2.開かれた扉
Act.1 喫茶店情報屋
午後のピークが終わった喫茶店情報屋。田舎町のバス停前にある小さなこの喫茶店を営んでいるのは生まれも育ちもこの町の
伊都子がふと時計を見ると、時刻は午後4時半頃だった。手際良く洗い物を済ませると、この日は菜の花をたくさん仕入れていたのでお通しに菜の花のお浸しを作ろうとしていた。大きめの鍋に水を入れて火にかけ、その間にナッツの盛り合わせやチーズの盛り合わせの準備をしようとカウンターテーブルの逆側にある食器棚の方へ振り返り、お皿に手を伸ばした時だった、伊都子の頭の中におかしな映像が入りこんできた。
頭の中に浮かんだ映像が恐らく近くの東第一高等学校であることはすぐに分かった。しかも現在のものではなく、伊都子がこの高校に通っていた頃の風景だ。伊都子は教室からグラウンドを眺めていて、そこから見える景色が現在と違っていたのだ。グラウンドには3人の生徒らしき人物がいて、2人は男子、一人は女子だと分かるのだが、少し遠くて顔までは判別できず、更には頭の中の風景の全体が夢の中のように歪んでいてそれが誰なのかは分からない。2人の男子生徒は詰襟の制服姿でキャッチボールをしているようで、女子はその様子を眺めているようだった。その映像にしばらく動けずにいると、伊都子の背後に明らかな人の気配を感じて振り返った。すると一瞬頭の中の風景と今の風景が重なり、目に映ったのは喫茶店の店内ではなく教室だった。その教室の入り口に誰かが立っているのが分かったが、それを把握しようとその人物に近づこうとした瞬間、目に映る光景はいつもの喫茶店の店内へと戻っていた。
なぜ昔のことを思い出してしまったのか。昔のことにしてもあの光景は自分の記憶の中には無いように思えた。高校生なんてもう何十年も前のことで、もしかしたら3年間の高校生活の中であの光景を見たことがあったのかもしれないがはっきりとした記憶はない。伊都子はあまり気には留めず、仕込みの続きに戻った。
仕込みもひと段落する頃、時計を見ると6時半だった。早ければもう30分くらいでお客がぽつぽつと入り出す。伊都子は近くの椅子にふっと腰掛け、一息つくとカウンターに置いてあった煙草の箱とライターに手を伸ばしそこから煙草を一本取り出して火を付け、深呼吸をするように煙を吸い込むと、続けてスーッと煙を吐き出す。その時店のドアが開く音がした。
「なんだ、早いね。」
そう言いながら伊都子が入り口の方を見ると、坊主頭の集団と女子1名がぞろぞろと店の中へ入ってきた。
「姉さんこんちわっす!!」
元気な声を出して入ってきたのは広樹だった。
「なんだお前達かい。お、坊主頭になったってことは、皆また野球部に入ったんだね。」
伊都子から見れば5人のクリクリの坊主頭が初々しくて可愛く見えた。
「絵梨ちゃんも一緒なのかい?」
「ええ、私、野球部のマネージャーやることにしたんです!」
絵梨が嬉しそうに言う。
「あれ?絵梨ちゃん茶道はもうやめるのかい?」
「いいえ、茶道部と兼任でやっていきますよ。野球部の部室のすぐ近くが茶道部だしね。」
「そうかい、それはよかったね。」
「姉さん!いつものよろしく!!」
そう叫んだのは誠だった。
「はいはい、姉さん特製のスタミナドリンクね。ちょっと待ってな。絵梨ちゃんもいる?」
「はい!」
そういうと伊都子はグラスを準備し始め、グラスの数を数えている時健に気付いた。
「あれ?そっちの子は、新しい友達かい?」
「健だよ、時枝健。幼稚園まではこっちに居たんだよ。」
と広樹が伊都子に紹介する。様子だけをずっと伺っていた健は、自分の名前が呼ばれたことにはっとした。
「あ、時枝健です…。よろしくお願いします。」
伊都子は少し驚いたような顔で健を見つめていた。
「時枝君って…隼人の?」
「あ、はい…そうです。」
「私、隼人の同級生なんだ。あんたが隼人の息子なんだね。そう言えばまだちっちゃい時に何度か会ってるんだけど、こんなに大きくなってたんだね。隼人は元気なのかい?」
「あ、はい。今はまだこっちに来ていませんけど。」
と言うと伊都子は驚いたような顔を見せた。
「何かあったのかい?」
「ええ、向こうでまだ仕事があるみたいで、それが片付いたらこっちに戻ってくるって。」
「そうかい、だったら健君も寂しいね。」
と伊都子が言うと、健は「いえ」と小さく会釈をした。
「さ、じゃあ伊都子姉さん特製のスタミナドリンク飲ませてやるから。」
そう言うと、グラスをもう一つ出し、手際良くグラスに白濁色の液体を注いでいく。
「特製ドリンク、美味いんだぜ。飲んだら健もはまるぞ。」
伊都子の手元を見ていた健に、貴之が話しかける。伊都子はそのグラスを皆の前に置いていく。
「はいよ、どうぞ。」
「よし!じゃあグラス持って、俺達の高校生活のスタートに、カンパーイ!!」
そう言ってその場の音頭を取ったのは広樹だった。乾杯と同時に皆グラスの中身を飲み干していく。健も液体の正体が分からず恐る恐るではあるがぐっと飲んでみた。口に入った瞬間、その正体が乳酸菌飲料の部類であることが分かった。
「どうだい、健君。中身はどこにでもある乳酸菌飲料に牛乳を混ぜただけなんだけどね。カルシウムはたっぷりさ。」
伊都子がにこやかに液体の正体を説明してくれた。
「あ、おいしいです。」
「そうだろ!やっぱ練習の後にはこれが一番だぜ!」
貴之が唇に特製ドリンクの跡を付けたまま健にそう言ってきた。
「そうだね。」
「そういえばさ、今日安原先輩に練習付いてもらった時に聞いたんだけど、健が取ったロッカーあるだろ?」
飲み干したグラスをカタッと音を立てて置いた均が健の方を見ながら言ってきた。
「あのロッカーさ、今まで開かずの間だったんだって。」
「開かずの間?」
その不思議な言葉に健は聞き返す。
「そう、いつの頃からかは分からないんだけど、あのロッカー開かなくなったんだってさ。」
その話を聞いていた伊都子が、目を輝かせながら話に入ってきた。
「その話知ってる!野球部の部室にある開けてはいけないロッカー。それって一番左端の部屋にあるロッカーの左上でしょ。あのロッカーには学校で自殺した生徒の霊が封印されてるとか、一番酷い噂じゃ、あの中に野球部で酷いいじめを受けた部員の生徒の死体が詰め込まれてるんじゃないかとか、色々噂はあったよね!健君そのロッカー開けちゃったの!?」
「姉さん…すげーな。知ってたんだ。」
均が驚いた表情で言う。
「当たり前でしょ、この店の名前は情報屋、そう、情報屋の伊都子と言ったら私のことでしょ!ところで健君!ロッカーの中、見たの!?」
その時健は、ロッカーを開けた時に見たあの光景を思い出した。ロッカーから出てこようとする不気味な黒い影、迫ってくる影、誰かを呼ぶ声。しかし健はそのことを話したところできっとバカにされるだろうと思い、話さなかった。
「いえ…特に何も…。あ…そう言えば…。」
影の他に思い出したことがある。練習が終わって部室で自分の荷物をロッカーから引き出していると、見慣れない巾着袋が落ちてきた。自分のものではないので恐らく以前使っていた人が忘れていったものだろうと思っていたが、バタバタとしていたのでそのまま自分のカバンに突っ込んでしまっていた。足元のカバンからその巾着袋を取り出すと、隣でその様子を均が不思議そうな顔で見ていた。
「それなんだ?」
と目を細めながら均が見てくる。
「これが…ロッカーに入ってたんだけど、何だろう?」
「ちょっと貸してみ。」
と均がその巾着袋を手に取り、躊躇なく開いていた。その瞬間均の顔色が変わり、そのまま固まっていた。
「なんだよ…これ?」
「おい…何が入ってたんだよ。」
広樹も均の雰囲気に恐怖を感じながら聞いてきた。伊都子はその様子をクリスマスプレゼントを開ける子どものようなワクワクした表情で見ている。しかし、その反応に一番驚いているのは健だ。あんなことが起こったロッカーから出てきたものなのだから、見てはいけないようなものが入っていたかのもしれない。
「何が入ってたのよ。」
伊都子が嬉しそうに聞いてくる。
「知りたいか…。」
均はもったいぶっているかのように言った。
「なんだよ!何が入ってるんだよ!」
貴之が少しいらいらしたように叫ぶ。
「それが…。」
均の答えを待つように店の中が静まり返る。均はゆっくりと巾着袋の中に手を入れ、その中のものを掴んでいるのが皆に見えるようにし、ゆっくりとそれを出していく。そこに居る全員が息を呑んでその様子を見つめている。徐々に袋の入り口に向かっていく中の物体。その物体が見えるか見えないかのところに来た時、均は一気にその物体を引き出して見せた。その物体を見た時、そこにいた全員が目を疑った。
「ただの野球ボールでしたー。」
均は緊迫した表情からいたずら好きの子供のような表情になり、ニカッと笑った。
「おい、ふざけんなよぉ。」
一気に緊張が解け、気が抜けたようにいう。伊都子も、何だと言わんばかりに鼻で息をし、グラスを片づけ始めた。
「へへへ、俺がこういうの好きだって知ってるだろうが!」
「俺そういうの苦手なんだから、やめてくれよ。」
眼鏡のずれを直しながら潤が言う。
「引っかかった方が悪いんだよー!!」
尚も均は嬉しそうにしている。均はそのボールを巾着袋に戻そうとしていたが、その時均が一瞬ボールを見つめ、目を細めて何かに気付いたような表情になったのを健は見ていた。均が完全にボールを巾着袋に入れると、
「練習用のボールじゃないか?」
と言いながら投げて寄こした。
「さ、帰りな!そろそろお客さんやってくるからね。」
グラスを洗いながら伊都子が帰るように促した。その言葉に従うように全員立ち上がり、カバンを持ち店を出ることにした。
「あ、そうだ。佐仲さん家、今日は唐揚げだって言ってたよ。」
「うお!!先に言うなよ!!帰って今日は何かなぁって考えるのが楽しみなんだからさ。」
と均が言う。
「さっきのしっぺ返しさ。」
「なんだよも―。」
と肩を落とす均の姿を見て伊都子は笑っていた。それに釣られるようにその均の姿に全員が笑っていた。
店を出て、各々自分の家の方向へと帰って行った。健は広樹、絵梨と同じ方向だったので3人でお店から出て左方向へ、そのま逆方向に均と潤が、向かいへ渡るために信号を待っている誠と貴之を背に離れていく。その時、なんだかよくは分からないが、健のイメージの中にそれぞれが引き裂かれていくような、そんなイメージが湧いた。特に今背にしている方向からは、まるで伸びきったゴムが千切れていくような…そう言うイメージが頭の中へと入ってくる。健はそのイメージを振り払おうと絵梨、広樹と学校での話や授業の話に集中した。なんだかその日は、街全体が暗く感じ、暗くなった場所からあの部室で見た影が健をまた襲ってくるような、そんな気がして落ち着かなかった。特に絵梨、広樹と別れてからはその恐怖が一気に押し寄せてきて、自転車を漕ぐスピードを早めて家へと急いだ。
Act.2 記憶に空いた穴
街中のオフィス街、現代文明が創り出した森の中に、隼人の勤める建築会社はあった。名のある企業で、その森の中でも高い方の木にオフィスが入っていたので、森全体を見渡すことが出来た。午後の会議を終え、隼人は休憩室でコーヒーを飲んでいた。そこから見えるこの森の風景は、今息子の居る故郷では見ることのできない、無機質で機械的で綺麗で汚くて…いろんなものが渦巻いているなんともいえないものだった。これを美しいという人もいるのだから、そう言う人の感覚が分からない。当初は息子と共に故郷へと帰り、自分で建築事務所を開く準備をする予定だった。しかし、やりかけのプロジェクトがなかなか進まず、このプロジェクトが終わるまでは抜けないでほしいと言われていた。わざと延ばしているのではないかと思うくらいプロジェクトは進まない。いい加減にしてほしいと、コーヒーを一口飲んではため息しか出てこない。そうしてため息ばかりついていると、突然に眠気に襲われた。疲れているのだろう、眠気でコーヒーを落としそうになるので一度置いた。それにしても眠気は急に酷くなってくる。一瞬身体がカクンとなるような感覚にまで陥る。これから会議の事項をまとめなければならないが、このままでは仕事にならないと思い、近くにあるソファに腰掛けた。時計を見ると午後4時30分頃。5時までなら大丈夫と目を瞑った。
隼人は夢を見た。どこかのグラウンドにいる。周りを見ると、どうも母校の東第一高等学校らしく、自分がそこの生徒だった頃の夢。目の前には誰かいてどうもその人物と伽地ボールをしているらしい。その傍らには女子の制服を着た人物がいる。女子生徒もキャッチボールの相手も何か喋っているように見えるが、その夢は無音だった。キャッチボールの相手も制服姿のようで、母校の生徒だと分かるがぼんやりとしか見えずはっきりとしない。グラウンドには夕陽が差しているので夕方なのだろう。自分の後ろに気配を感じた。後ろはピロティが続き、その奥が部室棟だ。そのピロティのところに黒い影が立っていて自分のことを手招きしている。不思議とその影のことは怖いとは感じず、その手招きに隼人は引き寄せられていった。その影の手招きをされるがままに歩いていくと、部室棟の裏、汚れた水場を通り越してあの場所へとまたやってきた。一体この場所は何なのだろうかと隼人はその場所にしばらく立っていた。先ほど手招きしていた影はいつの間にか消えていた。いくら立っていてもその場所に関しては何も分からないし思い出せない。それに、さっきキャッチボールをしていた相手も分からない。もう一度グラウンドへ戻ろうとその場所へ背を向けた時、背後にただならぬ恐怖を感じた。振り返るとそこには、またあの影が立っていた。しかも今度は1つではない、何十体という影がそこで蠢いている。先ほど手招きしていた影は隼人の方へと近づいてくる。隼人が逃げようとグラウンドの方へ駆け出そうとした時、反対側からも無数の影が押し寄せてきていた。隼人に逃げ場がなくなってしまった。影達がどんどん近付いてくる。隼人はどうしようもない恐怖に包まれていた。恐らく死に直面した時というのはこのような恐怖を味わうのだろうというくらいの恐怖。じりじりと近寄ってくる影。ついにその影が隼人の目の前まで来てしまった。その時、先ほどのあの影が隼人に囁きかけてきた。
「隼人…どうして…。」
その瞬間、その影だけが実体を持っていた。その顔を見ようとした時、隼人は目覚めてしまった。
時計を見ると4時55分。隼人は汗をかいていて、ワイシャツの首回りが冷やりとしていた。目の前には、この町の森が夕日に照らされ、オレンジ色に染まった景色が広がっていた。不覚にも、恐怖から覚めた隼人はその光景が美しいと感じてしまいしばらくその光景に見惚れてしまった。先ほど置いた冷えたコーヒーを一気に飲み干すと、隼人は再び自分のデスクへと向かい会議の報告書の作成に入った。
Act.3 ロッカーのボール
健は少しでも早く家の中に入りたいと自転車を降りると、玄関前の階段に躓きそうになりながら家へと入って行った。家の中に入ると夕食のいい匂いが漂っていて少しほっとする。スニーカーを脱ぎながら少し落ち着くと、暗い廊下の先にあるリビングへと向かう。
リビングには健の祖母と祖父がいて、祖母は食器をテーブルに並べ、祖父は芋の煮付けをつまみにビールを飲んでいた。
「ただいま。」
「あら健、おかえりなさい。」
祖母は手を止めることなく健の方を見た。祖父も健に気が付き、その坊主頭に目を留めるとニヤッと笑い表情を変えた。
「おお、坊主にしてきたってことは、野球部始まったな。野球部に入った時、お前の父さんもそうやって丸坊主になって帰ってきたな。」
祖父はなんだか嬉しそうだ。
「懐かしいですね。その隼人の子が、またこうして坊主になって帰ってくるんですから、あの時間に戻ったみたい。そうやって坊主にすると、あの時の隼人にそっくり。」
祖母も何だか嬉しそうにしているが、健にとっては不思議な気持ちだった。父親に似ていると言われ、嬉しそうにしている祖父母を目の前にしていると、自分自身が父親を演じているような、そんな気分になる。
「あ、俺荷物置いてくるよ。」
そう言って健は2階の自分の部屋へ向かおうとした時祖母が、
「あ、健、洗濯物出しといてね。部活だったんでしょ?あぁそれから、父さんが携帯電話に電話して欲しいって、健が帰ってくる少し前に電話がかかってきたのよ。電話しておいてね。」
と言ってきた。
「うん分かったよ!」
と健は自分の部屋へ行き、荷物を置いて制服から部屋着へ着替え、洗濯物を出すためカバンを開けた。カバンはまだ新しく、独特の嫌な汗の臭いはまだしないが、これから染み付いていくのだろう、練習着は中学の時から使っているため少し黄ばんでいる。とその時、あの巾着袋が視界に入った。何気なくその巾着袋を手に取り、中からボールを出して見た。よく見るとボール自体はかなり古いものらしく、泥や土、手垢が染み込んでいるのが分かる。それ以外はいたって普通のボールなのだが、一つ引っかかるのはなぜこれがわざわざ巾着袋に入っていたのかということ。対して深い意味は無いのかもしれないのだが。
それから夕食を終え、健は父親に電話をかけることにした。携帯電話のアドレスから父親の番号を探して電話をかけると、2コールほどで隼人は電話に出た。
「もしもし…。」
「健!どうだ、元気か?」
「元気だよ。」
「そうか、ならよかった。学校はどうだ?友達はできたのか?」
「うん、だいぶ慣れたし、友達もできたよ。」
「そうか、ごめんな、まだそっちに行けなくて。もう少しで片付くと思うんだが、何せなかなか進まないものでな。」
「分かってるよ。仕方ないよ、仕事だもん。俺は大丈夫、また野球も始めたし、父さん来るまで楽しくやってるから。」
「ほんと、強い子に育ってくれて良かったよ。俺はお前のこと、いつも心配してるんだからな。」
「大丈夫だって、そんなに心配しなくても、父さんは早く仕事が片付くように、仕事に集中して。」
「ありがとうな。他に何か変わったことはないか?」
そう聞かれた時、健は一連の不思議な出来事が頭に浮かんだが、余計な心配をかけまいとそのことには触れないことにした。
「無いよ。父さんこそ、身体気をつけて頑張って。こっちはばあちゃんがおいしいご飯も作ってくれるし、何不自由ないよ。」
「そうか…ならよかったんだ、変わったこともないなら…もし何かあったらすぐに電話しろよ、昼間だと出れないこともあるかもしれないが…。」
「分かったよ。」
健は父親の様子に違和感を覚えた。なんだか落ち着かないような、何かを話そうとしているような、そんなように思えた。
「今日も疲れただろ、もう寝ろよ。」
「それはこっちの台詞、父さんもがんばり過ぎないでね。それに、俺は明日の予習があるからそれが終わったら寝るよ。」
「そうか、頑張れ。じゃあ、お休み。」
「お休み。」
そうして健は電話を切った。
Act.4 不安
あの街の森から電車とバスを乗り継いで約1時間、無機質に似たような一軒家が立ち並ぶ、一本道を間違えれば迷子になってしまうのではないかと思うようなこの住宅街の中に時枝家も存在していた。今はひっそりとしているが、ほんの1年くらい前までは隼人とその妻、一人息子の健と3人何不自由なく暮らしていた。そんな平凡な家庭にひびが入り始めたのは、隼人が今の会社を辞めて隼人の地元で事務所を開きたいという一言を行ったことがきっかけだった。その後どうしても自分で事務所を持つという夢を叶えたかった隼人は妻を何度も説得したが、妻は子どももまだこれからお金がかかるというのになぜ今一流企業を退職して田舎町で事務所を開かなければいけないのかと反対し続けた。結果、どうしても自分の夢を叶えたいというのなら離婚しようという形になった。その時健はどうしてだかあの東第一高等学校への受験を希望してきた為、父親の隼人側へ付いていく形となった。しかし隼人は大きなプロジェクトのコアメンバーとして動いていた為、そのプロジェクトを成し遂げるまでは退職しないでほしいと会社側から頭を下げられ、このプロジェクトも手早く片付くだろうと見ていたところなかなか終わりを見せていなかった。そのプロジェクトを片づければ、そんなに長く住んでいないこの一軒家を売却し、早々に実家に戻る予定だ。
家の中は暗く、台所もしばらくまともに使っていないためとても綺麗だった。テレビも付けていなければ、物音一つしない家の中で隼人はリビングのソファに座ったまま健との電話を切った後、どうしようもない不安に襲われていた。健が東第一高等学校の野球部に入ったと聞いた時、自分の居た野球部に息子が入るという運命のような、必然のような感情とは別に大きな不安が過った。健が隼人の影響で野球を始め、中学でも野球部に入っていた為高校でも野球部に入るなど何らおかしなことではない。ただ、それが東第一高等学校の、自分が所属していた野球部であることがただの偶然ではないような複雑な気分になる。
というのも、隼人自身が自分の高校時代に対して不安があるからである。もう何十年も前のことがはっきりと思い出せないということは恐らく他の人にもあることなのだろうが、隼人は自分の高校時代に何か大きな穴がぽっかり空いているような、忘れるべきではない何かを忘れてしまったような気がする。高校時代、いや、それよりももっと以前の記憶にあったはずの何か…もしかしたら何もなかったのかもしれない、それ自体が分からない。他の人にとってもこういうことは当たり前のことなのだろうか。思い出そうとすればするほど分からなくなってしまい、それはまるで書き換えられてしまったメモリのようだ。もしかしたら自分の脳みそは本当に機械で、誰かがメモリを書き換えたのだがその書き換えられる前のデータがまだ脳みそのどこかの媒体にバックアップされ、それを引き出すことが出来ないからこんなことになっているのではないかとバカなことを考えたこともある。もしかしたら健がそのバックアップデータを引き出してくれるのかもしれない。
「そんなわけないか…。」
と、一人しかいないリビングで言葉を漏らしてしまう。
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