六月の入学 3
初日の授業を終えて、わたしはぐったりしていた。
周りに正体がばれないかと気が気ではなかったが、思ったよりもあっさりとわたしはクラスに溶け込むことができた。ルームメイト達がそうであったように、クラスメイト達もまた、わたしを男の子として見ているようだった。男子校に女子がいるわけがないという先入観のせいだろうか。
なんだ。性別を誤魔化すのって意外と簡単じゃないか。この分なら卒業するまで男の子として生活していくのも可能なのでは?
ともあれ、その難関を無事越えることができたが、その代わりとでもいうように新たな問題が浮上してきた。授業のレベルの高さだ。正直、教師が何を言っているのかよくわからない。今までも家で勉強を教えてくれる者はいたが、内容はこの学校で習うものに遠く及ばず、いかに自分が教養から離れた場所で暮らしていたかが思い知らされた。
勉強は嫌いではないが、とりたてて好きというわけでもない。どちらかというとする必要がなかった。よもや今になってこんな生活が訪れようとは……
ともあれ、このままでは落第必至である。とりあえず参考になりそうな本でも読もうかと図書館へ向かったが、そこがまた立派な建物で、全てのフロアに天井まで本がみっちり詰まっている。
萎えそうになる心を奮い立て、授業に関係ありそうな分野の本を探し出して図書館を出ると、外は夕焼けに染まっていた。
もうすぐ夕食の時間だ。今日はフランツに勝ってみせる。クルトやテオはああ言っていたが、やっぱり負けたままでは悔しい。それに、勝てば二人分のデザートを食べることができるのだ。この機会をみすみす放棄するわけにはいかないだろう。
「あのさ、クルトかユーニ、どっちかオレと寝室換わってくれねえか?」
わたしのトレイからデザートを取り上げながら、フランツが切り出す。
「換わったら、そのローテグリュッツ返してもらえます?」
「返したら、換わってくれんのか?」
口調は冗談めいているが、その表情になんとなく真剣なものを感じ、わたしはクルトと視線を交わす。
「な、いいだろ? 頼むよ」
「残念ながらそれは無理だ」
フランツの懇願をクルトはあっさり切り捨てる。
「なんで?」
「理由なく勝手に部屋を換わる事は寮則で禁止されている。誰もが好き勝手やっていたら、協調性や忍耐が育たないからな」
そんな規則があったなんて全然知らなかった。わたしは二人のやりとりに耳を傾ける。
「理由ならあるさ」
「どんな?」
「蝶だよ」
隣でテオが顔を強張らせたような気がした。それに構うことなくフランツは続ける。
「昨日も言ったろ? オレは蝶が駄目なんだよ。あんなものが一緒の部屋にあるってだけでもう……とにかく耐えられねえんだよ」
「そんな子供みたいな理由が通用すると思っているのか?」
クルトは呆れたような声を上げるが、わたしは少し考えて口を開く。
「うーん、でも、ちょっと気持ちはわかるような……もしもわたしの同室者が、ムカデとかカメムシの収集家だったらと思うと……」
「僕のコレクションをそんなものと一緒にしないでくれ!」
テオが声を荒げて立ち上がったので、驚いてテーブルが一瞬で静まり返った。周りの生徒も何事かと注目している。
「ご、ごめんなさい。テオの趣味を貶したつもりではなくて……」
慌てて謝ると、テオもすぐにはっとしたように顔を赤らめる。
「いや、僕のほうこそごめん……先に部屋に戻るね」
そう言うと、足早に食堂から出て行ってしまった。
まずい。わたし、余計な事言っちゃったかな……
「フランツとテオの事なんですけど……」
今、寝室にはわたしとクルトしかいないが、なんとなく声を抑えてしまう。
あれから数日。結局フランツは部屋の交換を諦めたようだったが、代わりに自分の寝室に入ることを極端に避けるようになってしまった。必要な私物も持ち出して、談話室の片隅に積み上げてあるようだ。
「あの二人、大丈夫だと思いますか?」
「なにか気になる事でも?」
クルトがこちらに顔を向けることなく応える。彼は今クローゼットの扉を開けて、なにやらごそごそしている最中だ。
「昨日だって、フランツはソファで寝てたみたいだし、テオに対してもなんだか距離を置いてるみたいで……このままじゃまずいと思うんですが」
「誰にだって、合う人間とそうでない人間がいるのは仕方ないだろ。せめて表面上だけでも取り繕って貰いたいとは思うが……君はあの二人に仲良くして欲しいのか?」
「それはそうですよ。血は繋がっていないとはいえ、一緒に暮らすのなら家族も同然です。むしろ、血が繋がっていないからこそ、家族のように親密な関係を築くことが重要なんですよ。特にこの学校みたいに閉じられた場所では」
「家族、ね……まさかその中には俺も含まれているのか?」
「もちろんですよ。そうだ。どうせならそれっぽい呼び方にしましょうか? クルトおにいちゃん」
クルトが振り返る。その顔にはなんともいえない微妙な表情が浮かんでいる。
「何ですかその顔……あ、逆のほうがよかったですか? クルトが弟で。わたしの事『おにいちゃん』って呼んでくれてもいいんですよ?」
「遠慮しておく。普通に名前で頼む」
「なるほど。双子設定ですね」
「兄弟設定から離れてくれ」
「じゃあ、クルトは除外で。フランツとテオに――」
「それも絶対やめろ。とにかく家族ごっこは却下だ」
「ええー……」
結構いい案だと思ったのに。
むくれるわたしの様子に、クルトは一つ溜息をつく。
「そんなに仲良くしたいんだったら、あの二人を誘ってどこかに出かけるのはどうだろう。明日はちょうど日曜日だし」
「おお、なるほど」
クラウス学園では、日曜日に限り外出が許されている。場所を変えれば気分転換にもなるし、一緒に過ごす事で距離も近づくかもしれない。
「それはいい考えかも。せっかくだからみんなで出掛けましょうよ」
「すまないが、俺は用事があるから一緒に行けない。三人で楽しんできてくれ」
「あ、そうなんですか……」
それは少し残念だが仕方がない。他の二人を誘ってみよう。
そう考えていると、鐘の音が一回鳴り響く。
はて、何を知らせる鐘の音だろう? そういえばさっきも二回鐘が鳴っていたような。まだ夕食には早い気がするが……
「時間だな。行くぞ」
クルトがクローゼットの扉をパタンと閉める。
「え? 行くって、どこに?」
「忘れたのか? 毎週土曜は入浴日だ。学年ごとに順番に浴場に集まるように言われただろ? 鐘が一回鳴れば俺たち一年生の番だってことだ」
見れば、クルトの手には柔らかそうなタオルが握られている。クローゼットを引っ掻き回していたのは入浴の準備のためだったのか。
でも、当然ながらみんなと一緒にお風呂になんて入れるわけがない。
「ええと……わたしはちょっと、遠慮しておきます」
「具合でも悪いのか?」
「いえ、あの、実はお風呂が苦手で……」
それを聞いたクルトが眉を顰めて一歩後ろに下がった。その拍子に背中がクローゼットにぶつかる。
わたしは慌てて両手を顔の前で振る。
「あ、ちゃんとクルトの見てないところで毎日身体は拭いてるので大丈夫ですよ。汚くないです。美しいです。なんだったら、ちょっと匂い嗅いでみます?」
「やめてくれ。その発想がまず美しくない」
クルトは見てはいけない物でも見たというように目を逸らすと
「……入浴が嫌いだっていう人間は決して珍しくはないが……その、君は…………いや、なんでもない」
何か言いかけた口を噤んで、そそくさと部屋を出て行ってしまった。
なんだろう。今のは明らかにわたしを避けていた。不安になって身体のあちらこちらに鼻を近づけてみる。
大丈夫……だよね?
大体毎日身体を拭いているんだから、多少入浴しなくとも臭くなるわけがない。ちょっと神経質ではないか。
でも、念のため今のうちに水で身体を拭いておこう……
日曜日。
わたしが目覚めると、クルトは既にどこかに出掛けてしまったようで、ベッドはもぬけの殻だった。
「朝ごはんも食べずにどこに行ったんでしょうか」
「そりゃお前、あれだろ。デートだろ」
フランツが朝食のゆで卵の殻と格闘しながら答える。
「そうかなあ。まだ入学したばかりなのに、そんな相手を作る暇もなかったと思うけど。外出だって日曜日にしかできないしね」
テオはちぎったパンを口に放り込む。
休日という事もあり、今日は三人とも制服を着ていない。食堂のあちらこちらでも、私服姿の生徒の姿が目立つ。
「何もこっちに来てからの相手とは限らねえだろ」
「と、いうと?」
わたしが尋ねると、フランツはにやりと唇の端を吊り上げる。
「たとえば、許婚とか」
「いいなずけぇ?」
思わず素っ頓狂な声が洩れてしまう。
「そうそう。その許婚がここからちょっと離れた街なんかに住んでてさ。で、逢いに行くために朝っぱらから出掛けたってわけ」
「はあ。まったく想像力豊かですね」
しかし許婚か。クルトは貴族だし、あり得る話なのかも。上流階級のしきたりなんかは庶民の自分にはよくわからないが、もしかしてフランツやテオにもそういう相手がいるのだろうか? クラウス学園は名門校だと聞いているし、二人とも良い家柄の出身だとしてもおかしくはない。
不思議な気持ちで二人の顔を見比べていたら、危うく本題を忘れるところだった。
わたしは唇を舌で湿らせると、思い切って切り出す。
「ところで、二人とも今日は何か予定があるんですか?」
「んー、特にねえけど」
「僕も」
その答えを聞いてわたしは身を乗り出す。
「それじゃあ、よかったらみんなで街に行ってみませんか?」
「お、ナンパでもすんのか?」
「そんな破廉恥な事しませんよ。普通に買い物して、カフェでお茶を飲んで。美味しいお菓子のお店も知りたいし……あ、久しぶりにチョコレートが食べたい! あと、リンゴのパイに、サクランボのケーキも!」
「食い物ばっかりじゃねえか」
フランツが呆れたような声を上げる。テオも隣で笑う。
「あはは。でも、街の全貌がどんな風になってるか興味あるよね。いいよ。行こう。僕も本が欲しいと思ってたし」
「わあ、ほんとですか。テオ」
「うん。それに、この街には蝶の標本を扱うお店もあるんだってさ。楽しみだな」
それを聞いたフランツは食べる手を止めた。
「オレはやめとく」
「え?」
わたしは焦った。元々はフランツとテオに親しくなって欲しいと計画したことなのに、肝心のフランツが行かないというのであれば失敗したも同然ではないか。
「そんな事言わずにフランツも行きましょうよ。きっと楽しいですよ」
「今日はゆっくり寝たいんだよ。最近寝不足だしな。あ、そうだユーニ、お前のベッド貸してくれよ。部屋の交換が禁止でも、借りるくらいならいいだろ」
「でも、せっかくの休みなのに……」
「しつこいぞ。とにかくオレは行かないからな。行くなら二人で行けよ」
そう言うと不機嫌そうにさっさと席を立ってしまった。取り付く島もない。
残されたわたしはテオと顔を見合わせた。
結局フランツは本当に「寝る」と言ってわたしの寝室に篭ってしまったので、テオと二人で街を見物する事にした。
フランツがいないが仕方ない。わたしも外出したかったし、折角だから細かい事は忘れて楽しむことにしよう。
初めてこの街に来た日には、広場周辺と学校までの道のりしかわからなかったが、改めて見る街は思っていたよりずっと大きかった。石畳で舗装された路面の両脇には街路樹が茂り、石造りの建物が立ち並ぶ。
テオと二人してきょろきょろしながら、あちらこちらのお店を覗く。洋品店や食料品店、露店の小物など、決して珍しいものでもないけれど、ついついお店の前で足を止めてしまう。
「テオ、次はあそこに行きましょう!」
「う、うん。わかったから、ちょっと落ち着いてよ……」
本屋から出た後、テオを引っ張って一軒の店に入る。
そこは店舗の半分に雑貨、もう半分にはお菓子――と言っても気取った感じではなく、キャンディやビスケットなどの駄菓子が並ぶ、要するに子供に人気のありそうな店だった。
わたしはその中の、チョコレートが一杯詰まった瓶に吸い寄せられる。
「わたし、両手一杯のチョコレートをいっぺんに食べるのが夢だったんですよ」
「あはは、僕も小さい頃は似たような事思ってたかも」
「ナッツ入りにキャラメル入りに、ペパーミントもある……! ああ、どれにしよう。チョコレートビスケットも気になるし……」
「それなら、全部買ったらいいじゃない」
その言葉に思わずテオの顔を振り返る。
欲しければ全部買えばいいなんて、裕福な家の子の発想だ。ひょっとすると、今のわたしみたいに、無数のお菓子の中から一つだけを選ぶために長い間悩む……なんて経験をしたこともないんじゃないか。
しかし――とわたしは考え直す。今の自分には多少自由になるお小遣いもある。テオの言うとおり、全種類のチョコレートを購入することも不可能ではないのだ。
悩んだ末、気になるチョコレートを同じ金額分ずつ買うことにした。ペパーミントチョコレートは他より少しだけ値段が高かったので量が少ない。それでもわたしにとっては、いまだ食べたことのない量だった。紙袋に詰めて貰って上機嫌で店を後にした。
「残念でしたね。目当ての標本がなくて」
寮の廊下を歩きながら、慰めるようにテオに声をかける。
最後に蝶の標本を扱うお店へ寄ってきたのだが、彼の欲しいものは見つからなかったのだ。
「うーん、でも、お店の人もたまに入荷するって言ってたし、気長に探すことにするよ。そういうのも楽しみのうちだしね」
「モルフォチョウ……でしたっけ? どんな蝶なんですか?」
「あ、興味ある? 北アメリカ南部から南アメリカにかけて生息する蝶でね、光沢のある綺麗な青い色の羽をしてるんだ。でも、それは元々の羽が青いわけじゃなくて、羽の表面の鱗粉で光の干渉が起こるためにそう見えるんだよ。その美しさから『生きた宝石』とも呼ばれていて――」
そう話す彼は嬉しそうだ。本当に蝶が好きなんだな。
と、ふとテオが顔を赤らめて口を噤んだ。喋りすぎたと思ったのかもしれない。話題を変えるようにわたしに水を向ける。
「ユーニには、そういう趣味はないの?」
「残念ながら、無趣味、無芸大食です」
わたしには何かを蒐集するような趣味はないから、テオの気持ちもよくわからない。そういうふうに夢中になれるものがあるのが少し羨ましくもある。
「今度、テオの持ってる蝶を見せてくださいよ」
「いいよ。君が興味を持ってくれて嬉しいな。さすがに今日行ったお店よりは劣るけど、それでも僕の自慢のコレクションなんだよ。あ、でもフランツが嫌がるかな……」
「そんなの、こっそり見せてくれたらわかりませんよ」
「それもそうか。それじゃあ今度、フランツのいないときに、こっそりね」
「こっそり」という言葉に、なんだか秘密を共有したような気がして、わたしたちはどちらともなく笑い声を漏らした。
「ただいまー」
自室のドアを開けると、ソファにはフランツとクルトが腰掛けていた。
「クルトも帰って来てたんですね」
「ああ、ついさっき。夕食までに戻る決まりだからな」
フランツがにやにやしながらクルトを指差す。
「聞いてくれよ。こいつ、ベッドで寝てるオレをユーニと勘違いして『成長してる!』とか言ったんだぜ。んなわけねえだろ。おかげで眠気も吹き飛んだし」
「おい、言うなよ」
「残念。もう言っちゃいましたー」
そう言って笑い声を上げるフランツは、心なしか機嫌がよさそうだ。今朝いらいらしていたように見えたのは、睡眠不足のせいだったんだろうか。
「それよりオレ、昼メシ食ってないから腹減っててさ。なんか食いもの持ってない?」
「あ、それならチョコレートがありますけど……もしかして、ずっと寝てたんですか?」
「まあな。なんでもいいから早くくれよ」
フランツは、わたしが差し出した紙袋をひったくるように受け取ると、乱暴に手を突っ込む。
「うげ、これペパーミントかよ。オレ苦手なんだよな」
「他の味もありますよ。探してみてください」
答えながらソファに座ると、隣のクルトが小声で話しかけてきた。
「三人で出かけるんじゃなかったのか?」
「そのつもりだったんですけど……」
わたしがかいつまんで説明すると、クルトは溜息をつく。
「本末転倒だな」
「仕方ないじゃないですか。一人に断られたから、それじゃあ止めましょうかっていう方が不自然です」
そもそもみんなで出掛けるという案を出してきたのはクルトの方ではないか。にも関わらず、一人逃げるようにどこかに行ってしまったくせに。
しかし、わたしにしても、当初の目的も忘れて楽しんできたのは確かだが。
「このナッツ入りのやつ美味いな」
チョコレートを口に放り込みながらフランツが声を上げる。
「あっ、全部食べないでくださいよ。わたしも楽しみにしてたんですから」
「わかってるよ」
「気に入ったのなら、今度お店まで案内しますよ。一緒に行きましょう。みんなで」
今日はうまく行かなかったが、また今度誘えばいい。日曜日は何度でも訪れるのだから。
そうだ。いつかみんなであの噴水のそばのカフェに行こう。ケーキを食べながらお茶を飲んで、みんなでお喋りするのだ。きっと楽しいに違いない。
そう遠くない未来、きっとその機会が訪れる。その光景を想像しながら、わたしはチョコレートに手を伸ばした。
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