第三夜 蠢く過去


 気づけばユアは、見たことのない場所に立っていた。それが夢であることは、特有の不明瞭な意識ですぐにわかる。

 はっきりしない脳が、ああ、これは夢なんだと認識した。


 そこは異様な場所だった。薄暗い空は見たこともないような色をしていて、踏みしめている大地は赤い色をしている。

 なんとなしに横手を見ると、突然視界が変わった。荒野のような場所に立っていたはずなのに、いつの間にか黒い幹と、渕のある深緑の葉を持つ木々が生い茂る森の中にいた。


 この世のものとは思えぬ奇妙な世界に、ユアは興味深げに辺りを見回した。すると、どこからともなく歌が聞こえてきた。


 この不気味で奇妙な世界には不釣合いの美しい歌声に、ユアははっとする。まるで世界に光が差したかのような感覚だった。

 どこまでも高音の自分の声とは違う、豊かで低めの女声。温かみのある、深くて安心する声だ。

 そしてユアはその旋律を知っていた。憧憬シャヴァナだ。


 その歌声の主を一目見ようと一歩足を踏み出したとき――世界が唐突に終わった。




 目を開いた瞬間、目の前に白皙の端整な顔が視界いっぱいに広がり、ユアは悲鳴をあげそうになるのを必死に堪えた。

 口を押さえ、思いきり吸い込んでしまった空気をそっと吐く。


 ユアのすぐ隣で、寝台に上半身を預けるようにしてディアが眠っていた。ユアはまじまじとその目の閉じられた顔を見つめた。

 整った顔が、苦しげに歪められている。ユアはしばらく無言でディアの顔を見つめた後、そっとその頬に手を伸ばした。

 ユアの白く華奢な手が頬に触れたとき、ディアの眉間によっていた皺が消える。その瞬間ユアの手が勢い良く掴まれ、ユアはびくりと身を震わせた。

 ディアの赤い目が、ユアを見つめていた。驚くほど冷たいその手が、そっと離れた。


「……すまない」

「いいえ、でも、驚いた」


 ディアが立ち上がり、ユアはそっと上半身を起こした。赤い瞳がひたとユアを見つめる。


「……どうしたの?」


 いつもと違うディアの雰囲気に、ユアは戸惑う。


「いや……」

「……ブオはたまに寝ているけど、ディアが寝ているのは初めて見た」


 ユアの言葉にディアは苦笑した。


「私だって眠ることくらいある。ただ、こちらの時間に慣れていなかったから」

「もしかして、たまに私のそばを離れていたときって、どこかで眠っていたり?」

「そんなときもあった。だが、今は随分慣れてきた」


 ユアはしばらくディアを見つめて、遠慮がちに訊ねた。


「時間の流れ方が違う場所で過ごすのは、大変じゃないの?」


 それは些細な疑問だった。それがディアに何を思い出させたのかはわからない。しかし目に見えてわかるほど、ディアの顔から表情が消えた。


「ディア……?」

「そんなに大変じゃないぞ。俺達にとってはな」


 いつの間にかブオが寝台の端に座っていた。


「ああ、大変ではない」


 ブオの言葉に続けるようにして、ディアが吐き出すように言った。


「そう、なの?」


 ディアの心にあるものがわからず、ユアは控えめに彼を伺った。するとディアは口元に笑みを浮かべた。


「ああ、私は大丈夫だ。そんなことよりも、ユア、また何か歌ってはくれないか?」

「歌?」

「ああ」


 ユアは寝台の中から小首を傾げる。すると、ブオが興味を持ったように身を乗り出した。


「ユアは歌えるのか?」


 ユアは立ち上がりながらうなずいた。


「歌うのは好きよ。中庭で待っていてくれる? 着替えてから行くわ」

「わかった」


 微笑んだディアの肩にブオが乗った瞬間、二人の姿がその場から消えた。




 柔らかい陽光が差し込む中庭にある白い長椅子。そこに座ったディアがそっとため息をついた。それをブオが見咎める。


「どうした、ユアの前であんな顔するなんて」

「……思い出しただけだ」


 いつもと雰囲気の違うディアにユアが戸惑っていた時、今にも泣きだしそうな顔を、ディアはしていた。

 不機嫌そうに吐き出すディアを横目で見ながら、ブオが鼻で笑った。


「それで歌をねだったわけか」


 からかうようなブオの言葉に、ディアは心外だとでもいうように眉をひそめた。


「お前はまだユアの歌を聴いていないからそんな口がきけるんだ」


 そのときユアが中庭に姿を現した。空色の洋装に、紫の髪がよく映えている。


「お待たせ」


 軽く会釈をしたユアが、当たり前のようにディアの隣に腰を下ろした。その膝の上にブオが飛び乗る。

 いつも一人でいたユアが、こうして誰かと共に過ごすというのは不思議な感じがした。たまにトマスと一緒にいることはあったが、ここまで穏やかな気持ちにはなれなかった。

 こうして、自分の歌を誰かに聴かせる日が来るのだと、想像だにしていなかったのだ。


「ディアが手放しで絶賛するとは、お手並み拝見とするか」


 ユアの顔を見上げながら言ったブオに、ユアは微笑を投げかけた。


「ブオのお眼鏡にかなうかはわからないけれど」


 ユアがすっと息を吸う。

 目を閉じた彼女の口から旋律が紡がれた。


 朝一番であるためか抑えられた声量が、どんどん豊かになっていく。


 白き花弁が、月影に照らされている。

 空は黒く染まり、星達が囁きあう――。

 湖面に映ったその姿が、水鳥の作り出す波紋で揺れた。

 湖の渕に咲く香るように美しいその白い花が、降り積もる雪に埋もれていく――。


「……っ」


 雪の結晶のように煌くユアの声が中庭に響いたとき、もう一つの声が重なった。驚いたディアがそちらを見る。

 そこにいたのは、中庭の樹にとまり、ユアと競うように声をあげる鳥だった。蒼い尾羽を垂らし、白い飾り羽を揺らしながら黄色い嘴を開き、歌う鳥――。


「この声……美啼鳥ファティーツル……!?」


 それは、この世で最も美しく歌うといわれる鳥の姿だった。


「なん、だと……?」


 ユアの歌声に聞き惚れていたブオまでも、驚愕の声をあげる。二人が驚きに硬直している一方、ユアは負けじと声を張り上げた。

 目元に笑みを浮かべながら、本当に嬉しそうに歌うユア。彼女の歌声と張り合うかのように、鳥が嘴を震わせる。


 一人と一羽の声が共鳴し、旋律が悪魔と死神の心を震わせる。

 澄み渡る青い空に、この世の全てを魅了するその歌声が吸い込まれていくようだった。


 曲を締めくくる最後の共鳴の後、美啼鳥ファティーツルは飛び立っていった。


「あの子、また来たのね」


 歌の余韻を残しながら、笑顔でユアが言った。ディアがその言葉に驚く。


美啼鳥ファティーツルは、幻の鳥と呼ばれるほど姿を見るのが難しい鳥だぞ」

「そうなの?」


 ユアが紫水晶の瞳を丸くさせた。


「私が歌ってると良く来るわよ」

「……ユアに求愛でもしてるんじゃないか?」


 呆れたようにブオが呟いた後、彼はユアを見た。妙に真摯な瞳で見つめられ、ユアはたじろぐ。


「ブオ?」

「素晴らしい歌を、ありがとう」


 いつも憎まれ口ばかりたたいているブオにそんな言葉をかけられ、ユアは照れる。


「ありがとう」


 紫水晶の瞳を細めて謝辞を述べたユアがブオを見た。しばらくユアを見つめていたブオが立ち上がった。


「……でかけてくる」

「え?」


 そのままブオは飛び立っていった。その突然の行動に、ユアは困惑してディアを見た。


「ブオ、気分を悪くしたのかしら……?」


 不安げに訊ねるユアの右手を、ディアが握った。


「え、え?」


 気づいたときには、ユアはディアに抱きすくめられていた。


「ディ、ディア?」


 戸惑い気味のユアに応えることなく、黒き死神はその腕に力を込めた。ユアは困惑しながらも、抵抗しなかった。

 しばらくすると、ディアがそっと離れた。しかしその赤い瞳がユアを見つめている。


「……私は……」


 ディアが何かを言いかけ、口をつぐんだ。ユアが首をかしげる。ディアの手が、そっとユアの頬に触れた。そしてその手が下がり、月に触れる。


「どうしたの?」

「……君を守るために、私には何ができるかな」

「ディア?」


 様子のおかしいディアに、ユアはただただ困惑する。

 赤い瞳が紫水晶を捉え――、そっとその顔が近づいてきた。そのあとに続く行動の意味がわかるのに、ユアは動けない。

 紫水晶の瞳を見開いて息を呑んで硬直していたユアに、死神の唇が触れようとしたその瞬間、その黒い姿が一陣の風を残して消え去った。


「……っ」

「ユア様?」


 声をかけられ、ユアの心臓が激しく暴れだした。

 中庭にアイナが入ってきた。そして困ったようにため息をついた後、わざとしかつめらしい顔をする。


「お部屋にいらっしゃらないから、随分探しましたよ。いつもここに来るときは私に一言断っていらっしゃるのに」

「ごめんなさい」


 ユアが慌てて立ち上がった。平静を装っているものの、動悸が未だに収まらない。顔が赤くなっていないか、アイナに気取られないかが心配だった。


「朝食の準備ができましたよ」

「わざわざありがとう」


 アイナの後に続いて食堂に向かう途中、ユアは混乱する頭を必死に落ち着けようとしていた。




 中庭から屋敷に戻っていく紫の頭を、ディアは尖塔の先から見つめていた。その隣には、ブオもいる。


「……お前の言うとおりだ」


 ディアはちらりと横目でブオを見た。


「こんな……心を揺さぶられるとは思わなかった」

「……思い出したのか、彼女のこと」


 ディアの静かな声に、ブオは何も言わなかった。ただ俯いて、その胸を押さえていたかと思うと、そっと口を開いた。


「……忘れたことなんてねぇよ、あの人のこと」


 そっと吐き出すように呟かれるブオの声を、風がさらっていく。どこか遠くで、木々のざわめきに紛れて、何かが鳴いている声が聞こえた。


「お前といるのだって、あの人のためだ」

「……ああ、そうだったな」


 ブオが顔を上げる。どこまでも真摯な瞳でブオが口を開いた。


「俺は、あの人のためなら命を擲つことができる」


 ディアの赤い瞳が、ブオを見た。長い髪が、風に揺れる。

 おもむろにディアが右手を振った。そこにどこからともなく現れるのは、身の丈ほどもある大鎌――。

 ディアはその鎌をなで、握る手に力を込めた。


「忌まわしい」


 白皙の顔が、歪められる。その顔に浮かんでいるのは、悲しみにも似た憎悪の感情だった。

 襤褸布の向こうで確かに蠢く死神の魂。命を奪うことで生きながらえる己の身――。


「己が、忌まわしい」


 ――望まれず、生まれてきたこの身を愛してくれた、あの笑顔。

 今では記憶の中にしかいない、美しい歌声を持つ人――。

 黒く、赤い忌憶の中で、確かに輝いている彼女のためなら、世界を敵に回すこともできたから。


「お前は、自分の手で選んだだろ、復讐の道を」

「ああ」


 ディアは、その愛のためにその忌まわしい鎌も振るう覚悟をした。

 ブオが鼻を鳴らす。


「ユアに心を持っていかれたか? 今さら罪悪感か?」

「……っ! 〝月〟のためだ! あの娘に死なれたら困る」


 そのとき、二人にしか聞こえないほどのかすかな空間の歪みの音が鳴った。

 二人同時に顔を上げる。


「来る!」

「急げ!」


 鎌を構えなおしたディアは、尖塔から飛び降りた。




 食事を終えたユアは、自室に戻った。ここ最近、ブオかディアと一緒にいたので、一人でいることを寂しいと感じる。

 今までは、いつも一人だったのに。


 ユアはそっと自分の唇に触れた。

 先ほど黒い死神が触れようとした、それに――。


 その唇からため息が洩れる。

 自分を生かしたディア。いつの間にか、自分の一番近いところにいたディア。その彼と自分の関係はなんだろうか。

 命の契約を交わした関係だということはわかっている。友達と呼ぶには奇妙だし、知人と呼ぶには近しい。

 一緒にいると、落ち着くのも確かだ。


 そんなふうにぼんやりと考え事をしていたユアは、室内に黒い影が現れるまで失念していた。自分が、命を狙われる存在であるということを。


「ディア?」


 入ってきた黒い影に反射的にユアは声をかけ、それが見慣れた死神でないことに気づく。

 黒い装束に、大きな鎌を持った死神が、そこにいた。


「見つけた」

「っ」


 にやりとその死神が微笑んだ瞬間、部屋に新たに二つの影が現れた。三人の死神に取り囲まれ、ユアは息を呑んだ。

 鎌が振り上げられ――振り下ろされる直前に、間一髪それを避ける。


「殺せ!」

「〝月〟を王に!」


 次々と振り下ろされる鎌が、ユアの服を切り裂く。

 死に物狂いで逃げようとするユアが、床に倒れこんだ。その目の前には、鎌を振り上げる死神の姿――。


「向こうで会おう、姫様」


 ユアがわけのわからぬまま、死を覚悟したその瞬間、小さい影が目の前を横切った。

 鼓膜を揺さぶるような衝撃とともに、堅いものがぶつかり合う、甲高い音が弾けた。


「くっ、大丈夫か?」

「ぶ、ブオ……」


 間一髪ブオが透明の障壁のようなものを張り、大鎌はそれにぶつかったようだった。ユアはへたりとその場に崩れ落ちる。


「俺の後ろに隠れてろ」

「その娘を渡せ!」


 鎌が障壁にぶつかる音が連続で響く。この障壁がいつまでもつかわからないせいで、ユアは気が気ではない。

 それに、このままでは防戦一方だ。


 耳障りなその音が断続的に続く。ユアは恐怖から耳を塞いだ。手が、身体が、恐怖に震えているのがわかった。


「ディアはまだか……ッ」


 ブオが怨嗟のこもった声で呟いたとき、ディアが部屋に現れた。


「遅い! この馬鹿!」

「すまない」


 ディアはそのまま一番近くにいた死神に襲い掛かった。それを見たユアがはっと息を呑んだ。

 いつかも感じた、死の香り。それがまた、ユアを包み込む。


 もともと黒いディアの身が、よりいっそう黒く染まったようにさえ感じた。いつも共にいる穏やかな青年ではない。冷酷をその身に纏った黒い死神が、そこにいる。


「ディア様! 正気になってください!」


 ディアに襲い掛かられた死神が、ディアの鎌を受けながら叫ぶ。短い髪の、まだ若い男だ。


「正気?」

「こ、このままでは王が……っ」


 鈍い音が響き、若い死神は床に崩れ落ちた。それを見下して、ディアがにやりと微笑む。その笑みを見て、他の二人も後ずさった。


「あの男を出し抜くためなら、私はお前達をこの手にかけることも厭わない。この〝月〟は私のものだ!」


 ものだと言われた瞬間、ユアの胸の奥で何かが悲鳴を上げた。そして、一抹の迷いすら見せず、倒れていた死神にディアは大鎌を振り落とした。


「っ!」


 胸を刃で貫かれ、若い死神はびくりと痙攣した。ユアが手で口を押さえて、声にならない悲鳴を上げる。

 数秒後、腐った西瓜が潰れたような不気味な音を立てて、若い死神の身体が黒い霧となって霧散した。それと同時に、硝子が弾けるような音を立ててその死神の大鎌が消えた。


「ヤオっ!」

「貴様!」


 ユアは、その若い死神がヤオという名前だったということを、その死の後に知った。


 殺気立ってディアに襲い掛かる二人の死神。


「ディア……ッ」

「そこにいろ!」


 身を乗り出すユアを、ブオが止める。そのときディアは振り下ろされた鎌を足蹴にして跳躍していた。

 二人もそれに続いて跳躍する。ディアが鎌を振るうが弾かれた。


「この出来損ないがっ」


 肩までの髪の死神がそう言って蹴りを入れる。まともに食らったディアが床に叩きつけられた。

 短髪の死神がディアに鎌を振り下ろす。しかし、反動で半身を起こしたディアはそれを避けた。

 その鎌が、床に食い込んだ。


「ひっ」

「ジャンっ」


 躊躇うことなく、ディアはその死神の首を刎ねた。また、あの鈍い音と澄んだ高い音がユアの耳に届いた。

 ユアの手が、力なく落ちる。その瞳から、涙が零れた。

 ディアと一人残った死神が争う合う様を眺めながら、ユアは魂を抜かれたかのように呆然としていた。


 ユアの意識が黒い霧に包まれたかのように霞んでいく。それは心に鉛が落とされたかのような感覚だった。

 目の前で命が失われていく様子も、酷く曖昧で、現実感を伴ってくれない。


 それなのに、自分を包み込む死の香りは、それが現実だと囁いては纏わりつく。


 今、自分が見ている光景は一体何なのだろうか。

 死神同士で争いあい、命を奪いあう。他でもない、自分をめぐって。


「……ユア?」


 ブオが動かないユアに話しかけるが、ユアは反応しなかった。呆然と、ディアの鎌によって最後の死神が霧散する様を、眺めていた。


 突如訪れた静寂と共に、ブオが障壁を解く。そして疲れ果てたかのように倒れこむディアの元に近寄った。


「おい、大丈夫か?」

「……ああ、あちこち打っただけだ」


 身体をかばいながら立ち上がったディアの手元から鎌が消えた。先ほどまでの冷酷さが嘘のように穏やかな空気を纏ったディアが、ユアに話しかける。


「ユア、大丈夫……」

「……かった」

「何?」


 ユアが、ぽつりと呟いた。


「……死んでいればよかった」


 ユアの言葉に、ディアとブオが息を呑む。


「ユア?」

「こんな思いをするくらいなら、あの時死んでいればよかった!」

「ユア!」


 ユアはそう叫ぶと、部屋から飛び出していった。




 中庭でユアは蹲っていた。


 あれほどの恐怖を味わったことは、今までない。

 人の形をしたものが、霧となって霧散する姿が、目に焼きついて離れてくれなかった。


「……こんなもの……っ」


 自分の胸に在る月の形をした石、全てはこれのせいだという。ユアはそれを殴りつけた。しかし、その衝撃は自分の身体に伝わるだけだった。


「……もう、やだ……っ」

「それなら死んでしまえばいいじゃない」


 突如かかった声に、ユアは顔を上げた。


「っ!」


 そこに立っていたのは、細身の鎌を携えた、女の死神だった。


「あ……」


 肩まである濃い灰色の髪が無造作に跳ねた、桃色の瞳を持つ女は、ユアを睨みつけていた。

 その女が、鎌をユアの首元に突きつける。明確な殺意を込めて。


「可哀想な人間」

「……え?」

「貴女は結局、ディアの道具でしかない」


 にやりと笑って、女は鎌を動かした。冷たい刃の感触が、伝わってくる。


 道具、という言葉が、嫌にゆっくりとユアの耳に届く。それが一欠けらの氷となり、波紋となって心を乱し、凍りついた。

 それは、今までの疑問がすんなりと解けたような感覚だった。そして、先ほど感じた痛みの正体が、わかった。


 ユアとディアの関係、それがこの女の死神のおかげではっきりとした。

 所詮は、死神とその道具だったのだ。


 自分は、〝月〟でしかなかった。


「……殺しなさいよ」


 紫水晶の瞳が、見上げた。その顔に張り付いていたのは、氷のような無表情だった。


「今すぐ殺せばいいじゃない。どうせ、私はあの時死んでいたはずよ」

「貴女……」

「シンシア、鎌を下ろせ」


 そこにブオの声が割って入った。


「あら、ブオ。久しぶりね」

「久しぶりね、じゃねえよ」


 ブオが話しかけた途端、あっさりユアに押し当てられていた鎌が消え去った。


「お前も来てたのか」

「来てちゃ悪い?」


 先ほどの殺意が嘘のようにシンシアと呼ばれた死神は、ユアを横目で見る。


「貴方達も大概馬鹿よね、王様を敵に回すだなんて。魔界を敵に回すようなものじゃない」

「お前はわかってるだろうが、ディアのこと」


 親しげに会話を交わす二人を、ユアが訝しげに見る。


「知り合い、なの?」


 恐る恐る口を挟んだユアに、シンシアは鋭い眼光を向けた。


「道具は黙ってなさいよ」

「おい」


 ユアが黙って立ち上がった。ブオが焦ったようにユアのあとを追う。


「おい、ユア」

「放っておいて」


 ディアが中庭に入ってきて、ユアと鉢合わせる。


「ユア……」

「ディア!」


 後ろでシンシアが歓声を上げた。ユアはディアを一瞥することもなく、自室に戻っていった。

 その場に取り残されたディアは、眉間に皺を寄せる。


「ディア、久しぶりっ」


 そんなディアにシンシアが声をかけた。その姿を見て、ディアは顔をしかめる。


「お前もユアを殺すために来たのか」

「そうよ」


 シンシアは呆れたようにディアを見た。


「ねえ、ディア。私は貴方の気持ちも、考えていることもわかっているつもり。だけど、あの娘を生かして、何になるというの? 貴方が〝月〟を持っていたって、何にもならないでしょう?」

「あの男を出し抜くことができる」


 シンシアが大げさに肩をすくめた。


「自分の父親をあの男呼ばわりはよしなさいよ」


 その言葉に、赤い瞳が鋭さを増した。


「あいつを父親などと思ったことは一度もない」


 そう吐き棄て、ディアは長椅子に座った。こんなにも荒くれだった気持ちで、この場所に座る日が来るとは思っていなかった。


「知っているだろう」


 険を纏う赤い瞳に睨みつけられ、シンシアはたじろいだ。ブオがため息をついてディアの隣に座る。


「こいつ、ユアを道具呼ばわりしてたぞ」

「本当のことじゃない」


 それを聞いたディアの顔が、硬直した。もともと白い顔から、色が抜ける。見たこともないようなディアの動揺に、シンシアは息を呑む。


「それを、ユアに言ったのか」

「何よ」


 ディアが己の胸を押さえた。そしてその顔が、悲しげに歪められた。


「先ほどから彼女の心の気が乱れている。私の心気を乱すほどに」


 唇を噛んで、呻いた。



 ディアの心を乱すもう一つの心の波長。それは確かに己が契約をした人間の心の気だった。

 契約を交わしてから、ずっとそこに在るもの。最も近くで感じることのできる、心。


 当初、死の狭間から生還した彼女の心は、揺れに揺れていた。戸惑い、諦め、そして、かすかな希望。

 複雑に入り混じった感情を、表にすることのないユア。そんな彼女の心を、落ち着かせたいと思ったのは、己の心を乱さないためだけだったろうか。


 歌っているときのユアは、全てを忘れて本当に嬉しそうだった。その声を聴きながら、自分の心まで洗われるようだった。

 復讐に染まった、この真っ黒な心まで――。


 洗い流された感情の向こうに決まって現れるのは、憧憬。

 愛してやまない人の、この世にはいない人の、顔だった。


 憧憬シャヴァナという歌を、いつも自分に聴かせてくれた美しい人。赤と黒の世界の中で、穢れることなくそこに居続ける清らかな人。

 その胸に在った月の痣を、ディアは今でも覚えている。魔界にある不気味な月よりも、その月の方が美しかったから。


 だからユアの月に触れるたび、その身が焼け焦がれそうな思いがした。歌が好きだったあの人を、思い出さずにはいられなかったから。


 ディアの心に留まっているのは、あの人だけのはずだった。それなのに今、一番近いところにユアがいる。


 あのとき、口づけを交わしたいと思ったのは、なぜだったろうか。



「……彼女の心を乱すのは、シンシア、いくらお前でも許さない」


 ディアの言葉に、シンシアが息を呑んだ。異様に輝く赤い瞳が、シンシアの動きを封じる。


「お前のせいで彼女を失ったら、彼女が私の手を離れようものなら――私はお前を呪う」

「ディア、お前……」


 視線だけで人の動きを封じるだけの力を、ディアは持っている。それはシンシアが知る限り、王だけが持つ気魄だった。


「……ディア、貴方……また人間に心を奪われているの?」


 赤い瞳が視線だけでシンシアの言葉の先を奪う。


「戯言をほざくな」


 ディアが立ち上がった。


「ブオ、ユアのそばに行ってやってくれ。私が行ったのではまた彼女の心を乱すだけだから」

「……わかった」


 ブオがその場を去っていく。ディアの視線から逃れたシンシアも自由を取り戻していた。


「ふざけてるのは、貴方のほうでしょ!」


 その場を去ろうとするディアの背中に、シンシアが叫んでいた。


「私はいつも貴方の近くにいたのに!」

「……肉体の距離などに、意味があるか?」

「っ……!」


 ディアが振り返る。その顔には憐れみの笑みが浮かんでいた。


「私が愚かなことくらいわかっている。それでも、私は彼女への愛を止められない。私は、復讐のためだけに生きている」


 そう言い残すと、ディアはその場から消えた。

 シンシアは不穏な色を浮かべる空を見上げ、ディアのあとを追うようにその場から消えた。




 寝台が不自然に膨らんでいるのは、そこにユアが潜り込んでいるせいだろう。ブオはため息をついて寝台に腰掛けた。


「おい」


 ユアは、返事をしなかった。ブオはそっとため息をついた。ふと外を見れば、雨が降り始めたところだった。

 初めは弱かった勢いだったが、次第に雨足は強くなり、数分後には大粒の雫が地面を叩きつけるように降り出した。


 窓に打ち付ける雨を見つめ、ブオは遠い記憶を思い出していた。

 あの日も、激しい雨の日だった。


「ユア、昔話をしようか」


 びくりと、ユアの身体が震えた。


「そんなとこで不貞腐れてないで、出てこいよ」


 しばらく動かなかったユアだが、もぞもぞと這い出してきた。その表情が、硬く強張っている。


「道具だって言われたこと、そんなに辛いか?」

「……わかってたことよ。でも……」


 ふとユアの顔が陰る。


「一緒にいて、楽しいと思えるようになっていたから、哀しかった……こんな、こんな思いをするくらいなら……」

「あの時死んでればよかったって?」


 黙りこんだユアに、ブオはため息をついた。


「昔話を聞かせてやる」


 ユアは不思議そうにブオを見た。


「あれは、こんな雨の日だった」


 妙に真剣な声で語りだしたブオに、ユアは耳を傾けた。




 とんだへまをしたものだ。赤い豪雨の中を飛びながら、ブオは確かに己の血が赤い雫に混ざるのを感じた。

 右腕も脚も使い物にならず、傷だらけの翼で雨に打たれている。


「く、そ……っ」


 まさかねぐらにしていた崖が落雷で崩れるとは、よもや自分がそれに巻き込まれるとは思っていなかったのだ。

 しかし実際、瓦礫の下敷きとなったブオは瀕死の傷を負った。そして落雷が引き金となり、土砂崩れまで起きたので命からがら逃げ出してきたのだ。


「……くっ」


 赤い景色の中で、どんどん意識がかすんでいく。眼下は赤き濁流で、堕ちればひとたまりもないだろう。

 ひたすら飛んではいたものの、ブオには行き場がなかった。とにかく濁流の向こうへ、羽を休められる場所へと、動かぬ体に鞭を打っていた。


 しかし、それもやがて限界が来た。力の入らぬ身体に死を覚悟したところで、黒い森が見えてきた。

 眼下に黒い森が見えたところで、ブオの意識は途絶え、そのまま落下した。



 二度と開かないと覚悟していた目が開いたときに聞こえてきたのは、この世のものとは思えぬほど美しい歌声だった。


 あちこち痛む身体を見れば、怪我をしている場所に布を巻かれ、折れていた腕には添え木が結び付けられていた。

 明らかに手当てを受けた後だ。しかし、一体誰が――。


 そんな疑問も顕わに、ブオは歌の聞こえてくる方へと顔を向ける。それだけで体中に激痛が走った。

 ブオは何か柔らかい布の上に寝かされている。未だにはっきりしない視界と意識で感じられるそこは小さな部屋のようだ。

 歌は、窓の向こうから聞こえてきた。耳を澄ませてみれば、雨音が聞こえないことに気づく。雨が止んだか、と思っていると、歌声が近づいてきた。


「あら」

「……っ」


 質素な木の扉を開いて入ってきたのは、白金の長髪を煌かせる一人の女だった。透き通るような翡翠色の瞳がブオを見つめた。


 今まで幾人もの死神を見てきたが、こんな髪と目の色をした死神は見たことがない。彼らは決まって暗い髪の色をしていた。


「起きたのね。大丈夫?」


 そう優しい声で話しかけられ、ブオは戸惑った。それを彼女は怯えていると受け取ったらしく、ブオを落ち着かせるように微笑んだ。

 細められた翡翠の瞳に、ブオは思わず見とれてしまった。こんなに綺麗な瞳を、見たことがなかったからだ。


「酷い怪我をして、裏庭に堕ちてきたの、貴方……って、言葉は通じるのかしら」


 そうして小首を傾げると、女の白金の髪がさらりと流れた。


「……あ、ありがとう」


 ブオが痛みをこらえて礼を述べると、女は驚いたようだった。


「言葉が喋れるの?」

「ああ」


 喉が震えるたびに身体に激痛が走る。そのせいでブオは顔をしかめた。その様子に気づいたのか、女は微笑んだ。


「今はまだ休んで。いつまでもここにいていいから」


 動こうにも、この傷ではまともに動けそうになかった。だからブオは女の言葉に甘えることにした。


「私の名前はシャラ」

「ブオ……」


 答えながら、ふと意識が遠のいていくのを感じた。まぶたを開いているのは、そこが限界だった。


「おやすみなさい、ブオ」


 遠のく意識の中で、旋律のように美しい声が、自分の名を呼ぶのをブオは確かに聞いた。




 悪魔であるブオの身体は頑丈だった。さすがに身体の血が抜けきってしまえば命はないが、今回は幸い、手当てもあったということでどうにか一命を取り留めた。

 数日後、驚異的な回復力で起き上がってきたブオを見て、シャラは驚いた。


「寝ていなくていいの?」

「ああ、もう動ける。本当に助かった」


 傷はすでに塞がり、後は骨が完全に接着するのを待つだけだった。痛みを感じずにまともに喋れるようになったところで、ブオは初めてシャラとまともな会話をした。


「シャラは、死神じゃない……だろう?」


 それは初めてシャラを見たときから思っていたことだった。ブオはこんな髪や目の色をした死神を見たことがないし、雰囲気が随分違っていたからだ。

 この家は木造の小ぢんまりしたもので、質素な感が否めない。窓の外は黒い森で、辺りに他の家など見えなかった。

 どこか、牢獄のような雰囲気さえ感じる。


 そんなところに一人暮らしているこの女の正体が、気になった。


「私は……人間、よ」


 ブオの正面に座り、小さな花で小物を飾っていたシャラが寂しそうに微笑んで答えた。そしてその返答にブオは驚く。


「人間が、なぜここに?」


 人間とはこの魔界とは別の世界暮らす生き物であり、死神達が狩っている命のはずだ。その人間が、魔界にいるとはおかしな話なのである。

 当然の疑問を示すブオに、シャラは俯いた。そしてそっと自分の胸に手を当てる。そこには、月が在った。どうやら痣のようだが、妙な存在感を放つ、月の色と形をした痣だ。


「私は、すでに死んでいるからよ」


 予想外の返答に、ブオは目を丸くする。


「死んでいるなら、どうしてここにいるんだ?」

「魂ごと囚われたから」


 そのとき、外から蹄の音が聞こえてきた。そして獣の嘶きも聞こえてくる。シャラがはっとしてブオを抱き上げた。


「しばらくここに隠れていて」

「おい?」


 ブオが声をかけた時には、戸棚の扉は閉められていた。ブオはわけがわからず閉じ込められたことになる。

 仕方がないので耳を澄ませると、誰かが家にやってきたようだった。


「まだ消えていないか」

「……はい」


 それは傲慢な男の声で、決して友好的には聞こえなかった。どうやら一人の死神のようだ。


「それは結構だ。今お前に消えられては困る」


 シャラの返答はなかった。代わりに男の低く、嫌な笑いが耳に届く。


「お前さえ私の手元にいれば天界は手を出せない。せいぜい生きながらえよ、我が姫よ」


 そう言い残すと、男は部屋を出て行ったようだった。ブオがそっと戸棚から抜け出すと、真っ青な顔をしたシャラが震えていた。

 ブオは慌ててシャラに近づく。


「大丈夫か?」

「……ええ、ありがとう」


 今にも泣き出しそうな震える声で言われ、ブオは戸惑った。


「今の……誰だ?」

「あの人は、私をここに連れてきた人よ」

「……魂を、無理やりつなぎとめているのか?」


 シャラはそっと胸にある月の痣を指差した。


「これの、せいらしいの。生まれたときからあった痣なんだけれど、変わった痣だとしか思ってなかった。だけど……」


 それが原因でここに囚われているという。

 その話を聞いて、ブオはある昔話を思い出した。


「まさか……堕天使の月」

「え?」

「あ、いや……なんでもない」


 ブオは首を横に振った。そして、この重たくなった空気を振り払うために話題を変えた。


「シャラは歌うのが好きなのか?」


 その質問に、シャラは顔を輝かせた。


「ええ、好きよ」

「それでは、俺が聞いたのも君の歌声か? 知らない歌だったが」


 目を見張ったシャラの口が、旋律を奏でた。声量を抑えた簡単なものだったが、それだけでもシャラが素晴らしい歌声を持っていることがうかがい知れるものだった。

 そしてその旋律は確かにあの時聞こえてきたものだ。


「この歌かしら?」


 一音節を歌い終えると、シャラが訊ねた。ブオは呆けた顔でうなずいた。


憧憬シャヴァナという歌よ。私のお気に入りなの」

「シャラがよかったら、聴かせてくれないか?」


 ブオの言葉に、シャラは微笑んでうなずいた。それは本当に嬉しそうな笑顔だった。


「喜んで」


 思えば、この何もない場所で彼女はずっと独りだったのだ。そこにブオが現れた。彼女にとって、ブオはこの異世界での初めての話し相手だった。

 そして物心ついたときから独りでいたブオにとっても、誰かと一緒にいるというのはシャラが初めてだった。



 黒い森の中、美しい歌声が響く。

 ブオは、思う存分その旋律を堪能した。


 それが、一人の囚われた人間と一人の悪魔の、交流の始まりだった。




 雨は次第に強くなり、遠くで雷鳴が轟いていた。


「あの人は、本当に美しい人だった。本当に」


 かみ締めるように言うブオに、ユアは躊躇いがちに口を開いた。


「ブオはその人のこと……好きなの?」

「シャラは俺にとって、大切な人だ」


 そしてユアは己の月に触れた。シャラという人の胸にあったという月の痣、そして自分の胸にあるこの石――。


「シャラという人は、魂ごと囚われたというけれど……もしかして、私も……?」

「もしも他の死神に奪われるようなことがあれば、ユアもシャラと同じような目に遭うかもしれない」


 見知らぬ土地で、たった一人閉じ込められる。

 想像しただけで、恐ろしかった。


 一人で歌っていたシャラは一体どんな気持ちだったのか、ユアには想像もできなかった。死んでもなお、そんな苦痛を味合わされるなど、ごめんだった。


 だからといって今の状況に納得できるほど、ユアは広い心を持っていない。


 ユアに降りかかる死の恐怖、そして自分はディアにとって道具でしかないという現実。

 せめてディアとの関係がもっと違うものであれば、何かが変わったのかもしれない。しかし自分はいったいどんな関係を望んでいるのかすら、ユアにはわからなかった。


 あの時、自分に触れようとしていた唇――あれは、いったいどんな意味を持っていたのだろう。

 それがなんであれ、道具だと断言された今では、ディアと一緒にいて安心することなどできそうになかった。


 そしてもう一つ気がかりなことがあった。


「それで、シャラという人はどうなったの?」

「……死んだよ」


 ユアははっと息を呑んだ。


「どうして……」


 ユアの問いに答えようとブオが口を開いたとき、耳を劈くような轟音がした。

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