6.神隠し
Act.1 最悪の朝
相変わらずの晴天が続いていて、外は爽やかな風が吹き春らしい天気になっている。健はいつものように準備を済ませリビングへ行くと祖母は笑顔で健を迎えてくれた。祖父はいつも通り新聞を読んでいる。祖母は健を気遣ってなのか、健の好きなハムエッグを焼いて出してくれた。健は今日学校へ行ったら今度は沙羅がいなくなっているのではないかという不安を抱え、学校へ行くのが少し怖かった。外へ出るとその不安とは裏腹にとても気持ちがよかった。しかしいつも広樹、絵梨と合流する地点に近づくとやはり少し心が沈んでしまい、太陽の陽射しや心地よい風はまるで偽物のように感じ、自分の周りにだけ暗い影が取り囲んでいるようなイメージが浮かんだ。広樹は健のことを許してくれるだろうか、まだ怒っているのだろうかと考えていたが、いつもの合流地点に行くと2人はいなかった。もしかしたら広樹も絵梨も今日も健は休むのだと思い先に行ったに違いないと思い、健は一人で学校へ向かった。
学校へ着くと何時ものように自転車を駐輪場へ停めて、玄関で靴箱を開けると相変わらず上履きの真新しいゴムの匂いにむせ返りそうになる。教室へ入ると、広樹の姿も絵梨の姿も潤の姿さえもなかったが沙羅の姿はあったのでほっとし、とりあえず健は沙羅のもとへ行って挨拶をする。
「おはよう。」
沙羅は健の方をちらっと見ると、
「おはよう。」
と静かに言っただけだった。昨日の雰囲気とは違い明らかに存在を消して周りから声をかけられないようにしているようだった。健は自分の席へ着き、机の中に授業の道具を突っ込んでいると中に何かが入っているのを感じ、手を突っ込んで探ってみると中からあの巾着袋が出てきた。中にはボールが入ったままだ。あの部室を飛び出した日に部室に落としてきたのを誰か届けてくれたのだろうと思い巾着袋をカバンに入れた。朝礼の時間が近くなっても広樹、絵梨、潤は教室に入ってくる気配がなく健はだんだん不安になってきていた。そして3人が来ないままついに仁美が教室へ入ってきた。仁美は先ず健のことを発見すると安心したようだったが次の瞬間、仁美は持っていた出席簿やプリントを手から落としその顔は恐怖で引き攣っていてその場へ倒れ込んでしまった。前に座っていた生徒は驚きながらも倒れた仁美起こし、拓郎はすぐに他の先生を呼びに行った。その姿を見た時健はやはり3人は消えたのだと悟り沙羅の方を見ると、沙羅も健の方を見ていたがその表情は冷めていた。どうして3人は消えたのだろうか、そして今回はなぜ3人が一気に居なくなったのか。それから仁美は少し落ち着きを取り戻しなんとかその日はいつも通り授業をこなしていた。
その日の昼休み、健と沙羅は立ち入り禁止のはずの屋上へ来ていた。屋上へのカギは掛っているように見えるが実は壊れていて簡単に外すことが出来た。しかし、屋上は雨風に晒されてかなり汚い為わざわざそこへ行く者もなく誰も来なかった。他の角度から見えないように真ん中あたりの室外機などが囲んである金網の近くで2人は話していた。
「どうして今回は一気に3人も…。」
健はもう何が何だか分からなくなっていた。
「ねえ、時枝君には見えなかった?今朝あの空いてる机に影が座ってたの。」
健はぞっとした。またあの影がいたというのか。しかし今朝はその気配には気が付かなかった。
「とても微力だけど、小川君のところも皐月さんのところにも、久永君のところにも影がいた。ということはあの3人も佐仲君や中村君、高山君と同じように消えてしまった…。」
沙羅はやはり表情を変えずにツラツラと台詞を言うように言っていく。
「でもよかったわね。」
と平気な顔で言う沙羅に健はむっとした。
「何がよかったんだよ!今度は3人も消えたんだぞ!」
「だって、消えていく原因が時枝君じゃないって分かったじゃない。昨日時枝君は3人と接していないんだから。」
確かにそうだ。これまでと違い前日にあの3人とは接していない。
「ということは他に原因があるってこと?」
「当たり前でしょう。それしかない。」
しかし、人が消えていく原因なんてそんなに簡単に分かるはずはない、健はそう思っていた。
「ねえ、時枝君今朝机の中に巾着袋入ってなかった?今持ってる?」
沙羅はあの考えるポーズをしながら健に聞いてくる。健は弁当をカバンごと持ってきていたので、そのカバンの中に巾着袋は入っていた。それを取り出して沙羅に渡す。
「そんな巾着袋がどうかしたの?」
健はその巾着袋に原因があるとは思えなかった。現に持ち主である健の身には何も起こっていない。
「昨日あの3人がこれを持っていたのよ。よく聞き取れなかったけど、ボールを出してなんだかかんだか話してたわ。」
その時健はいろんな記憶が蘇ってきた。
「ボール?」
沙羅は巾着袋からボールを取り出し、眺めている。
「なんだ、ただのきったないボールじゃない。」
沙羅がそう言っている間に健は居なくなった人たちの共通点が分かった。
「そう言えば…消えた人皆そのボールに触れてる…。」
沙羅はその言葉に健の方をじっと見た。
「そうだ、均も消える前日にそのボールを手にとって眺めてたし、誠も消える前日そのボールでキャッチボールした。貴之の時は、俺がグローブを忘れて部室に取りに戻った時、急いでたから自分のグローブにそのまま挟んでおいたそのボールを使って投げ込みの練習をしたんだ!そして昨日3人はそのボールに触れてる…。」
明らかな共通点と言えばそれしかなかった。しかし、沙羅は落ち着いたままそのボール眺め続けていた。
「じゃあなんで時枝君は消えないんだろう?」
そう言うことになる。何度も触れている健は消えることなく存在している。
「ちょっと待って!今そのボールに触れてるってことは如月さんも!?」
しかし沙羅は慌てる様子など無かった。
「消えるかもね。」
と軽く言っただけで沙羅は眺め続けている。
「特に変わったところは何もないけど…。」
健は均がボールを見ている時ふいに何かに気が付いたような素振りを見せたのを思い出していた。しかし健が見てもボールに変わったところなどなく、ただの茶色く汚れた古いボールにしか見えなかった。
「なんか野球部に関しては情報ないのかな?このボールを眺めていても埒が明かない。もっと情報が必要なのよ。」
沙羅がボールを巾着袋に戻しながら言った時、健はふとあることを思いついた。
「そうだ、姉さんのところに行けば何か分かるかも…。」
「姉さん?」
情報屋の伊都子だった。あの人なら何か知っているかもしれないと思った。
「今日学校の帰りに行ってみよう!」
伊都子は健の部活が終わるのを待って伊都子の情報屋へと行くことにした。
Act.2 噂の怪談
最近お客が減ったような気がすることが気になっていた伊都子は、その日も夜の営業の為に仕込みをしていた。その日は豚の角煮を煮込んでいて店内には良い香りが充満していた。伊都子も角煮が大好きなので煮えたらつまもうと楽しみにしていた。昼間はサラリーマン2人と奥様2人組が来ただけで、今ではほとんど夜の収入に頼っている為仕込みには特に力を入れていた。夕方のこの4時から7時も営業はしているもののお客などほとんどやって来ない為お客はいないはずであるが、伊都子はあの昔の風景を見た時から店内の誰もいない時でも人の気配を感じる気がしてならなかった。特別怖いということはなく不思議な気持ちだったが、伊都子はご先祖様でも会いに来ているのではないかくらいに考えていた。
伊都子が食器を片づけていると背後でなべが噴きこぼれる音がして振り返ると、角煮の鍋が溢れていたので弱火にしようと背をかがめた瞬間、カウンター越しに人の気配を感じた。それも今までよりもはっきりと伊都子のことを見つめているような感じだった。伊都子は顔を上げ、カウンターを見ると店内が薄暗くなっていて全体が黒い靄のようなもので覆われていたのだ。一見すれば火事のようにも見えるが、角煮の鍋から煙が出ているというわけでもなければ焦げ臭いにおいもない。伊都子はその靄の中に人影を見つけぞっとした。その人影に顔は無かったが、伊都子はその影のことを知っているような気がしたのだ。一体どういうことだろうか。前回の時といい、伊都子の過去に何かあるのだろうか。その人影はじっとその場に佇んでいて伊都子の方を見つめているようだ。伊都子に恐怖はなく、その影がいったい何者なのか知りたいという気持ちしかなかった。
「あなた、誰?」
伊都子はいつの間にかその影にそう問いかけていた。しかしその影は答えるはずもなく、やはりじっとそこにいた。伊都子も色々と考えを巡らせるが思い出すことが出来ず、その影を見つめていた。しかし伊都子にはその影の記憶が伊都子の中のどこかにあって、その記憶に蓋をされているようなそんな気がしていた。その蓋を開けてくれればすべて思い出すはずなのにともどかしさを感じていた。その時、再び鍋が噴きこぼれる音がして手元を見ると弱火にしようと思っていた火が中火で止まっていたので急いで弱火にし、顔を上げるといつもの店内に戻っていた。伊都子の記憶の中にある思い出せない記憶とは一体何なのだろうか。伊都子にはそれを思い出したくても思い出すことはできなかった。
それからしばらく経ってまだ夜営業には早い時間に店の入り口が開き、入ってきたのは健と沙羅だった。
「あら、いらっしゃい。沙羅ちゃん久しぶりね。」
沙羅は小さく頭を下げ、挨拶をした。
「さ、座って。いつものでいい?」
いつもの、とはあの乳製品の牛乳割のことを言っているのだろう。健と沙羅はカウンターの席に座った。
「そう言えば健君、学校さぼったんだって?」
あまりの情報の速さに健は驚いた。さすが情報屋と言うだけはある。
「さすが…もう知ってたんですね。」
健は少し決まりが悪そうに顔を俯かせた。
「ま、情報屋ですからね。」
それが伊都子の口癖なのだろう。しかしそれだけの情報屋なら例の件も分かるかもしれないと健は感じた。
「もう勉強でも嫌になったか?まだまだ高校生活はこれからだぞ。今は青春時代を楽しめ楽しめ!」
と伊都子は笑いながらいつもの特製ドリンクを準備していたが、ふと不思議なことを感じて動きを止めた。以前はもっとたくさん作っていたように感じるのだが気のせいなのだろうか。そう思いながらも2人の前に特製ドリンクを置く。
「はい、どうぞ。」
「ありがとうございます。」
健と沙羅は礼を言いながらグラスを受け取った。
「なんだかこうやって同級生の子がまた同級生って言うのも、珍しいね。隼人も鈴も、仲良かったもんね。」
伊都子が懐かしそうに言うと、健もそのことを思い出した。
「そう言えば、如月さんのお母さんもうちの父さんも、姉さんも同級生なんですっけ?」
「そうだよ。特に健君のお父さんと沙羅ちゃんのお母さんは仲良かったんだ。」
伊都子が続ける。沙羅は黙ったまま特製ドリンクをすすっている。その時、健は単純な疑問を抱いた。
「あれ、じゃあもしかして父さんと如月さんのお母さんって付き合ってたんですか?」
その疑問に伊都子は答えられなかった。付き合ってはいなかったのだろうがはっきりと思い出せない。なぜ付き合っていなかったのか。3人とも仲の良い友達だったとしか言いようがないが、隼人と鈴の関係性については何か引っかかる部分がありモヤモヤとしてしまう。あの2人は何か特別な関係にあったような気がするのだ。
「うーん…まぁ昔からの良い親友ってことだったんじゃないかな?私だってそうだしね。それに隼人は進学でこの町から出て行っちゃったし。」
確かに健自身も父親から過去の話はあまり聞いたことがなく、鈴のことも入学式の時に初めて見たくらいだ。健と絵梨も仲は良いが付き合っているわけではない。きっとそれと同じことなのだろうと健は思った。
「そうなんですね、父さんの昔の話なんて聞いたことなかったから、全然知りませんでした。まぁ、高校の時に野球部だったってことは知ってましたけど。」
「健君も野球部だもんね。親子ってやっぱり繋がってるところあるんだねぇ。そう言えば沙羅ちゃんのお母さんは元気かい?」
伊都子は沙羅に話題を振る。
「はい、元気です。」
沙羅は無表情で言い、また特製ドリンクをすすった。
「しばらくここにも顔出してないから、たまには来てって言っておいてよ。情報屋が寂しがってたってさ。それにしても2人こそもしかして付き合ってるの?」
その瞬間さすがの沙羅も止まった。
「ち、違いますよ!!如月さんとはただ同じクラスってだけで!」
健の焦りようが一層伊都子には怪しく見えたようだった。
「同じクラスってだけで放課後2人でデート?」
伊都子はにやにやしてかなり嬉しそうにしている。
「いや、本当に違いますから!如月さんとはお付き合いしてないです。」
健は必死で否定し、沙羅は何となく顔が赤くなっている気はしたがその雰囲気は全面否定していた。
「まあでもいいんじゃない?隼人も鈴も仲良かったんだから、許してくれるわよ。同級生の子がまた同級生で繋がるって、なんかドラマみたい。」
伊都子は完全に歯止めが利かなくなっていると健は思った。
「違いますから!時枝君とはただのクラスメートです!」
沙羅は珍しく声を大きくして言うと、健も少し驚いていた。
「悪い悪い、2人はただのお友達なんだもんねー。」
と言いながらも伊都子はまだ疑っているようでにやにやとしていた。健は早く本題に入ろうと話題を切り替えた。
「そ、そうだ、今日は、姉さんに聞きたいことがあって来たんですよ!」
伊都子はまだにやにやとしながら健の方を見ていた。
「何?」
健は続ける。
「あの、東第一高校にまつわる噂とか怪談とか聞きたくて。」
「別に良いけど、急にどうしたの?」
「あ…いえ…なんとなく聞きたくって。」
健はうまく答えられなかったが、そう言うと伊都子はふーんと言いながら上の方を見つめ色々と話を思い出しているようだった。
「まああの学校は戦前からあるから、色々噂や怪談話は絶えないわね。多分話し始めたら止まらなくなるくらい一杯あるわよ。有名なところで言えば、あの部室棟の近くの茶道室から見える池。茶道室の少し先にトイレがあるでしょう?あのトイレを建設する時にあそこで作業員が亡くなって、夜中あの池からその作業員の手が出てきてそれを見た人は池の中に引き摺り込まれるとか、理科室の裏の暗幕に囲まれたホルマリン室では戦前人の解剖が行われていて、夜になると解剖された人の幽霊が彷徨ってるとか、色々あるわよ。」
確かに怖そうな噂話はたくさんあるが、健達が求めているものではなさそうだった。もっと絞り込んで聞かなければなさそうだ。
「あの、それじゃあ野球部についての噂とかって何か無いんですか?」
健は野球部に絞って聞いてみた。伊都子はまた思いだそうと天井を少しの間見つめた。
「野球部に関する噂は…やっぱりあのロッカーの話だけかな…。あのロッカーは封印されているだとか、中には死体が入っているだとか。でも、健君あのロッカー普通に使ってるんでしょ?やっぱり何もなかったんじゃないかしら。」
健と沙羅は顔を見合わせる。伊都子はそれに気が付き、不審に思ったのか目を細める。
「何かあったの?」
健はまだ本当のことは言わない方がいいかもしれないと更に伊都子に突っ込む。
「そのロッカーについてもっと詳しく分かりませんか?」
伊都子は煙草の箱に手をかけながら考えている。
「あのロッカーについてはそのくらいの噂しか知らないね。なにせあれを開けたって聞いたのは健君くらいだから。いつから開かなくなったのかも分からないし。」
やはりいくら情報屋でも今回の件に関しては情報が無いらしい。健がそれ以上聞くのを止めようとした時、今度は沙羅が伊都子に聞いてきた。
「あの、それじゃあ人が突然消えるとか、いなくなるみたいな噂ってありませんか?」
伊都子は煙草に火をつけながら頭の中から情報を取り出しているようだった。
「神隠し…。」
伊都子は煙草の煙を吸い込み、一気に吐き出す。健と沙羅はその言葉に一瞬はっとなった。
「そう言えば、生徒が神隠しに合うって言う噂は一時期あったみたい。これとは別に教室の机が増えて行くって言う噂もあったんだけど、この二つは繋がってて神隠しにあった生徒は皆から忘れられてしまって、その生徒のいた机だけが残るから必然と机が増えて行くように見えるんだよね。だから、机は増えていなくてそこにいた生徒がいなくなったって言うのが正解だったみたい。」
ビンゴだった。それが今1年1組に起こっている現象に違いない。さっきまで黙っていた沙羅もその話に食らいついていく。
「その話、もっと詳しく聴かせて下さい!」
沙羅は目の前のグラスを倒しそうになる勢いで伊都子に聞く。伊都子もその勢いに押されているようだった。
「そ…そうね。噂自体は私が高校生だった頃からあったから、結構古い噂だと思う。消える生徒はある日突然消えて、皆からも忘れられてしまうんだって。でも、神隠しから戻った人もいるらしいとは聞いたことがある。神隠しに遭う人には共通点はなくて、この神隠しはいつも起こる訳でなくて起こる時期っていうのもあるらしいの。全く起こらないこともあれば、立て続けに神隠しが起こることもある。それが何故かは分からないけど、今まで神隠しに遭った生徒たちがあっちの世界に特定の人を呼んでるんじゃないかっていう噂もあった。だから連鎖するのよ。神隠しに遭った人がその友達を呼んで、更にその友達がまた友達を呼ぶ。でもその消えた生徒がどこへ行ったのかは誰も知らない。」
「じゃあ一体誰があっちの世界に呼んでいるとか、呼ばれる人の共通点がないんじゃ原因が分からないですね。でももし消えた人のことを覚えている人がいれば、呼び戻すことって可能なんでしょうか。」
健はなんとか少しでも情報が得られないかと粘ってみた。
「もし覚えている人がいたなら…もしかしたらその人が次に呼ばれるとか…覚えてるからでこそ呼ばれる…。」
伊都子も詳しくは分からないようだった。確かに貴之の例を見ればその話は当てはまるが、健や沙羅の場合は違う。しかし、もしかするとこの次に呼ばれるのが健か沙羅なのかもしれない。ここまで話すと伊都子はさすがに気が付いたようだった。
「つまり、あなた達のクラスの生徒が消えて、その生徒のことをあなた達は覚えているけれども他の皆は覚えていない。そう言うことでしょ?」
健も沙羅も何も言えなかった、というよりはなんと言っていいのか分からなかったのだ。
「何日か前に先生達が飲みに来てね、その時に毎朝机が増えてるって話してた。」
健と沙羅はまた顔を見合わせ、恐らく仁美のことだろうということを2人とも感じていた。
「その時、黒い影が見えるとかも言ってた。あなた達も見たの?影。」
その言葉には健も沙羅も驚いた。仁美も影を見ていたというのだ。
「神隠しが起こってるみたいね。」
そこで健は思い切って聞いてみた。
「姉さん、あの…ここに特製ドリンクを飲みに来るの、俺と一緒に来てた他の奴らのこと覚えてませんか?」
伊都子は煙草の火を消し、落ち着いた様子だった。
「やっぱりか。なんか違和感あったんだよね…。」
健はなんだかほっとしたような気がした。理解してくれる人がほかにもいたのだ。沙羅はまた何か考え事をしているようだった。
「ただ、それが誰なのか分からないわ。ただそんな気がするだけだから。もし消えた子の名前を言ったとしても私は分からないと思う。今の私にはこの特製ドリンクを飲むのは健君と沙羅ちゃんしか記憶にないから。」
しかし伊都子はそこに誰かがいたことは信じてくれているようだ。または子どもの噂に付き合っているという感覚なのかもしれない。
「でも、どうにかしてあっちの世界に呼んでいる犯人を突き止めることはできないのかしら。」
考え事をしていた沙羅がまた口元に手をあてがったポーズで言う。
「もう一つ、今回の神隠しに関わりそうな噂、教えてあげようか?」
伊都子は楽しそうに言う。やはりこういう事件は好きなようだ。
「さっきからたまに出てくる影の話だけど、この影に関しても噂はあったわ。あんまり有名でないけど学校のどこかに影が湧いて出てくる場所があるって言う噂。その影は急に現れて見た人を捕まえようとするんだって。もしその影に捕まってしまったら影の現れた場所へ引き込まれて、その人も引き込まれたあっちの世界で影になってしまうんだって。そしてその影がまた友達を引き込んでは仲間にしていく。もしかしたらこの噂は神隠しと元々被っていたのかもしれないわね。」
伊都子はやはり楽しそうだ。しかし、それを聞いた沙羅はまた少し興奮気味に伊都子に質問をする。
「その影が湧いて出てくる場所ってどこなんですか?」
「詳しくは分からないけど……壁って言うのは聞いたことある。何処の壁なのかは分からないけど、恐らく校内のどこかの壁なんだと思う。」
その時健は迷っていた。後はあのボールを見せれば何かもっと話が進展するかもしれないが、あのボールを伊都子に見せるのは危険な気がした。もしあのボールを見せたせいで伊都子が消えてしまったら取り返しのつかないことになる。しかし沙羅は違ったようだった。健に目線で合図を送りカバンの中に目をやり、あのボールを出せと目で訴えてきた。健は駄目だと首を横に振るが伊都子がそのやり取りを見逃すはずはなかった。
「なぁに、まだ何かあるのかな?」
伊都子はやはり見せて欲しいようだった。沙羅もじっと健を見つめてボールを出すのを待っている。
「あ、いや…もう…特には…。」
健はボールを出さざるを得ないのかと思ったその時だった、店の入り口が開いて客が入ってきた。
「すいません、3名、良いですか?」
と会社帰りらしいスーツ姿の男性が入ってきた。
「いっけない、もうそんな時間か。いらっしゃいませ。テーブル席でよろしいですか?」
健はその瞬間ほっとした。伊都子が急いでお通しとグラスを準備する間、健は特製ドリンクを一気に飲み干し、カバンを持って席を立つ。
「姉さん!ありがとうございました!」
健は沙羅の手を取り、
「遅くなるとまずいから帰ろう!」
と無理やり席から立たせ、店から2人は出て行った。
「気を付けて帰るんだよ!」
扉から出る時伊都子の声が後ろからした。2人で自転車を置いた場所まで来ると沙羅は勢いよく健の手を振りほどいた。
「ちょっと!なんであのボールを見せなかったのよ!!」
沙羅は怒っているようだ。健は出る時に持ってきた沙羅のカバンを渡しながら答えた。
「だって…姉さんまで居なくなったら…大変じゃないか…。」
野球部の健は息を切らしているのに不思議と沙羅は全く息を切らしていなかった。
「臆病者。もしかしたら新しい情報が聞けたかもしれないのに!」
「リスクが高すぎるんだよ。どうするのさ、姉さんまで消えちゃったら。」
「あんた、将来社会人になってもそんなこと言ってそう。」
沙羅は完全に怒っているようで健と目も合わせてくれなかった。
「もういいわ。」
と言うと沙羅はさっさと自転車に乗り先に行ってしまった。健はその後ろ姿を見ながら少しして我に返ったように自分も自転車に乗り家の方へ自転車を走らせた。一人で帰らせてしまったのは男として心配ではあったが、健はどうせ一緒に帰ると言ったところでまた断られることは分かっていた。しかしどうして沙羅は学校にいる時とああも雰囲気が変わってしまうのだろうと健にとっては今回の神隠しの事件と同じくらい不思議に感じていたのだった。
Act.3 続く幻覚
仁美は昨日から学年主任に病院へ行くということで休業届けを出していた。その日が土曜日ということもあっていつも学校へ行く時よりも早く家へ出て、街の大学病院へ向かう為駅まで来ていた。机はまた増えていたのだ。しかも一気にいくつも。更にその空いた机に昨日は何度も影の姿を見てしまった。これ以上はもう限界だと感じ、仁美はついに病院へ行く決心をした。一応内科を受診するつもりだがもしかしたら精神科にでもかかるよう言われるのではないかという覚悟をして、自分の身の回りに起こった全てを話そうと心に決めていたのだ。やがて電車がやってきて8つ先の駅まで行く。そこまで来ると風景は完全に都会で、その駅からバスで20分程の所に大学病院はあり、その大学は教員の研修や集まりの時にも何度か来たことがあった。やはり大学病院は混んでいて、仁美は7時過ぎには着いたのだが受付待ちの患者さんがすでにロビーに何人も座っていて、それぞれ世間話などをしてそれなりに賑わっていた。
8時になり、受付カウンターの窓口が開くと仁美は受付を済ませ23番の札と問診票を貰い、ロビーの椅子に座る。ロビーのテレビでは朝のワイドショーをやっていて芸能人の離婚騒動を報じていた。問診票を受付に提出するとしばらくは教材の資料などを座って読んでいたのだが、ずっと読んでいるのも疲れ自動販売機で温かいカップコーヒーを買うと、ラックに置いてあった女性誌を手に取って読み始めた。あるページにイケメン野球選手の特集という記事があり、女性に人気の野球選手ダントツトップに「
「え!?」
思わず声を出してしまった。そのページに乗っていた川島裕選手の顔写真がペンで雑に塗り潰されたようにまっ黒になっていたのだ。先ほど見た時は何でもなかったのに、川島裕選手の顔が黒くなっている。よく見るとその黒い部分はモヤモヤと動いているようにも見え、仁美は顔を引き攣らせていた。その黒いモヤモヤはあの例の影なのではないだろうかと感じた。その影はまるで川島選手の顔を塗り潰していくように見え恐怖を感じ、身動きが取れなくなっていた。
「室井さん!室井仁美さん!」
と呼ばれた声に我に返り、周りを見ると周囲の何人かは仁美のことを見ていた。仁美は慌てて雑誌を拾い上げ、呼ばれた診察室の方へと向かった。
Act.4 もしも…
土曜日は授業が午前中だけなので、午後からはそれぞれ帰宅したりアルバイトに行ったり部活に行ったりしていく。健も午後から野球部へ行かなければならなかったため昼食を取り、部活が始まるまでの間沙羅と屋上で座っていた。
「如月さん…まだ昨日のこと怒ってるの?」
沙羅は遠くの山の方をじっと見つめて動かない。
「俺だって見せるかどうかは迷ったよ。でもやっぱりあのボールを姉さんに見せて消えちゃったら責任取れないよ。如月さんだって…。」
「あのさぁ…。」
沙羅が健の話しを遮るように急に声を上げる。
「その如月さんってもうやめない?」
「え?」
健は急な沙羅の言葉にキョトンとしている。
「沙羅でいいから…。」
「沙羅…さん?」
「さんつけなくっていいから!」
「さ…ら?」
健がゆっくりそう言うと、沙羅は少し嬉しそうな表情を浮かべ、満足そうに遠くを眺めていた。
「私もさ、健って呼んで言いい?」
健はその時、そう言えば2人とも同じクラスメートなのに名字で呼び合っていただけだったと感じ、広樹や絵梨のように名前やあだ名で呼びあってもそれは別に構わなかった。
「いいよ。」
その時沙羅の顔は春の日差しに照らされて、とても幸せそうな表情を浮かべているのを健は見ていた。健はその表情を見つめている自分も幸せになっていくような気分になり、そのまま時間が止まってしまったような不思議な感覚を味わっていた。少しすると健は自分の鼓動が速くなっているのに気が付き、何と表現したらいいのか分からない身体の奥底から湧きあがっている衝動を感じていたのだ。
「もしもさ…。」
沙羅が口を開いた時、健はいつの間にか沙羅のすぐ隣に来ていて驚いた。
「もしも自分が消えたらって考えたらどうなんだろう?」
沙羅は嬉しそうな表情から少し寂しそうな表情になり、尚も遠くの方を見つめている。
「自分が消えて皆の記憶からも消えたらって思うとどう?」
健はなぜだか沙羅の顔を見つめ続けられなくなり、沙羅と同じように遠くを見つめながら考えた。
「やっぱり…怖いかな…。自分が消えて皆からも忘れられちゃうって思うと、めちゃめちゃ怖いかも…。沙羅はどうなの?」
健がそう聞くと今まで遠くを見ていた沙羅は俯いてゆっくりと話し始めた。
「私は…別に怖くもなんともないかな…。どうせ今だって同じようなもんだし…。私が消えたってこの世界は何も変わらないよきっと。だから全然平気。」
沙羅のその表情は今までとは違い、とても暗く悲観的になっていた。
「そんなことないよ!沙羅が消えたら俺は嫌だよ!そんなこと言うなよ。」
急にそう言った健に沙羅は少し驚いた表情で健を見ていた。
「どうせ消えてもいいなんて、そんな人間この世にいないよ。沙羅だって俺だって、この世でたった一人しかいないんだからさ…だから…均も誠も貴之も広樹も潤も絵梨も皆をここに連れ戻さなきゃ!」
健は湧きあがってきた衝動を全て沙羅にぶつけるようにそう言った。しかし、それでも沙羅は寂しそうな表情のままだった。
「そうだね…。でもそうしたらまた私は一人ぼっちに戻っちゃうね。」
「そんなことない!皆が戻ってきたら今度は沙羅も一緒にさ、皆でバカなこと話したりして笑って、皆で昼休みも笑って飯食ってさ。姉さんとこで皆で特製ドリンク飲んで…沙羅は一人ぼっちじゃないよ。」
気が付くと沙羅は泣いていた。健にはその理由が分からなかった。
「ごめん…俺なんか悪いこと言っちゃったかな…。」
健も勢いで言ってしまったので何か沙羅を傷つけることでも言ってしまったのかと焦った。それからしばらく健もどうしていいか分からずに戸惑っていたが、気が付けば泣き止まない沙羅の肩をそっと抱いていた。女子に対してそのように接するのは初めてだった健は、自分でも不思議だったのだがそうしていると自分もなんだか落ち着くような気がしたのだ。やがて沙羅も落ち着きを取り戻してきたのか泣き止んでいた。
「嬉しくて…今までそんなこと言ってもらったことなくて…。ずっと友達らしい友達って居なかったからそんなこと言ってもらったの初めてで…。」
言いながら沙羅はまた泣きそうになってしまう。
「友達が欲しくなかったわけじゃないの…。小学生くらいの時は友達作るの苦手だなって感じてて、なかなか友達が出来ないうちにいつの間にか友達を作ること自体が面倒になってた。でもやっぱり羨ましいなって思ってたの…。だからこうやって健と居るのは楽しかった。」
健はそんな沙羅の言葉を聞いて肩を強く抱き寄せた。
「今度から俺達だって友達だよ。だから、皆を連れ戻して楽しい高校生活にしよう。」
すると沙羅は急に立ち上がり、また遠くの山を見つめた。
「だったら…連れ戻す方法考えなきゃ。」
そう言う沙羅の顔はスッキリとしていた。しかしこの話に戻ると気は重くなる。戻す方法と言ってもまだ何も分からない状況なのだ。
「昨日の姉さんからの話しをまとめるなら、昔から生徒が消えていく神隠しの噂はあった。それとは別にもう一つ壁から湧いて出てくる影の噂。影はこの校内のどこかの壁から出てきて生徒をその壁に引き込まれてしまう。つまり神隠しとはこの影によって居なくなった生徒のことを指していた。」
しかしこの話のどこにも連れ戻すためのヒントはなかった。
「もう一つ、健のあけた野球部のロッカーとあの中で見つけたボール。これも繋がってるはずなの。」
沙羅はそう続ける。しかしそれをどう繋げていいのかもまだ何も分かっていない。
「健はさ、自分のお父さんにこの話し聞いてみたことある?野球部だったんでしょ。」
健はこのことをまだ父親には言っていなかった。あまり心配をかけるのはいけないと思い、この神隠しとあの野球部との関連性もはっきりしなかったからだ。
「いや、まだ聞いたことなかった。」
「私は母さんに聞いてみた。神隠しがこれまでにも起こったことがあるかどうか。でも母さん達の代にはそういうことはなかったって。ただ、野球部の方に関しては健のお父さん何か知ってるかもしれない。」
「そう…だね。聞いてみるよ。」
その時だった、午後の始業を知らせるチャイムが鳴った。
「やっべ!!部活行かなきゃ!」
健は急いでかばんを持ち、屋上の出入り口の方へ走った。
「沙羅!今夜父さんには電話してみるよ!何か分かったら沙羅にも電話するから!」
そう言って健はダッシュで去って行った。
そんな健を見送った後沙羅は再び遠くの山を見つめた。沙羅は健という友達と出会えたことが本当に嬉しかった。そして、健に肩を抱いてもらった時に感じた緊張感は何だったのだろうと沙羅は不思議に思っていた。春の日差しに照らされた屋上はとても温かくて気持ちがよく眠ってしまいそうだ。しばらくそうして遠くを見つめていると背後に寒気を感じた。春の暖かさに似つかわしくない、まるで大型の冷凍庫の扉を開けた時のような冷気が沙羅の背中を押すように襲ってきた。沙羅は恐る恐る振り返ると屋上の入り口のところにまた現れていた。先ほど健が閉めたはずの扉がいつの間にか開き、そこからあの影がゆっくりと出てきている。しかし沙羅は怖くなかった。もしかしたら消えた皆が沙羅を呼びに来たのかもしれないと感じたからだ。
「呼びに来たの?」
沙羅は聞こえているかもわからない影に話しかけていた。
「ねえ、どうすればいいの?どうやったら皆を助けられるの?私助けたい!助けて皆とちゃんと友達になりたい!だから教えて!教えてよ!なんでもするから!」
沙羅はいつの間にか涙を流していた。その間にも影はじりじりと沙羅の方へ近寄って来て、扉からは無数の影が出てきていた。沙羅の目の前は無数の影で真っ黒になり、それは消えたクラスメートの影だけでなくこれまで神隠しに遭った全ての生徒の人間の影なのではないかと思えた。それでも沙羅は怖くなかった。きっとこの影達は皆助けを求めているに違いない。助ける方法さえ分かればこの影達を解放できるのだ。
「どうすればいいの?ねえ!どうすればあなた達を助けられるのよ!!」
沙羅は叫んでいた。周りはもう影に囲まれて真っ暗になり、太陽さえも遮ってしまっていて真っ暗だったが影達の持っているぬくもりのようなものは伝わってくる。やはりこの影達は元々ちゃんとした人間だったのだ。沙羅は身動きが取れなくなり暗闇の中へ引きずり込まれていった時だった。周りからは影が消え、沙羅はさっき健と座っていたところで目を覚ました。あまりの気持ちよさに沙羅は眠ってしまい夢を見ていたのだろうか。まるで何もなかったかのように屋上の時間は穏やかに流れていた。沙羅には皆を何とかして連れ戻したい、連れ戻して楽しい学校生活を送りたいと思う気持ちが強くなっていて、この屋上の暖かい太陽の陽射しが、まるで沙羅のことを優しく受け入れてくれているように感じた。
Act.5 過去の野球部
この日隼人は翌日が休日ということもあって、やらなければならないことを終わらせていた為帰りが少し遅くなっていた。家に着く頃には8時を過ぎていて、玄関のカギを探している間は少し肌寒かった。カバンからようやくキーケースを見つけ、鍵を開けて家の扉を開けて玄関へ入り真っ暗な玄関の電気をつけようとした時隼人はあることに気が付き動けなくなった。
「コンッ…コンッ…。」
家の中から音が聞こえる。
「コンッ…コンッ…。」
よく聞くとそれは階段から聞こえてくる。誰かが階段を下りてきているのだ。泥棒かもしれない。もしそうだとしたら刺されるか、最悪殺されてしまうかもしれないという恐怖に隼人は襲われた。
「コンッ…コンッ…。」
音はどんどん近くなってくる。隼人は身動きが取れずただただじっとして恐怖を耐えていた。しかし音はもうそこまで来ていて、恐らく後1段くらいのところまで来ているがあまりの恐怖にそれを見ることはできなかった。しかし、その音が階段を降り切ったと思った時、音はボールの転がるような音に変わった。おかしいなと思い目を開けると、階段の方から小さなボールが転がって来ていた。ようやく隼人は玄関の電気を付けてそれを見ると、玄関の方に向かって軟式の白い野球ボールが転がって来ていた。ボールは玄関マットの前で止まり、隼人は革靴を脱いで上がるとカバンを玄関の脇に置いてそのボールを手に取った。そのボールは健が中学校の野球部での引退の時に貰ったメッセージ入りのものだった。ボールには「高校行ってもがんばって!」「最高だったぜ健!」など応援のメッセージが書かれていた。恐らく2階の健の部屋に置いてあったものなのだろうが、なぜそのボールが落ちてきたのだろうかと不思議に思っていると階段の上から鋭い視線を感じた。隼人は全身に鳥肌が立ち、ゆっくりと階段の上を見上げた。すると階段の上の暗闇に人影が立っていたのだ。その人影はじっと隼人のことを見下ろしている。隼人はやはり泥棒が居たのかと一瞬身構えたがよく見るとその人影は人の形はしているものの何か黒い影のようだった。そう、あのオフィスで見たのと同じ黒い影だったのだ。その影はやがて隼人の方に向かって降りて来たのだがやはりその動きは人の動きでなく、音を立てず滑るように隼人の方に向かって降りてきているのだ。ゆっくりゆっくりと降りてくる影は近づいてくるとやはり見覚えのあるような顔が見える。しかしどうしてもその顔のことを思い出すことができない。もうすぐそこまで出てきているような気がするのだが、やはり記憶に蓋をされているように思い出せないのだ。その影が隼人の目の前に来た瞬間だった。
「おい…俺のこと思い出せねえのかよ。」
やはり隼人はこの影のことを知っているはずなのだ。その時隼人の携帯電話が鳴った。隼人はジャケットのポケットから携帯電話を取り出すと影はもう消えていた。電話の相手は健からだった。隼人は大きく深呼吸をすると電話の通話ボタンを押した。
「もしもし、健か?どうした。」
「あ、父さん…ごめん、もう仕事終わったの?」
隼人は健の声を聞いて少しほっとしていた。
「ああ、今帰ってきたところだ。どうだ、学校は楽しいか?」
「うん…楽しいよ。」
心なしか健の声が沈んで聞こえた。
「あのさ、父さんに野球部のことで聞きたいことがあるだけど…。」
「なんだ?」
「野球部の部室のロッカーに、開かずのロッカーがあったのって知ってる?」
隼人は少なくとも自分が所属している時にはそのようなものは聞いたことがなかった。
「開かずのロッカー?聞いたことがないな。」
「そう…なんだ。」
「何なんだ?そのロッカーって。」
「うん…一番端っこの部室にあるロッカーの一つがずっと開かなかったって話なんだけど。」
一番端っこといえば左端のことだろうか。隼人が野球部にいた時は左端から3つの部室を野球部が使っていて左端と真ん中が更衣室、一番右が用具倉庫になっていた。
「それがどうかしたのか?」
「あ、いや、今野球部でそんな話聞いちゃってさ。父さんの時代もあったのかなって。」
「さあな…多分鍵でも壊れてるんだろ。」
「そう…だよね。なんかそのロッカーに幽霊が封印されてるとか変な噂があったからさ。」
高校生なんていうものはそういう噂話が好きなものだ。そう言えば高校の頃同じクラスにいた伊都子もそんな噂話が好きだったなと思いだした。故郷へ戻ったらあの情報屋にでも行くかと隼人は思った。
「あの学校は色々噂話が絶えないからな。あんまり気にすることはないよ。」
「分かったよ父さん。俺父さんのこと待ってるから、早く仕事終わらせてこっち来てね。」
「ああ。健も、野球も勉強も頑張るんだぞ。他に何か変わったことあるか?」
「ううん、大丈夫。じゃあね、お休み。」
と言って健の方から電話を切った。隼人にはなんとなく健の元気がないように感じた。今はとにかく早く仕事を片付けて健の元に戻ってやらなければと、もう一度プロジェクトに関する資料を見直すことにした。しかし隼人にはなんとなく嫌な感じはしていた。それが何なのかは分からないが少しでも早く健の元へ行かなければ大変なことになる。手に持った健の軟式ボールを見ながら隼人の心は落ち着かなかった。
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