第6話

 アルフレドと別れて三十年近くも経って、その間、恋愛沙汰にはすっかりりたと言いつづけておきながら、いま、《図書館》にログインするたびに、真っ先に目でサイトーの姿を探す自分が、滑稽こっけいだった。よりによって、若く美しい男の子――自分のことを間違っても恋愛対象として見ることはない相手に対して、わたしはいったい何を浮かれているのだろう。

 その日サイトーは、窓辺の席にいた。秋の木漏れ日を模したやわらかな光が、ガラス越しに降り注いでいる。その斑の光に横顔を照らされて、彼は机の上に広げた本に、視線を落としていた。

「今日は閉架のほうじゃないのね」

 読み終わって顔を上げるタイミングを見計らって、そう声をかけると、サイトーはいつものように礼儀正しく挨拶を返してから、ふとあたりを見渡した。

「もしかして、あなたのお気に入りの席をぼくが占拠してしまっていますか?」

 たしかにその席は、わたしがよく使っているものではあったけれど、わたしは笑って首を振った。《図書館》はあくまで公共の場所であって、誰かが独占権を主張できるようなものではない。

「その席を気に入ってくれたのなら、父も喜ぶと思うわ」

 言って、窓ガラスの向こうの、中庭の風景を透かし見た。あくまで投影された風景であって、実際に足を踏み入れることができるわけではない、架空の庭を。

 そこに広がっているのは、秋を模した庭園だ。本物と見分けがつかないほど精巧で、それでいて、園芸を少しでもかじったことがある者ならば、現実にこの風景を作り出すことは不可能か、あるいは非常に困難だと認めざるを得ないような。

 やわらかな午後の陽ざしに照らされた庭は黄葉に縁どられ、花々は満開に咲きほこりながらも、その存在を主張しすぎることもなく、さりげなく花壇を彩っている。その場所は、秋の憂愁に満ちてはいるけれど、伸びすぎた芝や萎れかけた花など、ひとつたりとも見当たらない。

「父がこの《図書館》をデザインしたときにね、窓辺に、木漏れ日の射し込む席が絶対に必要だと、強硬に言い張ったそうなの」

 この場所に対する父の思い入れには、並々ならぬものがあった。

「昔の映画に、そういうシーンがあったらしくて。図書館の窓辺で、主人公が何か本を読んでいて、その頬に木漏れ日が当たっていて……光が風で揺れるのが、とてもきれいだったのですって」

「素敵ですね」

 サイトーは笑って、窓越しの風景に視線を投げると、眩しそうに目を細めた。

「明るすぎたら本が読みづらくなるし、いかにも人工的で平坦な光では美しくないでしょう。こういう微妙な光の揺らぎを再現するのは手間だし、予算も限られているからって、渋い顔をされたらしいけれど」

 ときには関係者と議論をたたかわせ、あるいは言葉巧みに懐柔し、彼の情熱に周囲を巻き込みながら、父は、ひとつひとつを作り上げていった。内装に関しては、それでも理解を得やすかっただろう。ただ窓から眺めるだけの庭の風景にまで、よくもこれだけのリソースをつぎ込めたものだと、いまになれば思う。

 手を木漏れ日に透かしてみれば、まるで現実世界でほんものの陽射しにあたったときのように、アバターの皮膚が赤みを帯びる。そうした細かな演出に、父の思い入れを感じられる気がして、わたしはこの席を気に入っていた。

 ふと、サイトーの視線もわたしの手に向いていることに気が付いて、急に恥ずかしくなった。皺深く、水仕事に荒れ、血管の浮いた手――何もアバターをここまで本物そっくりに再現する必要などなかったのだ……

 たとえばここにいるのが、マルグリットだったならどうだっただろう。そんな不毛な考えが胸をよぎる。彼女なら、サイトーのように美しい青年を前にしても、こんなふうに物怖ものおじせずにいられるだろうに。いや――彼女のように美しくなくてもかまわない。三十年、いや、せめて二十年前だったなら、どうだっただろうか。

 年をとることを恐れる人々をあれだけ軽蔑し、低く見てきたくせに、いまさらそんなことを考える自分を、わたしは恥じた。

「父は移民だったの」

 さりげなく手を隠しながら、動揺をごまかそうと、わたしは父の話を続けた。「父の子供時代には、もう故国の図書館はとっくに閉鎖されてしまっていたけれど、図書館で読まれていた本が管理できなくなって、希望する人たちに払い下げされたことがあったのね。そういう本が、父の生家にもいくらかあったのですって」

 それらの本は、もうぼろぼろに痛んでいたけれど、子供の頃の父は、それを読むのが一番の楽しみだったのだという。

「ふつうのテキストのように、どこでも読めるというわけにはいかないから、つづきが気になって、よく学校が終わるなり、走って帰ったんだよって……近道をするために、裏道や、公園を通り抜けたりしてね。父があんまり何度も繰り返してそういう話をするものだから、こっちも聞いているうちに、なんだか紙の本には、特別な魔法がかかっているみたいな気がしてきてね」

 男の子が、急いで学校から駆け戻る。道々に声をかけてくる遊び友達の誘いも断って。息を弾ませながら家に着くと、屋根裏部屋に飛び込んで、ひとり、目を輝かせながら本のページをめくる。

 心は主人公と一緒に、空想上の世界を飛び回っている。ベッドに寝そべったり、そう、サイトーがしていたように、お行儀悪く足を投げ出したりしていたかもしれない。

 古い紙のにおい、印字のかすれ。手垢てあかのついた、日焼けしたページ。紙のてざわり。そうした時間は、どれだけ贅沢なものだっただろう?

 わたしが生まれるときには、もうそれらの本は、すっかり父の手元に残っていなかった。それでも父は子供の頃に読んだ物語の数々を、大人になってからもずっと覚えていて、わたしや弟を膝に載せて、よく話してきかせてくれた。

「父はそのころの思い出が忘れられないでいたみたい。あるとき古い映画を観ていたら、その中に図書館のシーンがあって、そうだ、これを作ろうって思ったんですって」

 もう四十年近くも前の話だ。前近代の暮らしを体験する、仮想空間を利用したレジャー施設のたぐいが、いっときブームになった。父はそうした潮流に乗って、仮想図書館の構想をねじこんだのだ。

「お父様は、いいところにお住まいだったんですね」

 不意に呟かれたサイトーの言葉の意味を、わたしは捉えかねて、首をかしげた。

「どうかしら。古い町だったのは間違いないでしょうけれど。六十何年か前にようやく図書館が解体されたというのだから、少し遅れた地方だったのかもしれないわね」

 サイトーは答えずに、手にしていた本の表紙を、手遊びのように開いたり閉じたりした。

 それからゆっくりと、囁くように、サイトーは言った。「ぼくは子供の頃、裏道を選んで歩いていました」

 再び意味をとらえそこねて、わたしは話の続きを待った。けれどサイトーはそのまま黙り込んだ。そうして、何かを決めかねるように、何度も本の表紙を撫でた。

 やがて、サイトーは顔を上げると、あらたまった声を出した。

「ミズ・リツェッラ。一度、お目にかかってお話しできませんか」

 どきりとしたのは、彼の声音が、あまりにも真剣だったからだ。

「それは……仮想空間ではないところで、という意味かしら」

 閲覧室を見渡しながら、わたしがそう聞くと、サイトーは小さくうなずいた。「ご迷惑でしょうか」

 返事をためらわなかったといえば嘘になる。

 その瞬間、わたしはさまざまなことを考えた。サイトーのためらいは何を意味するのか――仮想空間では話しづらい話題とは? そういう、あたりまえの疑問から、現実のわたしはアバターよりもなお老けこんで見えるだろうなどという、不毛なことまで。

 けれど結局のところ、心が決まるよりも、言葉が唇から滑り出るほうが早かった。

「甘いものは平気かしら?」

 サイトーは、困惑したように瞬きをして、それからうなずいた。

 自分が馬鹿なことを言おうとしているという自覚はあった。けれど、言葉は止まらなかった。「それなら、うちの庭でお茶というのはいかが?」

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