第4話

「現代文学は文学じゃないと、以前おっしゃっていましたね」

 サイトーからそう話しかけられたとき、わたしは『老いぼれグリンゴ』を読み終えて、棚に戻そうとしているところだった。サイトーに触発しょくはつされて、本の中で世界一周旅行を決め込む気になった、というわけでもなかったのだけれど、翻訳ではなくスペイン語版を手に取ったのは、間違いなく彼の影響だった。

「そうね。現代小説も、絶対に読まないというわけではないけれど……」

 途中で言葉を切ったのは、ためらいがあったからだ。語るべき内容を持たなかったわけではない。ただ、誰かとこのたぐいの話をすることに、わたしは慣れていなかった。

 それでも話を続けたのは、サイトーが真面目に聞いていることがわかったからだ。

「あまり好きではないわね。フレデリク・デュボアという人の評論を読んだことはある? 《チップ》が浸透したことで、小説の本質は永遠に失われてしまった、という話」

 サイトーはかすかに首を振って返事に代えた。わたしは言葉を探しながら視線を手元に落として、『老いぼれグリンゴ』の、少しすりきれた風に加工された背表紙を撫でた。

 仮想空間内で、細かな手触りが伝わってくるわけでもないのに、ついものを触ってしまう、この肉体的習慣は何なのだろう――そんなふうに脇道に思考を逸らせたのも、半分はサイトーの視線から逃れるためだった。まっすぐな目――サイトーはいつでも、とても真剣にひとの話を聞く。いちいち彼のふるまいにどぎまぎしてしまうのも、半分は、そのせいだった。

 もっとも、彼がそんなふうに人の眼を見ながら話を聞くのは、わたしが相手のときに限った話ではない。そのことにわたしは、早くから気がついていた。まったく、頭でわかっていることに精神がついていかないというのは、なんと腹立たしいことだろう!

「いまの本は――そうね、知識と主義主張の解説でしかないと、そんなふうに思うときがあるわ。もちろん、そこに書かれた思想そのものが面白ければ、興味深いことには違いないのだけれど」

 何人かの現代作家の名前を指折り挙げながら、わたしは首を振った。「だけど彼らの本は、読んでいて、なんだか醒めてしまうの。情報過多で、せっかちで――そのくせ何でもかんでも、他人事みたいで」

 話しながら、言い過ぎだという自覚もあった。古いものをやたらに賛美して、新しいものを低く見たがるのは、年寄りの悪い癖だ。マルグリットならそう言うだろう。

 事実、そうした側面がないとは自分でも言い切れない。わかってはいるのだ。それでも話を続けたのは、サイトーなら、笑わずに聞いてくれるだろうと思ったからだ。

 わたしは午前中いっぱいをかけて読んだ小説の内容を思い返しながら、いくつかの描写を取り上げた。アルコールと混じり合った黒煙草のにおい。スピーカーから雑音混じりに響く、消え入りそうな歌声。死者から引きはがされた女の戸惑いと怒り……。

「《チップ》以降に書かれた小説は、もう小説ではない、と言ったら大げさかしら。でも、いまの本は、ただ説明を羅列られつするだけ――あるいは実体から乖離かいりした概念を提示するだけ。そんなふうに感じてしまうのよ。そこからは、読んだ人間に他者の人生を再体験させるという、小説の決定的な機能が失われてしまっている……」

 予想した通り、サイトーはけして笑ったりしなかった。しかしそれでも、わたしは途中でいたたまれなくなった。語れば語るだけ、年寄りの愚痴にしかならないことを、自分でよく知っていたからだ。

「退屈でしょう、こんな話」

 いえ、と首を振ってから、サイトーは真面目な顔つきをして、言葉を足した。「もっと聞きたいです」

 退路を断たれたような気持ちになって、わたしは昔話を始めた。

「この《図書館》の初期のバージョンが完成して、公開にこぎ着けたのは、わたしが十七歳のときだったわ。父が息を引き取る、ほんの四日ばかり前だった」

 それまで頑健そのものだったはずの父は、血管の病気で急に倒れて、そのまま目を覚ますことなく、あっけなく逝った。大仕事を終えて、気が緩んだのがいけなかったのかもしれない。

「だから、初めてここにログインしたとき、わたしは本に興味があったというよりも、父をしのぶつもりだったの」

 わたしがここのIDを作って最初にしたことは、父が子供の頃に好きだったという本を見つけ出して、手に取ることだった。

 はじめての《読書》は正直に言って、最初のうち、ひどく退屈なものだった。まどろっこしい前置き、長々とした説明。いつまで読んでも話はなかなか前進しない。読みながら、こんなことは時間の無駄だとさえ思っていた。

 それでもともかく、この一冊だけは最後まで読み切ろうと決めていたのは、そうすることが、父を悼むことだと考えたからだ。

「だけど、半分くらいまで読んだあたりだったかしら」

 気がついたときには、夢中になっていた。それまでわたしが知っていたつもりだった本を《読む》という行為と、それは、まったく異なる体験だった。まるで仮想体験型の映画を――それもとびきり出来のいいものを――観ているときのようだと思った。いや、どんな映画だってあんなふうに、世界の中にすっかりわたしを引きずりこんでしまう力を持ってはいなかった。

 映画がどれほど臨場感に溢れて、多くの観客が見落とすような背景の小道具にまでていねいに選び抜かれ、登場人物の心情がこまやかに描写されていたとしても、それでも彼らの人生は、あくまで外から観るものだ。そこにいる人々は、共感すべき他人ではあるけれど、わたし自身ではない。

 だが父が愛したその物語を読んでいるあいだ、わたしは主人公だった。原野に立ち、吹き付ける冷たい風に手をしびれさせ、飢餓感に胃をよじらせながら心細く母親を呼ぶ、少年そのものだった。どんな映画だってあんなふうに生々しく、風に混じって頬を打つ小石の痛みや、かじかんだ手指の痺れや、ひとけのない夜の荒れ野にひとり取り残された心細さを、わがことのように体験させる力を持ってはいなかった。

「それからは、夢中で色んな小説を読み漁ったわ」

 そこまで話して顔を上げると、サイトーはかわらず真剣なまなざしをこちらに向けて、耳を傾けていた。

 その視線にぶつかって、わたしは恥ずかしさを思い出した。我に返ってしまえば、自分の言葉がいかにも繰り言のようだった。

 それで、ごまかすために、あわてて話を変えようとした。「サイトーはどうなの? あなたも古典ばかり読んでいるようだけど」

「ぼくですか? ぼくは……」

 サイトーはちょっと言葉に詰まりかけて、それから気を取り直したように、微笑んで話しだした。

「《チップ》がまだない頃の人たちって、どんなふうに暮らしていたのかなって……あるとき興味が湧いて。それがきっかけだったんですけど」

 言いながら、サイトーは手を伸ばして、書架に並ぶ古めかしい装飾の本の、背表紙を撫でた。

「だけど、読んでいるうちにだんだんはまってしまって」

「わかるわ」

 またしてもその言葉を口にしてしまって、内心で苦く思いながらも、わたしはうなずいた。「つい、脇道に逸れてしまうのよね。一冊読んだら、そこから興味が広がって、気がついたら最初の目的とはぜんぜん違う本まで読みふけっていたりして……」

 そのまま話題は雑談に流れたが、おだやかな調子でたわいのない話をするサイトーが、ときどき迷うような目をすることに、わたしは気がついていた。

 迷い? いいや――そこにあるのは、もっと切迫した感情だった。例えるならばそれは、告解を望みながらも同時にそのときが来るのを恐れる人の顔のように見えた。何か、人に打ち明けてしまいたいことがあるけれど、ためらっている……

 いまの話のどこに、彼にそんな顔をさせる要素があったというのだろう? 

 だけどわたしは、水を向けることをしなかった――どうしてもそうする気になれなかった。自分がいったい何を躊躇ためらっているのか自分でもわからないまま、当たり障りのない本の感想に逃げつづけた。

 もっとサイトーの話を聞きたい、彼の内面を知りたいという気持ちと、他人の事情に踏み込むことの怖さが、ちょうど拮抗していた――振り返って思えば、そういうことだったのだろう。

 自分の本心を知るのは、いつだって、ずっと後になってからだ。

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