第5話

「マルゴ、お茶にしない?」

 庭から呼びかけると、生け垣の向こうからひょいと頭が覗いた。「あら、どういう風の吹き回し?」

「いいお天気だもの。ひとりじゃ味気ないわ」

 言葉通り、深い意味はなかった。自分では少なくともそのつもりだった――それともわたしは無意識のうちに、マルグリットに相談か、打ち明け話をしたいと思っていたのだろうか?

 ともかく、この善き隣人は快く招待を受け、玄関にきちんと回り込んでから、わたしの自慢の庭にやってきた。

「一昨日くらいまではもっときれいだったのだけど」

 花壇のほうを見やりながらのわたしの弁解を、マルグリットは笑いとばした。「いまだって充分きれいよ。あなたの古くさい趣味にはうんざりすることのほうが多いけれど、こういうのなら歓迎だわ」

 軽やかな足取りで小道を踏んで、マルグリットは花々を見渡した。

 四季それぞれに花が咲くよう手を入れている、自慢の庭だ。いまどき庭のある家なら、日々の手入れは自動機械にやらせるか、そうでなければ庭師を雇うだろう。けれどわたしは手間がかかっても、自分の好きにやると決めて、昔からそのようにしてきた。

 この日に限った話ではないのだが、どこに出かける予定があるわけでもないのだろうに、マルグリットはきれいに装っていた。

「いつも思うのだけど、自分の家でゆっくり過ごすのに、そんなにおしゃれしなくてもいいんじゃない?」

「この問題に関しては、あなたと意見が折り合う日が来ることは永遠になさそうね」

 半眼で言って、マルグリットは首を振った。頭痛を堪えるように額に手を当てて、ため息までついてみせる。「あのねえ、スージー。あなたたかだか五十三歳でそんなふうに、すでに人生が終わったあとの余録です、みたいな顔をしていないで、たまにはきれいなドレスの一枚も買ったらどうなの?」

「買っても着る機会がないもの」

「機会というのは待つものではなく、作るものよ」

 重々しく言い切って、マルグリットは鼻の頭にしわを寄せた。「ああ、いやだ。同じ年なのに、あなたひとりだけさっさと老け込んじゃって」

「あなたが若々しすぎるのよ」

 そこまでの応酬のあいだに、お茶の準備が整った。英国風のミルクティー。サンドイッチとクランベリーのタルト、焼きたてのスコーンにクロテッドクリームとジャムを添える。

 マルグリットの、自分でお菓子を作ったことなど人生で一度もないだろう真っ白な指が、上品にカップを持ち上げるしぐさに、つい見とれていたら、不意打ちをくらった。

「恋をしなさいよ、スージー」

 むせかえって気管にお茶が入り、くしゃみと咳が止まらなくなったわたしの背中をさすって、マルグリットは呆れた。「何やってるの」

「あなたが妙なことを言うから」

「何ひとつ妙じゃないわよ。わたしの新しい彼氏の写真見る?」

「この間の彼とはいつ別れたの」

「先月。ねえ、わたしの話はいいから、いまはあなたのことよ。真面目な話よ?」

 引き下がる気配をまったく見せず、マルグリットは身を乗り出してきた。わたしはもう一度くしゃみをして、おせっかいな友人のブルーアイを睨みつけた。

「やめてよ。いったい何歳だと思ってるの」

「わたしも同じ年だって、何度言わせる気なのかしらね、あなたは?」

 マルグリットは自分の椅子に戻って、スカートの裾を直した。そんな仕草も容姿にふさわしく優美で、彼女ならばそれは恋のみっつやよっつもするだろうという気にもなってくる。

 可憐な拳を握って、マルグリットは力説した。「恋はしたほうがいいのよ、いくつになったって! 医学的にもちゃんと証明されてるんだから」

「また適当なことを言って」

「あら、本当よ」

 マルグリットはしらっと顎を逸らして、ご丁寧に論文のタイトルまで挙げてみせた。「わたしが読んでいてあなたが知らないテキストがあるなんて、なかなか新鮮な体験ね」

 辟易しながら、わたしは手を振った。「医学的にどうかは知らないけれど、わたしは遠慮しておくわ。人には向き不向きというものがあるの」

「あのねえ、スージー。これでもわたし、心配しているのよ。あなた若いとき、あまりいい恋をしていなかったようだから」

 今度はわたしが顔をしかめる番だった。「また古い話を……」

「あなたが昔のことにこだわっているわけではないのなら、それはそれでいいのよ。だけどね、あなた、ちゃんと自分の幸せを考えるべきよ。苦労してきているのだから、その分ね」

 何か反論しようとして、わたしは言うべき内容を見つけ損ねた。言葉通り、マルグリットはわたしのことを心配してくれているのだ。

 昔のことを気にしてはいないと、マルグリットには言ったものの、恋愛というものを、我が身から極力遠ざけておこうとするようになったのは、たしかに過去の経験のためではあった。

 わたしはかつて結婚に失敗して、手痛い教訓を得たことがある。



「僕と結婚してくれる?」

 アルフレドにそう申し込まれたとき、わたしは反射的に、即答を避けるべきだと考えた。

 彼のことは好きだったけれど、なにせ交際をはじめてから、まだたったの二か月しか経っていなかった。わたしたちはまず、もっとお互いのことを知るべきだと思っていた。

 だからわたしは、どう答えればアルフレドを傷つけないように、答えを先送りにできるだろうかと、いまになって思えば前提に無理のあることを考えながら、慎重に口を開いた。

「とてもうれしいわ。でも――」

 少しだけ時間をくれる? そう続けようとしたわたしの手をがっしりと握りしめて、アルフレドは狂喜した。その口から、今日という日のすばらしさをたたえる文句が立て続けに五つばかり飛び出したところで、わたしは目を白黒させて彼をさえぎった。

「待って。最後まで聞いて」

 そう口に出した瞬間、彼が見せた表情の変化は、いまでも忘れられない――笑顔は一瞬で凍りつき、紅潮していた頬は温度を失って、それから再びかっと赤くなった。

 何を言われているかわからないというよりも、まさかこの女が自分の提案を否定することなどあるはずがない、あってはならないと、彼の眼は雄弁に語っていた。

 彼の顔色の変化にひるみながらも、わたしは続けた。「とてもうれしいし、素敵な提案だと思うわ。だけど少しだけ、急ぎすぎではないかしら? 結婚って、もっと……」

 もっと、どういうものだと言おうとしたのかは、もうすっかり忘れてしまった。あの瞬間のアルフレドの激昂のほうが、強く印象に残りすぎて。

「君は、僕のことが好きじゃないんだね」

 あの、煮えたぎるような声音!

「アルフレド、そんなことは言っていないわ」

 慌てて弁解しようとするわたしの腕をつかんで、アルフレドはまくしたてた。「だって、そうじゃないか? 僕は君をほかの男に取られたらどうしようと、毎日気が気じゃないのに、君は、僕がどんなに君を思っているか、少しも考えてはくれないっていうわけだ――急ぎすぎだって? 急がずにじっくり時間をかけて、君はいったい何を値踏みするつもりなんだい? 自分にはもっとふさわしい男がほかにいるんじゃないかっていうことをか?」

 いまのわたしなら、あんな話し方をするような男はそれだけでも絶対によしておくべきだと、当時のわたしに向かって忠告することもできる。けれどそのときわたしはまだ若かったし――より悪いことに、アルフレドに嫌われたくないと思っていた。

 その上、アルフレドの口調は、言葉の中身ほどに脅迫的ではなかったのだ。彼は怒りながらも、哀れっぽく、わたしに捨てられることに心の底から怯えてでもいるかのように、その台詞を叫んだのだった。そう、まるで、ひざまずいて愛を乞うかのように。

 そんなふうに縋り付かれれば、何も感じないでいられるわけでもなかった。多少、性格や価値観に合わないところがあるのだとしても、それは克服してゆけないものではないのではないかとも思った。

 それで結局は押し切られるように、わたしは彼の求婚を受けたのだ。愚かしいことに!

 だが案の定――あとになって考えれば、やはりというほかないのだが、わたしは、あの日の自分がノーと言わなかったことを、さんざん悔いるになる。

 当然ながら、結婚しても彼の言動に対する違和感は消えることがなく、結婚生活の隅々にまでまとわりついた。

「なぜ君は僕がこんなに心配しているのに、自分だけで旅行に行こうなんて思えるんだ? レイのところの奥さんなんか、どこに出かけるにもかならず彼についていくっていうのに」

「スージー、なぜ君はほかの家の奥さんたちみたいに、僕の友人たちに対して社交的にふるまってくれないんだ?」

「僕が動物をきらいだって知っていて、なんで君はあんなに汚い野良猫に餌をやったりなんてするんだ?」

 ならばなぜあなたは、レイの奥さんや、あなたの上司の奥様や、オースティン夫人のような、ほかの女たちと結婚しなかったの?

 とうとう我慢を切らしてわたしが叫んだとき、アルフレドはわたしの顔に向かってスコッチグラスを投げつけた。

 わたしにだって言い分はあった。彼のほうこそ、わたしの好きなものごとをまともに理解しようとしてくれたためしはなかった。わたしの生家には昔から、いつも複数の猫が出入りしていて、野良猫に石を投げるような人間がこの世に存在するということのほうが、わたしには信じられないことだった。アルフレドの友人たちはあまり好きになれない人が多くて、たいていの場合、話を合わせようとしても限度があった。それに、たまに話が弾んだりすれば、今度はわたしがその友人と浮気をしているのではないかと疑って怒り出すのだ……

 それでもときには、わたしのほうに問題があるのではないかと思ってみることもあった。たしかにわたしは社交的な性格ではないし、彼の好きなものを本気で理解しようとしたかと言われれば、胸を張れる状況ではなかった。わたしの努力が足りなかったというのなら、そうかもしれない。

 だが、わたしがそういうことで悩んでいるうちに、アルフレドのほうが先に心を決めた。

「君はどうやら、僕が思っていたような女性ではなかったみたいだ」

 そうでしょうとも、とわたしは思った。だから、まずは少し距離を置いて冷静になりましょうとも、もっと時間をかけて考えるべきではないかとも、一度も言わなかった。

 わたしは淡々と離婚届にサインをして、アルフレドの捨て台詞にも弁解はしなかった。「やっぱり君は、僕のことなんてどうでもよかったんだな」



 恋とはなんだったのだろうと、あのころはよく考えた。

 わたしはある時期、たしかにアルフレドに惹かれていた。結果は残念なことになったとはいえ、彼にもいくつかの美点があった。あったはずだ――いまとなっては思い出すことが難しいとしても。だが、そういうことが問題なのではない。

 なぜ恋は、人をああいう愚かしい選択に向かって突き落とすのだろう?

 アルフレドはわたしに、彼のいう「ふつうの女」であることを求めていた。若返りに腐心して美しさを保ち、着飾って彼に寄り添いながらパーティへ出向き、ほどよく社交的な会話をこなし、かといって他の男に色目を使うこともない、そういうふるまいを望んだ。小難しげな本など読まずに、彼の好みに合う映画を鑑賞し、となりで彼が語るうんちくに感心しながら耳を傾ける、そういうような女であることを。

 まったく、馬鹿げた話だった。少しでもわたしの言動を注意深く見ていたならば、そんなことは無理だと、すぐにわかったはずなのに。

 アルフレドにはわたしが、わたしというひとりの人間としての人生を生きてきて、自分なりの考えと行動原理とを持っているということが、どうしてもわからなかった。わたしが彼の好きなものをすべて無条件に肯定することも、彼の嫌うものを端から遠ざけることもできないのだという単純な事実を、理解しようとしなかった。

 そうしてわたしが彼の見ていた幻想の女とは違うことを、ようやく理解できたとき、アルフレドはわたしから関心を失ったのだ。

 恋とはいったいなんだったのだろう。不都合な事実の一切から目を逸らさせ、愛があればどんなことも乗り越えられるなんて、そんなふうに闇雲に錯覚させる、あの力は。

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