第2話

「それにしても、ずいぶんと熱心なのね。そんなにたくさんの本に興味があるのだったら、ふつうの読み方をしなくては、とても追いつかないでしょうに」

 何度目かにサイトーに会ったとき、わたしは心にもないことを言った。たとえこの《図書館》におさめられているすべての書籍のテキストデータを《チップ》にすっかり格納して、そこから自在に情報を引用することができるようになったとしても、そんなことでは、本当の意味で本の内容を自分のものにすることなどできない。

 だが、そんな考え方は時代遅れどころか、前世紀にはとっくに絶滅してしまっているということも、わたしは充分に理解していた。だからこそ彼のような若者がいることが嬉しくもあったし、戸惑いもしたのだ。

 サイトーは困ったように笑って、それから、信じがたい台詞を口にした。

「そうですね。だけどぼくにとっては、こういう読み方のほうが、なじみ深くて」

 たまたま近くに居合わせた数人の利用者たちは、そろってあっけにとられた。中のひとりにいたっては、何かを聞き違えたのかと思って、会話にわざわざ割り込んでまで、念を押したほどだった。「文章を、目で読むことが?」

「ええ」

 サイトーは微笑んだままだったが、我々は一人残らず絶句した。

 にわかには受け容れがたい話だった。いったいどのような環境に生まれたならば、そのようなことが起こりうるのか?

 どんなに辺鄙な地域でも――いや、そういうところであればなおさら、紙の本などというコストのかかりすぎる媒体を流通させるような余裕はないはずだ。いまやどの国のどんな学校でも、まずは《チップ》にテキストを読み込ませて、そこから必要な情報を呼び出すためのノウハウを教えることから学習をはじめる。

「変わった話と思われるかもしれませんが、親の方針で」

 そう説明するサイトーの口調と所作が、あまりにも優雅で自然だったので、わたしたちは狐につままれたようなありさまながら、ともかく、それぞれに納得したような気にさせられた。つまり、サイトーの保護者は非常に裕福な――子供を学校にやらずとも、きちんとした家庭教師をつけて、風変わりながらも質の高い教育を受けさせることができるような、特別な立場の人間なのだろうと。

「すてきな親御さんだね」

 だから、常連のひとりが発したその言葉は、特に不自然なものではなかった。無難なものだったと言ってもいいかもしれない。

 だが、その言葉を受けてサイトーが浮かべた表情には、どこか痛みを堪えるような――触れられたくない傷口に手を突っ込まれたような気配があった。もちろん、彼のアバターを制御するプログラムに、何らかのバグが発生したのでないとするならばの話だが。

 そのくせ、サイトーは礼儀正しさを少しも崩さずに、遠慮がちに微笑んで見せた。「ありがとうございます」

 その言葉には、できることならこの話題にはもう触れて欲しくないのだという意思が、控えめながら添えられていた。

 だが、それを向けられた肝心の相手はというと、そんなサインにはちっとも気がつかず、何かしらの――おそらくは彼の生い立ちを詮索する言葉を口に出そうとしていた。

 そのことに気がついたわたしは、気まぐれを装って、話をもとに戻した。

「それにしても、この間まで読んでいたのがフランス文学で、いまが中国でしょう。その次は南米? アラブ文学あたりかしら?」

 サイトーはこちらの意図を正確に察したようで、さりげなく目顔で謝意を伝えてきながら、歯を見せて笑った。「格安の世界一周旅行ですね」

「それじゃあ、その次は宇宙進出かな」

 SF小説の書架を指し示しながら別のひとりが笑って、それきり話題は古典SF作品に描かれた予言の当たり外れに移った。

 だがわたしはひとり、表面上は談笑の輪に加わりながらも、いつまでもサイトーの言葉について考えつづけていた。テキストを一行ずつ目で追って読むことに慣れているという、彼の育った環境のことを。



 ひと月あまりが経ったある日、わたしがいつものように《図書館》にログインすると、サイトーは一風変わった場所にいた。皆が集まる閲覧室ではなく、閉架書庫の、書棚と書棚の間に、ぺたりと座り込んでいたのだ。

「あらあら、小さな子供みたいね」

 わたしが声を掛けると、サイトーは照れくさそうに笑って立ち上がった。「つい、熱中してしまって」

「仮想空間なんだから、座らないと疲れるというわけでもないでしょうに」

 わたしがからかうと、サイトーは恥ずかしそうに言い訳をした。「そうなんですけど、つい。育ちの悪さが出ますね」

 その言葉はまるきり冗談のようにしか聞こえなかったのだが――育ちのいい青年にだって行儀の悪い子供だった時代はあるだろう――先日のことがあったので、わたしはそのことには触れず、話を変えた。

「それにしても、こんなところの本まで読んでいるなんて、あなたまさか、開架の本はすっかり読んでしまったの?」

「まさか。先日読んだ小説に、参考文献として紹介されていた本が、こっちに格納されていたんです。あなたの方こそ、もう読み尽くしてしまわれたのでは?」

「それこそ、まさか。わたしの場合は単に、本の好き嫌いが激しいだけよ」肩をすくめて、わたしは笑った。「限られた人生ですもの。好きなものにだけ触れて生きてゆくのは無理でも、せめて読む本くらいはね」

「そういえば、いつも古典ばかり読んでおられますね。現代文学はあまりお好きじゃないんですか?」

「現代に、文学なんていうものがまだ息をしているとは思えないわね。――こんなことばかり言っているから、友人には気むずかし屋だの頭に黴が生えているだのと、さんざんに怒られてしまうのだけど」

 これもまた予防線だろうかと、内心で自嘲する。必要以上に年寄りぶって見せるのも、悪い癖だとわかってはいるのだ……だがそんなふうに振る舞いでもしないことには、何とも落ち着かなかった。

 ほかに誰もいない静かな閉架室の中で、男女がふたりきりで話している光景なんて、古い映画の中でなら、さぞかしロマンチックな場面だっただろう。もちろん、ヒロインが若くて美しい女でありさえすればの話だが。

 サイトーは手にしていた本――ロシア語の『原初年代記』だった――の表紙を撫でながら、ためらいがちに口を開いた。

「失礼ですが、ミズ・リツェッラ。あなたが、その、アバターを……」迷うように言葉をとぎれさせてから、サイトーは続けた。「年配のご婦人の姿に設定しておられるのは、ご主義なんですか?」

 よほど言葉を選ぶのに困ったのだろう、その切り出し方に、わたしは思わず苦笑をもらした。

「いいえ。ご主義なんてたいそうなものじゃありませんよ。これが実際の姿というだけ」

 サイトーが疑問に思うのも、まったく無理はないことだった。現実に若づくりをしないだけならばまだしも、仮想空間でまでわざわざ年寄りの姿をしている女はめったにいない。

 彼が謝罪の言葉を口にするよりも先に、わたしは笑ってみせた。「もっとも、このアバターを更新したのは昨年の夏が最後だから、若作りといえばそうかしら」

 サイトーはちょっと笑ってから、それでもやはり、申し訳なさそうに頭を下げた。

「失礼なことをお訊きしたんじゃないかと思って」

「女性に年齢をたずねるのが失礼だなんて、いったいどこの誰が言い出したのかしらね」

 この話題を続けるのは賢明な選択ではないと、わたしは頭の隅で考えた。だが、言葉は留めようもなくするりと口からこぼれた。

「皆、身の丈にあった振る舞いというものを、軽んじすぎていると思うのよ。子どもが背伸びをしてみせるのは微笑ましいけれど、いい大人が無理に若いふりをして、自分の分別のなさを大目にみてもらおうなんていうのは、みっともないことだわ」

 言い終える前から、自分のそういう物言いをこそ恥じていた。実際のところ、そんなふうに力説するような、たいそうな主義主張ではないのだ。わたしはただ単にひねくれもので、あまりにも世間の人々がこぞって若作りに励んでいるので、天邪鬼をしているというだけ。

 けれどサイトーは笑いもせず、軽蔑も、困惑も――少なくともわたしに気づかせる形では――しなかった。むしろこちらが気恥ずかしくなるような真面目な顔で、深くうなずきさえした。

「素敵な考え方だと思います」

 それがあまりにも真剣な口調だったので、わたしはいたたまれなくなって、つい、よけいな弁解をつけ足した。「こんなふうに意地になること自体が、いい年をして子供っぽい証拠なのよ。自分でもわかってはいるの」

 サイトーが何か、おそらくはフォローのための言葉を口にしようとしたのをさえぎって、わたしは声を上げた。

「いけない、もうこんな時間? わたし、お友達と約束をしているのだったわ」

 棚から適当な本を掴みだして、目印のタグをつける、その動作にまぎらせて、わたしはサイトーから表情を隠した。そうして自分が立ち直るまでの時間をかせぐと、かろうじて自然に笑って見せた。

「失礼するわ。その本、面白かったら、今度教えてね」

 扉を出てログアウトしながら、わたしは自分がなぜサイトーとの会話から逃げたのか、いやというほど自覚をしていた。

 わたしは怖かったのだ。サイトーの口から、わたしの年齢や、それに付随する諸々のものごとについて、慰めの言葉を聞かされることが。どのような形であれ、あの美しい青年から、自分と、自分の属性を否定されることが、怖くてしかたがなかった。

 こんなに滑稽なことがあるだろうか? この年になるまで、若くあろうとする努力を遠ざけてきたばかりか、そうしたことに腐心する人々をさんざん軽蔑して生きてきた女が、若さ故の無邪気な断罪を――あるいは憐憫を、いまさら恐れるなんて。



 その次に会ったときにも、サイトーは閉架書庫にいた。

 誰でもその気になれば入れるけれど、進んでやってくる人間はめったにいない。いつかサイトーが口にした秘密のテラスではないけれど、知る人ぞ知る秘密の場所というものに、もっとも近い空間なのかもしれなかった。

 そう考えるなら、ここで本を読んでいる彼の邪魔をすることは、あまり趣味のいいふるまいではないのかもしれなかった。けれどサイトーは、わたしに気がつくと、顔を上げて微笑みを浮かべた。

「今日は床に座ってはいないのね」

「そのことは忘れてください」

 恥ずかしそうに言って、サイトーは本を閉じた。そういう笑い方をすると、ちゃんと年齢相応に見える。まるで親と子ほどの年齢なのだ……あらためてそのことを胸に刻む。

 そうだ、わたしはサイトーを、息子のように思っているのだ。そんなふうにも考えてみようとした。だが、それは無理のある話だった。そもそもわたしは子供を持ったことがないし――別れた夫との間に子供ができなかったことは、あとで考えればせめてもの幸いではあったのだけれど――それに、サイトーは庇護を与えねばならないとこちらに錯覚させるほど、未熟な青年ではなかった。

「そういえば、『原初年代記』はどうだったの?」

「面白かったです。けれど、もっとあのあたりの歴史がわかっていないと、ちゃんと理解できないんじゃないかと思って……」

「わかるわ」

 そうあいづちを打ってしまってから、あまり好きな言い回しではないなと、自分で思った。人の心に安易につけいろうとする、無責任な語彙だ。もっと直截にいうならば、詐欺師の言葉。あなたの気持ち、とてもよくわかるわ……

 瞬間的なわたしの葛藤は、アバターの表情にも出てしまっていたのだろう。怪訝な顔をしたサイトーに笑いかけて、言葉を足した。「知識が増えるにつれて、どんどん自分の知らないことのほうが多いっていう実感が増すのよね」

「長年ここに通い詰めても、そうですか?」

「年月の分だけ、よりいっそうね。――ひとつの国の歴史をある程度知ったら、次はその近くの地域の、別の国の本を読んだらいいわ。同じ出来事が、まったく違う視点で書かれていたりするから」

 言わずもがなのことだったと、口に出す端から自分で思った。サイトーはもとより、そういう本の選び方をしている。

 彼の世界一周旅行はますます順調そうで、すでに東欧やアジアの文学にもずいぶん手を広げているように見受けられた。

 だけどサイトーは、わたしのおせっかいな助言にもいやな顔ひとつすることなく、何度もうなずいた。

「ちゃんと歴史を学びたいなら、それこそいまのやり方じゃ、とても追いつかないんでしょうけど……でもやっぱり、インストールする前にいきなり読むほうが、楽しいですよね」

 本当に悩ましそうにそんなことを言う、その生真面目さが好もしくて、つい笑ってしまった。

「そうね。あなたが楽しいように読むのが一番よ。クイズ王になりたいわけじゃないのなら」

 それは、何でもないような軽口だったのだけれど、サイトーはふっと、真剣な顔をした。だけど、そのことに気がついたわたしが、どうかしたのかと声を掛けるよりも先に、サイトーは笑顔を取り繕った。

「いえ――何でもないんです。自分が何のために本を読んでいるのか、すぐに忘れて脇道に逸れてしまうなと思って」

 何のために、本を読むのか。その言葉は気になったが、サイトーはそのまま、話を『原初年代記』の内容に戻した。だからわたしはつられたふりをして、古代ロシアの英雄たちの話に耳を傾けた。そうしながら、頭の隅では違うことを考えていた。

 サイトーは何のために《図書館》に入り浸っているのか?

 そんなに難しく考えるようなことではないのかもしれない。自分のことに置き換えてみれば、本を愛する動機なんて、単純なものだ。本を読むのが楽しいから。本が好きな人たちと関わるのが楽しいから。

 それならそれでいいのだ。何も不自然ではない。だけど、本当にそうだろうか?

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