六月と顔のない肖像画

六月と顔のない肖像画 1

「おい、起きろ」


 日曜の朝、クルトの声が頭上から降ってきたかと思うと、乱暴に毛布を剥ぎ取られ、わたしはぼんやりと眠りから覚める。

 あれ、もう起床の鐘は鳴ったっけ? 全然気づかなかった。

 眠い目をこすりながら起き上がる。


「出掛けるぞ」

「はい?」


 突然のクルトの言葉に、あくびをしようとした口が半開きのまま固まる。


「……あの、そんな話聞いてなかったような気がするんですが……」

「当たり前だ。言ってないからな」

「え?」

「5分で支度しろ。隣の部屋で待ってる」


 わたしの返事も聞かず、クルトは寝室から出て行ってしまった。

 見れば、窓の外はまだ薄暗い。こんな朝早くから一体なんだろう。とりあえず着替えようと、クローゼットの扉を開ける。

 それにしても、わたしが女だという事が知られてからというもの、なんだかクルトの態度がおかしい。横柄というか強引というか。以前はもう少し常識を心得ていた人間だったような気がするのだが。

 そういえば、クラスメイトに対しては、今までと変わらない態度で接しているように思える。という事は、わたしに対してだけああなのだろうか。そう考えるとなんだか腹立たしい。今だって、わたしの都合も聞かずに強引に外出する流れになっている。

 もしかして、あれが本来の彼の姿だとでもいうのだろうか? 私の弱みを握った事で本性を現したとか? 秘密を口外しない代わりに、彼の頼み事を引き受けるという取引を交わしたのは確かだが、だからといって彼の下僕になったわけではないのに。

 よほど文句を言ってやろうかと考えたが、わたしが泣いてしまったあの夜、眠るまでずっと傍にいていてくれた彼の事を思い返すと、なんとなく言い出せないのだった。




 着替えて寝室から出てきたわたしを見た途端、クルトが眉を顰める。


「なんだ、その格好は」


 言われて自分の格好を見下ろす。いつものマフラーに、サイズの合わないよれよれのシャツと、同じく着古したズボン。孤児院に寄付された古着の中から持ってきたものだ。靴だけは制服の時と同じ革靴なので新品のようにぴかぴかだ。


「もっとまともな服はないのか? 着替えてこい」

「ええと、他のは昨日お洗濯に出してしまって、これしかないんです……元々私服はほとんど持ってないので……」


 気まずい思いで答えると、クルトは額に手を当て大きく溜息をつく。


「そんな反応されても困ります。突然出掛けるなんて言われたわたしの身にもなってくださいよ。もう」

「いや、まさかそこまでとは思っていなかったから……」


 そこまでって……服装が? 確かにちょっとくたびれてはいるけれど、そんなに酷い?

 見れば、クルトは白いシャツにネクタイ、その上にベストを着用し、フロックコートまで羽織っている。ズボンにも皺ひとつなく、どれも彼の身体に誂えたようにぴったりでよく似合っているが……パーティにでも行くんだろうか?


「仕方ない。とりあえずはその格好で構わない。時間が勿体ないから行くぞ」

「え? 今すぐですか? あの、朝ごはんは……」

「そんな暇はない」

「ええっ、うそ! 朝ごはん食べないなんて狂気の沙汰ですよ! 絶対ありえない! 食べるまでどこにも行きませんからね!」


 抗議の声を上げると、クルトは呆れたように首を振る。


「……付いてきたらちゃんと食べさせてやるから」

「それなら行きます。あ、顔を洗ってくるので、ちょっと待っててくださいね」


 タオルを片手に部屋のドアを開けた、わたしはふと振り返る。


「そういえば、どこに行くんですか?」


 クルトは何度目かの溜息と共に口を開いた。


「散歩だ」






 学校を出たわたしたちは、街へ出ると、次々と店を開けはじめた商店の間を通る。更に少し行くと広場に差し掛かった。中央には水を吹き上げるあの噴水が見える。

 あの噴水の「言い伝え」って、結局は迷信だったのかな。そうでなければ今現在こんなおかしな事になっているはずがない。だってあの時自分は確かに噴水に銅貨を投げ入れた――

 あれ?  ちょっとまって。

 わたしははっとして口元に手をあてる。

 そう。確か、あの時、学園生活が上手くいくようにと願って噴水に投げた銅貨は見事水の中に落ちたはずだ。けれど、そのあとあの銅貨はどうなったっけ? クルトに拾ってきてもらって――

 ――投げ入れたものを返してもらったんだと思えば盗んだことにはならない。

 そうだ。確かに自分でそんなことを言ったのだ。

 まさか、それが原因? 銅貨を返してもらったと同時に、願いが無効になってしまったとでもいうのだろうか。

 あの噴水にどんな神の加護がついているのかは知らないが、銅貨一枚でこの仕打ちはちょっと酷いのではなかろうか。窮地に陥っていた少年を助けるためにはやむを得ない事だったというのに。


 噴水を守護する神を呪いたい気持ちがちらりと湧いたが、すぐにそんな事どうでも良くなってしまうくらいにお腹の空腹具合が気になり始めた。まだ目的の場所には着かないのかな? こんな事なら、さっき通った屋台で何か買ってくればよかった。あとどれくらい掛かるのか、ちょっとクルトに聞いてみようか?

 その時、前を歩いていたクルトの足が止まる。


「着いたぞ」


 彼が示す方向に目を向けると、木々に囲まれた中に堂々と建つ、石造りの大きな屋敷。


「俺の家……と言っても別荘だけどな」

「え?」


 あっけに取られるわたしを尻目に、クルトは鉄の門扉を押し開け、堂々と中へ入って行く。


「ま、待ってください……!」


 わたしは慌てて後に続く。

 門から建物までの道の両脇には、形よく整えられた生垣が続き、バラが花を咲かせている。

 ここがクルトの家……?

 そういえば彼は貴族の出身だって言ってたっけ。それならこれも納得だ。

 まだ小さい頃、お姫様や貴族の住むお城やお屋敷の中はどうなっているのか。そんなところに住んでみたいと夢想した事はあったけれど、所詮自分とは違う世界のものだと思っていた。しかし実際にそんなところに住んでいる者が身近にいたなんて。

 なんだか急に緊張してきた。確かに、こんな服でこんな立派なお屋敷に入るのは気が引ける。まさか追い出されたりしないよね……?

 クルトがノッカーを叩くと、間もなくドアが開き、メイドがわたしたちを迎え入れる。

 わたしはクルトの背中に隠れるように恐る恐る室内へ足を踏み入れる。

 目に飛び込んできたのは広い玄関ホール。さりげなく高価そうな調度品が配置され、天井からは大きなシャンデリアが吊り下がっている。


「すごい……」


 溜息とともに辺りを見回していると、クルトがわたしを押し出すようにしてメイドの前に立たせる。


「早速だが、手紙で指示した通り、こいつを頼む」

「はい、準備できております。どうぞこちらへ」


 メイドがわたしに微笑みかける。一体何事かとクルトを見上げるが


「彼女に付いていけ。戻ってきたら朝食だ」


 そう言うと、彼はくるりと背を向け歩き出す。


「え? ちょ、ちょっと……」


 引き止めようとした言葉も空しく、クルトはさっさとどこかへ行ってしまったので、残されたわたしはわけもわからずメイドに促されるまま屋敷の廊下を進む。

 いくつもの部屋の前を通り過ぎた後、一つのドアの前でメイドが立ち止まった。


「どうぞ、お入りください」


 その言葉に従い、開けられたドアを通り抜けると


「こ、ここって……お風呂……?」


 呟いた途端、背後で勢いよくとドアが閉まった。わたしは慌てて振り返る。


「あの、ちょっと? 開けてください!」


 ノブをがちゃがちゃと回すが、びくともしない。ドアの向こうからメイドの声が聞こえる。


「申し訳ございません。クルト様に『きちんと入浴するまで出すな』と申し付かっております」

「そ、そんな、困ります……! 出して! 出してください! わたし、お風呂なんて――!」


 どんどんとドアを叩くが、向こう側からはなんの返事もない。

 実のところ、わたしは入浴があまり好きではない。膝のあたりに少し目立つ痣のようなものがあるからだ。入浴のたびに、まわりのきょうだい達からその痣の事をからかわれ続けた結果、お風呂自体がすっかり嫌いになってしまったのだ。しかし、できるだけ水で身体を拭いているし、そんなに酷い状態ではないと思っていた。

 だけど、来て早々お風呂に入れだなんて……考えたくはないが、もしかして、他人からすると耐え難いほどわたしの身体のにおいが酷かったとか……? 学校で入浴できないわたしのために、クルトはここまで連れて来た? いやいや、流石にそんなはずはないだろう。ないと信じたい。しかし、現実問題今わたしは浴室に閉じ込められているわけで。メイドの言う事を信じるならば、入浴しないとこの部屋出してもらえそうにない。ここは覚悟を決めるしかないのだろうか。

 床に座り込むと、ささやかな希望を込めて再度ノブに手をかけるが、やっぱり扉はびくともしない。

 そういえば、においといえば、先ほどから浴室内には石鹸のものとは別のいい香りが漂っている。一体なんのにおいだろう?

 においの元を探して、おそるおそるバスタブを覗き込むと、ピンク色の何かがお湯にたくさん浮かんでいた。


「……これ、バラの花びらだ」


 手で掬い取ると、強いバラの香気が鼻腔をくすぐる。バスタブと花びらの取り合わせが、白とピンクのドラジェのようだ。


「きれい……」


 それにいい匂い。その時ふと、こんなお風呂なら入るのも悪くないかも、なんていう考えが思い浮かんだ。それに、今ならわたしひとりしかいない。痣の事をからかわれる心配も無いのだ。

 少しだけなら……そう、少しだけ入ってみようかな。




 思っていたより心地いい入浴時間を過ごした後、浴室を出て案内された部屋に入ると、円卓についたクルトがお茶を飲んでいた。

 わたしの姿を見るなり「ちょっとそこで回ってみてくれ」と言うので、その場で両手を広げてくるりと一回転してみせる。


「うん。急いで揃えた割には、まあまあだな」


 今わたしが身につけているものは、上等な生地でできたきれいなシャツにベスト、膝までの丈のズボンとソックスという少年用の服。それにいつものマフラーを巻いている。お風呂から出た後、これに着替えるように言われたのだ。


「この服、どうしたんですか?」

「お前が風呂に入っている間に用意させた」

「あの、わたし、この服の代金を支払えるようなお金を持ち合わせていないんですが……」

「必要ない。俺が勝手にやった事だから気にしなくていい。それより朝食が冷めるぞ」


 見ると、クルトの隣の席には一人分の食事の用意がしてあった。なんだかおいしそうな匂いもする。


「やった! もうお腹ぺこぺこだったんですよ。嬉しい」


 いろいろ訪ねたい事はあったが、これ以上の空腹に耐えられないわたしの身体は、それを後回しにしてテーブルに駆け寄った。


「うっ……」


 卵料理を口に運んだ途端、わたしは言葉を失う。クルトが怪訝そうな視線を向けてくる。


「どうかしたのか?」

「おいしい……こんなおいしいもの食べたの、生まれて初めてです……」


 クルトが小さく笑う。


「大袈裟だな。でもまあ、正直、俺も学校の食事よりは美味いと思う」


 その言葉にわたしは無言で頷く。学校で出される食事も、わたしにとっては今まで口にした事がないほど美味しいと思っていたのだが、目の前の料理と比べるといくらか劣っていると感じてしまう。

 クルトの家ではこれが普通なんだろうか。うーん、羨ましい。

 一口目の感動が過ぎると、急に空腹感が主張してきて、わたしは黙々と料理を口に運ぶ。

 やがてあらかた食べ終わり、お腹が落ち着いたところで、疑問に思っていたことを口にする。


「ねえクルト、わたしをお風呂に入れたり、こんな服を用意してくれたり、一体何がしたいんですか?」

「あまり酷い格好だと体裁が悪いからな」

「……どういう意味ですか、それ」


 するとクルトは持っていたティーカップをテーブルに置き、改まった口調になる。


「実は、お前に頼みたい事があるんだ」

「もしかしたらそうじゃないかと思いましたけど……でも、それがここに連れて来られた理由と関係あるんですか? 頼み事なら、学校で言ってくれたらいいのに」

「それは……お前に逢わせたい人がいて、その人の頼みを聞くことが、俺の頼みだからだ」


 うん? なんだかややこしい。しかし、その「逢わせたい人」というのは一体誰なんだろう?

 わたしが聞き返そうとしたその時、部屋のドアが開く音がした。

 視線を向けると、入ってきたのは二人の女性。一人は車椅子に腰掛けていて、もう一人はそれを押しながら進んでくるメイドだ。

 それを見た途端、クルトが立ち上がる。


「おはようございます、ねえさま」


 お姉さん? クルトの?

 突然の出来事に呆気に取られていると、車椅子の女性が口を開く。


「おはようクルト。そちらの方がクルトのお友達?」


 慌てて立ちあがろうとするわたしを手で制す。


「あら、いいのよ。そのままで。クルトがお友達を連れてきているって聞いて、私、早く逢いたくなっちゃて。どうぞ、お食事を続けて」


 そう言ってふわりと微笑むと、そこだけ光が差し込んだように錯覚する。それはいつか見たクルトの笑顔とよく似ていた。

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