1.新学期

Act.1クラスメイト


 桜が少しずつ散り始めたこの季節、今日からこの父親の母校でもある「東第一高等学校」の生徒となる時枝健ときえだたけるは、少しの緊張と大きな気だるさを持って校門を通過した。校門には学校の先生やら生徒会役員の生徒やらが立って、作り笑顔かと思うくらいの笑顔で新入生に挨拶をしていた。その挨拶に応えるように同じくらいの作り笑いのような笑顔で、新入生のその保護者達も会釈をしていた。しかし、健にはそうやって会釈を返す両親はなく、祖母と2人でこの新しい生活を送る校舎の校門を通過していたのだった。もちろん健もはじめから祖母と2人きりで来る予定だったわけではない。中学3年の夏、両親が離婚したのだ。原因は双方が冷めてしまったという何処にでもありそうな理由だった。そのおかげで父親の時枝隼人は実家へ帰るということになり、健は進学校希望であったため父親の実家からも近いということでこの高校へ進学を決めた。因みに母親の方は他に行く当てがあるということだったが、そちらでは健は引き取れないということらしく父親についていくことになったのだ。しかし健には母親に別の男が出来たのではないかということは何となく予想できていた。離婚する1年も前から父親が遅く帰る時の夜は家にいないことが多くなっていたのだから、まだ中学生の健でもおかしいとは感じていたのだ。もちろんこの高校でなくても他の高校を選ぶという選択肢もあったのだが、街からも遠く離れ周りを山にしか囲まれていないこの地域ではこの「東第一高等学校」の他には電車やバスを乗り継いで行ける高校しかなく、ここなら家から自転車で十五分程度だったので通いやすかったし、父親は自分の母校に息子が通うということで喜んでいたのでこれで良かったのかもしれないとも思えた。

 そういう学校だからなのか、この高校にはその地域の中学校からそのまま進学してきたという人も多いらしく、すでにいくつかのグループが出来上がっているのが校門前の雰囲気から分かった。保護者同士もすでにネットワークがあるようで入学式の初々しさのようなものがあまり感じられず、ただの華やかな集まりのようにもなっていたのだった。その中で健はすでに転校生のような浮いた存在になっているように思えた。中には健のような人も数名いたようだったが、大半はそうやって生徒も保護者もグループが出来上がっていたのだった。

 健は一年一組の生徒になったらしい。入学式の始まる前、一度その教室に通されるのだがやはりそのクラスでもすでにグループがいくつか出来上がっていた。恐らく同じ中学から上がってきたもの同士だろう。そんなクラスメイトを気にも留めず、健は自分の場所となる座席へと無言で落ち着いた。運よく窓側だったので次の指示が出るまで窓の外を眺めていればいい。学校自体はかなり広く、窓から見えるグラウンドもかなり広かった。通常使うグラウンドであろう場所の他にも、奥に野球部が使うグラウンド、テニスコートも見え、体育部はいい環境にあるのだろうと思った。メインのグラウンドの両端には桜の木が立っており、まだきれいな花を咲かせていた。健は窓の外を眺めていると、突然声をかけられた。

「健君?」

健にはそうやって声をかけられる友達など居るはずもない。一瞬幻聴を聞いたのかとも思ったが、その声に反応して振り返るとそこには一人の女子生徒が立っていた。

「健君でしょ?覚えてるかな。皐月、皐月絵梨さつきえり。」

「皐月…さん?」

健は少しの間彼女を見つめ、自分の記憶の中に「皐月絵梨」という人物を探していた。

「最後に会ったのが小学1年生くらいだったから忘れちゃってるかもね。私も座席表の名前見て気付いたんだ。一緒の幼稚園だったでしょ?」

そこまで聞いてようやく健は思い出した。健が生まれたのはこの町で、幼稚園を卒園するまではこの町に住んでいて、その時よく一緒に遊んでいたのが「皐月絵梨」だった。その後一度父が帰省した際に少し会ったのが最後だったので、顔までははっきりと覚えていなかった。

「ああ、皐月絵梨さん。俺も名前は覚えてるんだけど。」

「そりゃそうだよね。あれから何年もたってるんだもん。もう変わっちゃってるからわかんないよね。」

そう言いながら絵梨は健との再会に何か特別なものを感じているようだった。

「この高校、地元の中学校からそのまま上がってくる生徒多いから、なかなか輪に入りにくいでしょ?そうだ、もう一人会わせたい人居るんだよね、ちょっと待ってて!」

そういうと絵梨はバタバタと反対の廊下側に固まった男子グループの方へ行き、その中の一人に何かしら声をかけ、一人の男子生徒を連れて健のもとへ戻ってきた。

「覚えてる?広樹も一緒の幼稚園だったんだよ。」

「広樹…?」

健の元へやってきたのは、小麦色に焼けた肌に短髪で、体はがっちりとしているもののその身長の高さからそのがっちりした身体を感じさせない整った体のつくりをした男子生徒だった。

小川広樹おがわひろき。俺もはっきりは覚えてないんだけどさ、健、名前は覚えるぜ。」

確かに健もはっきりとは覚えていないもののその名前は何となく覚えていた。

「まぁいいや、とりあえず一緒のクラスになったんだしさ、仲良くしようぜ。な、健。」

広樹もまた嬉しそうな顔で健を見ていた。

「そうだよ。幼稚園の時一緒だったメンバーがまたこのクラスでも一緒になれたんだからさ、仲良くしよ。」

「あ…うん。ありがとう。」

急な展開に健は乗り遅れながらも、自分のことを知っている人に出会えたということに喜びを感じていた。

「健もこっち来いよ。俺達の中学からの友達、紹介するからさ。」

そう言って広樹は健を廊下側の輪の方へ誘った。しかし、健は人見知りのせいもあってか少し戸惑った。そのうち輪の方へ戻った広樹はそこから健を呼んだ。

「ほら!こっち来いよ!」

輪になっていた5、6名の男子生徒が一斉に健の方を向き、その瞬間健は急に緊張した。そういえば、健は幼稚園卒園後以来引越しの経験がないため転校なんてしたことがない。転校生というのはこういう気分なのだろうか。

「あ、うん…。」

戸惑いながらも健は席を立って広樹の居る輪の方へ向かった。そこには絵梨もいる。

「俺達皆同じ中学から来たんだ。他の高校行った奴も結構いるけど、半分くらいはここに来たんだぜ。」

「そうそう。特にこのクラス固まったよな。あ俺、久永潤ひさながじゅん。よろしくな。」

広樹の向かいに居た眼鏡をかけ、笑うとその目が大きく目立つ細身の生徒が健に自己紹介をした。

「あ、よろしく。」

「わざわざ遠くの高校に行くのも面倒だからな。ここなら俺達の中学の地域から自転車でも20分くらい。バスも出てるし、第一の方がいいよな。あ、俺は中村誠なかむらまこと。よろしく。」

今度は潤の隣の少し小太り短髪の男子生徒が自己紹介をした。

俺佐仲均さなかひとし、ヨロシク!」

更にその隣に居た、少し髪の色が明るめのやんちゃそうな生徒が挨拶をした。

「こいつチャラいから気を付けてな。」

潤が少し呆れたようにそう言った。

「おいおい、失礼だな。チャラいってなんだよ。あ、そういえばお前ら見たか?隣のクラスの早坂香織はやさかかおりって子、めっちゃ可愛いんだぜ!隣の中学だったみたいなんだけど、そこでも可愛いって人気だったんだって!」

「だからそういうのがチャラいって言われんだよ!」

さらに潤がそう言う。

「可愛い娘がいたら男としてじっとしてられないだろ!そうだ!さっそく挨拶でもしてくるかな!」

そう言ってニカッと笑うと、均は勢いよく教室を出て行った。

「ったく…ほんとあいつ女好きだよな。」

今度は広樹がそう言った。

「だけどあいつ、彼女出来ないんだよな。ガッツき過ぎなのかな?」

誠の隣に居た坊主頭で身長の低い男子生徒がそう言う。

「あ、俺は高山貴之たかやまたかゆき。よろしく。」

「よろしく。」

「ほら、最後はお前。」

貴之が健にそう言ってきた。

「え?」

「え、じゃなくて、自己紹介しろよ。」

「あ、ああ。俺時枝健。親の都合でこっち引っ越してきて、この高校に通うことになりました。よろしくお願いします。」

「健…。よろしくな。」

貴之はその身長に似合わない様な鋭い視線の笑顔でそう言ってきた。

「そうだ、そう言えば明日から早速部活動、体験入部始まるんだって。もちろん、皆明日から野球部行くよな。」

そう切り出したのは誠だった。

「もちろんだ!野球部入って甲子園目指すぜ!!お前もそうだろう?」

と広樹は貴之に言う。

「おう。俺は甲子園目指すために高校入ったようなもんだからな。」

嬉しそうに貴之は言った。

「でもこの高校、いままで甲子園行ったことないからな。いいのかそんなに期待して?」

潤がそう言うと、貴之は興奮気味に、

「なーに弱気なこと言ってんだよ!それを俺達の代で変えるんだよ!甲子園行ってやろうぜ!あるだろ、無名の高校がいきなり甲子園行くってやつ。それだよそれ!!」

貴之は興奮気味のまま言う。

「お、いいねぇ!甲子園目指すか!!健は何か部活するの?俺達は皆中学から野球部だったから、高校でも野球やろうぜって言ってたんだ。」

広樹がそう健に聞いてきた。

「今のとこ考えてないかな…。俺も中学で野球部には入ってたけど…。」

「お!!じゃあいっしょに野球部入ろうぜ!!一緒に甲子園目指そうぜ!!」

更に興奮した様子を見せる貴之が健にそう言ってきた。

「そう…だね。体験入部くらいなら行ってみようかな。」

野球が大好きというわけでもないが、なんとなく中学まで続けていた野球も楽しかったし、道具も揃っているので野球部へ行くのには何の抵抗もなかった。せっかく知り合えた友人達に誘われているのだから行ってみようかと思えたのだった。

「じゃあ明日から行くか!」

広樹も健が一緒に野球部へ行ってみるというので嬉しそうだった。

「うん。分かった。じゃあ明日道具とか持ってくるよ。」

健も少しではあるがその輪に慣れてきたようだった。

「よかったね、健君!」

輪の隅でやり取りを聞いていた絵梨も健が少し馴染んだ様子が嬉しいのか、にこにことしている。

 やがて教室に先生らしき人物が入ってきて、入学式が始まるため講堂へ行くよう指示があった。






Act.2 鈴


 午前11時30分、東第一高等学校入学式は予定通り行われ、真新しい制服に身を包んだ生徒達は吹奏楽部の歓迎の演奏に包まれ講堂を後にした。その日はそれからクラス担任の紹介、クラスメイトの自己紹介、事務連絡があり下校となった。

 健は新入生で溢れる下駄箱で上履きからスニーカーに履き替え、祖母は先に帰っていたので一人朝入ってきた校門を出て行こうとしていた時だった。

「時枝…君?」

健は誰かに呼ばれた。今日はよく名前を呼ばれる日だと健は思った。呼ばれた方を振り返ると、そこには女子生徒とその母親が立っていた。どうも健を呼び止めたのは母親の方らしい。

「ごめんね、急に呼び止めて。時枝健君、だったわね。」

「は…はい。」

よく見るとその女子生徒は健と同じクラスになった如月沙羅さつきさらだった。制服と正装という服装で親子だと分かるが、一見すれば姉妹のように見えるほど母親の方も綺麗な人だった。背丈は沙羅と同じくらいで、母親の方が少し低いが、顔や体系はほぼ二人とも一致した。

「今日、隼人は…お父さんはどうしたの?」

母親の方がそう聞いてきた。健は自分の父親の名前が出てきたことに少し驚いた。知り合いなのだろうか?

「父さんは、今日は仕事で来られなかったんです。」

「そう…。」

健がそう言うと、沙羅の母親は少し遠くを見たようなぼんやりした表情から、その眼球だけを健の方に向け怪訝そうな表情に変化した。その表情から健は、自分の息子の入学式よりも仕事を優先した父親への非難が感じられた。

「あ、それが…本当は向こうの会社を辞めてこっちで仕事を始めるつもりだったらしいんですけど、どうしても最後に片付けなければならない仕事があるとかで、今日はその仕事の大切な会議が入っているそうなんです。俺は大丈夫です、ばあちゃんもさっきまで来てくれてましたし…。」

「そう…なの…。お父さん、いつ頃こっちに戻って来れるか言ってた?」

「いえ、何も。なるべく早く片付けたいとは言っていましたけど、はっきりとは。」

それでも府に落ちないのか母親の表情は変わらないままだったが、その表情を見ている健に気が付き母親は表情を戻した。

「あ、ごめんなさいね、急に呼び止めておいて…。覚えてないわよね…最後に見たのは健君が幼稚園に行ってた時だものね。」

まだ記憶が定かでない時に出会った人々と再会するとはこういうことなのだろうか、また以前会ったことがある人らしいのだが、健ははっきりと思い出すことが出来ない。

「私、お父さんの同級生で如月鈴きさらぎすずといいます。まさか今回健君と沙羅が同じクラスになるなんて、少し驚いて。隼人も今日来てるのかと思ったんだけど、探しても見当たらなかったから。大事な仕事じゃ仕方ないわよね。健君、これから沙羅のこともよろしくね。」

「あ、いえ、こちらこそ。よろしくお願いします。」

すると今まで黙っていた沙羅が、健の方に向き直り顔を上げた。

「時枝君、あなた、野球部には近づかない方がいい…と思う。」

沙羅は健にそう言った。

「え…?」

しかしその沙羅の整った肌の白い顔の目は、健ではなくその先を見ているようだった。そう感じた時、健は一瞬背中のあたりが冷やりとしたような気がして身体が硬直した。尚も沙羅の目は健の顔の先を見つめ続けている。実際にはほんの数秒だったのかもしれないのだが、その時間が長く感じられた。

 その時だった。健はまた誰かに呼ばれた。

「おーい!健!」

その瞬間背中に感じていた寒気も消え、身体の硬直も解けていた。健を呼んだのは広樹達だった。

「時枝君、また明日ね。」

沙羅の目線はいつの間にか健へとしっかり向けられていた。それから鈴と沙羅は健に一礼して校門を出ていき、健はその後ろ姿をじっと見つめていた。

「今の、如月か?」

気が付くと真後ろに広樹が立っていた。

「あ、うん…。」

「あいつも一緒の中学だったけど、悪い奴じゃないんだけどなんだかとっつきにくいんだよな。」

そう言ったのは潤だった。

「だけど、見た目は綺麗なんだよなぁ。あの美白肌、あれは誰にも真似できねぇな。もうちーっと明るければ最高なんだけどな。」

今度は均が、まだ遠くに見える如月親子の後ろ姿を見ながら言う。

「お母さんも若いころは絶対に綺麗な人だったんだぜ。」

「お前は女なら誰でもいいって感じだな。」

広樹が呆れた顔で言う。

「失礼な!!誰でもいいとか、俺そんな軽くねーよーだ!」

「「軽いよ!!」」

全員一致の答えだった。健はそんな光景を見ていると、さっき感じた嫌な感覚も直ぐに忘れてしまい、なんだか重かった気持ちも、これからの高校生活への期待に変わっていた。

 他の親達は元々仲が良く何処だかにお茶会をしに行ったということで、健は帰る方向が同じの6人と帰ることにした。






Act.3野球部


 入学式の翌日、健達は早速放課後に野球部の体験入部へと向かった。一週間ある体験入部の初めの頃はどの部活に入るか迷っている生徒で入れ替わりが激しかったが、後半はほぼ入部を心に決めた人ばかりが残っていて、もちろん健達一組の6人は全員残っていた。

 そうして体験入部期間が終わると、今度はこの学校の伝統で全部活入部式というものがあるらしい。野球部には最終的に20名ほどの新入部員がいた。日曜日で授業のないこの日、野球部も入部式が行われていた。まだユニフォームを貰っていない生徒達は中学から持っている練習着を着ている人もいれば、真新しい体操着を着ている人もいた。新入部員は野球グラウンドのほぼ真ん中に一列に整列をさせられ、先輩部員が来るのを待っていた。

 やがてグラウンドの部室棟の方から先輩部員たちがぽつぽつとグラウンドへやってくるのが見えてきた。やはり新入部員とは違い、洗濯しても落ち切れない土埃のしみ込んだユニフォームに、つばの曲がった野球帽、年季の入ったスパイクという姿でやってくる先輩達はとても勇ましく見え、グランドへ入るたびに脱帽し、一礼をしている姿も新入生たちにはかっこよく見えていた。ひそひそとお喋りをしていた新入部員達もその先輩の姿を見て圧倒され、一瞬で緊張感が高まった。先輩達はやがて新入部員たちの前までやってくると、当たり前のようにそれぞれの定位置らしきところへ整列し、新入部員と向き合う形となった。数名の先輩部員が遅れてグラウンドに入ってくるのが見える。

「おーい、急げ!!新入部員はもう来とるんぞ!!」

列のほぼ真ん中に居た先輩部員が叫ぶと、遅れていた部員たちはダッシュで列に加わった。更にその後から年配の先生らしき人と中年くらいの先生、一見すれば先輩部員と間違えてしまいそうな若い先生がやってきて、それを見た先輩部員達も更に緊張感を漂わせていた。先生達は列の横の方で入部式を見守る形となった。進行は全て先輩部員たちが行うらしい。

 全員が揃い、グラウンドが静寂に包まれた。そこで口を開いたのは先ほど叫んでいた先輩だった。

「全員揃ったか!それじゃあ今から東第一高等学校野球部!入部式を行う!」

先輩の方も緊張しているらしいことが伝わってくる。

「それじゃあ早速、自己紹介から入る!俺は今期野球部主将の飯田賢人いいだけんとだ!生徒会でも体育委員長をやってる、よろしくな。続いて3年生から順に自己紹介!」

 そうして約50名ほどいる先輩部員の自己紹介が行われたが、もちろん一度では顔と名前など一致するわけもの無く、主将の名前さえ忘れてしまいそうだ。続けて新入部員も一人ずつ自己紹介をさせられた。その後には顧問の先生方の紹介や部活動の簡単な説明が行われた。

「それじゃあ次に断髪式だ!」

賢人が叫ぶ。どうもこの野球部の伝統として、入部式の日に先輩からバリカンで坊主にして貰うのが伝統らしい。ほとんどの人はそれを心得ていたらしいが、全く心の準備が出来ていなかった健は一瞬驚いたが、中学の時も坊主にしていたのだからそんなに抵抗はなかった。また、この断髪式は一人の新入部員に一人の先輩が付くらしく、バリカンも相当の数が準備されていた。このバリカンもまた年季が入っていて、壊れては買い足したのだろうか、種類もバラバラだった。健には3年のキャッチャー、伊藤圭太いとうけいたが着いた。キャッチャーにしては細身だが身長は高く、バリカンを持って健の前に立つと目の前に圭太の胸の辺りが来るくらいだった。

「これからよろしくな。君の名前は…えっと…。」

圭太もやはり新入生の名前は覚えられていないらしい。

「時枝健です。よろしくお願いします!」

「時枝君か。ポジション希望は?」

「中学の時にキャッチャーやってたんで、高校でもそっちで行こうかなって思ってます。」

すると圭太は同じポジションの後輩が増えるのが嬉しいのか、表情を明るくさせた。

「そうか。俺もキャッチャーなんだ、いろいろ教えてやるからな。覚悟しろよ!」

健もその言葉に身が引き締まる感じがした。

「はい!」

「じゃあ、行くぞ!」

 入部式を終え、坊主頭になった新入部員たちは部室棟へと連れていかれた。部室棟は野球グラウンドから少し離れており、学校のグラウンドからピロティへ入ったその奥にあった。同じ部屋が横一列に並んでおり、人数の多い野球部は向かって左端の2部屋を使っていて、新入部員は一番端の部屋へ案内された。部室の中は普通の教室の半分くらいの広さで半分は練習道具が綺麗に整理された状態で置かれ、その反対側にロッカーが並べられていた。

「道具の管理手入れは主に一年がやる。だから一年はこっちのロッカーを使ってくれ。」

案内してくれた先輩部員の安原高英やすはらたかひでが説明してきた。もう片方の部屋はロッカーだけが並べられ、完全に更衣室として使われているがそちらは2年生と3年生専用らしい。

「自分のロッカーを決めて、そこに荷物を入れたらグラウンドに集合しろ。いいな。」

「「はい!!」」

と全員が声を合わせ返事をした瞬間に全員がロッカーの方へとダッシュし、自分のロッカーを確保していく。一瞬怯んでしまった健は出遅れてしまい、気付いた時にはほとんどのロッカーが埋まろうとしていた。健も急いで空いているロッカーを目で探し、一番左上のロッカーが誰にも手をつけられていないことに気が付き飛び付いて行った 。

 その瞬間だった。

「おい!!そこは…。」

その様子を見ていた高英が一瞬声を上げた。しかし健はロッカーを確保するのに必死でその声を聞いていなかったが自分に向けられた視線に気が付き、飛び付いた勢いでロッカーを開けた直後高英の方に振り返った。するとそこには目を見開き、驚いた表情の高英が立っていた。その時、健はおかしな感覚に囚われた。高英が止まっている。

「え?」

健は一瞬何が起こっているのか分からなかった。

「は…や…と…。」

自分の真後ろから声が聞こえてきた。明らかにロッカーの中からだ。健がはっと振り返るとその光景に目を疑い全身の毛が逆立つのを感じ、計り知れない恐怖に襲われた。声のしたロッカーの中から黒い影が、まるで炎のように勢いを付けて出てこようとしていたのだ。その影は自分のことを招いている手のようにも見え、徐々に健に近づいて来ているようだった。あまりの恐怖に周りに助けを求めようとしたが声も出ず、他の皆がいる方へ目を向けるとそこには今までいた生徒の姿はなく、人の形のように見える縦長の黒い影が無数にあった。その影達はその場でゆらゆらと蠢き、徐々に健の方へと向こうとしているのを感じた。目の前のロッカーからは尚も健の方へゆっくりゆっくりと伸びる影、こちらへ向こうとしている影、健はその恐怖に身動き一つ、瞬き一つ出来なかった。

「隼人…どうして…。」

健はその声に振り向くと、高英の居たところに高英ではない別の人物が立っていた。しかしその人物はぼんやりとしており、健はその顔を把握することが出来なかったがその顔は明らかに健のことを睨んでいるように感じた。その人物もまた、健の方へと近づいて来ている。健はようやく目をギュッとつむることができ、その恐怖に耐えることにした。

「おい!健急げよ。」

その声に目を開けると、隣に居た広樹がグローブを持って健を見ていた。

「早く行かねぇと先輩に怒られるぞ。」

高英はいつの間にか居なくなっており、1年生はロッカーに荷物詰めて部室を出ていくところだった。

「あぁ…悪い。」

健も急いでかばんや制服をロッカーに詰め込み、グローブを持って広樹と野球グラウンドへと向かった。

 あれは一体何だったのだろうか。健はまだ恐怖を残したままだったが、練習を行っているうちにその恐怖も薄れていっていた。

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