六月の入学 1


 古い革のトランクに収まるだけ。それがわたしの荷物の全てだった。


「はぁ、やっと着いた」


 窮屈な乗り合い馬車から石畳の地面へと降り、溜息とともにあたりを見回す。固い椅子に長時間座っていたせいかお尻が痛い。新鮮な空気を取り入れるように、首に巻かれた白いマフラーを緩める。


 西暦1902年。

 ヨーロッパ中部に位置するエリストリア王国。わたしは学校へ通うため、そのエリストリアの地方都市アルヴァナへとやってきたのだ。

 目の前は大きな広場になっていて、今も馬車や大勢の人々が行き交っている。その周りを取り囲むように高さのある石造りの建物や、色々な屋台が立ち並び、あたりはちょっとしたお祭りのように賑やかだ。


「わあ、噴水がある」


 わたしは古びたトランクを携えて、広場の中心へと歩を進める。噴水の周りでは鳩が地面をついばんでいて、なんとも平和な光景だ。

 噴水を覗き込むと、水面に自分の顔が写っていた。藁のような色の中途半端な長さの金髪を束ね、クラウス学園の制服に身を包んだ少女。その緑色の瞳が不安そうな色を宿して見えるのは気のせいだろうか。無意識のうちに、左目の下にあるほくろのあたりに指で触れる。ゆらゆらと不安定に揺れる水面が今の自分の心を表しているようだ。

 慌てて首を振り、水底に目を移すと、硬貨が何枚も沈んでいるのが見えた。反射的に手を伸ばしそうになり、慌てて引っ込める。あぶない。落ちているお金を見ると、つい……。


「お前さん、クラウス学園の新入生かね」


 不意に声をかけられ、顔を上げると、声の主は噴水の縁石に腰掛けた老紳士だった。

 い、今の、見られてた?

 一瞬焦るが、老人の笑顔が好意的なものだったので、警戒心を解く。

 でも、どうしてわかったんだろう。制服でクラウス学園の生徒だとわかったとしても、新入生かどうかまで言い当てるなんて。

 その疑問が顔に出ていたのか、老人は破顔する。


「長いことここに住んでる人間にとっては、この噴水なんて見慣れてるからね。この時期にそんな物珍しそうに噴水を眺めてる子は、クラウス学園の新入生くらいだよ」


 なるほど。とわたしがひとり頷いていると、老人は続ける。


「この噴水には言い伝えがあってね」

「言い伝え、ですか?」

「そう。この噴水に背を向けたままコインを投げて、見事水の中に入れることができれば願いが叶うといわれているんだよ」


 なんだかどこかで聞いたことがあるような……まあ、よくある類の伝承なんだろう。でも、どうしようかな。折角だから試してみようか。

 財布から硬貨を一枚取り出し、噴水に背を向ける。


 ――どうか、これからの学園生活が上手くいきますように――


 願いを込めてから、思い切って後ろに放り投げる。周囲の騒音に紛れ、硬貨の落ちる音は聞こえなかったが、噴水のほうを振り返ると、笑顔を浮かべた老人が深く頷いた。


 老人と別れると、学校へ向かうために歩き出す。わたしが通うことになるクラウス学園は、16歳から18歳までの男子が通う三年制の学校らしい。

 神父様にはわたしの性別を含めた素性が他者に知られる事のないようにと重々言い含められたが、女の子のわたしがそんな学校へ通うなんて、ここへきてもいまだ実感できずにいた。


 確か簡単な地図を持ってきていたはずだ。制服のポケットをまさぐる。が、いくら探しても、ポケットの中には紙切れ一枚、綿埃ひとかけら入っていない。

 まさか、なくした……? うそ、どうしよう……

 先ほどの老人に道を訪ねようか? そう思って引き返そうとした矢先、自分と同じクラウス学園の制服を着た少年の姿が目に入った。ちょうどいい具合にこちらに向かって歩いてくる。

 同じ学校の生徒なら、校舎の場所だって知っているに違いない。よし、あの人に聞こう。


「あの……」


 少年が近づいたところで声をかけるが、彼は何か考え事をしているのか、難しい顔をして、こちらに目を向けることもなくわたしの横を通り過ぎてしまった。

 もしかして、聞こえなかったのかな……


「あの、すみません!」


 慌ててもう一度、先ほどより大きな声を出すと、少年はやっと気づいたのか、はっとしたように立ち止まり、訝しげな視線をこちらに向ける。背の高い少年だ。


「……なにか?」

「あの、あなたもクラウス学園の生徒ですよね。すみませんが、学校までの道を教えてもらえませんか? 実は、地図をなくしてしまって……」

「ああ、なんだ。それならちょうどいい。俺も学校に向かうところだったし、案内しよう」


 少年の表情がふっと緩んだかと思うと、にこりと微笑む。不意にそこにだけ光が差し込んだように錯覚した。思わずその笑顔に見とれそうになり、慌てて我に返る。


「ええと、よろしくお願いします」


 あたふたしながらも、目の前の少年をさりげなく観察する。

 艶やかな黒髪に映える白い肌。形のいい眉の下にくっきりとした涼しげな目もと。輝く紫色の瞳には、先ほどまでの警戒心は見られない。その端正な顔立ちと優雅な物腰にはどことなく気品が感じられ、生まれ育った環境が特別なのだと判る。

 それにひきかえ自分はどうだろう。背だって高くないし、体つきだって貧相だ。そもそも性別が違うのだから当たり前なのだが。それでもなんとなくひとり気まずくなって、左目の下のほくろのあるあたりを人差し指で掻く。


 と、唐突に、わたしのおなかから蛙の鳴き声のような音がした。思い返してみれば、今日は朝食以外口にしていない。無事学校に辿り着けそうだと判明して、緊張が緩んだみたいだ。

 ああ、おなか空いたなあ……

 すると目の前の少年が急にきょろきょろしだした。何かを探すように周囲の地面に目を向けている。


「どうかしました?」

「今、蛙の鳴き声がしなかったか? 踏んだら厄介だと思って。君にも聞こえただろう? ずいぶん大きな声だったし……」


 この人は一体何を言い出すんだ。よりにもよってわたしのお腹の音を本当に蛙の鳴き声と間違えるだなんて。しかも放っておけばいいものを、踏まないように気遣うとか、どんなお人よしなんだ。

 急に恥ずかしさが襲ってきて顔が熱くなる。

 できることなら黙っていたかったが、いるはずのない蛙を探し続ける少年を放っておくわけにもいかず、意を決して告げる。


「ええと、たぶん、それはわたしのお腹の音です……」





 噴水の見えるカフェの、屋外に並べられた白い円形のテーブルに、わたしたちは向かい合って座っていた。


「すみません。こんなところに寄り道してもらっちゃって……」


 言いながらレモネードのグラスを傾ける。ほのかに黄色く色づいた液体には薄切りさにされたレモンが浮いていて涼しげだ。

 わたしのおなかの蛙があまりにも哀れな鳴き声を発していたのか、学校へ向かう前にカフェに寄ろうと少年が提案してくれたのだ。なかなか気がきく優しい少年ではないか。


「そういえば、まだ名前を名乗っていませんでしたね。わたしはユーニと言います。六月ユーニ生まれなんですよ。だからこの名前で……単純ですよね。あはは」


 わたしが名乗ると、少年はちらっと笑顔を見せて、飲んでいたコーヒーのカップを置いた。


「俺はクルト。クラウス学園の一年生になる」

「あ、それならわたしと一緒ですね」


 長身のせいか大人びて見えるから、てっきり上級生かと思った。でも、同級生なら気兼ねする必要もない。

 安心しきったわたしは、ケーキの乗った皿を引き寄せフォークで切り分け口に運ぶ。


「わあ、このイチジクのタルトすごく美味しい! まったりとして、それでいてしつこくなく、上品な甘みが口に広がる……」


 あ、レモネードがもうない。おかわりを頼もうかな……?


「ああ、きょうだい達にも食べさせてあげたいなあ」

「君にはきょうだいがいるのか?」

「ええ、兄も姉も、弟も妹もいます。大家族なんですよ」


 その時、わたしより少し年下であろう男の子が、クルトの後方から走ってくるのが目に入った。


「ちょうどあの男の子くらいの……」


 言いかけたその時、男の子が何かに躓いたのが見えた。あっと思う間もなく、その身体は前方へと豪快に投げ出される。

 と、次の瞬間、男の子の周りにばらばらと何かが散らばる。


「大丈夫ですか?」


 咄嗟に駆け寄ると、男の子はすぐに起き上がり、周囲をきょろきょろと見回す。まるで何かを探すように。


「に、人形が……」


 そう呟くと、テーブルの近くに屈みこみ、自分の周りに散らばったものを拾い始める。見れば、男の子の言うとおり、雪だるまを少し縦長にしたような形の掌大の人形がいくつも地面に転がっていた。

 男の子は大きな袋をふたつ手にしている。どうやら転んだ拍子に、そこから人形が飛び出してしまったらしい。


「クルト、わたし達も手伝いましょう」


 クルトを急かし、三人で周囲に散らばった人形を拾い上げて、テーブルに並べてゆく。木に着彩された人形は、幸いにもどれひとつ欠けたり汚れたりすることは無かったようだ。


「あの、ありがとうございます」


 男の子はお礼を述べるものの、人形を袋に入れようとはせず、戸惑ったような視線をテーブルの上に注いでいる。


「どうかしたんですか?」


 気になって尋ねると、男の子は一瞬躊躇う素振りを見せた後、おずおずと話し始める。


「ええと、実は、この人形の置物はぼくの働いている工房で作っているもので、何軒かのお店にも卸していて……それで今、お店に新しい人形を卸して、古い人形を回収するっていう仕事の途中だったんですけど……さっき転んだ拍子に、ふたつに分けていた袋から人形がいっぺんに飛び出て……古い人形と新しい人形が混ざって、どっちがどっちだかわからなくなってしまったんです」」

「え?」


 わたしは思わずテーブルの上に視線を向ける。そこには同じように着彩された人形がずらりと並んでいる。


「それなら見た目でわかるんじゃないか? 古いほうは劣化しているはず……」


 言いかけてクルトは口を噤んだ。少年もそれを察したのか首を振る。


「その……古い人形と言っても、あまり年月の経っていなくて、殆ど見た目に変化がないものもあるんです。見ての通り、色も同じだし……」


 男の子の声が弱々しくなっていく。


「どうしよう……いくら見た目じゃわからないとはいえ、古い可能性のある人形をお店に渡したら親方に怒られるし、工房の評判も落とす事になっちゃう……」


 その様子を見て、わたしははっとした。不意に弟の顔が思い浮かび、それが男の子の面影と重なる。まるで弟が泣き出しそうになっているかのように錯覚して、気がつけばわたしは自分の左目の下に指先で触れていた。それはわたしが考え事をする時の癖で、そうすると頭の中が澄んでいくような気がするのだ。

 少しの間を置いてわたしは口を開く。


「この人形って、木でできているんですよね。何の木を使ってるかわかりますか?」

「ええと、確か、古い方が杉で、新しいほうはイチイだったはずです。今までは杉を使っていたんですけど、今回はイチイが安く仕入れられたので……」


それを聞いて一筋の光明が差した気がした。


「だったら、重さでわかるかもしれません。イチイのほうが杉より重いんですよ。だから、新しい人形の方が重いはずです」


 それを聞いて男の子は目を丸くした。


「確かにそうかも……」

「このカフェで秤を借りてきます。それで確かめましょう」


 そうして借りてきた秤に人形を乗せる。

 どうかわたしの予測が当たっていますように……!

 ひとつ、ふたつと重さを計っていくと、秤の目盛りを確認したクルトが驚いたようにこちらを見た。


「君の言ったとおりだ。人形の重さに差がある」


 それを聞いて、いつの間にかわたしたちの間に漂っていた緊張が、ふっと緩んだ気がした。


「これではっきりしましたね。やっぱり、重いものが新しい人形なんですよ」


 わたしの言葉に、男の子はぱっと顔を明るくした。


「あの、本当にありがとうございました!」


 男の子は何度も感謝の言葉を口にすると、去り際に工房の場所を教えてくれた、近くに来た際には是非立ち寄って欲しいとの言葉も残して。

 わたしたちもほどなくカフェを後にする。

 学校への道すがら、先ほどの男の子の笑顔を思い出して心があたたかくなるのを感じた。あの子、どことなく弟に似ていた。つい昨日まで一緒に過ごしていた弟の事を思い出し、なんだか懐かしい気分に浸っていると、隣を歩いていたクルトが口を開く。


「君は、いつもあんなふうなのか?」

「あんなふうって……?」

「ええと、だからその……さっきみたいに問題を解決したりだとか」

「ああ、あれは偶然ですよ。人形が違う木材で作られていたからわかった事です。同じ木材が材料だったらお手上げでした」

「ふうん……」


 何故かクルトは腑に落ちない様子で、曖昧な言葉を返したきり黙り込んでしまった。どうしたんだろう。わたし、なにか変な事言ったかな……

 ともあれ、あの男の子が叱られるような事にならずに済んでよかった。改めて安堵のすると共に、なんだか急に疲労感が襲ってきた。

 ああ、甘いものが食べたい。とびっきり甘いお菓子がいいな……

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