5.如月沙羅
Act.1 重い朝
健はいつものように祖母の声で目覚めていたが、昨日そのままで寝ていた為制服もソックスも履いたままだった。外はその日も晴天で、カーテンを閉めていなかった窓からは朝の光が射していて布団の中は蒸し暑く、健はゆっくりと布団から出た。さすがにそのまま寝ていたのが悪かったのか、自分から制服と汗の籠った匂いが交って漂ってくるのが分かり、心地のいい目覚めではなかった。
そのままカバンを持って1階のリビングへ降りて行くと、いつものように祖母が朝食を準備していた。しかし、祖母は健を見たとたんに少し顔が険しくなった。
「おはよう。」
その様子を見ながら健は恐る恐る挨拶をする。
「おはよう………やっぱり昨日そのまま寝ちゃったんだね。ワイシャツが皺になってるよ。」
祖母に言われて自分の胸元辺りを見てみると、ブレザーの合間から見えるワイシャツが確かに皺になっていた。
「あ…ごめんなさい。」
祖母はそれを聞きながら健に背中を見せ、食器棚から湯呑みを取っていた。
「健………何か言うことあるんじゃないかい?」
健はその時、昨夜聞いたあの電話はやはり学校からだったのだと理解した。しかし、健は答えることが出来ずに黙っていた。
「まあまず朝ご飯を食べなさい、遅刻するから。」
と祖母から促されとりあえず自分の席に座る。祖父はその会話を聞いているのか聞いていないのか、新聞を読んでいて気にしている様子はなさそうだ。
「昨日、小川さんとこのと喧嘩したんだって?」
この地域はそんなに広い地域でもないので、大体どこかで繋がっていてどこどこの誰誰さんと言えば大体分かるらしく、昔からこの土地に住む祖父母も名前を言えば近所のことくらいなら分かるらしい。
「喧嘩した後、理由も言わずに飛び出してきたんだって?」
祖母は怒っているという口調ではなかったが、健を咎めているようにも聞こえた。しかし健は祖母に何と答えていいのか分からず、黙り続けていた。相変わらず祖父は話に加わる様子はなく新聞を眺めていた。
「何があったんだい?話じゃ、健が小川さんとこのに殴りかかろうとしてたって。仲良かったんじゃないのかい?」
「ちょっと…言い合いになっちゃって…。」
なんとか健は少し答える。しかしそれ以上は言葉が出てこなかった。
「でも、手を出しちゃいけないよ。怪我させたりしたら大変でしょ?」
と祖母は自分も座りながら言う。
「男の子なんだ、殴り合いの喧嘩一つくれえでごたごた言う必要もねえだろうに。そんぐらい元気の方が健康的でいいや。」
今まで黙って新聞を読んでいた祖父が新聞を広げたまま言う。
「喧嘩して怪我して、男の子は強くなるんだよ。俺だってボウズん時には殴りあっては骨折したこともあったもんだ。隼人にはそんな勢い無かったみたいだけどな。健は俺に似たんじゃないか?」
と新聞に隠れて顔は見えないものの、なんとなくその顔はにやけているように感じた。その言葉に祖母は反論する。
「今の時代はそうはいかないんですよ。怪我でもさせたら最悪裁判ごとにまで発展する世の中なんですから。学校の先生の体罰だって問題になってるのに。」
「そんなんだからこの日本は弱っちいガキばっかになってくんだよ。見てみろ、自殺だなんだってまた書いてあらあ。健はどんどん強くなれ。」
と言うと祖父は新聞を畳み、湯呑みに手をかける。
「無責任な。とにかく健、今日学校へ行ったら広樹君にちゃんと謝るんだよ。さ、早く食べて、遅刻するよ。」
「もっかいちゃんと決着付けてくればいいんだ。」
祖父はお茶をすすりながら言う。
「もう!あなたは黙ってて!」
祖母は怒鳴り、祖父はそれ以上何も言わず涼しい顔をしてお茶をすすり続けていた。
健は全身がだるかった。朝食も無理やり胃の中に突っ込み、カバンを抱えて自転車にまたがるも、朝食を無理やり突っ込んだせいもあってか酷い吐き気に襲われた。吐き気を抑えて自転車を漕ぐがいつもよりもスピードが出ない。更に広樹と絵梨に会うと気まずいと思い、遠回りにはなるがいつもと違う道から行く。しかし自転車を漕ぎ続けていると吐き気はピークに達し息苦しくなっていた。気持ちが悪いというよりも何かが気管に詰まっている感じだ。遠回りするコースにはあの貴之と最後に話した河原があり、我慢が出来なくなった健はあのベンチの近くに自転車を止め、草むらの方に行くと先ほど突っ込んだ朝食が胃の中から全て出てくる勢いで吐き続けた。すごく苦しく辛かった。胃の中と言うよりも自分の中にある溜まったもの全てが出て行くような感じがした。身体の内側から全てを外側に押し出し続けるように止まらず、最後は出るものがなくなったのか苦い胃酸のようなものしか吐けなくなっていた。その苦さはまるで今健が抱えている苦しみがそのまま味覚という感覚で出てきているようにも思えた。ようやく全てを出し尽くしたのか、出るのが止まると健はその場で咳き込み続け、しばらく立つことが出来なかった。
ようやく落ち着いてベンチの方へ行き、ベンチに座って腕時計を見ると後5分で朝礼の始まる時間だった。ここからでは必死で自転車を漕いでも間に合わない。それにまだ健は目眩がしていた。下手に身体を動かし続ければまた吐いてしまいそうなくらいだった。健はもう今日ぐらいはと学校へ行くことを諦めた。だからと言って家に戻っても祖母に心配されるだけだと思い、とりあえずベンチでしばらく座っていることにした。ベンチには春の日差しが降り注ぎ温かく心地よかった。先ほどまで息を切らしていた健もその心地よさに落ち着きを取り戻していた。
健は最後に交わした貴之との会話を思い出していた。貴之は均と誠のことを思い出し、健のことを信じてくれると言ってくれたのだ。しかし昨日その貴之も消えてしまった。なぜ貴之は思い出すことが出来たのか考えてはみたけれど全く分からない。目の前の川はあの時と違い、春の日差しにきらきらと輝きゆったりと流れていて心を落ち着かせてくれた。周りの風景も夜とは違い、とても穏やかで影の存在など忘れさせてくれていた。どれくらいの時間が経ったのだろうか、腕時計を見ると昼近く、もう学校へ行く気などなくなってしまい、そのまま目を瞑るといつの間にか眠ってしまっていた。
Act.2 仲間割れ
健が学校へ行かなかった日の昼休み。広樹、絵梨、潤は3人で昼食を取っていた。
「健君、やっぱり昨日のことで学校来にくかったのかな?」
かわいらしいお弁当箱の中の卵焼きをつまみながら健の話題を振ってきたのは絵梨だった。
「健、凄かったもんな。まさか広樹を押し倒せるなんてちょっとびっくりかも。」
潤のその言葉を聞き、広樹は潤のことを睨んでくる。
「でも、広樹も健によそ者とか言ったんでしょ?それは健だって怒るよ。」
卵焼きの2個目を口に運びながら絵梨が言う。
「そうだよ。さすがにあんな言い方したら誰だって怒るよ。俺だったらよそ者なんて言われたら絶対キレる。」
少し躊躇しながらも潤は言う。
「なんだよ!俺ばっかりが悪者ってわけかよ!しかもちょっとあんなことがあったくらいで休みやがって!だから都会上がりの奴なんて…。」
広樹は声を荒げて言うと、周りも何事かと一瞬広樹達の方を振り向く。
「広樹!そう言うのがダメなんだって。都会上がりとかよそ者とか、どうでもいいでしょ!」
即座に突っ込んできたのは絵梨だった。広樹はそれ以上何も言わず、パンをかじり続けていた。
「あ…そう言えば。」
弁当を食べ終え、カバンに弁当箱を入れていた潤が何かを見つけたようだった。
「これ、昨日あいつが部室飛び出して行った時カバンから落ちたんだよな。」
潤が手にしていたのは健が持っていた巾着袋だった。
「確かボールが入ってたんだっけ。」
潤は巾着袋からボールを取り出して眺めた。広樹だけは気にも留めず黙々と弁当を食べ続けている。
「結構古いな…。めちゃくちゃ汚れてる。」
ボールを回しながら眺めていた潤は何かに気が付いて、ボールの一点をじっと見つめていた。それに絵梨は気が付き、
「どうかしたの?」
と聞いてみると、潤はボールを見せてきた。
「ここさ、この汚れ、何か文字に見えないか?」
潤に示された個所を見ると、土汚れではなくインクが広がった後のような黒いしみが見え、それがぼんやりと線を描いた跡のように見える気がする。その線は文字になっているようにも見える。
「誰か名前でも書いてたんじゃないの?」
絵梨にはそれくらいしか思いつかなかった。
「名前にしてもいくつか書いてあるようにも見えるんだよな。なぁ、広樹はどう思う?」
潤は広樹にもボールを見せると、広樹はそのボールをちらっと見て目を細めた。
「誰だよ、亮一って。」
潤と絵梨は顔を見合わせる。2人が見た時にはそんな文字は読み取れなかったのだが、と思いながらもう一度ボールを見ると、先ほど読み取れなかったあの線がぼんやりと浮かび上がり文字となっていた。
「亮一…?」
確かに潤にも絵梨にもそう見えた。
「きっとこのボールの持ち主だよ。あのロッカーに入ってたならあのロッカーを使ってた人のだ。とりあえず健の机に入れとこう。」
潤はボールを巾着袋に戻し、健の机の中に入れた。
「そうだ、健にメール入れとこうかな。」
絵梨は携帯電話を取り出し、健にメールを打っていた。
「先生来たら没収されるぞ。」
潤は教室の入り口を見ながら言う。
「大丈夫よ。」
絵梨が言った瞬間だった、尚樹が教室に入ってきて広樹達に近づいてきた。絵梨はとっさに携帯電話を隠し、それに尚樹は気が付いていないようだった。
「悪いな、飯食ってるとこ。お前ら時枝の居場所分かるか?今朝家は出たらしいんだが、学校には来てないだろ?」
尚樹は3人を見ながら言う。
「なあ、お前ら携帯電話、持ってるんだろ。知らなかったことにしておいてやるから、時枝がどこにいるのか聞いてくれないか?」
その言葉に絵梨はニヤッとし携帯電話を取り出した。
「その点は任せてください。メールならもうしてありますから。」
と自慢げに言う。
「さすがだ。俺以外の先生の前では携帯を絶対出すなよ。とにかく、時枝から返信あったら教えてくれ。それから、絶対マナーモードにしてな。バイブも駄目だからな。」
尚樹はそれだけ言うと足早に教室を出て行った。
「お前…将来詐欺師か何かにでもになるんじゃないか?」
潤が言うと絵梨は潤のことをキッと睨み、
「うるさい。」
と言い放った。絵梨の携帯電話には健からの返信はすぐには来なかった。
その頃、職員室でも担任の仁美が健のことを心配していた。
「時枝君、何処にいるのかしら。」
「大丈夫ですよ。夜にでもなればふらっと帰ってきますから。それでも戻らなかったら警察へも相談しましょう。」
仁美を励ますように尚樹は言う。
「まあ、これまでも何度か生徒が家出することはありましたけどね。」
仁美もこのような状況には慣れているものの、ここ数日の色々な疲れが抜けないままこのようなことが起こってしまった為正直少し参っていた。そして仁美はまた嫌な予感がしていた。何とも言えない寒気と、あの自分を襲ってきた影の姿が頭に浮かんできていたのだ。
Act.3 新しい理解者
結局健はあのベンチで一日を過ごし、そのベンチで持ってきていた弁当を食べて家へ帰ろうとしていた。もしかしたら学校から家へ連絡がいって、祖父母が心配しているかもしれないと思うと家へ帰る足が重かった。携帯電話をポケットから取り出して見ると絵梨からメールが入っていたが、開く気になれずメールの内容を見ずに再びポケットに入れた。そうして気持ちの沈んだまま家が見えるところまで来た時、家の前に人影が見えた。暗くなり始めた道端に佇むその姿はあの黒い影にも見え、健は一瞬ゾクッとした。影でなくてもあそこに立っているのは心配した祖母ではないかと思うと家に近づくのも嫌になってきたのだが、その影をよく見るとそれはあの蠢く影でもなければ祖母でもなく、制服を着た女子の姿だった。健はゆっくりとその影に近づいていくと、ようやく顔が見えその人影が誰なのか把握した。同じクラスの如月沙羅だ。健が近づいていくと沙羅は健の方をゆっくりと向いて無表情で健のことを見てきた。薄明かりの中でシルエットになっているその長い髪は少し不気味にも見え、不思議で独特な雰囲気が漂っていた。沙羅は健と目を合わせるとじっと健のことを見つめてくる。
「如月さん?」
健から沙羅に話しかけた。
「お帰りなさい、時枝君…ちょっといい?」
沙羅は表情を変えずに健に言うと、脇に留めていた自転車にまたがりその場を離れ出した。
「ああ!ちょっと如月さん?」
健がよく分からずに沙羅に声をかけると沙羅は健の方を振り向き、相変わらずの無表情で、
「ちょっと話したいことがあるの。付いて来て。」
と言ってまた進み出し、健は沙羅に付いて行った。
沙羅は健の家からそんなに離れていない公園に入り、藤棚の下に設置されたベンチまで行った。健もそれについて沙羅の置いた自転車の隣に自転車を停め、2人で木製のベンチに座る。公園はだいぶ暗くはなっていたがまだ沈みかけた夕日に照らされていて、遊んでいる子供の姿などはなかった。2人は少し黙っていたのだが、やがて沙羅は無表情のまま話を始めた。
「時枝君、どうして今日休んだの?」
健はそんなに話したこともない沙羅に咎められるようにそう言われムッとした。
「俺のこといちいち怒りにでも来たのか?」
沙羅は表情一つ変えずに健の方をまっ直ぐ見つめてくる。
「佐仲君、中村君、高山君がいなくなったの、私にも分かってるわ。」
健は驚いた。3人が居なくなったことを分かっていた人が他にもいたというのだ。もしかしたら貴之と同じで3人がいたことを思い出したとでもいうのだろうか。だとすれば貴之と同じように沙羅もまた消えてしまうのであろうか。
「如月さんも3人のこと思い出したの?」
健は恐る恐る聞いてみた。
「思い出したんじゃない。私は初めから消えて行くのが分かっていたわ。多分時枝君と同じよ。」
つまり沙羅も健と同じで3人が消えて行くのを把握していた、3人のことを忘れなかったということなのだ。
「どうして…如月さんは?」
健は驚きを隠せなかった。
「分からないわ。時枝君だって同じでしょ?佐仲君達が消えて、皆の記憶からも消えてるっていうのに、自分の記憶の中にはちゃんと存在している。自分だけおかしくなったのか皆から騙されているのかとも感じたわ。」
「じゃあ、なんで俺と如月さんだけ忘れなかったんだ?」
健は自分と同じ人間がいたことのへの喜びとなぜ沙羅も忘れなかったのかという謎が頭の中で渦巻いていた。
「よくは分からないけど、私はもともとそういう不思議なところはあった。」
沙羅はまだ無表情のまま続ける。
「時枝君がなぜ忘れなかったのかは分からないけど、時枝君と話せば何か分かるかと思って。だからこうして時枝君に会いに来たの。時枝君今日学校休んじゃったから。」
沙羅は無表情から少し拗ねるような素振りを見せ、健からプイッと視線を外す。沙羅のそういう表情を見ると少し不思議な雰囲気の女子から今時の普通の女子の感じが出る。
「そもそもどうして均と誠と貴之は消えたんだ?」
沙羅は3人の消えた原因を知っているかもしれないと思い聞いた。すると、沙羅はプイッとあちらを向いたまま話した。
「私にだって3人が消えた原因は分からないわ。」
沙羅も健と同じだったのだ。健も3人が消えたことを把握していて、健なら3人の消えた原因を知っているかもしれないと思い、健に聞き出そうと話しかけてきたのだ。
「ただ言えるのは、私は入学式のとき時枝君に忠告した。」
健はその時、初めて入学式で沙羅に会った時のことを思い出していた。
「私は野球部には入らない方がいいって言ったのよあの時。」
確かにあの時健は沙羅にそう言われた。
「なんだよ。じゃあ俺が原因だって言いたいのかよ。」
健は自分が責められているようで少し怒り気味に言った。
「あの時、時枝君の後ろにこの世に存在しない者が見えた。黒っぽい影のような、でもそれはうちの学校の野球のユニフォームを着てて、時枝君を誘おうとしていたのよ。だから時枝君が野球部に入ったのは必然じゃないかと思うの。」
健はまた背筋がぞっとした。影とは健が目にしたあの影のことなのだろうか。あの影が自分のことを誘ったのかもしれないというのだから、恐怖を感じないわけがない。
「そうか…結局俺が全部悪かったのか…。」
健は自虐気味にそう言うしかなかった。もし自分が野球部へ入らなければ3人は消えなかったのかもしれないのだ。
「それは分からないわ。時枝君が悪いのかどうか調べてみないと分からない。人が消える、しかもみんなの記憶からも消えるなんて状況おかしいでしょう?もしかすると何かしらのきっかけがあれば戻ってくるかもしれない。物理的にはあり得ないことなんだから。」
きっかけと言われても今一つ思い浮かばない。なぜ消えたのかも分からないというのに、戻ってくる方法なんてもっての外だと感じた。
「時枝君は何か心当たりはないの?消える前のこととか。」
沙羅に言われ、健は記憶を辿ってみる。消える前と言えば均とは特に何もなかったように思えるが、誠の時は前日にキャッチボールをし、貴之はあの河原で会話をした。
「貴之は消える前日、均と誠のことを思い出したって言ってた。そんで、なんで思い出したのか一緒に原因を探ろうとしてたら貴之も消えたんだよ。」
沙羅はその言葉で何かを考え始めているようだった。
「なんで思い出したのか、高山君は全く思い当たることがなかったってわけ?」
沙羅はまるで探偵のように口元に手を宛がいながら健に聞いてくる。
「確か、俺と投げ込みの練習をしてる時に急に思い出したとか。確かその時、俺の後ろに影を見たって言ってた。それが均と誠じゃないかって。」
沙羅は同じポーズのまま遠くを見ている。夕日は完全に沈んでしまい、公園は暗くなっていた。
「やっぱり…時枝君が原因か…。」
沙羅は健の方をちらっと見ながら言った。その言葉を聞いた時、健は自分の心臓がドクンと胸を打つのが分かった。健が沙羅の方を見るとその白い肌が暗闇によく映え、沙羅だけが浮き上がって見えているようだった。
「おい…いくらそれが本当だとしても、そうまともに言われりゃ傷つくよ。」
さすがに少し落ち込んだ。もしそれが本当のことだとすると、一体自分はどう責任を取ればいいのだろうか。健は俯き、沙羅はその健の分かりやすい反応に少し呆れたようにため息をついた。
「時枝君が原因だとしても、時枝君が悪いとは言ってないでしょ。あなたが落ち込んでも意味ないじゃない。」
その時健はふとどうでもいいことに気が付いた。
「そう言えば…如月さんってこんなに喋る人だったんだ。学校じゃ声自体ほとんど聞いたことなかった。」
沙羅は再びため息をつき、それに答える。
「面倒なだけ。別に、自分が喋りたいって思った時だけ喋ればいいかなって思ってるだけよ。特に喋ることがないから誰ともしゃべらないだけ。」
普段学校では見ない沙羅の姿だった。教室ではおとなしく、昼休みも自分の席で昼食を取って後はずっと本を読んだり教科書を読んだりしている。
「ツンデレ…。」
健は自然と余計な一言を言っていた。その瞬間沙羅は鋭い目つきで思いっ切り健を睨んでいた。
「あ、ごめんごめん…。」
沙羅は不満そうにしながらもとりあえず健を睨むのを止めてくれた。
「とにかく、もっと何か思い出せない訳?消えた3人の共通点とかさ。」
沙羅はやはり探偵のような口ぶりで色々と探りを入れてきた。しかし、それが分かればこんなに苦しんではいない。
「それに、高山君が見たのも私と同じで時枝君の後ろに影を見たと言っている。」
沙羅は健の背後をまたじっと見ていた。
「おい、まさか今もいるなんて言うんじゃないだろうな…。」
健はまた寒気がした。
「残念ながら今は何も見えないわ。」
健は何が残念ながらだと思いながらもほっとした。
「これで佐仲君も時枝君とキャッチボールをしていれば、原因はほぼそれなんだよね…まぁそれはないか。後はあの影の正体がもっとはっきりすれば分かるんだろうけど…。」
沙羅はまた考えに行き詰まったようだった。
「後もう一つ気になることがあるんだけど、室井先生も最近なんだかおかしい気がするの。時枝君みたいに消えていることに気が付いているみたい。」
「でも室井先生は机が増えたみたいなこと言ってた気がする。」
「感じ方に個人差があるってこと?ほとんどの人は消えた人の机は元からあったって思ってるみたいだし、忘れない人もいれば思い出す人もいる。その辺がよく分からないわ。」
2人とも考えれば考えるほど頭が混乱してきていた。不可解な点は次々とみつかるものの、答えに繋がる情報はほとんどないのだ。
「もしかしたら、あの野球部自体に何かあるのかも…。」
沙羅はそう言うのだが、健も野球部に3人の消えた原因の何があるのかははっきりとしなかった。しかし沙羅も、健が野球部に入ったことによって何かが起こっているのではないかと思っているのはあの忠告からでも分かる。
「ここで考えていても仕方ない。明日、何かもっと調べてみましょう。」
確かに健にとって沙羅という仲間が出来たのは心強く、自分の理解者が出来たのはとても嬉しいことだった。健は沈んでいた心も少し軽くなっていく気がした。
「帰るなら送ってくよ。こんな暗いのに、女子一人じゃ危ないだろ。」
2人は自転車でその場を後にしようとしていた。
「大丈夫よ、こんな田舎で、襲われやしないわ。」
と沙羅は自転車のスタンドを上げながら言う。
「田舎だからって油断しちゃ危ないだろ。」
「油断しない方がいいのは時枝君かもね。」
沙羅はまた健の背後を見つめながら言った。
「はいはい、もう引っかかんないからな。」
その瞬間だった。健は背後に氷の矢が突き刺さるような衝撃を受けて振り返った。するとそこには暗闇の中に蠢く何かがあった。それは暗闇に溶け込み人なのかどうかわからないが、暗闇の一部が陽炎のようにモヤモヤと蠢いている。健はそれを恐怖の表情を浮かべて見つめた。
「時枝君!早くそこから離れた方がいいかも!時枝君こそ気を付けてね!」
沙羅はそう言いながら既に公園の出口のところまで言っていた。
「裏切り者!」
健もそう叫びながら振り返らないように公園を出た。本当に沙羅のことを信じていいのだろうか。なんだか貴之の時よりも理解者を見つけた喜びが少なくなっていたのは言うまでもなかったが、今信じられるのは沙羅しかいない。そう思うと帰りの暗闇はそんなに恐怖を感じなかったが、先ほどの黒い靄が追いかけてきているのではないかという恐怖もあり、ペダルを漕ぐのを早めた。
健の家ではやはり学校から連絡が入っていたのだが、祖父母は怒るどころか心配していて健の顔を見るなり安心した様子だった。学校へ行かなかったこと自体は咎められなかったが、次の日は必ず学校へ行き、広樹にもきちんと謝るよう約束をして夕食を済ませると、その日は風呂に入って翌日の予習を済ませるとベッドに入った。昼間もベンチで寝ていたせいかあまり眠くはなかったのだが、しばらく何も考えないで目を瞑っていると健は眠ってしまっていた。
Act.4 近況報告
隼人はその日も帰宅が遅くなっていた。プロジェクトは大詰めに入り、あともう少しのところまで来ていた。全ての作業が終わり、自分のデスクで片づけをしていると携帯電話が鳴った。画面を見ると母親からだ。
「はい、もしもし。」
「隼人、そっちの仕事はどうだい?もう片付きそうなのかい?」
母親は心配そうな声で聞いてくる。
「あともう少しだよ。早ければ1週間以内には一度そっちに行くよ。どうかしたのかい?」
母親は少し間を置いた後近況報告を語り出した。
「健のことなんだけどさ、まだこっちの生活に慣れてないみたいなのさ。」
「ああ…まあ、新しいことだらけで色々と戸惑ってるんだろう。年頃だからな。そんな時父親が傍にいてやれなくて悪く思ってるよ。」
「昨日は小川さんとこの子と喧嘩したみたいで、今日は学校行かなかったみたいでさ。」
「そうか…あいつ、喧嘩なんかしたことなかったのにな。」
隼人も自分に責任を感じて申し訳なくなる。傍にいてやれれば悩みの一つ聞いてやれるのかもしれないが。
「そっちに行ったら俺からも言い聞かせるよ。」
「いや、もういいんだよ。あんまり言わんでやってくれ。健も反省してるみたいでさ、明日は学校へ行って、広樹君にもちゃんと謝るって言ってるから。」
「そうか、なら…元気ならそれでいいんだけど。世話かけるな。」
「それぐらいいいのさ、可愛い孫なんだからさ。でも、なるべく早く戻ってきてくれ。あの子も寂しいんだよ、きっと。」
「頑張るよ。」
「頑張り過ぎもよくないけどもさ。そっちもいろいろあるだろうから。」
「ありがとう。健に、何かあったら電話してくれって言っといてくれ。仕事で忙しい時もあるけどさ。」
「分かったよ。隼人も、身体壊さないようにね。」
「分かったよ。」
隼人は電話を切り、スーツのポケットに携帯電話を滑り込ませる。周りに人はなく、オフィスに残っているのは隼人だけだった。荷物を持ってオフィスを出ようと電気を消し、真っ暗なオフィスに背を向けた瞬間だった、背後に視線を感じ、そこから動けなくなってしまった。その視線は自分に突き刺さっているように感じるが、オフィスにはもう誰もいないはずだった。その視線は人のものではないように感じ、隼人は恐る恐るオフィスの方を振り返る。すると、オフィスの窓際の方に人影が見えた。隼人は全身に寒気が走り、その影から目が離せなくなっていた。その影は窓際からゆっくりゆっくりと隼人に向かってきている。隼人は身動きが取れず、ただただその影が自分に近寄ってくるのを見ていた。その時隼人は恐怖と共に何か罪悪感のようなものを感じた。それは先ほど電話をしていた時健に対して感じたあの罪悪感にも似ている。その罪悪感をきっかけに隼人の胸の中には様々な感情が渦巻いていく。この状況に対する恐怖や絶望感、罪悪感に加えて、懐かしさや優しさも感じる。隼人はなにがなんだか分からなくなり、近づいてくる影をただただ拒んではいけないと感じた。その間にも影はゆっくりゆっくりと近づいてくる。ついに影が隼人の数メートル手前まで来た時その影の中にうっすらと見覚えのある顔が見えた。しかし一生懸命記憶を辿るもその顔が誰なのかを思い出せないでいた。更にその顔が目の前まで来た時だった。
「隼人…どうして…。」
またあの台詞が聞こえた。その瞬間身体の自由が戻り、隼人は無意識にオフィスの電気を付けていた。隼人の目の前にはいつものオフィスが広がっており、先ほどの影は消えていた。身体が動いていなかった時間隼人は息もしていなかったらしく、気が付けば苦しくて息を切らせていた。あの顔は誰だったのだろうか。やはり隼人には思い出すことが出来なかった。隼人はオフィスの電気を消してオフィスを後にしたが、あの影とあの顔は忘れることが出来ず帰りの暗闇にも恐怖を覚えていた。
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