7.鈴
Act.1 見つからないピース
鈴は娘の高校進学に喜びとともに不安も感じていた。沙羅は鈴が一時町の方へ仕事で出ている時に知り合った男性との間に出来た子だ。鈴は小さなイベント会社で事務の仕事をしていて、そこでイベントのプロデューサーをしていた男性と付き合っていた。しかしある時鈴が妊娠し、そのことを知るとその男性は突然仕事を辞めて行方を眩ませてしまった。鈴は子どもを産んで育児に専念するため仕事を辞めて実家に帰り、両親の協力もあって沙羅を育ててきたのだ。現在鈴は実家近くの小さなスーパーでパートをしながら生活費を稼いでいる。そんな中娘が進学を決めたのが鈴の母校でもある「東第一高等学校」だったのだ。もっとも沙羅がこの学校を選んだのは近いからという理由らしい。沙羅には昔から友達は少なく、ほとんど友達を家に連れて来るなどということもなく学校から帰ってくれば宿題や本を読んで部屋に籠り、遊びに行くことも少なかった。鈴の両親はそれを心配していたが、やはり沙羅は友達を作ることは無かったようだった。だから同じ中学の子たちが「東第一高等学校」に進学するからという理由で選んだわけではないことは鈴も分かっていた。
鈴にとって高校時代は少し思い出したくない時期だった。というよりも思い出そうと思ってもはっきりと思い出せないのだ。どんな友達がいて、入学式や体育祭や文化祭があって、卒業式もやったという大まかな思い出は思い出せる。しかし、細かく思い出そうとするとそこにぽっかりと穴があいてしまったようによく思い出せないのだ。まるで所々ピースの抜けたパズルのように高校時代そのものが一枚の絵にならない。初めは昔のことだから思い出せないのかとも思っていたのだが、やはり高校時代より前の記憶だけがはっきりせず高校卒業から先はまだまだしっかりと思い出せるのだ。高校の卒業式で何かあったのかとも思ったが何か起こったような記憶もない。そんな高校に自分の娘が通うというのだから少しの不安はあった。しかし沙羅は高校に通い始めてからも大きく変わったことはなく、変化があるとすれば学校へ行く時間が早くなり、帰ってくるのも少し遅くなり、勉強量が増えたのか帰ってから部屋へ籠る時間も長くなったくらいだった。
そんなある日、鈴はパート先のスーパーでシフトを終え従業員控室で帰る準備をしていた。その日は平日でその時間に帰るのは鈴一人だったため控室には鈴だけがいた。時間は夕方の4時半くらいだっただろうか、控室の窓からはオレンジ色の夕陽が射していて休憩用のテーブルやロッカーをオレンジ色に染めていた。鈴はレジ用のユニフォームから着替えると自分のロッカーに社員証やボールペンを入れてロッカーを閉めた。すると控室の扉が勢いよく開き誰かが入ってきた。
「やばいやばい!」
と言いながら入ってきたのは夕方からのアルバイトの学生の男の子だった。アルバイトは手際よく荷物をロッカーへ入れてレジ用のユニフォームを羽織り、エプロンと社員証を掴むと控室を足早に出て行った。その瞬間だった。鈴はそのアルバイトが閉め忘れたロッカーの扉の向こうに人影のようなものを見た。確かに今居るのは鈴だけのはずなのに一体誰がいるのだろう。そう思っていると急に窓から入ってくるオレンジ色の夕陽が強くなり、気が付くと鈴はどこかのグラウンドにいた。よく見るとそこは「東第一高等学校」のグラウンドだった。鈴の後ろには見慣れた校舎が建っていて、目の前では男子2人がキャッチボールをしているようだった。しかし光景の全体がぼやけて見えて男子2人の顔もよく見えていない。ただ分かるのは制服が詰襟なので現在の「東第一高等学校」の姿でないことは分かった。多分それは鈴が通っていた頃の光景だ。しかしこのような光景は鈴の記憶の中には無い。もしかしたらこれはあの無くなったパズルのピースの一つなのかもしれないと鈴は思った。しかしその光景は無音で、目の前の2人も何か喋っているようなのだが全く聞こえない。すると鈴は自分の手に野球ボールが握られていることに気が付いた。その野球ボールには何か文字が書いてあるようにも見えるがぼんやりとしていて見えない。
「バタン!」
急に鳴った大きな音に鈴は我に帰ると、さっきまで開いていたロッカーの扉が勝手に閉まりその後ろに立っていた黒い影がはっきりと見えるようになっていたのだ。その時鈴は全身に寒気を覚え、今までに無いような恐怖に襲われた。その影はただの縦長の黒い影にもみえるが、よく見ると人の形をしている。その影はゆっくりゆっくりと鈴の方へと向かってきており、鈴はその恐怖に動けなくなりじっとその影を見ていた。そしてその影が目の前に来た時だった。鈴の頭の中に見たことのない映像が映し出されていったのだ。不思議なことにその映像の全てが高校時代の鈴自身の姿で、その鈴を誰かが見ているような映像になっていた。机に向かって勉強をしている鈴、楽しそうに笑っている鈴、お弁当を食べている鈴、体操服姿の鈴、そして誰だろう、誰か男子生徒の隣に座って幸せそうな表情の鈴。誰かがずっと鈴のことを見ているのだろうが、その視点は誰なのかは分かららない。
「お前も…忘れたのか…。」
その声にはっとなるとそこはいつもの控室で、さっきの影はもういなくなっていた。控室は夕日に照らされてオレンジ色に染められ、さっき見た映像に急な懐かしさがこみ上げてどこか胸を締め付けられるような少し苦しい気分にさせられていた。あの声は誰だったのか、鈴の記憶の中には無い声だったがその声もどこか懐かしいような気もした。ただ、「お前も忘れたのか」という言葉にやはり鈴の中には思い出せない何かがあるのではないかと確信していた。
Act.2 親子の会話
沙羅が高校へ入学してから2週間ほど経っただろうか、鈴はやはりどこか胸騒ぎが止まないでいた。その日も5時には家に帰り夕食のシチューとサラダを作って沙羅の帰りを待っている時、沙羅が無事に家の扉を開けてただいまの声が聞こえることを祈りながら待っていた。何が起こるというわけでもないのかもしれないが、ある日何かが起こって沙羅が帰って来なくなるのではないか、いきなり消えてしまうのではないかという根拠のない不安が鈴を襲っていたのだ。もう高校生なのだから心配し過ぎるのもよくはないとも思ったのだがそれとは違う不安があった。静まり返った部屋にはシチューの香りが漂い、時計を見ると7時少し過ぎたところだった。いつもならそろそろ帰ってくる頃なのだがその日はまだ玄関の扉が開かなかった。しかし7時半少し前くらいだっただろうか、鈴がじっとテーブルで待っていると玄関の扉が開く音がした。
「ただいま。」
沙羅の声だ。鈴はほっとして玄関まで行くと沙羅が丁度靴を脱いだところだった。
「お帰りなさい。今日はどうだった?」
「うん…いつも通りだよ。」
沙羅の答えは大体いつも同じだった。いつも通りということは特に困ったことはないのだろうと鈴も捉えていたのでその日も何もなく無事に一日を終えたのだと捉えた。沙羅は着替える為に自分の部屋へ行き、その間に鈴は夕食の準備をする。
2人が食卓に着くと、2人の目の前には湯気の立つクリームシチューと青々としたサラダがおいしそうに並ぶ。沙羅がテーブルの上のドレッシングをサラダにかけながら話しかけてきた。
「お母さん、聞きたいことがあるんだけどいい?」
食事の時ほとんど沙羅から話を始めることはなく、こうして話しかけてくるのは珍しい。
「どうしたの?」
「お母さんがあの高校に通っていた時に神隠しの噂ってあった?」
「神隠し?」
鈴は神隠しなどの噂は聞いたことがなかった。校内ではよく怪談話をしている生徒はいたし神隠しのような話も聞いたことがあったかもしれないが、そんなにはっきりとは覚えていなかった。
「よくは覚えていないけど、そんな話もあったかもしれないわね。」
「そうなんだ…。実際に神隠しが起こったとかっていうのも聞いたことない?」
「私の時代には無かったかな?そういうのいま流行ってるの?」
沙羅からそういう話しが出てくることは珍しかった。小学校低学年くらいまではよく学校のことを話してくれたのだが、いつの頃からか話さなくなっていたのだ。もしかしたら高校で友達を作ってそういう話しで盛り上がっているのかもしれないと考えると鈴も少し嬉しかった。
「流行ってるっていう訳じゃないんだけど…。そういう話を聞いたから。」
「そうなんだ。あの学校にはいろんな噂話があるからね。神隠しっていうのもあったかもしれないわね。」
沙羅は少し考えるようにサラダを食べていた。
「もしもさ、神隠しが本当にあるとしたらお母さん信じる?」
「どうかしら…本当に誰かが居なくなったら信じちゃうかもね。」
「じゃあさ…。」
沙羅は食べる手を止めて真剣な顔になる。
「私が居なくなったら神隠しって信じる?」
その言葉を聞いた瞬間鈴の手も止まってしまい様々な感情が渦巻いていた。
「そんなこと…そんなこと考えられるはずないでしょ!あなたがいなくなるなんてそんなこと考えられるはず無いじゃない!その時は神隠しなんかよりも神様を怨むわ!沙羅を…沙羅を返して下さいって…冗談でもそんなことは言わないで!」
あまり感情を表に出さない鈴が急に大声を出したことに驚いたのか、沙羅は目を丸くして鈴を見ていた。
「ごめんなさい…。」
沙羅は俯きながらそう言った。
「あ…ごめんね…私も急に大声出しちゃって。でもやっぱり沙羅がいなくなるなんて考えられないよ。考えたくもない…。」
それからはいつも通り静かに食事を終え、沙羅は部屋で宿題をすると自分の部屋に戻って行った。
しかし鈴は沙羅がもしも居なくなったらということをふと考えてしまい、何か大きな不安に襲われた。これまでも沙羅のことが心配になることはあったがここまで心配になったことは初めてかもしれない。というよりは自分が何かに怯えているのだ。何に怯えているのかは分からないが見えない恐怖に鈴はただただ耐えるしかなかった。
Act.3 不思議な来訪者
その日鈴は朝からボーっとしていた。朝9時からいつものようにスーパーのレジに入っていたのだがその日はミスを連発してしまいお客に謝ってばかりいた。常連のお客からも、
「顔色が悪いけど大丈夫かい?」
と心配してもらっていた。何をするにも頭が働かず、もしかしたら熱でもあるのではないかとも思ったがそれとはまた違うし眠気があるわけでもない。ただ単純に頭が働かないのだ。仕事を終えて控室に戻るとやはりその日も鈴一人だけで、着替えを済ませ帰る準備をしていると控室の窓際にまた視線を感じた。またあの影なのか、と鈴は瞬時に感じ窓の方を振り返った。そこにはやはり影がいたのだが前回と比べると寒気などはしない。その影はいつも見慣れているようなとても愛おしいものに感じた。影は夕日に照らされゆらゆらと揺れていてまるで陽炎のようだった。その影は近づいてくることも動くこともせずにただそこでじっとしていて鈴のことを見つめているように感じ、鈴は自分からその影の方へと近づいて行ったのだ。しかし、鈴がその影の目の前まで行った時気が付くと鈴は窓に触れていて影は居なくなっていた。一体あの影は何なのだろうか。なぜ鈴の前に姿を現すのだろうか。今見た影とその前に見た影は同じものなのだろうかと様々な疑問を抱えながらも鈴はその控室を後にして帰宅した。
帰宅して鈴は夕食の準備をしていた。魚焼のグリルにスーパーで帰りに買ってきた鯖の半身を1枚入れ、朝の残りの味噌汁を温め直す。静まり返った室内には鯖の焼ける香りが広がり、暗くなってきた部屋がとても淋しく感じる。しばらくして丁度鯖の半身が焼き上がる頃だった、家の呼び鈴が鳴り鈴は味噌汁の鍋の火を止めて玄関へと向かう。玄関の扉を開けるとそこには時枝隼人の息子、時枝健が「東第一高等学校」の今のブレザーの制服を着て立っていた。その表情は何かおっかないものでも見たような恐怖を浮かべ、急いでやってきたのか息を切らしている。
「時枝君…どうかしたの?」
健は息を整えようと深呼吸をしている。その顔には汗が滲み、何かを必死に伝えようとしていることが分かる。鈴は色々と考えていた。もしかしたら何かに追われているのだろうか、こんなに息を切らせて鈴の元へやってくる用事とは一体何なのだろうか。その時、落ち着きを取り戻した健がようやく口を開いた。
「沙羅は…沙羅さんはいますか?」
健はようやく言い切ったとでも言わんばかりに身体を曲げて膝に手をつき、再び深呼吸を始めた。しかしその時鈴は思った。一体この子、何を言っているんだろう、と。
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