そのとき、ユアを締め付ける力が弱まった。


「ユア……」


 ディアの赤い瞳がユアを見る。紫水晶の瞳は、ひどく動揺していた。


「私は……」


 何かを言いかけたユアの言葉が、不自然に途切れる。それは、己の感情を表すのにふさわしい言葉を探しているようにも見えた。


 ディアはユアの頬に触れた。そこに伝っていた涙を、ぬぐう。


「慌てなくていい。ただ、私の気持ちを、知っていて欲しかった……。君が、愛おしくてたまらないんだ」

「……でも、どうして……?」


 ユアのか細い声が、ディアの耳に届く。


「どうして、私を愛しているだなんて……」

「理由が要るのか?」

「え?」


 先ほどまで過去に囚われ、揺らいでいたディアの瞳が、今は真っ直ぐにユアを見つめていた。


「私が君を愛している、そのことに理由が要るのか?」

「……だって、私は貴方の道具だったのよ……? 道具だった私を、愛するだなんて……」


 俯いてしまったユアの顔を、ディアが上げさせた。そして、その揺るぎない瞳で見つめる。


「君が私を愛することに理由が必要だとしたら、それは私が君と出逢ったからだ」

「……え?」

「君と出逢ったから、私は君という存在に惹かれた。ただ、それだけだ」


 その言葉に、ユアの心に刺さっていた棘が燃え上がった。


「でも、それは……私が月を持っていたから……」

「君が月を持っていたから私達は出逢った。だがそれは、きっかけにすぎない」


 ユアが戸惑いの表情を浮かべる。


「ディアの言ってること、よくわからない」

「当たり前だ、私も何を言ってるのかわからないんだから」


 ディアの困ったような言葉に、ユアが目を丸くした。

 ユアの心に刺さっていた棘が燃え尽き、その塵がユアの心に積もる。


「何、それ」

「理由なんて考えつかない。私は君を愛しているんだから」


 ユアは呆れたように噴き出した。


「もしも、私じゃなくて他の人が月を持っていたら、ディアはその人を愛していたということね」

「他の誰が月を持っていたとしても、君じゃなかったら私は愛さなかった」


 黒い死神の真剣な瞳が、ユアを貫いた。

 ディアの言葉が一陣の風となり、ユアの心の中に積もっていた塵を吹き飛ばした。


「大切で、仕方ないんだ。君の歌が、君の笑顔が、君の心が、私の復讐に染まった感情を変えてくれたんだから」


 そして、ユアの瞳から新たな涙が零れ落ちる。


「……これは、泣くところなのか?」

「だって……っ」


 ユアはそのままディアの胸に飛び込んだ。ディアはその華奢な身体を抱きとめる。

 そしてユアは、自分でずっと否定し続けていた感情をそのまま口にした。


「ディア、好き……」


 消え入るようなその言葉は、確かに死神の耳に届いた。


「ユア……?」

「ディアが、好き……っ」


 泣きながら紡がれるユアの言葉に、今度はディアが戸惑う。


「諦めるだけだった私の世界を、ディアが変えてくれた。貴方と言葉を交わすうち、貴方がかけがえのない存在になっていた……っ」


 これまで押さえつけていた感情が、噴き出すようにユアの唇から紡がれる。そしてその言霊が、真っ直ぐにディアの心に伝わってきた。


「怖かったの。貴方にとって私が道具でしかないことが……っ! 私達の関係に名前をつけるのが、怖かった……」

「ユア……」

「ただの道具だなんて……思いたくなかったの……」


 ディアがユアを抱きしめる。


「道具なんかじゃない、私の愛しいユアリアーナ

「ディア……っ」


 涙に濡れたユアの顔を、ディアが上げさせる。


「今、私が生きているのは貴方のおかげ……」

「そう、だな」

「ディアに命をもらって、今まで死しか見てなかったの……でも、他の感情が持てた。そうしたら、私欲張りになったの」


 ユアがディアの纏っている襤褸布を握り締める。


「それは、生きる者としての定めだ」

「そうだとしたら、生きることって、面倒なのね」


 ディアはユアの髪をそっとなでた。


「……そうかもしれないな」

「それでも……」


 紫水晶の瞳に、黒い死神が映っていた。


「それでも、私はディアと一緒に生きたいの……」


 ディアの、ユアを抱きしめる力が強まった。


「いつの間にか、貴方の瞳に映っていたいと思っていたの……」

「君の大切な人を死なせてしまったのは、私の責任だ……」


 アイナの死を思い出し、ユアが目を伏せた。その胸が激しく痛む。


「その償いができるとは、思わない。それでも……」


 ディアの顔が近づいてくることに、ユアは不思議なほど嫌悪感を覚えなかった。激しい痛みを包み込むようなディアの愛を、ユアは確かに感じていた。


「私を、君のそばにいさせて欲しい」


 そうしてユアの初めての口づけは、自分を死の暗闇から、凍えるような不安の波から、彼女を救い出した黒い死神と交わされた。


 静かな夜が、二人を包み込む。

 薄霧の向こうで、半月が重なった二人の影を見守っていた。


 穏やかな時の後、二人は離れた。


「……一緒に、お墓参りに行きたい。アイナの好きだった花を持って……」

「私に、その資格があるのなら」




 その夜に紛れて、一つの影が屋敷を窺っていた。

 樹の上に立ち、薄霧にさえぎられる事なく、その蒼い瞳は黒い死神に抱かれた紫の少女を見つめている。


「……〝月〟に囚われた姫君を救い出すのは、赤い瞳を持つ黒い死神というわけか」


 その影が、指を鳴らす。そうすると、小さな光の月が影の前に現れた。


「私と契約をしないか――、その契約は悪魔との契りか、はたまた天使の微笑みか」


 影の口元が、寂しげに歪められた。


「戦いは、すでに始まっている。あの時から――……」


 影は黒い死神と紫の少女の影が寄り添うのを見届けると、その場から消えた。

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