第3話
水曜日の朝、目が覚めたその瞬間には、雨だと知っていた。天気予報ガジェットが網膜表示の隅に通知を表示するよりも、膝の痛みが意識に追いつく方が早い。
天気の悪い日に左膝が痛むようになったのは、この三年ばかりのことだ。
学生時代にひどい痛め方をしたことがあって、そのときは完治したつもりになっていた。自分がかつて怪我をしたことさえ、ほとんど忘れかけていたのに、いまごろになって痛みが追いかけてくる。
もっとも、人生というのは全てにおいて、そういうものなのかもしれない。忘れたふりをしたものを、永遠に忘れたままにしておくことはできない。
軽い朝食を済ませたあと、雨が小止みになったのを確認して、ことさらゆっくり花壇のあいだを歩いていると、うるさ型の隣人に捕まった。
「ほら、またそんなに足を引きずって。いいかげんに意地を張るのはよしにしたらどうなの、スージー、スザンナ・リツェッラ!」
形の良い金色の眉毛をつり上げて、マルグリットは怒る。「よっぽどお金に困っている人だって、いまどき膝関節を交換するのをためらったりはしないわよ!」
そうして怒っていると、目の覚めるようなブルーアイが、まるで彼女の怒りを受けてきらきら輝いているように見える。三十すぎかそこらで時を止めてしまったような、手入れに余念の無い肌よりも、マルグリットを魅力的にしているのは、その瞳の輝きのほうだ。
「ためらっているわけではないのよ、マルゴ」
苦笑交じりにいつもの答えを返しながら、決まり切ったやりとりというのは、それだけでなにかの儀式のようだと思う。
「替える気がさらさらないって言うんでしょう。まったくあなたの意地っ張りときたら、呆れて言葉もないってこのことだわ。ほら、みっともないったら、その丸まった背中!」
弾丸のようにまくしたてながら、マルグリットは腰に手を当てて仁王立ちになった。毎度のことながら、よくよく飽きないものだと感心してしまう。
もっとも、三日に一度はマルグリットの「まったくあなたときたら」を聞かされるのが、すっかり長年のならいになっているから、何日も彼女の叱責を聞かない日が続いたら、そちらのほうが落ち着かないかもしれない。
「スージー、あなたアンティーク趣味もけっこうだけれどね、何も自分の体まで骨董品で揃えなくてもいいのではなくって?」
「あらいやだ、あなた面白いことを言うわね」
「ほら、その口調! あなたときたら、見た目にかまわないばかりか、中身はそれ以上にすっかり年寄りなんだから。話だけ聞いていたら、実年齢より二十も老け込んでいるみたいよ!」
これにも苦笑のほかに返せるものがない。
マルグリットの勢いは止まらない。「見た目のことだけじゃないのよ。自分だっていいかげん体がきついでしょうに。あなたのその意地が、トラムを降りるビジネスパーソンを十秒待たせて、その分だけこの国の経済の妨げになっているのよ。わかっていて?」
毎度飽かずに同じようなお説教を、などと感じるのはこちらの気の持ちように問題があるからであって、彼女がふっかけてくる議論は、実のところ日々少しずつ変化を見せている。ときには、今度はそういう切り口で来たかとにやりとしてしまうときだってある――もっとも、こちらの機嫌が悪くないときならの話だが。
「ええ、ええ、わかっていますとも。だけどわたしだって納税者だし、社会に与えた損失の分くらいは、別のところで埋め合わせをしているつもりよ?」
彼女がさらに何かを言いつのろうとする鼻先に、にっこり笑いかけるのがこつだ。「わたしが難儀そうに歩いているのを見かけるたびに心を痛めてくれる、あなたの心根の優しさだけを、友人としてありがたくちょうだいしますよ。マルグリット」
たいていの場合は、ここで彼女の小言もひっこむ――もっともこれも、彼女の機嫌が悪くなければの話だが。
「まったく、もう……この石頭!」
マルグリットは歯をむいてみせると、怒りながら屋敷に引っ込んでいった。遠ざかる背中を苦笑交じりに眺める。そんな表情でさえチャーミングに見える彼女を、うらやましく感じているという自覚に、ちくりと胸を刺されながら。
実際の話、マルグリットは善き隣人だ……
足を引きずりながら、自慢の庭と、花壇のようすを見て回る。虫がついていないか。咲きかけのバラに病気の兆候はないか。雑草が伸びすぎてはいないか……。植物の世話をするためにちょっとかがむだけのことさえ、負担になりはじめているのはたしかだ。
人工膝への交換も、マルグリットの言うとおり、その気になりさえすれば、金銭的負担はたいしたことがない。膝や背骨の矯正に関しては、かなりの額が国の補助でまかなえるからだ。老人の介護なんて誰もやりたくないから、よけいなお荷物を増やさないための投資は進んでやってくれるというわけだ。
わかってはいるのだが、あいにくと、わたしのへそ曲がりは筋金入りだった。そうするのが道理だ、合理的だ、皆がそのようにしているのだからと、口を酸っぱくして言われれば言われるほど、言いなりになる気がしなくなる。
だけどあと五年か十年が経って、膝の痛みが増してくるか、あるいはほかの深刻な不調が出てきたときに、自分がどういう選択をするかについては、確信がない。もともと、信念や主義というような大仰なものではないのだ。ただ意地っ張りというだけ。
だけど、少なくとももうしばらくの間は、この意地を続けたいと考えている。膝の痛みと付き合いながらのゆっくりした散策を、わたしから取り上げることができるのは、わたし自身と神様だけであるべきだと思うから。
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