壁裏ロジック

鶴田昇吾

0.青春の壁

 学校というものには、何とも言えない不思議な雰囲気の場所や特別な場所というものがたいてい存在するものであり、それは個人によっても違うであろうし、地域や年代によっても変わってくるかもしれない。それは例えば実験室やトイレ、体育館や美術室、部室、食堂といった学校という場に存在する独特の場所であったりするのであろう。また、そこにはその学校の「噂」や「言い伝え」、「怪談話」など誰が言い始めたのかは分からないがいろいろなものが付いてくる場合もあり、それはその学校独自の一つの「文化」みたいなものになっている。

 今、時枝隼人ときえだはやとが立っている校舎の壁と講堂の壁に囲まれたこの場所も、何かを感じさせる不思議な場所なのだ。隼人の母校「東第一高等学校」へ帰ってくると必ず自然と隼人の足はこの場所へと向かっている。もちろんそこに用事などないし、特別な思い出があるわけでもない…はずだ。そのはずなのだが…なぜだろう、この場所に来ると隼人は、大切な何かを置き忘れてしまったような気分にさせられる。隼人にとってここはそんな不思議な場所なのだが、昔からこの場所に「噂」や「怪談話」がなかったわけではない。

学校の奥の方、2階部分が講堂、3階部分は食堂になっている建物の1階部分を奥へ行くと、茶道部の使う和室とそれに併設された小さな日本庭園があり、整備もされていてそこにある小さな池には隼人が通っていた時代には数匹の鯉が泳いでいたのだが今では底の見えないほど水も濁ってしまい、鯉はもういないようだった。この池にも怪談話があり、向かいにあるトイレで工事の際に作業員が亡くなったとかで、その池からその作業員の幽霊の手が出てきて池に近づくと引っ張り込まれるというものだったが、それを実際に見た者や体験したという話しは聞いたことはない。その先はピロティに併設された体育部の部室棟の端っこに繋がっており、そこには水場があるのだが、サッカー部やらラグビー部やら野球部やらがそこでよく泥を洗い落としているため、元々はコンクリートだった部分にその部員達の汗にまみれた泥が蓄積され、あまり近づきたくない場所となってしまっている。その手前から右側の方は日本庭園の垣根に邪魔されていて行き止まりのようになっているが、そこの僅かな隙間を十数メートル行くと丁度体育部の部室棟の裏に当たる場所に出る。そこの講堂側には上階と同じくらいの広さの倉庫があり、学校のイベントの際に使うテントやらが収納されているが、こちら側はからは搬出が出来ないため搬出の為の大きな扉も閉め切りとなっている。3方を壁に囲まれ、奥には気味の悪い庭園しかないこの場所は、学校の中では完全に死角となっていた。なぜそんな場所に隼人は自然と向かってしまうのだろうか。

 考えても仕方がない。数十年考えてもその答えは出てこないのだから。ただ事実としては「ここが隼人の母校であること」と「間もなくその息子がそこの生徒になること」だけだった。そう、自分の息子が母校に通うことになったのである。それなりの進学校でもあるため、父親としてやはり嬉しい。

 そうして隼人がその不思議な場所を立ち去ろうと校舎の壁に背を向けた瞬間だった。隼人は今までに体験したことのないような寒気に襲われた。確かに4月でまだ肌寒さも残る時期ではあるが、それとは違うただならぬ雰囲気を感じた。何かが隼人に向かって迫ってくる。それは力強く、重苦しく、まるで何か自分に訴えかけているように思えた。憎悪の念だとかそういうものとはもしかしたらこういうのを言うのかもしれない。とにかく隼人にとっては初めて体験する感覚であった。今後ろを振り返ってはいけない。よくそういう話しを聞くが、当に今がその瞬間だった。

「はや……………と………………。」

その背後で声がした。はっきりとは聞き取れなかったが、今聞いたのは自分の名前だということは隼人にも分かった。しかもその声は初めて聞く声のはずなのに、どこか懐かしく記憶に訴えかけてくるような声だった。隼人はその瞬間壁の方を振り返らなければならない気がして、その声に応えるように壁の方を振り返るとその瞬間、隼人はその場で凍りついてしまった。そこに見えたのは壁の前に蠢く黒い「影」だった。まだ桜の咲くこの学校には似つかわしくないその影は、影なのか黒い霧なのかどう表現していいのか分からないが、人の形のようにも縦長のただの塊のようにも見え、その影は顔があるわけでもないのだがどうしても自分のことを見つめているような気がしてならなかった。更に今自分が向き合っていた壁からは同じような影らしき物体が、無数に出てこようとしている。それはまるで人の手のようにも見え、その壁の方へ招き入れようとしているようにも見えた。

 隼人は凍りついていた。逃げも出来ず、目の前の人らしき形をした影から視線を外すこともできず、ただただその影と見つめ合うことしかできなかった。しかし恐怖心はなかった。寧ろ目の前にいる影がとても懐かしく、親しくも思えたのだ。やがてその影はゆっくりと壁の方へ滑るように入って行った。その瞬間、隼人ははっと我に返った。今影の消えていった壁はいつのも壁で、今見たあの光景が夢だったのか現実だったのかも隼人は分からなくなってしまっていた。そして遅れてやってきた恐怖心に、隼人は足早にその壁から離れて行った。

 何か嫌な予感がする。もうすぐ息子がこの学校へ通うというのに、何かが起こる気がしてならない。しかし、隼人にとってあの場所とは一体何なのであろうか。なぜあの場所へ自然と向かってしまうのか、そしてあの影は一体何だったのだろうか。隼人は何かを思い出そうとしていた。それは忘れてはならない記憶にも関わらず忘れてしまった記憶であり、その記憶を思い出そうとしているということはやはり何かを記憶していたというのだろうか。しかし、必死で過去を振り返り、思い出そうとしてもどうしてもそれを思い出すことはできなかった。


 記憶なんていうものは都合のいいように書き換えられてしまうもの。そこにあるのは事実か真実か。記憶は真実を生み出すことはできるが決して事実を生み出すものではないのだ。

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