椿

@maihamarin

第1話

 穏やかに凪いだ群青の海の色に透明色を掛け合わせたかのような青き空の中、海鳥が飛び、白き雲が流れていく。

 日の光は波面を照らし、そこに行き交う船の道標を描いている。

 多くの船が海面に浮いている中、周囲の船を威嚇しているかのごとく存在感を漂わせながら港入りする船がある。

 遠く西の国から来た船であった。

 ――長崎。

 唯一、欧州との交易が行われているその場所は、どこの藩にも属さず異国の文化を吸収した稀有な街である。

 布教を禁じられているキリスト教の活動も黙認された形となっており、表向きは集会場で、人々には天主堂と呼ばれている教会が存在するなど、公式文書には残らぬ、残せぬ歴史の中に埋没していくものがそこにあった。

 交易国は、宗教と商売を混同させないと約束したオランダである。

 そのオランダを通して様々な国の出身の者が出入りをし、それぞれ異なる言葉を話し、外国人居留地に居住する「異人」と呼ばれる者たち相手に商売を行うのであれば、町民も言葉に精通する必要があり、その習得が求められた。

 町には厳重な警備体制が敷かれ、出入りするには特別な許可が必要であり、そんな閉鎖された環境がゆえに独自の文化を形成していくこととなった。


「織江様!」

 外国人居留地で華やかに装った娘が息を弾ませながら小走りをしている。

 本来、居住地には長崎町民が入ることは禁じられており、だが、表向きの規則とは別に許可証を入手すれば自由に出入りが可能で、交流も盛んに行われていた。

「織江様! 私、とても驚きましたのよ!」

 声をかけている相手は、本陣蒔田屋のひとり娘で外国人居留地に勉強のために共に通っている親友である。

 週に二度通うその場所は、数軒ほどしかない日本の家屋とはまったく様相が異なる館が並ぶ中の、建てた主人の名前をそのままにガーリア邸と呼ばれているものである。

 居留地とはいえ、衣食住が十分にまかなえるほどの町が形成される広さはない。

 西洋人が住むだけの為に埋め立てて作られたそこは、建物が何度も建て直され、門構えもなくただ住宅が並んでいた時もあれば、門や庭のある豪奢な邸宅として居を構えたこともある。

 ガーリア邸は、オランダ商館と迎賓用に建てられた館に次ぐ立派さを誇る館である。

 日本人が好みそうなものを的確に仕入れるガーリアの商才にはオランダ商館の商館長「カピタン」も頼るところが多く、次席「ヘトル」の立場に甘んじているガーリアの専横を見て見ぬ振りをしていた。

 そのガーリアの妻のユリアは、講師を務めており、主に婦女子に語学や行儀見習いを教授している。


 織江は、ガーリア邸の門をくぐったところで声を張り上げている学友を眩しそうに見る。

 いつも驚く話を提供してくれる話題の宝庫とも言うべきその友人は、裕福な商家の娘で、派手な牡丹模様の着物に歩く度に揺れる金と銀の光るかんざしを挿し、いかにも金に糸目をつけぬような身なりは洒落者の見本のようで、それらを纏う整った面差しは飾っておきたいほどに麗しいものである。

 町を歩けば、身分を問わず殿方の視線は釘付けになり、本人もそれを自覚するところがあり、わざと目立つ恰好をしていた。

 そんな着飾った友達を見てくすりと笑う。

「ご機嫌うるわしゅう、華子様。今日もお綺麗ですこと。道中さぞかし皆様の注目を集めていらっしゃったのでしょうね」

 武家の娘の言葉遣いをするよう躾けられてきた口調でそう言うと華子が吹き出すように笑う。

「織江様がその地味な振袖をおやめになったら私など足元にも及びませんわ」

 確かに華子に較べれば地味に見える梅木模様の振袖である。

「私はこれで十分派手だと思っておりますの。それで? 本日の驚きのお話とは?」

 華子が顔をぱっと輝かせる。

「ええ。それがね、先生にお客様がお見えなの!」

 そう……、とあまり驚くことはしなかった。

 交流関係が幅広いガーリア夫人のところには年中客が訪れていたからだ。

「驚くのはその容姿よ! 若くてとてもお美しい殿方なのよ!」

 心の中で、なんだ、とがっかりする。

 白人の男性を美しいと感じたことがなかったからだ。

 透き通るような瞳に高い鼻、太陽に反射するかのような髪の色などそれに魅力を感じず、それならば切れ長の凛々しい瞳をお持ちのお武家様の方が……、と顔を赤くする。

「華子様がそれほどおっしゃるのならばさぞ秀麗な御方でしょう」

「あのような方は初めてよ。織江様も見たら驚くわ。見惚れておしまいになってよ」

 そんな興奮したその口調に呆れた顔をする。

「私は異人さんより…」

 とにかくお会いになればわかるわ、といいながら、華子は両手を両頬に当てる。

「華子様。そのようなことを大声でおっしゃっていたら許婚の方のお耳に入ります」

 そう言われて華子が艶っぽい笑みを浮かべた。

「うふふ。それはそれ、これはこれですわ」

「まあ。華子様ったら」


家屋の扉にある呼び鈴を押すと、執事が扉を開ける。

 その瞬間、中から風が吹きぬけ、強すぎる風に目を細める。

 吹き抜けになっている玄関ホールは二階の部屋の窓を開ければ風通しがよく夏も涼しく過ごせる場所である。

 ユリアが優雅な足取りで臙脂色の裾を引き摺るドレスを揺らしながら二人を迎えた。

 織江が英語で決まり文句の挨拶を交わしていると、華子は挨拶しながらも目は違う方向を見ている。

 あからさまなその客人を探している態度に、肘で小突くが、華子が気にも止めずに流暢な英語で話し出した。華子も優れた語学習得力を持っていた。

「あの、先生。先日父の使いでお邪魔した時にいらした方は、まだいらっしゃいますの?」

「え?」

 ユリアが一瞬なんの事かという顔をし、笑い出す。

「ああ。なんとまあ、日本に着いて日が浅いというのにもう追われているなど、さすがというか何というか…ほほほほほ」

「……そのような意味ではありませんわ」

 むくれる華子にユリアがにっこりし、貴方がたは殿方に関しての勉強はまだ早いですね、と言いながら教室にしている広間に向かう。

「あの御方ならいません。すでに京に向かいましたから」

 ユリアがほほほほと笑うと、華子は真っ赤な顔をした。

「残念でしたわね。華子様」

 片目を瞑りながら自分の席につくと、華子がつんとして鷹揚に座った。


 *****


 十五歳から二十歳までの十名程の女子が集まる学舎は、希望すれば誰でもが通える場所ではなかった。

 身分の枠を取り外して混在させるという試みをし、それよりもその教育をうけるだけの素養を備えているかどうかというユリアの面談に合格した者というものだった。

 ガーリア邸に通っているというのはそれだけで箔がつき、武家や大店との縁談等、家の格が一気に上がる様な話が寄せられるほどで、それに選ばれた織江たちは格別に思われ、町の女子の羨望の的であり、男子の噂話としてよく話題に上がっていた。

 ユリアは、西洋式のテーブルマナーを身につけさせるため、昼食は西洋料理を一緒に食べ、午後はお茶会とし、会話の仕方などについても細かに指導していた。

 決して自慢話に終始しないこと。

 人の話には首を傾げながら頷き、話をしている人に微笑みかけること。

 話を中断させるようなことはしないこと。

 同じ話はしないこと。

 それらをくどくど言われると、皆は何の話をしているのか、何を話していいのか、困惑してしまい、つい無口になる。

 するとユリアが手を叩き、場が盛り上がるような話題を提供するのも貴婦人たる役目ですと叱りつけるのだった。

 そんな中で、率先して行動できるのが華子だった。

「私の父は、常々、女は男に従うべきだと申しておりますの。それはいかがなものでしょう、皆様」

 華子の言葉を聞いてユリアが優雅に微笑む。

「私の国でもそのような話は絶えません。日本の子女がどのように思うのか興味があります。さすがハナコですね。では、皆さん、ご自分のご意見をどうぞ。そうですね、ヨリコから」

「はい」

 まだ最年少の十五歳の庄屋の娘、語学が苦手な頼子が拙い英語で話しだす。

「それはその通りだと思いますわ。母はそれが家を支える事になると申しておりますもの」

「お母さまのおっしゃることはとても大事ですね。では、タカコはいかがですか」

 最年長の二十歳の来月祝言をあげることが決まっている全ての教科で最も成績優秀な武家の貴子が、神妙な様子で立ち上がる。

「私は……、殿方に従うのではなく、男子も女子も家に従うのだと思っております。ですから、私は嫡男の弟にも従いますし、もしこの先、姑に厳しく言われたとしても耐えられると思うのです。それは武家や商家に関係なく人の営みを支えるものではないでしょうか」

 その意見を訊いて、頼子が感嘆したような顔をした。

 だが、織江は、自分はあまり意識したことがなかったと思った。

 宿を営む家では、母は女将で、父は店主であり、互いが同等のように見えた。男に従うように躾けられた事も無く、父と母は対等なのが当然のように思っていたからだ。

「……あの」

 皆が一斉に注目する。

「はい。オリエ。どうぞ」

「あの……、従うのではなく、男女互いに支え合えばよいのではないでしょうか」

 恐々とそう言うとユリアがそれは夫婦として理想的ですね、と言った。

 華子がうふふふと笑い出す。

「織江様らしいわ。私はいやです。従うのも支えるのもいや」

「え? 華子様はどうなされたいの?」

 華子は持っていたティカップをテーブルの上に置き、ふうと息を吐いたのち立ち上がった。

「私が従えさせるの」

 え……、とその答えに良妻賢母を目指している九人の女子は顔を強張らせて黙り込んでしまった。

 重くなった空気を吹き飛ばすかのようにユリアがパンパンと手を叩く。

「はい。そこまで。なかなか良いお茶会となりました。では、少し休憩した後、ダンスの練習です」


 *****


 講座の内容としては、語学、文学、音楽、ダンス、手芸、料理、そして看護と多岐に渡り、これらを完璧に覚えられたら王侯貴族のどんな婦人に負けないとユリアは豪語する。

 ユリアは没落した貴族の出身だった。

 本来、渡来する西洋人は男子単身が義務づけられており、ユリアも日本行きを望まなかったが、夫のガーリアに強制され、帰国する日はなかなか訪れなかった。

せめてもの鬱憤を晴らすかのように幼き頃から培われた教養を吐き出していたが、教育の面白さに目覚め、天職を得たような気がしていた。

 武家の子女だけの教育としなかったのは、貴族ではなくなってしまった自分の身の上から決めたことであり、身分の差を意識したくないと思っていたからである。

 身分の垣根を超えて学友同士が良い関係を築いているのも有意義なものと思っていた。

 休憩時間には、生徒達は中庭で花を愛でることが多かった。

 薔薇の苗木を多く本国より運び入れ、庭園を整えていた。

 西洋の文化の伝承にも一役買っているという自負も自分を支えるものであった。


「驚きました。華子様があのように思っているなど」

 織江がそう言うと華子が愉快そうに笑う。

「私、皆様がどのようなお顔をするか見たくて言ってみただけなの」

「まあ……」

「織江様は、なにゆえ疑うということをなさらないの?」

「疑う?」

「ええ。私が皆様の本音を聞き出すためにわざと言っていると」

「なんですって?」

「貴子様は嫁ぎ先で厳しいことが待っていると察していらっしゃるのね。実はね」

 耳打ちするように唇を近づける。

「私、あれを言った時のユリア先生の意見を訊いてみたかったのです。ユリア先生が殿方に対してどのように思っていらっしゃるのか、殿方とどのようなお付き合いをなさったことがおありなのか」

 美しい微笑みを向けながら言った。

「そ、それはとても悪趣味ですわ。先生にそのようなことを突きつけようとなさるなど恩師を冒涜する行為です」

「織江様。私、ガーリア様はご立派な方だと思いますが、ユリア先生とお似合いとは思えませんの」

 商才のあるガーリアはその見事な手腕を発揮し、財を着々と蓄えているという。

 だが、その容姿は確かに美しいとは言い難かった。

「この間お会いした御方の方がずっとお似合いでしたわ。ああいう御方がユリア先生に相応しいと思いますの」

「華子様。それは余計なお世話というものです。先生はとてもお幸せそうですし」

「けれどもお逃げになりましたわね。よろしくて、織江様。こういう駆け引きが必要なのよ。特に殿方に関しては」

「何をおっしゃるの? 私は婿を取るのですから、駆け引きなどの必要はありませんわ。家に入って、共に仕事をしていただければ」

「ふふふ。それではまるで仕事仲間ですのね。男と女はそのようなものではないと存じますわ」

 さも経験豊富であるかの如き艶っぽい笑顔を浮かべた。

「私の父と母は少なくともそうです。華子様は何もご存知なくていらっしゃるでしょう」

 強い口調で言うと、華子が驚いた顔をしたのち、ふっと笑った。

「そうよ、織江様。それでいいのよ」

「え」

「そうしてもっとご自分のお気持ちを言葉に出された方がいいわ」

 華子一流の意地悪なのだった。

「……華子様はひどい御方です」

「親切とおっしゃっていただきたいわ。織江様は何もかもご自分の中に背負いこもうとされるところがおありになるのですもの。そうして人に意見されるのも大事なことですのよ」

 してやられた……、織江はそう思った。

いつもこうして華子に乗せられてしまうのだった。

 強い視線を華子に向ける。

「私は、私が思うように過ごしているだけです。自分に与えられた役目の為に。私は家の仕事を継ぐ必要がありますので、早く一人前になりたいと望んでいます。夫となる人がその為にあるのならそれを受け入れるつもりです」

「はあ……。そうね、それが織江様ね。ああ。私がいかに我が儘かと情けなくなるわ」

「それが、華子様ですもの」

 まあ、織江様ったらひどいわ、と言いながら華子が頬を膨らました時、ダンスの音楽が広間から流れてきて、時間ですよ、とユリアの声が聞こえてきた。

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