六月の入学 2
「すごい偶然ですね。まさか同じ部屋だなんて」
石造りの廊下を歩きながら、隣のクルトに話しかける。
無事にクラウス学園の寮へと辿り着いたわたしたちは、職員より同室だと告げられて、思わず顔を見合わせたのだった。
先ほどのカフェでの件といい、学校まで案内してくれたりと、クルトは悪い人ではないみたいだ。そんな彼と同室だというのは心強い。
けれど、何故だかクルトは上の空だ。じっと何かを考え込んでいるかと思ったら、ちらりとこちらの様子を窺うように視線を向けたりしている。
なんだろう……わたしの顔に何か付いてるのかな。
さりげなくクルトから顔を背けると、袖口で自分の顔をごしごしと擦った。
――そうして辿り着いた三階の一番奥の部屋。
ドアの前に立ち、少し緊張しながらノックする。職員の話では、他にも二人の同級生が同じ部屋で生活するらしい。どんな人たちなんだろう。不安と期待の入り混じった感情がこみ上げてきて、トランクを持つ手にも力が入る。
暫くして、ドアが勢いよく開かれたかと思うと、一人の少年が姿を覗かせた。赤味掛かった髪の下から覗く鋭い目がこちらを睨み、わたしは思わず縮こまる。
「なんだお前、ここは女子校じゃねえぞ」
「え?」
開口一番そんな事を言われて、声が裏返りそうになってしまった。慌てて両手を振って否定の意志を示す。
「ち、違っ……わたしはおとこ! 男です!」
「わかってるよ。男子校に女子がいるわけねえだろ。でも、背も随分小せえし、ほんとにオレと同じ16歳か?」
少年はポケットに手を入れ、わたしの頭のてっぺんからつま先まで無遠慮に視線を這わせると、薄い唇をにやりと吊り上げる。
「声も女みてえだし。ドレスでも着たら似合うんじゃねえの? ははっ」
「それって、わたしがまるで女の子みたいな美貌の持ち主って事ですか? いやー、なんだか照れますね」
「はあ?」
すぐに心の中でしまったと声を上げる。いつもの調子で受け答えしてしまうなんて、長旅で疲れているのかもしれない。わたしは今日から男子校のいち生徒として生きていくのだ。気が緩んでボロを出しては全てが台無しになってしまう。
恐る恐る相手の様子を伺うと、互いの目が合った。少年はまじまじとわたしの顔をみつめる。
「うーん……確かに女みたいな顔だけど、美しいかって言われると……なんていうか、オレの本能が違和感を訴える。どっちかっていうと、かわい――」
「え、ちょっと、真面目に考えないでくださいよ」
「うん? お前が美貌がどうとか言い出したんだろ?」
「そ、それは、そうですけど……」
言いよどむわたしを尻目に、少年はわたしとクルトとを見比べる。
「それで、どっちがブラウモント家の息子なんだ?」
ブラウモント家? はて? どちら様?
聞き覚えのない名に首を傾げていると、横からクルトが答える。
「ブラウモントは俺だが」
その声に、少年の興味はクルトへと移ったようだ。
「へえ、お前があの……ふうん……」
同じくじろじろと眺め回すが、わたしの時とは違い、なんだか感心したような声を漏らしている。クルトの家がどうしたというんだろう。
「ブラウモント家って……?」
疑問を含んだわたしの呟きを聞き取った少年が、驚いたようにこちらを見る。
「なに? お前まさか知らないの? あの貴族のブラウモントを」
き、貴族……? クルトってそんな凄いところの出身なのか。目の前の少年の口ぶりからすると有名な家らしいし……そう考えるとなんだかクルトがさっきよりも輝いて見えるような気がする。うう、眩しい。
とは言うものの、当事者としてはそういう話題で盛り上がられるのは気分がよくないのか、クルトが冷めた声で返す。
「そういう君は誰なんだ?」
「オレ? そういや言ってなかったな。オレはフランツ。見ての通りお前たちのルームメイトだ。よろしくな」
今までの態度の悪さが嘘のように、フランツと名乗った少年はにっと笑みを浮かべると、わたしたちを招きいれた。
部屋の中に足を踏み入れると、足元にはやわらかな絨毯の感触。正面には大きな窓が並び、外からの光をふんだんに取り込んでいる。部屋の中央には低いテーブルが置かれ、それを挟む形で向かい合わせにソファがひとつずつ。他にも据え付けの棚があり、食器がいくつか並んでいた。さしずめここは談話室といったところか。
「お前ら二人の寝室はあっち。とりあえず荷物を置いてこいよ。その間に食堂でお湯を貰ってきてやるから。みんなで紅茶でも飲もうぜ」
フランツは入り口から見て右手奥にあるドアを指し示すと、食器の並んでいる棚からポットを取り出して部屋から出て行った。なんだかよくわからない。人に喧嘩を売ってるのかと思いきや親切だったりする。不思議な少年だ。
寝室のドアを開けると、窓際にふたつの勉強机が隣り合っているのが目に入る。部屋の中ほどには壁に沿うよう左右対称にベッドが置いてある。足元のほうにはクローゼットが据え付けられているのだが、その前に大きな山があった。化粧箱やら何かの包みやら、とにかく沢山の荷物が部屋の半分を埋め尽くさんばかりに積み上げられていたのだ。
「なにこれ……」
思わず呟くと、後から部屋に入ってきたクルトが口を開いた。
「それは俺の荷物だ。あらかじめ送っておいたんだ」
こんなに大量の荷物を一体何に使うんだろう。わたしの持ち物なんてトランクひとつに納まるほどだというのに。
荷物の整理を始めたクルトを尻目に、トランクを置いて寝室を出る。
わたし達の寝室と対をなすように反対側の壁にもドアがあるが、おそらくそちらはフランツの寝室なのだろう。
うろうろと部屋の中を歩き回っていると、暫くしてフランツが戻ってきた。
「お、ちょうどいい。お前、棚からカップを出して並べてくれ。四つな」
四つ? わたしと、フランツとクルト。それに加えもう一人の誰か。いまだ姿を見せないルームメイトの分だろうか。
言われた通りにカップをテーブルに並べると、フランツが紅茶をそそいでゆく。部屋の中には良い香りがふわりと広がる。
「おーい、みんな、お茶が入ったぞ! ひと休みしようぜ」
フランツが声を張り上げるも、両寝室からは反応がない。
「聞こえねえのかな? ったく、何やってるんだか」
フランツは自身の寝室に近寄るとドアを開けて中を覗き込む。
「おーい、テオ。テオドールぅ。お茶が入った――うわあああっ!」
いきなりの耳をつんざく叫び声に飛び上がりそうになってしまう。
「一体どうしたんだ?」
尋常でない様子に気付いたクルトも姿を現した。
「な、なんだよ、あれ……」
フランツは床に尻餅をつくと部屋の中から目を逸らさずに呟く。その顔は紙の様に白い。明らかに普通ではない。
「あれ、って……?」
わたしは近づいて寝室の中を覗き込む。中のつくりはわたしたちの寝室と同じ。壁際に置かれたベッドと、窓の傍に勉強机が二つ。それにクローゼット。特に変わったところはないが……いや、部屋の奥に少年がひとりいた。フランツの声に驚いたらしく、固まったようにこちらを見つめている。見たところ普通の少年のようだが、まさかフランツは彼に驚いた……?
「あれだよ、あれ」
フランツはゆっくりと腕を上げると、少年ではなく自分の正面を指差す。その先に視線を移すと、壁に小さな箱のようなものが設置されているのに気づいた。
「あれは、蝶……?」
大小色とりどりの蝶や蛾の収められた箱が、壁にいくつも取り付けられていた。
「オ、オレは駄目なんだよ! ……蝶が!」
「え?」
フランツは床にへたりこんだまま後ずさる。
「早くドアを閉めてくれ! 見たくもない!」
それを聞いた少年が慌てたように寝室の外へと出てきた。
「あれは僕が持ってきたのを飾ったんだ。ごめんねフランツ。君が蝶を苦手だなんて知らなかった。後で片付けるよ」
そう言ってみんなの視線から標本を遮るようにドアを閉めると、フランツも正気を取り戻したのか、安堵したように深く息を吐いた。
フランツが落ち着いたところで、気を取り直して四人でテーブルを囲む。
体が沈みこむようなやわらかい布張りのソファーに驚愕しながら、カップに口をつける。すると暖かい液体が体の中に流れ込み、いい香りが広がる。こんな紅茶を飲むのは生まれて初めてだ。今まで口にしていたものとは全然違う。もう一口、とカップを傾ける。
寛いだ頃合を見計らい、先ほどの蝶の少年は名を名乗る。
「僕はテオドール。テオでいいよ」
そう言って微笑む顔にはそばかすが浮いている。色素の薄い茶色い髪をして、優しそうな雰囲気を纏っているが、どこか気弱そうでもある。
わたしとクルトもそれぞれ名乗ると、テオは何故かわたしに遠慮がちな視線を向けた。
「随分とちいさ……その、若く見えるね」
今、「小さい」って言いかけて誤魔化した。ばればれだ。
「だろ? 小さいだろ? これでオレらと同級生なんだぜ。信じらんねえよな」
こちらに関しては濁す気さえないらしい。わたしはこっそりとフランツを睨みつける。が、凄い顔で睨み返されたので、慌てて目を逸らしてテーブルの上のビスケットに手を伸ばす。
「それ、僕が持ってきたんだ。紅茶だけじゃなくてコーヒーにもよく合うんだよ」
「なんだテオ、おまえコーヒーなんて飲むのかよ。あんな苦い泥水オレには無理」
「そうかな? 僕は美味しいと思うけど……」
テオとフランツの会話を聞きながらビスケットを一口齧った途端
「ふぉっ!」
思わず変な声が口をついて出る。
「な、な、な、なにこれ!」
今まで味わったことのない甘みが舌の上に広がる。夢中で噛み砕き、飲み込み、続けて二枚目のビスケットを手に取る。
「表面はさくさく、中はしっとり! まったりしてそれでいてしつこくなく、上品な甘みが口に広がる……! こ、こんなの初めて……!」
わたしは我を忘れて興奮気味に口走る。
「はあ、おいしい。こんなおいしいお菓子を食べることができるなんて、もうほんと、生きててよかったです……! わたし、家庭の事情が許すなら、お菓子職人になるのが夢で――」
手を胸に置き、うっとりと宙をみつめながら溜息を漏らすわたしだったが、他の三人が唖然としたようにこちらを見ているのに気付き、慌てて我に返る。
「す、すみません、すごくおいしかったので、つい……どうぞご歓談を続けてください」
謝りながらも新しいビスケットを口の中に放り込む。
暫く妙な沈黙が漂ったが、そんな空気を変えるようにフランツがテオに向き直る。
「ところでテオ、お前、蝶を集めるのが趣味なのか……?」
「ああ、あれ? 勝手に飾ってごめんね。まさか君があんなに驚くなんて思わなかったから」
「あー……それもあるけどさ、なんていうか。あれだ。ほら、虫集めとかガキくせえなと思って……」
「え……そ、そうかな?」
テオが戸惑いの表情を浮かべる。
「そんな事ありません。素敵じゃないですか。わたしも蝶は好きですよ。綺麗だし」
「ユーニ、そりゃお前もガキだって事だよ」
「ええー、そんな……」
虫を怖がる子供みたいな人に言われたくない。
「ま、オレたちももう16歳なわけだし、そろそろガキの趣味からは卒業しようぜ。な、テオ」
そんな言葉を受けたテオは困り顔だ。それはそうだろう。フランツ自身が蝶を嫌いだからというだけでなく、むちゃくちゃな理由まで加えられて、せっかくの趣味を辞めさせられたのではたまったものではない。
しかしフランツも冗談で言っているようにも思えない。彼の態度からはそこはかとなく苛立ちを感じる。
それにしても、蝶の好きな人間と嫌いな人間が同室になってしまうなんて、とんだ偶然もあったものだ。
「いや、でも……」
テオが反論しかけたそのとき、不意に金属音が耳に飛び込んできた。
幾重もの音階を奏でる重厚な鐘の音が、心地よい音量で鳴り渡る。
「ああ、もうこんな時間か」
クルトは壁の時計に目を向ける。
「なんですか? この音」
「夕食の時間を知らせる合図だ。ここではこうやって鐘を鳴らすんだ」
「お、メシの時間か。丁度腹も減ってきたところだったんだよな。よし、行こうぜ」
フランツは嬉しそうに立ち上がると、軽い足取りで入り口へと向かう。
「どうしたんだよ? 早く来いよ」
振り向いてみんなを手招きする姿は、先ほどまでの機嫌の悪さが嘘のよう。その無邪気な様子に首を傾げてしまう。
テオも不思議そうな顔をしている。わたしと目が合うと肩を竦めてみせた。どうもフランツという少年は気分屋なところがあるみたいだ。
廊下へ出ると、他の生徒達の姿も見える。みんな食堂へ向かうようだ。わたしたちもその流れに乗る。
「よーし、食堂まで競争しようぜ。負けた奴はデザート没収な!」
「えっ、ちょ、ちょっと待ってください!」
駆け出したフランツを慌てて追いかける。
そんなわたしの背後から、溜息がふたつ聞こえたような気がした。
夕食後、部屋に戻る前に四人で寮の建物の周りを散歩する事にした。外を歩くと気持ちのいい風が頬を撫でる。
クラウス学園の周りは石塀でぐるりと囲まれており、その広大な敷地内には校舎や寮といった色々な施設の他にちょっとした山や森のようなところまである。寮の周りも草や木が茂っていて、散策にはうってつけだ。
「うう……わたしのプディングが……」
「悪いな。でも、お前の足が遅いのがいけないんだぜ」
わたしの嘆きにも、たいしてすまなそうには思えない調子でフランツはにやりと笑う。
「次は負けません。フランツのデザートは頂きますから」
「おう、楽しみにしてるよ。まあ頑張れ」
「はあ……でも他の料理もすごくおいしかったです。この世にあんなにおいしいものが存在するだなんて信じられない……」
「お前、今までどんなもの食ってたんだよ」
「それは、まあ、その、色々……それよりも――」
わたしは歩きながら後ろを振り返る。
「クルトもテオもずるいですよ! わたしは真面目に勝負したのに、食堂に着いたら二人とも後ろにいないからびっくりしたじゃないですか! 結局デザートを食べられなかったのはわたしだけだったし……」
わたしの恨み言にもクルトは涼しい顔だ。
「勝負を受けなければ負ける事はない。プディングが食べたかったなら最初からフランツの誘いに乗らなければよかったんだ」
「まあ、そういう事かな」
隣でテオも苦笑している。
それを聞いてなんだか拍子抜けしてしまった。最初から勝負しないだなんて考えてもみなかった。弱者は強者に奪われるしかない。そう思っていたから。
けれど、徐々に実感しはじめた。ここは今までいた場所とはまるで違うのだということを。
「どうだ。ちょっとは慣れたか?」
フランツが小さな声で話しかけてくる。
「え?」
「お前、オレを見た時、すっげー緊張してるみたいだったし。ヘビに睨まれたカエルってやつ? あんな感じでさ。誰もとって食ったりしないのにな。まあ今は普通みたいだし、その調子でいいんじゃねえの」
目が合うとにっと笑いかけられる。もしかしてわたしの事を気にかけてくれたのかな。意外と面倒見がいいのかも。でも、緊張してたのは、たぶんフランツの態度のせいもあると思う……
ともあれ、わたしは彼らにルームメイトとして無事受け入れられたようだ。まだまだ油断はできないが、今のところはとりあえず安堵する。
「ん? なんだこれ」
不意にフランツが声を上げ、近くの草むらから何かを拾い上げる。
それは直系五センチメートルほどの白い球体だった。
覗き込んだテオは唸る。
「何かの卵かな? 鳥とか?」
「それにしちゃ、やけに丸いよな。ニワトリの卵とかとは違って」
確かに、その物体は、いわゆる「たまご型」というよりも縦横の長さの差があまりなく、どちらかというと真円のボールに近い形をしていた。
「それは、フクロウの卵ですね。巣はたぶん、あそこです」
わたしは頭上を指差す。そこには木の幹にぽっかりと空いた穴があった。
「フクロウの卵はこんな風に丸い形なので、転がるの防ぐために木のうろの中を巣にするんですよ。そこならまわりを木の壁に囲まれているので転がり落ちる心配はありませんから。でも、この卵は運が悪かったみたいですね……」
「そうなのか。じゃあ巣に戻してやらねえとかわいそうだな。それっ」
フランツは卵を手にぴょんぴょんと飛び跳ねる。が、まったく届きそうにない。少しの間飛び跳ねた後で彼はがっくりと肩を落とす。
わたしはフランツから卵をそっと取り上げるとクルトに差し出す。
「なんだ?」
「この中で一番背が高いのはクルトです。どうかこの卵をあなたの手で巣に返してあげてください」
「いや、さすがにあの位置じゃ無理だろう。指先だって届くかどうか」
「おっ、じゃあさ」
フランツが「閃いた」という顔をして
「クルトがユーニを肩車したらいいんじゃねえの?」
「え?」
「なんで俺が……」
「クルトは一番背がでかいし、ユーニは一番軽そうだから。丁度いいだろ? な?」
わたしたちはクルトの顔を見上げる。ここでクルトが首を縦に振ってくれれば、この卵を巣に返すことができるかもしれない。
全員の視線を受けたクルトは眉間に皺を寄せていたが、やれやれといった様子で溜息をつくと、木の根元で腰を落とす。
「仕方ない。ユーニ、乗れ」
「さすがクルト! かっこいい! 紳士! 貴族!」
「おかしな賛辞はやめてくれ」
そう言いながらもクルトはわたしを肩に乗せると軽々と持ち上げた。
「クルト、もう少し右に……って、聞いてます?」
「……あ、ああ、すまない。右だな?」
位置を調整すると、巣穴の中がぎりぎり覗けるくらいになった。
親鳥に襲われないかと心配だったが、幸いなことにどこかに出掛けているようで、巣の中には他にいくつかの卵があるだけだ。
わたしは持っていた卵をその中に紛れ込ませるようにそっと置く。地面に落ちた卵がはたしてちゃんと孵化するかはわからないが、それでも親鳥に抱かれ、他の兄弟と共に餌を啄ばむ雛の姿を夢想する。親に見離された子ほど無力なものはないのだ。この卵が悲しい運命を辿ることがありませんように。
夜中、わたしはぱちりと目を覚ました。
何度か寝返りを打つも、妙に目が冴えてしまって眠れない。まだ新しい環境に身体が慣れずに緊張しているのかも。
暫くベッドの中でじっとしていたが、一向に睡魔が訪れないので諦めて身を起こす。
今は何時くらいだろう。窓の外はまだ暗い。水でも飲みに行こうと、クルトを起こさないようにそっと寝室を出る。
談話室を突っ切ろうとしたとき、目の端に何かを捕らえた。
月明かりに照らされ、ソファの上で黒い塊が動く。
「ひっ?」
思わず悲鳴をあげそうになり、慌てて口を手で覆う。
泥棒? それともまさか、幽霊……
「ん? ユーニか?」
塊は聞き覚えのある声で喋った。
「お前は小さいから、シルエットだけですぐわかる」
「……フランツ?」
近づいてみると、毛布に包まったフランツが身体を起こす。ソファで横になっていたようだ。
「すみません。起こしちゃったみたいで……」
「別にいいさ。どうせ起きてたし。ていうか、お前って寝てるときもマフラー巻いてんの?」
「え? ええ、これはその、寒がりなもので……フランツこそ、どうしてこんなところで寝てるんですか?」
「それが……テオに部屋の蝶を片付けてもらったんだけどさ、どうも駄目みたいっていうか」
「駄目って?」
「なんていうか、同じ空間に蝶が存在するってだけで耐えられねえんだよ……」
フランツが頭を掻く。暗くて顔はよく見えないが、なんとなく気まずそうにしているのは判る。
「そんなに……?」
「ああ、だからこっちの部屋に来たんだけど、なかなか眠れなくてさ」
それはかなりの重症だ。この人、見た目と違って意外と繊細なのかな。わたしにも嫌いなもののひとつやふたつはあるが、流石にここまで拒否反応を示すものは無い。
そんなことを考えていると、フランツがくしゃみをした。
「大丈夫ですか? こんなところで寝るからですよ……そうだ。ちょっと待っててください」
わたしは自分の寝室に引き返すと、クローゼットを開ける。確かここに予備の毛布が……あった。
それを持ってフランツの元へ戻る。
「これ、使ってください。風邪でも引いたら大変ですからね。はい、横になって」
毛布を広げてフランツの身体にかけると、彼はなんだか戸惑ったような声を上げる。
「……なんかお前、オレの家の使用人みたいだ」
「やっぱり毛布返してください」
「ちょ、冗談だって」
フランツは毛布をしっかりと握り締める。
「ふふ、フランツはわたしの兄――いえ、どっちかといえば弟みたいです」
「はあ? なんだそれ」
「わたしの家はきょうだいが大勢いるんですよ。小さい弟たちが寝るときには、よくこうやって毛布をかけてました」
「ふうん。そういうもんなのか。オレにはきょうだいはいないからな……」
「そうそう、これもときどき弟にしてたんですけど、我が家に伝わるよく眠れるようになるおまじないなんていうのもあるんですよ」
わたしは人差し指をフランツの顔の前でくるくると回す。
「『寝ない子寝ない子いらない子 寝ないと目玉をくり抜くぞ』」
「えっ、なにそれこえーよ。余計眠れなくなるんじゃねえの」
「逆ですよ。目玉をくり抜くなんて言われたら、何がなんでも眠らないといけなくなりますからね。もうぐっすりですよ」
「お前の家すげーな……」
「ともあれ、これでフランツも眠れるといいですね」
「え、ああ、うん……くり抜かれないうちに寝る」
フランツが毛布を頭まで引き上げる。
「……おやすみ」
「はい、おやすみなさい」
わたしは足音を立てないように、そっとその場を離れた。
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