9.招かれる
Act.1 幼馴染
その日鈴は2人に呼ばれていた。何事だろうと思い日曜日で休みだというのにわざわざ学校へ行き昇降口の前で待っていた。鈴が「東第一高等学校」へ入学して2週間くらい経とうとしている。制服もまだどこかぎこちなく窮屈に思えていた。自分の腕時計を見ると時刻は間もなく夕方の5時で空は青からオレンジ色に変わろうとしている。この町にはこの「東第一高等学校」の他に隣町まで行かなければ別の高校はなく、地元のほとんどの中学生が進学してきていて鈴もその一人だった。しばらくすると部室棟の方から生徒がぞろぞろと帰っていくのが見え、もう間もなく2人もやってくるだろうと鈴は思った。そしてやはりその集団の中から2人鈴に向かってくる姿があった。
「鈴!ごめん、わざわざ。」
と笑った表情でそう言ってきたのは時枝隼人だった。
「鈴ほら!またこうなっちゃった。」
と坊主頭を見せて嬉しそうに言ってくるのは花村亮一だ。2人とも昨日までは短髪だったのに今日は坊主頭になってしまっている。
「入部式でやったんだね。」
2人は今日野球部の入部式があり、そこで坊主にさせられたのだ。これは「東第一高等学校」野球部の伝統で野球部以外でも誰もが知っているものだった。
3人はずっと小さな頃からの幼馴染で何をするにもいつも3人だった。その中でも隼人と亮一は男の子ということもあり小学生のころから野球をやっている。そしてそれをいつも一番応援していたのが鈴だった。3人は誰もいなくなったグラウンドへ行き、隼人と亮一は制服のままキャッチボールを始めた。2人は小学校中学校とバッテリーを組んできた。体格自体はがっちりとしているもののスレンダーな体系の隼人は投手、身長が高く、肩幅の広いがっちり体系の亮一は捕手で鈴はこの二人は世界一の黄金バッテリーだといつも勝手に言っていた。鈴の目の前で2人がキャッチボールをしていて、そのボールの弧が2人を強く結びつけているのだと鈴は感じていた。2人はこれまでずっとボールを投げることで繋がりが太くなってきたのだ。もちろんそれを応援する鈴にだってその声で繋がっていると信じていた。
「なぁ、俺達ずっと一緒なんだよな。」
ボールを投げながら隼人が言う。
「あぁ。当たり前だろ。俺たちはいつまでも一緒だ。一緒に甲子園、行くんだろ?」
嬉しそうにそう言いながらボールを受けるのは亮一だった。
「そうだよな。その為に一緒に野球部入って俺とお前でバッテリー組んで、甲子園行くって決めたんだもんな。」
しかし鈴はそう言う隼人の表情に一瞬だが不安の表情を見た。
「そうだよ。これからが楽しみだな!絶対一緒に行くんだからな。」
鈴は嬉しかった。ここにこうして幼馴染の3人がいる。いずれは離ればなれになってしまうのかもしれないがきっとそれは今この瞬間があってこそいつまでも3人は強くなっていけるのだと感じていた。
「ちょっと!私もだよ!三人は一緒なんだから。私も甲子園、連れてってよね。」
鈴も嬉しそうに2人に話しかける。
「もちろんだよ!三人で一緒にな。」
優しい笑顔で鈴の方に言ってきたのは亮一だった。
「ねえ!私もキャッチボール交ぜてよ!」
そう言うと2人は顔を見合わせて笑い、亮一はキャッチャーミットとグローブを2つ持っていたのでグローブの方を鈴の方に投げてやり亮一はキャッチャーミットをカバンから出した。鈴は嬉しそうにグローブをはめて2人の輪の中に入って行った。
「さあこーい!!」
鈴は嬉しそうにそう叫びながら思いっ切り手を上げている。亮一はやれやれといったように優しく鈴の方へボールを投げ、鈴は慣れない動きでそのボールをグローブの中へ入れると満足したような笑顔になっていた。そして鈴はまた慣れない手つきで隼人にボールを投げる。3人はこうしていつもキャッチボールをしていた為全くの初心者よりは上手にキャッチボールが出来た。しかし、ボールを取り損ねると、
「もー!意地悪!」
と言ったりするのだがそうやってほのぼのとキャッチボールをやっていることに鈴は幸せを感じていた。このままずっとこうしていられたらいいのに、ずっとずっと3人は仲良しで友達でいられたらいいのに。そう考えていると、鈴の元にボールが来なくなっていて気が付くと周りの時間が止まっていた。その時だった、まるで湧いて出てくるように地面から黒い靄が現れてきていたのだ。
「友達…友達…友達…友達…友達…友達…友達…友達…友達…友達…友達…友達…友達…友達…友達…友達…友達…友達…友達…友達…友達…」
まるで鈴の心の中を復唱するようにその靄が3人を取り囲み、オレンジ色に染められたグラウンドもその靄によって暗闇に変わろうとしていた。鈴はただただ立ち尽くすことしかできず、聞こえてくる心の復唱に耳を塞ぎ闇に飲まれて行くのに耐えるだけだった。
Act.2 揃ったピース
健は急いで祖母に鈴の家の場所を聞き、必死で自転車を漕いでやってきたのだ。そこで健が鈴に沙羅の存在を聞いた時鈴は。
「ごめんなさい…沙羅って…誰のことを言っているのかしら?」
健も予想はしていた。やはり沙羅は消えていたのだ。しかし健にはもう一つやるべき事があった。右手に握られた巾着袋の中身を鈴に見せることだ。健は鈴に巾着袋を渡し、中のボールに書いてある名前を見るように言った。そうして鈴がその名前を見た瞬間鈴は急に玄関のその場で倒れ込んでしまったのだ。健は驚いたが鈴を家の中に運び目が覚めるのを待っていた。そうしてしばらくすると鈴が何かを囁き始めたのだった。
「友達………友達………友達………友達………友達………。」
健がその様子を見ていると、やがて鈴の目が開いた。
「鈴さん!鈴さん!大丈夫ですか?」
健が声をかけると鈴は我に返ったように健の顔を見た。
「健…君…。」
「鈴さん…急に倒れちゃったから。ごめんなさい、俺があのボールを見せたせいで…。」
鈴はあのボールの名前を見た時、頭の中に一気に何かが雪崩れ込んでくるように酷い頭痛がしたのだ。まるで頭が空気の入れ過ぎた風船のように弾け飛ぶのではないかと思ったくいらいだった。
「健君…ごめんなさい…。沙羅は…沙羅は居なくなったのね…。」
「鈴さん!思い出したんですか!?」
鈴はまだ頭がくらくらとしていて少し気持ち悪かった。水を飲もうと立ち上がろうとしたのだが足に力が入らない。
「鈴さん!まだ横になっていた方が…。」
「ごめんなさい…ちょっとお水を一杯飲もうと思って。」
それを聞くと健は台所の場所を確認し、台所へ向かうとコップに水を入れて鈴に持ってきてくれた。
「ありがとう…。」
鈴はゆっくりと水を飲むと少し落ち着いた。
「健君…そのボールはどこで?」
健の右手にはあの巾着袋とボールが握られていた。先程鈴が倒れた時に落としてしまったのだろう。
「父さんの部屋に…今は俺が使ってるんですけど、父さんの部屋にあった学生服のポケットに入ってました。」
「そう…。」
鈴はそう言うと愛おしそうに巾着袋とボールを見つめていた。
「そのボールのこと、お父さんに聞いたことある?」
「いえ…。」
「その巾着袋はね、私が作ったの…。」
「え…鈴さんが?」
健は驚いた。まさかあの憎いと思っていた巾着袋を作ったのが鈴だったなんて思わなかったのだ。
「じゃあ…このボールに書かれている名前は…。」
健は再びボールを見ながら言う。
「私と…健君のお父さんと…亮一…。」
健はもう一人の人物の名前も父親の友達だったのだと確信した。
「あの…その亮一さんって…今はどこに?」
そう聞くと鈴は遠い目をしてしばらく何か考え事をしていた。
「もしかして…もう…。」
健は亮一という人物は亡くなってしまったのではないかと思った。だからあまり思い出したくはないのではないかと。もしかしたら父親が亮一のことを話したことがないのもそんな過去が辛かったからではなかろうかと感じた。
「いいえ…亡くなったんじゃない…消えたのよ。」
消えた、という表現に健はもしかしたらと思った。
「亮一は今までずっと…記憶からも消えていた。もしかしたらどこかにいるのかもしれないけど、消えたのよきっと。」
鈴は沙羅と同じように遠い目をして考え事をしていた。その横顔はやはり沙羅にそっくりだった。
「でも分からないわ…消えたって言ってもどうして消えたのか。今もどこかで生きているかもしれないけれど、やっぱりもうこの世にはいないんだと思う。死んだというよりも存在が消えてしまったと言った方がいいのかもしれない。なぜだかそのボールを見た瞬間に全てを思い出したの。」
「あの…このボールは一体?」
鈴は遠くを見つめたまま再び過去を思い出しながらゆっくりと涙を流していた。
Act.3 お守り
鈴は教室で他の友人達と昼食を取っていた。
「おい!鈴ちょっといいか?」
呼ばれて振り返るとそこには隼人の姿があった。3年生になり隼人と亮一は同じクラスになったようだったが鈴は隣のクラスだった。
「あらあら…王子様のお迎えかしら?」
一緒に昼食を取っていた伊都子がからかうように言ってくる。
「そ…そんなんじゃないよ!」
そう言うと鈴はなぜだか焦ってしまい隼人の方へ向かっていく。その頃の鈴は何となくおかしかった。2人とクラスが分かれてしまったというのもあるのかもしれないが、なんとなく2人と顔を合わせづらくなっていたのだ。もちろん登校する時は3人一緒だったし帰りも時間が合えば鈴も一緒に帰っていたし、野球部の試合があれば応援にも必ず行っていた。しかしなぜだろうか、3人で一緒にいると楽しいとか嬉しいと感じるよりもとても居づらいような、息苦しく感じることが増えてきたのだ。喧嘩をしているわけでも仲が悪くなたわけでもないが、なぜだか2人を少し避けている自分がいる気がしてそんな気持ちを少しでも持っているということにまた申し訳なく思い更に顔を合わせ辛くなっていったのかもしれない。
「あの2人、やっぱりいい感じなんだね。」
伊都子がその場にいた
「え?でも花村君も昔から仲がいいんでしょう?」
恵子は不思議そうに伊都子に聞く。
「年頃の男女だよ。男3人ってならまだしも男2人に女1人。いつか恋の争いが始まるんじゃないかしら。最近は鈴と隼人が怪しいのよね。」
伊都子はにやにやしながら嬉しそうに話す。
「えー…なんかそう言うの嫌だな。3人で仲良くってわけにはいかないのかな?」
恵子は心配そうにそう言う。
「人生そんなに甘いもんじゃないってね。大体今年は受験生だよ。そんな色恋に振り回されてる暇ないってね。」
と言いながらもやはり伊都子は嬉しそうだった。
「ついにあの3人にも決着の時がやってくるってわけね。あの3人とは私もずっと一緒だけど、いつかこうなる時が来るんじゃないかなって思ってたのよ。ああ!情報屋の血が騒ぐわ!」
そう言う伊都子を呆れた目で見ながら恵子はお弁当箱を片付けている。
「ほどほどにしてね。まだよく分かんないんだから3人の仲壊さないでよね。」
「何を失礼な!私は情報を集めるだけ。3人とも仲良くやってくれるってのは私だって願ってることよ。」
そう言う伊都子の目は完全に面白いことを探す時の目だった。
「でもいいよね。時枝君結構ファン多いし、人気だもんね。他の学年の子からもラブレターもらったりしてるんでしょ?」
恵子は少し羨ましそうに言う。
「おお、そんなあんたも実は隼人のことを気にしてるな?」
「いや!そそそそ…そんなことないから!別に鈴が羨ましいなんて思ってないから!」
伊都子の目が輝いている。
「ほう…ここにもライバル出現か…これからが楽しみだね!因みに隼人は試合の時に一目ぼれされた他校の女子からもラブレター貰ったことあんのよ。」
伊都子は自分の持っている情報を自慢げに話す。
「そうでしょうね。私には天の上の存在だわ。時枝君ってやっぱりかっこいいんだ。」
恵子はそう言いながら少し落ち込んでしまったようだった。
大声で呼ばれたことを鈴は少し怒っていた。
「もう、あんなに大きな声で呼ばなくてもいいじゃない!」
隼人は鈴がなぜそんなに怒っているのか分からなかった。
「悪い悪い…。やっぱ野球やってるとつい。」
「まあいいけど、変な勘違いされるから気を付けてよね。」
「変な勘違いって何だよ…。お前なんか最近そういうの気にし過ぎじゃねえか?2人で居るの嫌がったり、前は3人で帰ってたのに最近帰りもあんまし付き合ってくんねえしな。」
「そんなことないよ。そっちこそ気にし過ぎてるんじゃないの?」
「そうか?」
隼人にはよく分からなかったが鈴にはこれまでと違う心の変化を感じていた。前は3人は普通に友達だとしか思っていなかったのだが、高校生にもなると徐々に男子と女子ということを過剰に意識するようになってしまっていたのだ。鈴の中では3人は仲のいい友達でいたいだけなのに、余計な意識が邪魔をしてきてなおさらイライラしてしまう。
「で、何か用なの?」
「ああ、そうだった。」
隼人は本来の用件を忘れていたようだった。隼人がカバンの中から何かを取り出すと鈴に渡してきた。
「これ。」
「何これ?」
隼人が鈴に渡したのは2つの野球ボールだった。まだ新品で練習では使っていないもののようだった。
「甲子園行くための願掛けだよ。もうすぐ大会始まるからさ。3人の名前そこに書いて、お守りにするんだよ。それ、亮一には内緒な。驚かせてやるんだ。あいつもうすぐ誕生日だろ?サプライズってやつな。」
というと隼人は嬉しそうに笑った。
「そっか、亮一もうすぐ誕生日だったね。分かった。いいよ。名前書いて今度渡してもいい?」
「良いけど、名前くらいならすぐ書けるだろ?」
「私もちょっとサプライズしたいから。」
鈴はボール2つを大事そうに抱えていた。
「あとさ、あいつ、亮一見なかったか?今日さっきの授業サボったんだよ。」
と隼人は困ったように言う。
「亮一がサボるって言ったらあそこじゃない?」
「ああ…まぁ…それしかないか。」
隼人も鈴の意見に納得したようだった。亮一はよく授業をさぼる為に同じ場所へと行っていたのだ。そのことは鈴もよく知っていた。
「ちょっと行ってくるよ。」
そう言うと隼人は鈴に背を向けてその場所へと向かおうとしていた。少し駆け出したところで隼人はふと鈴の方を振り返りニヤッとした。
「そのボール、よろしくな。」
「分かったよ。」
「あとさ。」
と何かを言おうとした時隼人は急に言葉を切った。
「何?」
隼人はニヤッとした顔からまた急に表情を変え、鈴から目線を外した。
「隼人?」
「………いや、なんでもないよ。」
そう言うと隼人は一気に駆け出していってしまった。そして隼人が見えなくなってから鈴は自分の鼓動が速くなっているのに気が付いた。なぜだろう、隼人とただいつものように話していただけなのにまるでマラソンをしたときのように鼓動が速くなっている。鈴は不思議に思いながらも真っ白なボールを見つめてその鼓動を感じていた。
Act.4 ジェンガ崩壊
昔の話をする横顔を見ていた時、健は沙羅があの屋上で同じような顔をしていたことを思い出した。親子揃って一体この表情はなにを意味しているのだろうと考えていた。
「ねえ、そのボール、もう一度見せてもらってもいい?」
健は鈴にボールを渡した。鈴はそのボールを愛おしそうに眺めている。
「鈴さん…亮一さんはなぜ消えたんですか?」
「そうね…私にも…分からないの…。」
あの日、鈴が思い出したのは卒業式の前日のことだった。そう、卒業式の前日にはまだ亮一はいたのだ。
その日、鈴はあの3人でキャッチボールをしたグラウンドにいた。
「ねえ…伊都子…これ…どういうことなの?」
鈴は伊都子に連れられてそこにいたのだ。隼人と亮一が喧嘩をしていると言って鈴の腕を掴み走ってグランドに来てみると、隼人は亮一に殴られたのか亮一に胸倉を掴まれたままぐったりとしている。亮一は隼人に殴られたらしく頬の部分が赤く腫れたようになっている。
「ちょっと!2人とも何やってんのよ!」
鈴は2人に声をかけた。その瞬間亮一はまるで何かに取りつかれたような今までに見たことのない険しい表情で鈴を睨んできた。その表情を見た時鈴は動けなくなってしまったのだ。今までずっと一緒にいた友人のはずなのに、その時の亮一には近づくことが出来なかった。
「鈴か……そうだ…お前だって悪いんだからな…。」
亮一は鈴を睨んだまままるで地の底から湧きあがるような声を出して言う。いつの間にか鈴は恐怖で震えていた。隣にいた伊都子も動けなくなっているらしい。亮一は隼人をまるで投げ捨てるようにその場に突き飛ばし、今度は鈴に向かって歩いてくる。鈴は亮一が化け物のように見え、その目にいつもの亮一の姿はなかった。亮一が鈴の数メートル前で立ち止まると制服のポケットから何かを取り出す。
「こんなもんがあるから…こんなもんに惑わされちまったから…俺の人生めちゃめちゃじゃないか!」
その時鈴は亮一が何を持っているか分かった。あのボールの入った巾着袋だったのだ。しかしそれを把握した次の瞬間だった。亮一は鈴に向かって思い切り投げつけてきたのだ。鈴は後頭部あたりに重い衝撃を受け、それからは覚えていない。あの巾着袋を投げつてきた姿が鈴の見た亮一の最後の姿だった。
鈴が目覚めたのはその日の夕方だった。頭に硬球のボールを受けて病院へ連れて来られたらしい。色々と検査をしたらしいが大きな異常はなかったらしく翌日の卒業式も出席していいことになった。その時一緒にいた伊都子からその後の話を聞いたのだが、あれから先生方が数名来て亮一を取り押さえたらしい。しかし鈴が病院へ運ばれる事態にまでなってしまった為、翌日の卒業式自体行われるかどうか連絡待ちになっていた。隼人はぐったりとはしていたものの意識は取り戻したらしく怪我はあるもののこちらも大きな異常はなかったということだった。しかしなぜ2人が喧嘩していたのかは分からなかったし、なぜあんなに亮一が怒っていたのかも鈴には全く分からなかった。色々と考えながら鈴は家に帰り、その夜はよく眠れなかった。翌日が高校生活最後の日だというのに大切なパーツを抜かれたジェンガのように積み上げてきた全てが崩れていくようなそんな気がして、卒業なんて考えることが出来なくなっていたのだ。
しかし鈴が翌朝目覚めると、あの事件のことも亮一の存在自体も全て記憶から消えてしまっていて、何時ものように家を出てスッキリとしない頭のまま学校へ行った。もちろん卒業式は予定通り行われた。しかしその時なぜだか講堂の椅子が一つ空いていることを不思議に思ったものもいたのではないかと鈴は今になって感じていた。
Act.5 迎えに来る
鈴は話を終えると少し身体を起こした。
「じゃあ、そのボールは元々父さんのものだった。だからうちにあったんですね。」
健が言うと鈴は寂しそうな顔をしてボールを眺めていた。
「そうね…。あの時私に投げられたボールはどこに行ったのか分からないけど。」
健はあのボールが憎いと思って川へ捨ててしまった。しかしあれは3人にとって大切なものだったのだと思うと健は後悔した。
「あの…やっぱり沙羅さんは…。」
健がその名前を行った時鈴は我に帰りボールから顔を上げた。
「沙羅…そう言えば昨日沙羅がおかしなことを言っていた。」
「おかしなこと?」
一体鈴に何があったというのだろうか。
「もしも自分が居なくなったらどうなのか…とか言ってたような気がする。」
健は、やはり鈴は自分が消えることを覚悟していたのかもしれないと思った。冷静を装ってはいたが自分も消えてしまって皆からも忘れられてしまうことが怖かったのだ。
「沙羅さんは…自分が消えることを知っていたのでしょうか。」
鈴はそのまま何か考え事をしていた。少しの間薄暗い部屋の中に沈黙が流れようやく鈴が口を開いた。
「健君…あなたにはどうしても伝えなければならないことがあるの…。実はね…。」
鈴はまだ話のその先を言うことに躊躇しているようだった。
「沙羅は…沙羅はね…沙羅と健君は…。」
鈴はそう言いながら窓の外を見て固まった。
「鈴さん?」
健も不思議に思い窓の外に目をやるとその瞬間全身に鳥肌が立った。窓の外の暗闇に蠢く暗闇よりも暗い何か。健はそれがあの影達だということに気が付いた。影達は窓越しにこちらに向かって手招きをしているように見えた。そしてその中に沙羅の姿が見えたのだ。うっすらとではあるが影達に囲まれて苦痛の表情を浮かべている沙羅は健と鈴の方を見てまるで助けを求めるように何かを言っている。鈴は急に立ち上がり窓の方へと駆け出して行った。影達はそれから逃げるようにスーッと窓から遠ざかりながら消えて言った。鈴が窓を開ける頃には外は何事もなかったように暗闇だけ存在していたのだ。
「鈴さん!影達が…沙羅さんが呼んでる!行かなきゃ!」
鈴は茫然と窓の前で立ち尽くしている。開け放たれた窓から蛾が入ってきて蛍光灯の周りを飛び始め、鈴はそのままゆっくりと座り込んでしまう。
「行かなきゃって…一体どこに?」
鈴は絶望したようにそう言った。部屋には蛾が蛍光灯に当たってバチバチいう音だけが響いている。
「壁…。」
健は伊都子の話を思い出していた。
「学校にあるどこかの壁から影が出てきてその中に引き摺り込まれるって姉さん言ってました!」
鈴はその言葉にゆっくりと健の方を振り向いた。そして何かを思い出したような表情を浮かべる。
「壁…もしかして!」
「鈴さん!知ってるんですか?」
「多分、もしかしたらあの場所かもしれない。」
鈴にはその壁に心当たりがあるらしかった。
「行きましょう!そこへ行けば沙羅さんも、他の皆も助けられるかも!」
鈴はゆっくりと立ち上がり、壁側の棚から車のキーを取ると持っていたボールを健に渡した。
「これ、きっと2人にとってとても大事なものだと思うから。」
健はボールを受け取りそのボールを巾着袋に戻した。
「健君…学校へ行きましょう。」
そう言うと鈴と健は玄関へ行き、鈴が玄関の扉に手をかけた時一瞬止まった。鈴は玄関の外にまたあの影がいるのではないかと怯えてしまったのだ。しかし今はそんなことを言っている場合ではない。沙羅を助けに行かなければならないのだ。健も決心した目をして鈴のことを見ている。鈴は思い切って玄関のドアを開けるとそこにはいつも通りの夜の風景が広がっていて、鈴は玄関横のガレージへ行き車のドアを開けて健に助手席に乗るように言うと2人は車へ乗り込み「東第一高等学校」へと向かっていった。
ついに影達の居るあちらの世界へ足を踏み入れ、ようやく皆を助けられるかもしれない。しかし、一歩間違えれば自分も影達に連れていかれて皆の記憶からも消えてしまうのかもしれないという恐怖と闘いながら、健は車の中で巾着袋を握りしめていた。
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