第二夜 新しい日々


 そよ風が木々を凪ぎ、小鳥達が戯れる。円弧梁に迷い込んだ小鳥のさえずりが、回廊に響いていた。

 円弧を描いた窓から射し込む光に、ユアは身じろぎをした。背伸びをしながら、目を開く。


「ん……」


 目元をこすりながら寝返りを打てば、そこにブオが丸くなっていた。ユアが寝返りをしたことで、目が覚めたのか、金色の瞳と目があった。


「おはよう」

「ああ」


 身を起こしたユアは、部屋にディアの姿がないことに首を傾げる。


「貴方のご主人はどこにいるの?」


 ユアの寝起きの間延びした声での問いに、ブオが顔をしかめた。


「言っておくが、俺はディアの目付け役であって、あいつの使用人なんかじゃない」

「あ、ごめんなさい」


 勝手に勘違いをしていた己を恥じ、ユアは素直に謝った。そしてブオの身体を抱きかかえる。ブオが訝しげにユアを見上げた。


「なんだ」


 抱きかかえられたブオが、不機嫌な声を出す。しかしユアは口元に笑みを浮かべた。


「だって、気持ち良いんだもの、貴方」

「こら、放せ」


 そうやってユアがブオと戯れていると、ふとブオが顔を上げた。


「お前、俺とは普通に話せるんだな」

「え?」

「いや、ディア相手には随分どもっていたから」


 ブオの言葉に、ユアはため息をついてブオを放した。


「昔から、ぬいぐるみが話し相手だったから。まだ、人と話すのは苦手なの」


 ぬいぐるみ扱いされたことに対して、意外にもブオは怒らなかった。ただ、静かにユアを見返した。


「昨日の男は?」


 唐突に訊かれ、ユアは首をかしげた。


「……トマスのこと?」

「髪飾りの男だ」


 ユアの視線は、昨日の髪飾りに向けられていた。それは飾り棚にきちんと片付けられている。同じようにそれを視線で追ったブオは、ユアを見た。


「トマスは……私のことが好きみたいね」


 自分に、惜しげもない好意を向けてくれる男のことを思い出し、ユアは俯く。


「それがわかっていて、なぜ靡いてやらないんだ?」

「だって私、長く生きられないとわかっていたんだもの。それなのにトマスを縛りつけたら、可哀相でしょう?」

「なら、今は? 命なら保障されただろう?」


 無神経なほどずけずけと訊ねるブオに、ユアは眉をしかめた。自分でも悩んでいたことだけに、他人に訊かれるのは気分が悪い。しかしそれでも、ユアは素直に答えた。


「だって、トマスをそういう対象には見れないんだもの。優しいお兄さんみたいな人だから……わからない」


 辛うじて聞き取れるかというほどの小声で答えたユアに、食い下がるかと思われたブオだったが、案外あっさりと肯いた。


「そうか。それなら仕方ないな」

「……うん」


 自分でも整理のついていない感情を抱いているだけに、何を言われるのかと身構えていたユアは、ブオのあっさりとした反応に拍子抜けした。何か言いたげにブオを見ているユアに、ブオは目を細めた。


「……なんだ」

「な、なんでもない」


 小さく首を振ったユアは立ち上がり、ブオを見た。


「着替えるから、あっちを向いていて」

「安心しろ。人間の小娘の裸などに興味はなっ……」


 ユアが投げた枕に押しつぶされ、ブオは最後の句まで続けられなかった。ユアは洋服箪笥から服を選ぶ。

 洋服箪笥の中にある服はどれも上質のもので、ふんだんに装飾布や高級布が幾重にも縫いこまれている。ユアの髪の毛のせいか、濃紫から菫色まで様々な紫の服が揃えられているが、他にも落ち着いた色のものもある。

 ユアは縁に白い装飾がなされた黒い服を選ぶと、それを身に着けた。そして姿見で一通り確認した後、寝台を見れば、ブオはちゃっかりと枕から抜け出していた。その金色の瞳と目が合う。


「……見てたの?」

「ふんっ。人間の小娘の裸などに興味はないが、もっと愛嬌のある肌着を選んだらどうだ? そんな飾り気もないものじゃ人間の男の気も……」


 額に青筋を立てたユアがもう一度枕を投げつけようとしたとき、部屋にディアが現れた。今にも枕を投げつけようとしているユアと、身構えているブオを見比べ、ディアは眉をひそめた。


「何をやっているんだ?」

「な、なんでもないわ」


 今更無意味だというのに枕を背中に隠して言うユア。そして偉そうにふんぞり返るブオ。ディアは不思議そうに二人を見ていたが、肩をすくめた。


「気分はどうだ、ユア」


 寝台に座ったユアに、ディアが話しかける。


「……別に」

「そうか。変わったことがないなら、それで良いんだ」


 赤い眼を細めて笑いかけるディアに、ユアは気恥ずかしくなる。明るいところで見れば、この黒い死神は意外に端整な顔立ちをしていた。

 もともと閉鎖的な暮らしを送ってきたユア。そんな彼女の周りにいる異性といえば、滅多に顔を合わせることのない父親と使用人達、そしてトマスだけだった。


「どうした?」


 当惑したユアは、逡巡したのち口を開いた。


「ねえ、貴方がそばにいることは何とも思わないの。ただ、他の人に見られたら……」

「私の姿はこの世界では霞のようなものだから、望めばすぐに姿を消せる。案ずるな、君に不利なことはしない」


 笑顔で言われ、俯いたユアに、ディアが首をかしげた。そのとき、扉を叩く音がした。

 はっとしたユアが顔を上げたときには、ディアとブオの姿がその場から消えていた。


「ユア?」


 唐突に消えた一人と一匹に、唖然としているユアが言葉も紡げないでいると、扉の向こうから遠慮がちに声がかかった。トマスの声だ。


「……開いてるわ」


 ユアが声をかけると、トマスが遠慮がちに部屋に入ってきた。


「気分はどう、ユア」


 奇しくも先ほどのディアと同じ台詞である。ユアは小さく頷いた。そんなユアを見て、トマスが感慨深げに息を吐いた。


「そっか。でも、ユアが生きててくれて、本当に良かった……」

「うん……」


 それきり、会話が続かない。

 ぼんやりとしているユアを時折トマスが何かを言いたげに見ているが、彼女はそれに気づいていながら、自分から話しかけることはしない。話しかける言葉を持っていなかった。


「……あの、ユア」


 痺れを切らしたように、というよりも、沈黙に耐えられなくなったトマスが口を開いた瞬間、その場に黒い影が現れた。


「ユア、せっかく来てくれたんだから、愛想笑いくらいしてやらないか」

「っ……!?」


 突如、どこからともなく部屋に現れたディアに、トマスが目を見開いた。人前には出てこないと約束をしていた死神が姿を見せたことに、ユアは非難の視線を向ける。


「ディア……っ」

「なんだ?」

「な、なんだじゃなくて、どうして……っ!」


 口を開いたまま絶句していたトマスが、どうにか我を取り戻した。そして、襤褸布を纏った異風体の男を睨みつけた。


「君は誰だっ!」


 口元に笑みを浮かべて、黒い死神が赤い眼を細めた。その人を馬鹿にしたような笑みに、トマスの顔が怒りで赤くなる。

 そしてあろうことかディアはユアを片手に抱いた。


「ユアは私のものだ。何か文句があるのか?」


 愛しい思い人が見知らぬ男に抱かれている。目の前で繰り広げられる、目を疑うようなその光景に、トマスは言葉を失った。


「な……っ」

「ディア……」


 困ったように黒い男を見るだけで抵抗らしい抵抗をしないユアに、トマスの怒りが煽られる。トマスはディアに詰め寄った。


「今すぐユアから離れろ! 一体何者なんだ、君は!」

「私はディア。ユアの命をこの世につなぎとめている死神だ」


 声を荒げるトマスに、ディアは冷静に告げた。


「な、に?」


 ディアはユアを抱えていない方の手に、鎌を出現させる。その様を目の当たりにしたトマスははっと息を呑んだ。

 黒々と光る鎌が、トマスを威圧する。


「文句は言わないでもらいたい。お前の愛しいユアを生かしているのは、この私なのだから」

「……ユア、一体、どういうことなんだ……?」


 かすれた声で蒼白になりながら訊ねるトマスに、ユアは目を伏せた。


「……この人の言うとおりよ。あの日、私が死にかけた日、私は夢の中に現れたディアと契約をしたの。今、私がここに居るのは、ディアのおかげなの」


 ユアの言葉にトマスは沈黙する。未だ信じられないようで、ディアとユアの顔を交互に見つめた。

 ディアは口元に笑みを浮かべながら続けた。


「命の契約をした。ユアの命は私のものとなり、私の命が続く限り、ユアは生きることができるのだ」

「命の……契約」

「そう、お前の愛しい者の命は、この私のものだ」


 ディアの言葉に、トマスは悔しそうに唇を噛んだ。そして未だ混乱しているであろう、荒れた心を必死に落ち着かせようとしているのが目に見て取れる。

 だが、すぐには無理であったのだろうか、トマスはユア達に背を向けた。


「トマス……」

「……帰るよ」


 異様なほどの静けさが部屋を支配し、トマスが扉を閉めた音だけが虚しく響いた。

 弱い風が木々を撫で、木の葉を躍らせる。しかしその音は、窓の締め切られた部屋の中までは届かない。

 そっと、ディアがユアを放した。それを合図にユアが口を開く。


「なんで、こんなことをしたの?」


 紫水晶のような透き通った瞳が、真っ直ぐディアを見つめていた。いつの間にかディアの肩にブオが座っている。


「人前には出てこないと、約束したでしょう?」


 少しだけ困ったように、ディアは微笑んだ。そして肩を怒らせるユアをなだめるように、その髪に触れた。


「あの男が来てから、君の気が揺らいだ」

「……え?」


 ユアは首をかしげた。何を言われたのか、わからなかったのだ。


「君の心の気が、不快な調べを奏でていた。それが、気に入らなかったんだ」

「心の、気?」


 ディアがユアの髪を撫でる。その手の感触が不思議と嫌ではないことに、ユアは気づく。


「君の心の波長と言ってもいい。私には、それがわかるから」


 黒い死神の言葉に、ユアは怒りをおさめる。そして感情を宿さぬ静かな瞳でディアを見つめた。


「私が、貴方のものだから?」

「そう」


 思えば、ディアの声も、態度も、雰囲気も、ユアにとって不快なものではなかった。穏やかで、ユアの心を荒立てないディアの存在。


「……もしかして貴方、私に合わせているの?」


 ユアの髪を撫でていたディアの手が、不自然に止まった。驚いたようにその赤い瞳が開かれている。


「私の好む雰囲気を、わざと作っているの?」


 まじまじとユアを見つめていたディアが、ふっと笑った。


「君は、聡いな」

「……やっぱり、そうなのね」


 呆れたように呟いたユアに、ディアは苦笑する。


「君は、誰かに話しかけられるとひどく心を乱す。一人でいるときはとても美しい心の音を奏でるのに。無理強いをする気はない。少しずつ、慣れていこうと思っているんだ。君との生活に」


 ディアの言葉を、ユアは意外に思った。

 人一人の命をながらえさせるという、他に類を見ないほどの干渉をしておきながら、ユアに合わせようとする死神。


「私の、可愛い姫君」


 未だに、この死神のことは信じられない。ユアの月のためだけにこんなことをしたのか、そもそもこの月にそこまで重要な意味があるのか、ユアにはわからない。

 それでも、この死神と一緒にいるのは、どこか心地よかった。それはユアがこの死神のものになっているゆえの感情なのか、やはりユアにはわからなかった。

 だけどディアがユアに歩み寄ろうとするのならば、ユアもディアに合わせてやろうかと、そう思えた。


「……ねえ」


 だから少しずつ、この死神について知ろうと思った。


「うん?」

「死神って、一体どんなものなの?」


 ユアの質問に、ディアは首をかしげた。


「どんな、とは?」

「え、えっと……たとえば、一体どんなものを食べるの?」


 もっとまともなことは聞けないのかと、ユアは心の中で自分を叱咤した。しかしディアは小さく微笑んで、その問いに答えた。


「死神は、魂のような存在なんだ」

「え、でも、触れるのに……」

「それは、君と私が、契約を結んだからだ」


 ユアは目を丸くした。


「死神は命を狩って生きる」

「……その鎌で?」


 ユアは、ディアが先ほどから握っている鎌を示した。ディアは頷く。


「生きるもの全てには、天命で決められた命の長さがある。死神は、その期限を迎えたものを、死に導くんだ」

「天命……」


 何度も、二十歳まで生きられないと言われたユア。そしてもしかすると、それも天命だったのではないかと、そう思った。


「使命をきちんと果たした分だけ、死神の魂が強くなるんだ」

「そう、なの……」


 頷いたユアの視線が、今度はブオに向けられた。その金色の瞳と、目が合う。


「なんだ?」

「それじゃあ、悪魔は?」


 その問いに答えたのは、ディアだった。


「死神と悪魔は、同じ世界に住んでいる生き物だ。この世界でいう人間と動物のような関係だな」

「死神に動物呼ばわりされたら、魔界で反乱が起こるだろうがな」


 ブオが鼻を鳴らして続けた。


「そもそも生きる目的も、役目も違う種族だ。だが、俺とディアみたいに、契約で一緒に行動するやつらもいるがな」

「貴方達は、契約で一緒にいるの?」

「ああ」


 頷いたディアの声に険が混じったので、ユアはそれ以上訊かないことにした。するとディアが立ち上がって、ブオをユアの膝の上に乗せた。


「どうしたの?」

「少し、出かけてくる。ブオ、ユアを頼んだぞ」

「わかった」


 ブオの返事を待たずに、ディアの姿がその場から消えた。そっとため息をついたユアを、ブオが見上げた。


「大分、ディアにも慣れてきたみたいだな?」

「……そうね」


 気のないユアの返事に、ブオは眉をひそめる。


「なんだ?」

「……いえ、結局、私の命は彼のものなんだから、好きにすればいいと思って」


 ユアの言葉に、ブオがしばし沈黙した。


「ずっと、死ぬことばかり考えてた。ずっと。生きることなんて、諦めてた」

「……ああ」

「だから、今さら生きられるのだと言われても、ぴんとこないの。……どうでもいいって、そう思ってしまう」


 目を伏せ、ため息をつきながら言うユア。


「それでも……」


 異変は、ブオが言葉を不自然に途切れさせたときに起こった。突然身構えたブオに、ユアは首をかしげる。


「どうし……」


 そのとき突如黒い影が部屋に現れ、ユアはブオに突き飛ばされながら、確かに何かが鋭く風を切る音を聞いた。


「いっ……」


 思い切り床に叩きつけられ、ユアは呻いた。


「ちっ」

「きゃっ」


 ブオが舌打ちをしたかと思うと、ユアは無理やり寝台の下に押し込まれる。


「ブオ、こんなことをして、ただで済むと思っているのか」


 あまりに乱暴な所業に文句を言おうとして口を開いたユアを止めたのは、聞き慣れぬ男の声だった。


「そこをどけ。姫を渡すんだ」

「俺はお前と契約しているわけじゃない」


 知らない男の言葉に応えるブオの言葉の後に続いたのは、苛立ったような舌打ちの音だった。


「かと言ってディア様と……」


 男の声が不自然に途切れたかと思うと、何かが食い込むような鈍い音がした。そして金属がぶつかり合うような、甲高い音が響く。


「くっ、ディア様……っ」

「私に刃を向けて、ただで済むと思っているのか?」


 焦ったような男の声と、からかうようなディアの声がする。そして、空気が揺れた。

 大気に闇が混ざったかのようなその気配に、ユアは息を潜める。その気配にユアは心臓を掴まれたかのように動けなくなった。嫌な汗が、身体を伝うのがわかった。


「父上に命じられたごときのお前が、己の命可愛さに動いているだけのお前が、私の鎌に勝てると思うなっ」


 ディアの咆哮のような声の後、肉に刃物が食い込むような鈍い音がした。はっとユアは息を呑む。


 ――強い、死の香りがした。


 背筋を撫でるような死の気配が、身体に纏わりつく。悪寒と呼ぶには生ぬるすぎる、その感覚に、ユアは震える身体を抱きかかえた。


 何度もぶつかり合う、金属の音。

 鈍く響く何かの音に、硬いものが砕けるような音。

 響く呻き声と叫び声、気魄のこもった牽制の声。


 〝音〟がユアの元に届くたびに、死が着実に近づいているのがわかった。


「……大丈夫か」


 突然声をかけられ、ユアはびくりと身体を震わせた。いつの間にかブオも寝台の下に潜り込み、ユアのそばに来ていた。

 ブオの金色の瞳が暗がりの中ユアの姿をを捉えたとき、ユアの頬を幾筋もの涙が濡らしていた。


 ユアは今まで、死を怖いと思ったことがなかった。何度も生きられないと言われて、どうせ生きられないんだと、受け止めていた。

 あの闇の中であんなにも穏やかに死を受け入れていたのに、たった今感じている生々しい死の気配を、心の底から恐ろしいと思った。


「……大丈夫だ。ディアが片付けるから」


 そのとき、半分腐った果物が潰れたような、耳障りな音がした。甲高い、硝子の割れたかのごとき音とともに。

 一際濃くなった死の香りとともに、今までの騒音が嘘のような異常な静けさが訪れた。


「ユア」


 聞きなれた声が名を呼ぶ。黒い死神の、ディアの、穏やかな声がユアの耳に届いた。


「ユア、もう大丈夫だから、出て来い」


 しかしユアはその場から動けなかった。身体が震えて、涙が止まらない。そんなユアの腕をブオが引く。寝台から出てきたその手を、ディアが取り、ユアを立ち上がらせた。

 取り乱しているユアを、寝台に座らせる。


「もう大丈夫だから」


 嗚咽を漏らしているユアがディアを見たとき、はっと息を呑んだ。


「その、腕……っ!」

「うん?」


 首をかしげたディアだったが、ユアの視線をたどり、納得したように頷いた。

 ディアの左腕が裂けていた。もともと襤褸の服が見るも無残に破れ、その下から肉が覗いている。肉がえぐれ、その奥に白いものが覗く、その腕が――。

 思わず身を引いたユアの目の前で、ディアは大したことではないように傷口に手を当てた。


「っ……!」


 ディアが手を離すと、その傷が跡形もなくなっていた。傷だけではなく、破れていた服も元通りだ。


「え……?」

「かすり傷だ。気にするな」


 呆けたようなユアに笑いかけるディアだったが、ユアの瞳から零れる涙が止まらない。ディアはそっとユアの涙をぬぐう。


「さっきの人……どうしたの?」


 震える声で、ユアが訊ねた。


「……君を殺そうとしていたから、返り討ちにしてやった」

「……殺した、の?」


 怯えた声を出すユアに、ディアは頷いた。それを聞いた途端、今まで堪えていたものを噴き出すように泣き出したユアを見て、ディアは困惑する。


「どうしたんだ? もう、危険は去ったのに……」

「怖かったの……っ!」


 ユアは、叫んだ。


「どうしようもなく、怖かった……っ! 死が、私の首筋に触れていった。それがわかった! それが……怖かった」


 ディアは、そっとユアを抱きしめた。その華奢な身体が震えている。


「今まで、死ぬのなんて怖くなかったのに……。でも、死の匂いを嗅いだとき、凄く怖くなった……っ!」


 嗚咽混じりに叫ぶユアの背中を、ディアはなだめるように撫でてやる。


「ユア、それは生きるものなら当然の感情だ」


 ディアの言葉に、ユアの身体がびくりと震えた。


「ユア、君は生きているんだ。だから、死ぬのが怖いのは、当たり前だろう」


 ディアはそっと息を吐いた。


「これから、君の命が狙われる」

「……え?」

「生きたいと、思ってくれ。そうじゃないと、私は君を守れない」


 涙をぬぐったユアが、自分を抱きしめる男を見上げた。その塗れた紫水晶の瞳に、赤い瞳が映った。


「君の月を狙って、死神達がやってくるだろう。でも、君は私が守る。この鎌は、君のために振るおう。同胞を狩ることも、厭わない」

「ディア……?」

「だから君も、生きたいと願ってくれ」


 ディアの真剣な言葉に、強い意思を宿すその瞳に、ユアの心が揺れた。


「でも、怖いの……」

「怖いのは、当然だ。私が、君を守るから――」


 ディアがユアの頭を胸に抱いた。


「生きたいと思ってくれなくては、契約が無効になってしまう……私は、君を失いたくないんだ」


 ディアの、ユアを抱きしめる力が強くなる。息苦しいほど抱きしめられて、ユアはふと気づいた。これほど誰かに求められるのは、初めてだということに。


「……うん」


 ユアが、呟いた。


「私、生きたいの……守って」


 今まで、生きたいと願ったことはなく、命を得ても、どうせディアのものなのだからと投げやりになっていたユア。


 だけど、死ぬのを怖いと思うユアがいる。

 その彼女を、守りたいと言ってくれるディアがいる。


 己をここまで求めてくれる男に応えたいと、ユアはそう思った。


 彼女を抱きしめるディアの口元に、笑みが浮かんでいることには、気づかずに――。


「……命を狙われると言っていたけど……」

「さっきの男が帰ってこなければ、また新たな刺客が来るだろう」


 ディアを見上げたユアの顔が不安そうに歪められる。


「それじゃあ、すぐに……」


 ディアはそっと微笑んで、ユアの頭を撫でた。


「そんなに恐れる必要はない。魔界とこちらでは流れる時間の速さが違うから」

「えっ?」


 思いがけない言葉にユアが驚いて目を見開く。そんな彼女の髪を撫でながら、ディアは座りなおした。


「先ほどのやつが来たのも、私が君を生かしたという報せが向こうに届いてすぐのはずだ。だけど、実際にこちらに現れたのは今日」

「……それじゃあ、魔界の時の流れは随分遅いのね」

「ああ」


 ディアが乱れたユアの髪を直すと、ブオが二人の間に座る。


「大分、落ち着いたようだな?」

「ええ」


 強張っているながらも、気丈に微笑むユア。そんな彼女に、ディアは微笑んだ。


「無理はするな。辛いときはそうと言え。君の心が乱れるのは、私の本意ではないんだ」

「わかった。ありがとう」


 本当は怖い。しかしユアは己の命をこの死神に投げうるのではなく、託すことにした。




 泣き疲れたのか、心に受けた衝撃が意外に大きかったのか、あれからすぐにユアは眠りについた。

 そんな彼女を寝台に寝かせたディアとブオは、屋敷の脇にある木立を歩いていた。何があってもすぐに屋敷に向かえる距離だ。


 人の手が入ってない木立を眺め、ディアが感嘆の声を漏らした。


「今の時勢、こんな場所も珍しいのではないか?」

「だろうな」


 ブオが飛ぶ高度を上げれば、小鳥達と視線が並ぶ。そよ風が木々を揺らし、その鼻腔に届く緑の香りに、心が洗われるような心地にさえなる。


「……ふ、柄じゃないな」


 穏やか過ぎる時間に、ディアは自嘲の笑みを浮かべた。ブオも不思議そうに首をかしげる。


「あの娘の親も酔狂だな。何も娘をこんな辺境に閉じ込めることもないだろうに」

「親心というものだろう。身体の弱い彼女を、守りたかったんだろう。胸に月を持っているんだ。見世物になってしまうに決まっている」


 そう口にしながら、ディアの白皙の顔をかすかに歪ませた。


「……親とは良いものだな」


 そんなディアの様子を見て見ぬふりをしたブオが、鼻を鳴らしながらそう呟いた。何気なしに二人が歩いていると、小川に出た。

 そこにあった腰ほどまである岩にディアが腰掛けた。そこからは河原が一望できた。ブオもそこで羽を休める。


「親というが、お前は親のことなど覚えているのか?」


 ディアがブオに訊ねるが、ブオは目を細めて首を横に振った。


「……そうか」


 数瞬の間、訪れる沈黙。耳の奥をくすぐるような水の流れる音に乗って、甲高い鳴き声が聞こえてきた。

 その声に、ディアがはっとする。


美啼鳥ファティーツル……」


 歓びを告げるかのように、美しい旋律を奏でる鳥の声。聴く者の心を魅了し、幻夢の世界へと導く、美しい鳥だ。

 その姿は見えないが、確かに美啼鳥ファティーツルが歌っている。


「……苦しい」


 胸を押さえ、ディアが呟いた。今にも、泣き出しそうな表情で。


「愛して、いるんだ……」

「ディア……」

「この愛のためなら、私は全てを投げうることができる。彼女を、愛しているんだ」


 しばらくディアを見つめていたブオだったが、小さく笑った。


「可愛いもんじゃないか、ユアは」


 その言葉に返ってくるのはディアの沈黙と、美啼鳥ファティーツルの歌声。


「突然巻き込まれて、文句の一つも言わねえ。……まあ、理解できてないせいもあるか」

「ああ。彼女は、未だに自分の置かれている状況をわかっていないだろうな」

「……せいぜい、睦言をその唇でほざいて、心を引きとめておけよ」


 ブオが目を細めた。


「得意だろう? 己の心を偽るのは」

「……ふんっ」


 それ以上、ディアが口を開くことはなかった。ブオも耳の後ろを掻きながら、沈黙を守った。


 そんな二人をよそに、心地よい水音を伴奏に、美啼鳥ファティーツルは声高らかに歓喜の歌を奏でていた。




 陽も昇ったばかりの時刻、煌びやかな鳥達が戯れ、時折、精霊達の気配も感じる。朝靄に不鮮明な空を、四翼鳥ティンディルが群れをなして飛んでいた。


 朝日に照らされるユアの屋敷の尖塔の先に、黒い影があった。尖塔の天辺に立って辺りを伺っているのは、ディアだった。

 長い黒髪と襤褸布の外套を風にたなびかせ、朝日に目を細めながら遥か遠くに見える人間の街をぼんやりと眺めていた。


 豊かな緑も、茶色い土も、青い空も、ディアの見慣れた世界とは大違いだった。ディアの記憶にある街は、灰色だ。しかし今自分が目にしている人間の街は、色彩に満ちている。

 森の中にある滝の水が青く透き通っているのを見ては、魔界のまるで血に染まったかのような濁流を思い出した。


 場所が変われば、鳥や獣も変わる。こちらの世界には、随分愛らしく美しい獣達がいるものだ。


 ディアがなんとなく世界を見つめていると、どこからともなく歌が聞こえてきた。


「……っ」


 朝日に目を細めてぼんやりとしていたディアを、その歌がディアを現実に引き戻した。


 思わず息を呑むほど、美しい歌声だった。心の奥に沁み入ってくるような、いつまでも聴いていたいと願ってしまうほど美しい音色だった。


 しばらく硬直していたディアはそのまま尖塔から飛び降りる。そして音もなく着地した。

 そこはちょうど飛梁のある石畳の回廊で、中庭へと続いている。そしてその歌声は、中庭の方から聞こえてくるようだった。


 人気の全くない回廊を進むと、中庭に出た。

 そこは建物の中とは思えぬほど緑に満ち、花が咲き乱れていた。しかし明らかに人の手が入ったもので、葉が整えられている。

 装飾の施された細い白い金属に、蔦のある植物が絡みつき、緑の塀のようになっていた。


 その美しい緑の庭園の中央に、白い長椅子があった。その長椅子を取り囲むように花壇があり、その淵に小鳥達が羽を休めていた。


 歌声の主は、その長椅子に座っていた。今まで見たことのないような穏やかな表情で小鳥達を見つめ、そして豊かで、それでいて透き通るような声で歌っている。

 柔らかな日差しを浴びて煌く濃紫の髪は、結われずに腰まで流れていた。その姿を見て、ディアは咄嗟に反応ができなかった。


 すると歌っていたユアが、ディアの姿に気づいた。


「おはよう」


 普段よりも数段優しい視線を向けられ、ディアはたじろいだ。小鳥達が、首を傾げてディアを見る。


「歌を、歌うんだな……」

「ええ。歌うのは好きなの。座る?」


 ユアがディアのために場所を空けた。


「ありがとう」


 ユアは目を細めて笑い、そして再び歌いだした。小鳥達と競うように、そして彼らに聴かせるように、その美しい声音が中庭に響いた。

 その歌声を聴きながら、ディアは感嘆の吐息を漏らした。かの美啼鳥ファティーツルも、この歌声には聞き惚れてしまうかもしれないとさえ思った。


 ディアが隣にいることをユアが気にする様子もなく、のびのびと歌っている。硝子を響かせるような美しい声音が、聴く者の心を抱きしめて放さない。

 ディアが名を知らぬ一曲を歌い終わったユアは、そっと息をついた。


「……魔界一の歌手にも勝るぞ」


 心地良い夢の中に取り残されているかのようなディアの賞賛の言葉に、ユアは心底嬉しそうに微笑んだ。


「ありがとう」


 いつも仏頂面しか見せないユアの輝くような笑顔に、ディアは胸がしめつけられるような気持ちになった。


「……憧憬シャヴァナという歌を、知っているか?」

「ええ。よく知っているわね」


 死神の口から出るには意外な曲の名に驚いて目を見張り、しかしすぐに微笑んだユアの口が、憧憬シャヴァナの旋律を奏で始めた。


 深い森を思わせる低音から始まるその歌は、精霊の子が早くに亡くなった母を想うさまを描いたものだ。

 暖かい木漏れ日の中を母と過ごした思い出を歌い、母を亡くした悲しみに身が引き裂かれそうな苦しみを覚える。そしてその悲しみを乗り越えるさまが、見事に曲に表現されている。


 その曲に込められた想いを、ユアは完璧に再現してみせる。

 楽しかった頃の思い出を表す軽快な部分を軽やかに歌ってみせ、悲しみの部分では全身で哀切を表現する。


 ディアの心が感動に震えたとき、不快なほど唐突にユアが歌うのをやめた。

 その瞬間、目の前に確かに浮かんでいたはずの夢想の景色が声音とともに消えるとともに、小鳥達が羽音を立てて空に飛び立っていった。


「……ユア?」


 一点を見つめ、無表情を纏ったユアの視線を辿ったディアが、むっと口角を下げた。そこには二人のもとに歩いてくるトマスの姿があった。


「何をしにきた」


 強張った顔でやってきたトマスに、ディアが不機嫌を隠さずに言った。近くまで来たトマスは口を真横に結び、意を決したようにユアを見た。


「ユア、今、ヨアナ湖で幻灯祭ティファナールが起こってるんだ。一緒に見に行かないかい?」

幻灯祭ティファナール?」


 聞き慣れぬ言葉に、ユアが首をかしげた。せっかくの気分を邪魔されたディアは、目を細めて二人を見つめていた。

 そのディアを緊張の面持ちで伺いながら、それでいて視界に入れないよう尽力しながら、トマスは続けた。


「ヨアナ湖では数年に一度、森の精霊が集会を開くんだ。その集会のことを幻灯祭ティファナールという。本当に美しい光景なんだよ」


 トマスの言葉に、ユアが隣に座るディアを見た。何か言いたげに自分を見るユアに、ディアがそっとため息をついた。


「行きたいんだろう?」

「……でも、ディアと一緒がいい」


 ユアの言葉に、トマスが傷ついたような顔をした。ディアも意外そうな顔をする。


「私は近くにいるから、こいつと行ってきたらどうだ」

「一緒に来てくれないの?」


 すがるようにディアを見るユア。そしてディアは気づいた。おそらくユアは、死神の襲撃を危惧しているのだ。


「わかった。一緒に行くから」

「トマス、ディアも一緒でも良いでしょう?」


 ユアが安心したようにトマスに訊ねる。トマスは硬い表情で頷いた。


「それじゃあ、今夜、また来るから」

「うん」


 トマスはそのまま中庭を後にした。そして、ディアがふっと笑った。


「君は、酷いな」

「トマスのこと?」


 ユアが目を伏せる。


「トマスのことは嫌いじゃないわ。でも、突き放さないと……トマスは私をいつまで経っても忘れられない」

「ふうん?」

「私は、トマスと一緒に生きる気はないから」


 やや強張りながらも、きっぱりと言うユアの頭を、ディアがなでた。


「そうか」

「うん」


 朝日に照らされた緑の視界の中、二人は何も言わずにただ草木を眺めていた。




 辺りが暗くなり始めた頃、ユアは出かける支度を始めた。ディアとブオは屋敷の外にいるらしい。

 動きやすいようにと、あまり嵩張らない服を侍女が選んでユアに着せる。


「ねえ、アイナは幻灯祭ティファナールを見たことがある?」


 服を着ながら、ユアが訊ねる。彼女が子供の頃から一緒にいるこの侍女は、ユアにとっては母親のようなものだった。

 控えめの深い緑の瞳に、茶色の髪をひっつめにしたアイナは、首を横に振った。


「話には聞いています。ですが、見たことはありません」

「そうなの?」


 ユアが感情に乏しい顔でアイナを見る。するとアイナは、少しだけ困ったような顔をした。


「ヨアナ湖に行くまでには、森を抜けなくてはなりません。その森はユア様もご存知の通り、人の手が入っていません。野生の獣が出てもおかしくはないのですから」


 言外に危険だと伝えるアイナに、ユアは少し考える。


「……でも、幻灯祭ティファナールを見てみたいな」

「おそらくトマス様も準備をなさっていることでしょう」


 そのとき、来訪者を告げる呼び鈴が鳴った。


「トマス様がいらしたようですよ」

「ええ、ありがとう」


 ユアが玄関に向かい、アイナもそのあとに続く。使用人が扉を開こうとして、ユアは不思議な音に気がついた。

 何かが風を切るような、甲高く波紋を描く音。それが外から聞こえてくる。


「これは何の音?」

「先ほどから聞こえていますが……」


 使用人は答えに詰りながら、扉を開いた。扉の向こうの光景に、ユアが小さく息を呑んだ。

 トマスの後ろに、二頭の獣がいた。


「やあ」

「……あれは、何?」


 屈託のない笑顔でトマスが後方に視線を飛ばした。そしてユアに笑いかける。


山翔犬ディッツィルだよ。綺麗だろ。森の中なら馬より彼らの方が便利なんだ」


 ユアはまじまじとその姿を見た。普通の犬よりも二回りは身体が大きく、その短い毛並は空と灰が混ざったような不思議な色をしていた。夕時の陽光を浴びて煌いて見える。

 トマスが山翔犬ディッツィルと呼んだものは、うねる様な鬣を持ち、すっと鼻筋の通った顔をしていて、そしてその尾も尨毛だった。


「初めて見た?」


 ユアは小さく頷いた。二頭は鼻を寄せ合い、じゃれあっている。その喉から、頭に響くような不思議な音色が響いているのだ。


「これは……鳴き声?」

「ああ、素敵だよね。鼻の奥にある骨で反響させてるらしいよ」


 ユアはその音色と、山翔犬ディッツィルの勇ましい姿に心を奪われた。屋敷の中にこもっていた彼女は、馬以外で大きな動物の姿を目にしたのは初めてだったのだ。


「これに、乗っていくの?」

「うん。ユアは乗れる?」

「トマス様」


 笑顔でユアと話していたトマスに、アイナが声をかけた。その表情がいくらか険しい。


「なんだい、アイナ?」

「森の中は危険です。ユア様にもしものことがあったら……」

「アイナ、心配してくれてありがとう。でも、私は大丈夫よ」


 ユアが困ったように言うと、失礼しました、とアイナは身を引いた。


 アイナには身寄りがない。ユアがアイナを母親のように思っているように、アイナもユアのことを娘のように思っているのだ。

 だからこそ、身分が上のトマスにもこんな口を利く。


 そのことを、ユアはくすぐったく感じる。嬉しいと思うのに、それをうまく言葉にできない自分が、もどかしかった。


「本当に大丈夫よ。私は必ず無事に帰ってくるから」


 アイナの目を見て、ユアはそう告げた。

 幻灯祭ティファナールにはディアも一緒に来る。ユアに何かがあったら、きっとディアが守ってくれるだろう。

 だがそのことはアイナには言えない。しかし自分は大丈夫だということに、安心してもらいたかった。


「必ずですよ。ユア様の身に何かあったら、旦那様と奥様が哀しみます」


 眉尻を下げて訴えるアイナに、迷ったユアだったが意を決して、口を開いた。


「……アイナを哀しませたくないから、ちゃんと帰ってくるわ」

「ユア様……」


 アイナは心底愕いたように目を見張った。そんな一言でも、ユアにとっては口をするのも勇気が要た。そしてユアは精一杯の笑顔を作る。


「それじゃあ、行ってきます」

「……お気をつけて」


 ユアがトマスの後ろについて、山翔犬ディッツィルに近づいた。近寄ってみればその大きさが目に付く。

 今更ながら、恐怖心が生まれた。


「……これに、乗れるの?」

「馬に乗るのと同じ要領だよ」


 言われてみれば、山翔犬ディッツィルの背には鞍が乗せてある。しかしユアは困ったように呟いた。


「馬に乗るのとって言うけれど……」


 ユアは一度も馬に乗ったことがないのだ。当惑するユアに、トマスが笑いかけた。


「大丈夫、僕が手綱を握るよ」

「聞き捨てならないな」


 笑顔で言ったトマスの後ろに、ディアが現れた。ディアの肩にはブオもいる。慌てて屋敷を振り返ったユアだが、すでにアイナの姿はなく、扉が閉ざされていた。

 トマスがのけぞりながら、顔を歪めた。


「し、死神……」

「死神ではない。私の名はディアだ」


 整った顔を不機嫌そうにしかめられれば、異様な迫力を纏うものだ。ディアの剣呑な雰囲気に、トマスが後ずさる。


「ユアは私と一緒に乗る。そのために二頭いるのだろう?」

「で、でも……」


 トマスが山翔犬ディッツィルを二頭用意したのは、行きと帰りのためだ。最初からユアが繰獣することは考えていなかった。

 トマスが口ごもったのをいいことに、ディアはさらに口を開く。


「ユアがお前の繰獣で落ち着けると思うか、戯けが」

「ちょっと、ディア。そこまで言うことないじゃない」


 ディアのあまりの暴言に、ユアがそれをたしなめた。するとブオが鼻で笑ったので、ユアが非難するようにそちらを見る。


「おいおい、ユア、ちょっとくらい言わせてやれよ」

「で、でも……」


 怒りで真っ赤になっているトマスを横目で見たユアが困惑する。一方のディアはすまし顔でそっぽを向いていた。


「男には男の、譲れないもんってのがあるんだろうよ」


 ブオの言葉にユアは顔をしかめた。


「そんなの面倒だわ。せっかく幻灯祭ティファナールを見に行くのに、雰囲気が台無しよ……」


 哀しげに顔を歪めるユアに、ディアがはっとした。トマスも息を呑む。


「すまない。もう、言わないから」

「ユア、ごめん」

「……うん。仲良くしてとは言わないけど……」


 ディアがユアの手を取った。ユアがそちらを見る。赤い瞳が、紫水晶の瞳を捉えた。


「約束する。ユアのために、無駄な争いは避けるから」


 ユアが頷いた。その様子をトマスが悔しげに見守る。そんなトマスに、ブオが近づいた。


「お前も、いい加減諦めたらどうなんだ? ユアの気がお前にないのは明らかだろうに」

「かと言って、すぐに諦めたらそれこそ男の名が廃るだろう」


 悪魔と知りつつ言い返すとは、いい根性である。最初は怯んでばかりだったトマスも、随分開き直ってきたようだ。

 ブオがそんなトマスを面白そうに見た。


「お前、意外に面白いな」


 トマスはむっと口を尖らせる。それが妙に子供っぽい仕草で、ユアがくすりと笑いをこぼした。


「貴方達、一体何を言い合ってるのよ。それより、早く行きましょう?」


 ディアの隣で確かに笑みを浮かべるユアに、トマスは愕然とした。


「ディアも、もう失礼なこと言っちゃ嫌よ?」

「わかった」


 今までトマスが何度願っても、決して笑顔を見せてくれなかったユア。

 数年をともに過ごしたトマスが何をしても変わらなかった彼女の態度が、この死神と悪魔が現れてから随分変わった。

 その事実が、トマスを打ちのめす。


「……負けて、られないな」


 その呟きは、近くにいたブオには聞こえたようだ。ブオは面白そうに口端を上げた。


「俺、お前のこと、好きだわ」

「君に好かれても嬉しくない」


 しかしトマスの口元にも、笑みが浮かんでいた。


「それじゃあ、行くか」


 ディアがユアの手を引いて山翔犬ディッツィルに近づいた。ディアが近づくと、鳴き声がぴたりと止んだ。

 二頭そろって、目の前に現れた黒い男を警戒するように見つめている。そんな二頭を落ち着かせるように、ディアが笑みを浮かべた。

 いつもの皮肉の混ざったような笑みではなく、自然で穏やかな笑みに、ユアがはっとする。


「私は何もしない」


 そっとその手を伸ばし、山翔犬ディッツィルの喉元に触れる。するとくすぐったそうに山翔犬ディッツィルが喉を鳴らした。


「世話になるな」


 そう真面目な顔で獣に語りかけたディアが、ユアの手を引いた。そして巨大な犬の背にその身体を乗せる。そして自分もその後ろに跨った。

 それを羨ましそうに眺めていたトマスだったが、自分ももう一頭に跨る。ブオはちゃっかりユアの腕の中に納まる。

 それを見たディアが眉をひそめた。


「……お前な」

「なんだ」

「……なんでもない」


 一方のユアは嬉しそうだ。


「やっぱりブオって、ふわふわ」

「うるせぇな」


 そんな二人のやり取りに、知らずディアの口元に笑みが浮かぶ。


「ユア、しっかり掴まっていろ」

「うん」

「二人とも、準備はいい?」


 トマスが手綱を引くと、山翔犬ディッツィルが高らかな歓喜の声を上げた。思い切り走れることに興奮しているようで、二頭の放つ反響音が絶妙な波紋を描く。


「綺麗な声……」

「じゃあ、行くよ」


 トマスが先に森に入った。


「ユア、行くぞ」

「うん」


 ディアがそのあとに続いた。今まで体感したことのない揺れに、ユアがびくりと身体を震わせ、山翔犬ディッツィルの頸にしがみついた。

 直に伝わってくる鳴き声と、体温。それはどこまでも暖かく透き通っていた。


 慣れたように山翔犬ディッツィルを繰るディアに、ユアは首をかしげる。そして小声でブオに訊ねた。


「ディアは馬を繰ったことがあるの?」

「いや? でも器用なやつだから……」

「ふうん?」


 ユアはどんどんと移り変わっていく景色に視線を飛ばした。木々が茂り、人の手の入らぬ獣道を、山翔犬ディッツィルはなんでもないように進んでいく。

 先を進む一頭の声に、もう一頭が反応しているようだ。お互いの透き通った声が反響しあう。

 ユアは振り落とされそうにないよう必死だ。


「大丈夫か?」

「う、うん」


 気遣って声をかけるディアに、ユアは頷いた。ディアも少し微笑んで、視線を前方に戻した。


 そうして進むうちに、辺りはどんどん暗くなっていく。夜が足音を潜めて近づいてきていた。

 そしてユアは気づく。山翔犬ディッツィルの毛皮がほのかに発光していることに。驚いて前方を見れば、もう一頭の身体も闇の中に光っている。そして二頭の歩んだ軌跡が、光の筋となって淡く残っていた。


「……精霊だ」

「え?」


 その美しい光景に見とれていたユアの耳元で、ディアが呟いた。


「精霊が、俺達を導いてる」

「精霊、が……」


 一際高くなる鈴のような山翔犬ディッツィルの声。そして、二頭を包む淡い光。その言葉では言い表しがたいほど幻想的な雰囲気に、ユアは心底感嘆した。

 これだけでも、ここに来たかいがあるというものだ。


 しかしその考えは、ヨアナ湖に辿りついたときに一掃された。


「……わ」


 森の中を数十分駆けて、着いたのは巨大な湖だった。そしてその光景に、ユアは惚けた声を出した。


「ほう……」


 ディアも感嘆の声を漏らし、ブオもその光景に心を奪われていた。


 湖面を、光が埋め尽くしていた。様々な大きさの光がゆらゆらと宙に浮かび、ところどころで渦を作っている。

 光の塊が、うねるように宙を舞い、天に昇っていく――。


「き……れい……」


 光が色を纏い、水面を揺らす。


 山翔犬ディッツィルが空に向かって遠吠えをした。まるで心の中にまで、反響するような美しい鳴き声が、その場にいる者達を別世界へと誘う。


 トマスも、恍惚とした表情で湖面を見つめていた。


「ユア……?」


 何かが頭を濡らし、ブオが顔を上げた。

 呆然と光の舞踏を眺めていたユアの目から、涙が零れていた。その水滴に光が反射し、小さな光が集まってくる。

 その光景にブオが息を呑む。そしてディアがそれに気づいた。


「ユア?」


 驚いたディアだったが、ユアの心の波長に乱れはない。それどころかどこまでも穏やかで、透き通っている。


「……ディア」


 紫水晶の瞳から零れる涙をぬぐうように集まる小さな光達。そしてその光に照らされるユアの表情は、なんとも言えなかった。

 ユアは、この世にこんなにも美しい情景があることを知らなかった。ディアと出会わなければ、知らぬまま死んでいくところだった。


「私を、生かしてくれてありがとう……」

「……っ!」


 ユアが、聞き取れるかどうかという小さな声で呟いた。


 そして、幻灯祭ティファナールの幻想的な光の舞と山翔犬ディッツィルの美しき声音が作り出す幻想世界を、四人は気が済むまで堪能した――。




 あれから屋敷に戻ってすぐに部屋に入ったユアは、疲れてしまったのかすぐに眠りに着いた。

 その寝顔を、ディアがそばで見つめていた。ユアを起こさぬように、そっとその髪をなでる。


 そんなディアの横顔を見てブオが何かを言いかけたが、口を閉ざした。だが言いたいことが伝わったかのように、ディアが口を開いた。


「……私は、間違っているのか?」


 ディアの言葉に、ブオがため息をつく。


「これが、お前の選んだ道だろ?」


 ディアが口を閉ざす。

 ブオは再度ため息をつくと、窓際へと飛んでいった。雲一つなく晴れ渡った夜空に、巨大な月が出ている。


「わかってるんだろ、今さら後戻りなんてできない」

「……ああ」


 ブオが金色の瞳を細めて、ディアを見る。


「それなら何を迷う必要がある」


 ディアが唇を噛んだ。白皙の端整な顔が、苦しげに歪められる。

 それに気づきながらも、ブオはそれ以上何も言わなかった。


 複雑に揺らぐ心のうちを、銀色に輝く月だけが見つめていた――……。

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