第一夜 死神の契約

 激しく降りしきる雨の中、崖に囲まれた一本道を馬が駆っていた。その背には、金色の髪が乱れるのも、最高級の天鵞絨の服が濡れるのも気にしない様子の青年がいた。

 夜中だというのに、雨に霞む視界の中を青年は必死になって馬を駆る。その呼吸は、ひどく上がっていた。

 しばらくして鬱蒼とした木々の向こうに見えてきた大きな屋敷が見えてきた。そこに、青年は急いだ。


 滅多に人の足も届かぬような場所に建つ屋敷に着いて、息をつく間もおかずに青年は馬から飛び降りる。そして乱暴にその屋敷の扉を開けた。

 肩で息をしながら屋敷に入った青年に、こんな時間にも起きていた屋敷の使用人が気づいて息を呑んだ。


「……トマス様!」


 しんと静まり返った屋敷のあちらこちらから、すすり泣くような声が聞こえてくる。それは随分重苦しく、異様な雰囲気だった。

 その重苦しい雰囲気に青年は顔をしかめて濡れた上着を脱いだ。そして使用人が差し出した織布で濡れた身体を覆った。


「……ユアは?」


 低い声で青年が訊ねると、使用人は悲痛な面持ちで首を横に振った。


「もう、三日も意識が戻られません……」

「……くっ」


 それを聞いた青年は、顔を歪めて目的の部屋へと走った。何人かの侍女が、慌しく部屋を出入りしている。


「ユア……っ」

「トマス……」


 部屋に入ったトマスを迎えたのは、目にいっぱいの涙を浮かべた四十代半ばの女性だった。彼女は同じ年頃の男性に支えられながら泣いている。


「アルティシア様……」


 女性の様子に、青年は言葉が詰まる。女性は嗚咽を漏らしながら、部屋の奥を見た。


「うう……っ、ユアが、あの子が……っ」


 青年はつられるように部屋の奥にある寝台を見た。そこに眠っているのは、濃紫の髪の少女だった。その顔は苦しげに歪められ、血の気を感じられないほど蒼白になっていた。


 青年はそんな少女の様子を見て泣きそうになる。ずっと、思いを寄せていた人だったからだ。


「ユア、起きて」


 大切な人の容態が芳しくないという便りを受け取ったのは数日前のことだった。

 もともと、少女が長くは生きられないことは知っていた。だからこそ、少女の十八の誕生日を盛大に祝ってあげようと思っていたのだ。その矢先に、少女が意識を失った。


 青年は眠る少女の手を握って語りかける。その手は、触れるのもためらわれるほど冷たくなっていた。


「ユア、明日は君の誕生日だよ……」


 もうすぐ、日付が変わろうとしている。日付が変われば、それは彼女の誕生日だ。しかし少女の呼吸は今にも絶えてしまいそうなほど、弱いものだった。



 青年が彼女に恋をしたのは、その寂しげな紫水晶の瞳を見た瞬間だった。



 青年が彼女のことを知ったのは、噂がきっかけだ。

 それは、足を踏み入れるのも憚られるような深い森の奥に建つ屋敷には、闇に愛された申し子が住んでいる、というものだった。

 闇に愛された申し子は、闇に愛されているがために長くは生きられず、外界から離れて暮らしているのだと、人々は噂していた。


 はじめは興味本位だった。興味本位で申し子を見に来た青年は、人も立ち寄らないような屋敷で、息を飲むほど美しい少女に出会ったのだ。

 そして、全てを諦めたような彼女の瞳に、青年は心を奪われた。


 話を聞いてみれば、仕事で各地を転々とする少女の両親は、体の弱い彼女のためにこの田舎の別荘を用意した。以来、少女はこの屋敷で暮らしているとのことだった。


 それから、彼女と青年の交流が始まった。いつも何かを諦めたような少女を、青年が笑顔にしてあげたいと、そう思っていたのだ。



 少女の手を握って、青年は天に祈った。青年だけではない。少女の両親も、使用人も、皆が祈っていた。


 しかし無情にも、大広間の時計が零時を告げる鐘を鳴らしたとき、その場にいる皆の祈りも空しく、少女の呼吸が――止まった。




 少女は闇のような夢の中にいた。虚空を漂うように、心地よいまどろみの中で闇に抱かれている。

 ああ、自分は死ぬのか、と少女はどこか他人事のように考えていた。


 ずっと感じていたはずの痛みも、嫌悪感も、何も感じない。全てが闇に飲み込まれてしまったかのような、そんな感覚。虚無に包み込まれるような、無の世界。

 これが死ぬことなんだと、少女は思った。


 死ぬことへの恐怖は、少女にはない。来るべきときというのが、今だというだけのことだから。


 己の濃紫の髪が漆黒の闇に溶けていく様を、少女はぼんやりと眺めていた。手足はすでに闇に解けて、形が確認できない。

 きっと全てが闇に飲み込まれたとき、それが少女の死を意味するのだろう。

 痛みも恐怖も感じない、こんな穏やかな死なら、少女は受け入れても良いと思う。ただ眠るように、目を閉じれば良いだけの話だった。


 そんな魂をも蝕むような闇の中で、少女の胸に在る月の形をした石が淡い光を放っていた。

 それはちょうど少女の鎖骨の下、胸骨の上の辺りに骨と同化していて、肌を突きぬけ露わになっている。少女の体の一部であり、月の形をしているそれは、少女が生まれたときから在るものだ。


 胸元に月を持つ少女が生まれたとき、周囲は聖女の誕生かと色めきたったらしい。しかし両親が占術師に頼んで視えた結果は、少女の闇の力が強すぎて長くは生きられないというものだった。

 その結果に納得のいかなかった父親があちこちから腕の良い占術師を呼んだが、結果は全て同じ。二十年も生きられない、それが少女に、月をその身に宿して生まれた少女に定められた運命だった。


 生まれたときから言われていたことだから、少女は最初から生きることを諦めていた。そして、ずっと昔から受け入れていた自分の死が今だということに、安堵さえ覚えていたのだ。


 少女の口からそっとため息が漏れる。

 自分はこれから闇になるのだ。それはどこまでも穏やかで、心地良い感覚だった。母親の胎に戻ったかのような、安息感を覚えた。


 その穏やかで静かな死を邪魔するものの気配に、少女はふと気づいた。


「ユアリアーナ」


 全く聞き覚えのない声に、滅多に使われることのない本名で呼ばれ、少女は目を開いた。紫水晶のような瞳が、闇の中に浮かんでいる男をとらえた。

 目を凝らさなくては気づかないほど闇に溶け込んでいるその男は、触れば崩れてしまいそうなほど風化した黒衣を纏い、その赤い瞳で少女を見つめていた。


 まるで闇の化身のようなその男に、少女は顔をしかめる。穏やかな時間を、邪魔されたような気分だった。

 闇に溶けて眠るように死ねると思ったのに、それをこの赤い目の男が邪魔をした。そしてその手に握られる鎌――男の様相はまるで、死神だ。

 このまま闇に溶けるように消えられたら良かったのに、鎌に斬られて死ぬというのはごめんこうむりたいところだった。


 だがしかし、目があった瞬間にやりと口角を上げた死神の言葉は、少女にとって予想外のものであった。


「私と契約をしないか、ユアリアーナ・ブルディオ」

「契約……?」


 声など出ないと思っていたのに、自分でも驚くほどしっかりとした声が出た。死神が赤い目を細めてにやりと笑う。


「君の命を、私が生きながらえさせてやろう」


 少女は訝しげに男を見た。死神以外の何者にも見えないこの男の、命をながらえさせる契約など、信用ならないに決まっている。

 第一、自分などの命に何故死神が干渉するのか、理由がわからなかった。


 訝しげに自分を見つめ何も応えない少女に、死神は笑った。


「何を迷う必要がある? 私が君に命を与えようと言ってるのに」


 笑いながら紡がれる死神の声は、耳に心地よいものだった。少女はしかし、顔をしかめる。


「……契約なんてもの……死神との契約だなんて、ろくなものがあるわけないわ」


 それは奇妙な話だった。願いを叶える代わりにお前の命を――ではない。命をながらえさせてやるという申し出。

 しばし考えたのち、少女は口を開いた。


「条件は、何?」


 この死神が何を望むのか、何のために少女の命をながらえさせようというのか、その意図が全くわからなかった。


「条件?」

「そう、私を生きながらえさせて、貴方は何がしたいの?」


 大きな鎌を手にする相手に臆せず対話しているのは、すでに少女の身体がほとんど闇と同化し、完全なる死が近いせいなのかもしれなかった。

 四肢が完全に闇に溶けながらも、しっかりとした声を返す少女に、死神は微笑んだ。


「私は君が欲しいんだ」


 死神の言葉に、少女は言葉を失った。突如、死神の纏う雰囲気が変わる。ぞっとするような、冷たい闇をその身に纏ったかのように――。


「それに、君は生きたくないのか?」

「生きる……?」


 少女は霞んでいく意識の中、生きるということについて考えた。

 自分は死ぬ。死ぬということは生きているということだ。生きているから、死ぬ。だがしかし、少女には生きるという選択肢が与えられてこなかった。

 必ず死ぬ、二十歳まで生きられない、それが少女に与えられた宿命。だから、生きることに対して希望を持ったことがなかった。


「いいのか、そのまま消えて?」


 その生きるという選択肢が、今、この死の間際に与えられようとしている。耳に心地いい死神の声が、まるで魔法のように少女の心を犯していく。


「生きたくないのか?」


 消えゆく意識の根底で、少女は願っていた。


 願って、しまっていた。


「……生き、たい……」


 真っ暗になる視界の向こうで、死神の赤い瞳が確かに笑ったような気がした。




 誰かがすすり泣く声が聞こえる。一人だけじゃない、大勢の。

 酷く曖昧な意識が急激に浮上して、自分を自分たらしめていく。そして、ユアはその紫水晶の瞳を開いた。


「ユア……っ!」


 まるで幽霊を見たかのようなその叫び声に、ユアは未だ焦点の定まらない視線を向ける。自分の手を握って目を見開いているのは、トマスのようだ。


「ユアっ!」

「神様……っ」


 母親の声と父親の声が続いて、ユアに二人が縋りついたのがわかった。幾分しっかりしてきた意識と視界に、ユアは身体を起こそうとする。そんなユアを、アルティシアが抱きしめた。


「奇跡よ……本当に信じられない……っ」

「お母様……」


 父親であるディオロットも妻と娘を抱きしめて、歓喜の涙を流した。


「神よ、私はこの身を捧げても良い……! 本当にありがとう!」




 そんな、歓喜に沸いている人間達の様子を遠くから眺める赤い目があった。


 器用に木の枝に座り、鎌を片手で弄んでいる死神の一つに結われた長い髪を、風が弄んでいく。激しく降っていた雨も、いつの間にか止んでいた。


「おい、本当にこれで良いのか?」


 小さな羽音とともに、死神の前に茶色い影が現れる。それは、茶色い兎のような姿をしていた。背中に蝙蝠羽を生やし、長い耳の付け根に小さな角を生やした、金色の目を持つ兎。


「ディア、わかっているんだろうな、これからどうなるか……」


 ディアと呼ばれた死神は、口元に笑みを浮かべた。赤い瞳が、妖しく光る。


「覚悟など、とうの昔からできている」

「ディア……」


 その赤い視線が、目の前の屋敷の部屋を見つめる。そこで、家族と抱き合っている紫水晶の目を持つ少女――。


「これで〝月〟は私のものだ。あいつは〝月〟を手に入れるために、ありとあらゆる手を尽くそうとするだろうな」


 ディアの言葉に含まれた憎しみの匂いを敏感に感じ取り、兎は黙ってディアの隣に腰を下ろした。


「ブオ、怖いのなら逃げても良いんだぞ」


 ディアの言葉に、ブオと呼ばれた兎が鼻で笑ってディアを見上げた。


「誰に向かって口をきいている」

「ふ、私はてっきりお前が怖気ついたのかと思った」


 ブオは呆れたように肩をすくめた。


「それならば最初からついてきたりしていない」


 低い声で返したブオに、ディアは何も言わなかった。そして鎌を肩に担ぐと、軽い身のこなしで枝から飛び降りる。ブオもその後に続いた。

 音もなく地に降り立ったディアの肩に、ブオが乗る。二人が空を見上げれば、雲の切れ間に真ん丸の月が覗いていた。


「私は彼女のためなら、世界をも敵に回す」


 その月を見上げながら、ディアがそう呟いた。



 赤く煌く真ん丸の月が、〝月〟を持って生まれた少女ユアの生誕日を、不気味に笑って見守っていた。




 その報せを受けた男は、傍目には顔色も変えなかった。その様子を、臣下達が怯えながら見守っている。


「ディアが姫を横取りした、だと?」

「は、はい、ドルゴン様……ご法度である、命の契約をしたと、思われます……」


 王――ドルゴンは盛大に舌打ちをした。臣下達が身をすくめる。


「あいつは一体、何を考えているんだ!」


 まさしく咆哮と呼ぶに相応しい怒声が、窓を震わせた。その顔がみるみる怒りに歪められていく。


「天界を出し抜く好機だったのだぞ! 私は何度あいつに邪魔をされなければいけないんだ!」

「陛下、落ち着いてください……」


 怒りに任せた低い声のせいで玉間の天井が震え、石壁に亀裂が走った。頑丈にできているはずの、この部屋の壁が。


「黙れ!」

「がっ」


 ドルゴンが右手を振り払った。それだけで、ドルゴンを抑えようとした臣下が吹き飛ばされ、壁に身体を打ちつけられて気を失った。


「許さんぞ……、こんなことは、断じて許さんっ」


 唸るようなドルゴンの言葉に、その場にいた者達は震え上がった。




「ユア、本当に大丈夫?」

「ええ、お母様」


 荷物を荷台に積み終え、それでもなお出発を渋るアルティシアに、ユアは肯いた。


「私はもう大丈夫です。お医者様も、そうおっしゃったでしょう?」

「ユア、しばらく様子を見て、本当に元気になったのなら……一緒に暮らそう」

「はい」


 ディオロットがユアを抱きしめて、そう言った。



 奇跡的に息を吹き返したユアを、両親は真っ先に占術師にみせた。

 今まで何度占っても、二十歳までしか生きられないという結果が出ていたのに、今回、占術師はユアをみた瞬間、当惑の表情を浮かべた。


「闇の力が、強くなっております」

「というと……?」


 占術師の言葉に、両親に緊張が走った。


「以前は、闇の力が死へと向かっていたのに対して、今はその闇の力が生へと引き上げています」

「……どういうこと?」


 アルティシアが訊ねた。


「お嬢様は闇の力のお陰で生き延びている、ということです」


 その結果を聞いていたユアは、死の間際に見た死神のことを思い出していた。

 夢か幻かと思い始めていた、赤い瞳を持った黒い髪の死神。契約をしないかともちかけてきた、死神のことを。


「それでは、娘が死ぬことは……」

「死の影は、見えません」



 占術師の言葉に安心した両親は仕事に戻ることになったが、ユアは大事を取ってしばらくは屋敷に残ることになった。


 そしてこの日を迎えたわけだ。


「ユア、何か変わったことがあったら、いつでも連絡しなさい」

「はい」

「気をつけるのよ」


 アルティシアが、後ろで控えているトマスに頭を下げた。


「二人とも、お気をつけて」

「トマス、ユアを頼んだぞ」


 娘にキスをして、ディオロットとアルティシアは一抹の不安を残しながらも、屋敷を後にした。


 遠ざかっていく馬車を見つめていたユアは、そっとため息をついて屋敷に入ろうとした。と、そんなユアにトマスが声をかけた。


「ユア、これ、受け取ってくれないかな?」

「え?」


 ユアが眉をひそめてトマスを見る、怪訝そうな紫水晶の瞳は以前と何も変わっていなかった。苦笑したトマスが差し出したのは、蝶をあしらった、青みがかった紫の髪飾りだった。


「……これ」


 専用の容器に入れられたその髪飾りは、一目で職人の仕事とわかる最高級の品だった。


「少し遅れたけど、誕生日の贈り物」


 ユアは少しの躊躇の後、それを受け取った。


「ありがとう」

「気が向いたら、つけてみて」


 小さく肯いたユアに、トマスは微笑みかけた。


「それじゃあ、僕は帰るよ。近くにいるんだから、なにかあったらいつでも言ってきてくれてかまわないんだからね」

「うん」


 馬に乗って去っていく金髪の青年を見送ってユアはそっとため息をついた。

 ずっとユアに好意を向けてくれているトマス。そんなトマスに、今までユアはわざと突き放すような態度を取ってきた。それは自分に未来がないことを知っていたからだ。

 しかし、こうして思いがけなく命をながらえた今、トマスとどう接すれば良いのかわからない。

 トマスに難点はない。無愛想なユアにもいちいち優しく接してくれる。彼は貴族の出で、身分もしっかりしているので、ブルディオ夫妻も気に入っているのだ。

 もしもユアが本当にこのまま健康に過ごせれば、今まで考えもしなかった結婚という話になることもありえる。


 自分の部屋に戻ったユアは、ぼんやりと髪飾りを眺めていた。

 各所に円弧と直線があしらわれた白を基調とした部屋に、金色の大きな柱時計や暖炉がある。南側の硝子扉からは、森を一望できる陽台に出ることができる。

 無駄に広い部屋の隅には、豪奢な寝台があり、異国から輸入された黒い木の柱が目を引いた。


 ユアはそっと自分の胸に在る月の石に触れた。本当は、十八を迎えることなく死ぬはずだったのだ。あの闇の中で。

 全てを諦めていたはずだった。死ぬことは怖くなかったはずだった。それなのに、自分は死神と契約をした。

 死の間際で、生きたいと願ってしまっていたのだ。

 ユアは、そんな自分の願いが信じられなかった。あの時死んでいれば、何もかもが終わっていたのに。


「せっかくもらったんだ、つけてみたらどうだ?」

「っ!」


 突然部屋に出現した気配と聞き覚えのある声に、ユアは息を飲んで振り返った。ユアの後ろに立っていたのは、闇の中に現れたあの死神だった。

 ユアは距離をとりながら、その死神を見た。無意識のうちに、胸が大きく上下する。


 明るい部屋で見てみれば、死の間際ではほとんど闇に同化していた死神の姿をきちんと認識できた。

 漆黒の長髪を一つに結い、血のように真っ赤な切れ長の瞳、触れば千切れてしまいそうな襤褸布を纏っているのは、意外にも若く整った顔をした青年だった。

 闇の中で黒光りしていた大きな鎌は、今は持っていない。その代わり、死神の肩には角と蝙蝠羽の生えた兎が乗っていた。


「貴方……」

「なんだ、ユアリアーナ」


 両親ですら滅多に呼ぶことのない正式名で呼ばれ、ユアは顔をしかめた。


「その名前で呼ばないで。ユアで良いわ」

「そうか。私はディア。これは悪魔のブオだ」


 あっさりと言われ、ユアは少々拍子抜けする。ディアは人好きのする笑みでにっこり笑った。


「気分はどうだ? 変わったところはないか?」


 思いがけず優しい言葉をかけられ、ユアは咄嗟に答えられない。そんなユアの顔をディアが覗き込む。


「どうした?」


 そんな死神の馴れ馴れしい態度に、ユアはため息をついた。


「ごめんなさい、あまり、人と話すのは得意じゃないの」

「なんだ、よそよそしいな。命の契約を交わした仲だろう?」


 ディアににっこりと笑いかけられ、ユアは当惑する。すると今まで黙っていたブオが口を開いた。


「ディア、それくらいにしておけ。困ってるだろうが」

「なんだ、ブオには関係ないだろう」


 人間の言葉を話したブオに、ユアはその紫水晶の瞳を見開いた。


「喋った……」


 まじまじと見つめてくるユアを、ブオの金色の瞳が見返した。そしてディアの肩から飛び立つと、ユアの目の前に飛んできた。


「悪魔が喋るのが、そんなに珍しいか?」

「あ、悪魔なんて、初めて見たから……」


 ユアはぬいぐるみのような愛らしいブオの姿に、触れたい衝動を覚える。そんなユアに気づいたのか、ディアが笑った。


「何、噛み付かないから触ってみたらどうだ?」

「え、でも……」


 するとブオがディアを睨みつけた。しかし、その容姿のせいで迫力も何もない。


「勝手に俺の身体を触る権利を与えるな」


 拒否を示すブオの言葉に、ユアは残念そうにブオを見ている。そんな視線が気になったのか、ブオが耳を垂らした。


「そんなに触りたいのか?」


 遠慮がちに肯いたユアを見て、小さいため息をついたブオがユアに近づいた。ユアが恐る恐るブオを抱き上げる。


「わ、柔らかい」

「ぬ」


 嬉しそうにブオを抱くユアを見ていたディアがふっと微笑む。


「君は笑っていた方が良いぞ」

「え?」


 いつの間に近づいたのか、ディアがユアの顎に触れた。


「せっかく綺麗な顔をしているんだ。仏頂面でなく、もっと笑え」

「……貴方に、関係ないでしょう」


 ユアがディアの手を振り払った。


「ねえ、どうして私を生かしたの? 貴方の狙いは何?」


 ユアがディアを睨みつけた。


「狙い?」

「そうよ。私なんかを生かした、理由は何?」


 ディアは目を細めた。ブオはユアの腕の中で成り行きを見守っている。睨みつけるようなユアの眼光に、ディアは口を開いた。


「言っただろう、私は君が欲しかった」

「だから、どうして?」


 ユアはもちろん、その言葉を額面どおりになど受け取らなかった。


「説明になっていないわ」

「……君は、聡いな」


 ディアは諦めたようにため息をつき、ユアの胸元を指差した。


「私は、その月が欲しかった」

「え……?」

「だから、君ごと私のものにすることにした」


 意味が理解できず、ユアは眉をひそめる。ディアは意味ありげにユアを見た。


「君と私が交わした命の契約は、君の命が私のものになるというもの。私が生きている限り、君が死ぬことはない。誰かに殺されない限りはな」


 ユアが小さく息を飲んだ。そんな彼女の様子をよそに、ディアは続けた。


「私の命が尽きたとき、そのときは君の命もないがな」

「……それじゃあ、私は貴方のものになった、ということなのね?」

「ああ」


 ユアは寝台に腰を下ろした。そしてブオを膝の上に乗せる。そしてそっと自分の石に触れた。

 そんなユアにディアがそっと近づく。そしてその濃紫の髪に触れたかと思うと、いつのまに手にしていたのか、髪飾りをつけた。


「え」

「似合っている」


 ユアは訝しげに眉をひそめた。


「こんな綺麗なの、似合うはずはないわ」

「何故?」

「俺の目から見ても、似合ってると思うぞ」


 ディアが首をかしげ、ブオもそう言った。ユアは顔を背ける。そんなユアの髪を、ディアがなでた。


「私の可愛い姫」

「姫だなんて……」


 ディアはそのままユアの月に触れた。ユアの身体が電気に撃たれたかのようにびくりと震える。その月に、神経など通っていないはずなのに。


「なんで、この月が欲しいの?」


 ディアの放つ異様な雰囲気に気圧されたユアが、かすれた声を出した。


「これは私にとって、とても大切なものだからだ」

「この、石が……?」

「石ではない。これは、命の結晶だ」


 思いがけない言葉に、ユアは息を飲んだ。

 ずっとこの石のせいで長く生きられないのだと思っていた。これが闇の力の原因なのだと、勝手に思い込んでいた。それがまさか命の結晶だったとは。


「命の……?」

「そう、命の源となるものだ」


 ユアはそっと自分の石に触れる。


「知らなかった」

「大勢の者が、その月を手に入れたいと思っているんだ」

「貴方も、その一人なの?」

「……そうだな」


 ディアがユアの隣に腰を下ろすと、ブオがユアの膝の上からディアの元に戻った。

 隣に座っているのに、ディアは全く気配を感じさせない。そこに確かに存在して、触れれば感じられるのに、そこにいるのが全く気にならないのだ。


「変なの」

「何が?」

「……なんでもない」


 ユアは立ち上がって、部屋の隅にある本棚に向かった。本棚を埋め尽くすように並べられた無数の本から、一冊を選ぶ。そして陽の当たる場所に位置した卓子で読み始めた。


 それは奇妙で穏やかな時間だった。視界にさえ入らなければ、死神がそこにいることを忘れそうになるのだから。


「ふ、良い度胸だ」


 そう呟いたディアの声にユアは一瞥を向けるが、すぐにその視線は手元の本に戻される。


「だが、それでいい」


 死神と悪魔と、そして少女の奇妙な時間はそうやって始まった。




 木々が囁きあうように、闇夜の中でさざめいていた。風が枝をなでて吹き抜けていく。月のない空で、星達が競い合うように輝きあっていた。

 その夜に溶け込むように音もなく、木の上にただ立っていたディアに、ブオが話しかけた。


「姫の機嫌取りは、骨が折れるって顔だな?」

「いや……?」


 ディアが枝に腰を下ろして、ため息をついた。


「あの娘は生への執着が希薄だ」

「……そのようだな」

「契約が成立したんだ。ないというわけじゃないだろうが……」


 風が吹いて、雲が星を覆い隠していく。髪を風に弄ばれながら、闇に同化した死神は浮かない顔をしていた。

 その胸には己のものではない鼓動が、命の音色が確かに聴こえる。今にも消えてしまいそうな、弱く儚い音色が。


「私が近くにいないと、今にも契約が無効になってしまいそうだ」


 己の胸をかきむしるように告げたディアの言葉に、ブオが呆れたように鼻を鳴らした。


「これから荒れるだろうに、そんなことで生き残れるのか?」


 ディアはにやりと笑ってブオを見下ろした。右手を一閃すれば、どこからともなく現れる巨大な鎌。


「そのときは、この忌まわしい鎌の出番だろう」

「ふ、仕方ないな。付き合ってやるぜ、親愛なる坊や《ディアボーイ》」


 ブオのからかうような言葉に、ディアは眉をひそめた。そのとき、二人がいる木が風に煽られ、二人は枝に掴まった。

 二人の視線の先には、少女の眠る屋敷がある。闇の空を突き裂くように伸びた尖塔に、側廊屋根より高い円弧梁が空中に架かった飛梁。

 本来は聖堂などに使う建築様式を少女の屋敷に用いているのは、おそらく闇の力が強かった少女を聖なる力で守りたいという両親の想いの現われなのだろう。

 少女が暮らす屋敷を見つめる赤い瞳に、ブオが気づく。


「似ているよな、城に」

「ふん」


 ディアが顔をしかめた。奇しくも少女の屋敷に使われている建築様式は、彼の暮らしていた城のものと同じだったのだ。


「……忌まわしい」


 だんだんと強くなる風。それは、これから訪れる嵐の予兆だった。

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