ニート・ミーツ・魔王


 魔王だ。

 


魔王がいる。



 友也はその日、人生最大の(そして下手すると最後の)ピンチを迎えていた。



「おぬし、どうしてそう黙り込んでおるのだ。ここはカフェであるぞ。余の編み出したメニューが酷く心惹かれるものであり、どれにしようかなとついつい悩んでしまうのは分かるが、いい加減に腹を決めよ。おぬしとて、今宵このような時刻に我が城(このみせ)に訪れた以上、望むものがあるのであろう?」

「は、はぁ……」



 いつまで経っても注文をしようとしない友也にいい加減痺れを切らしたのか、なにやら黒くてデカくて邪悪そうで、ついでになぜか角と牙が生えている、限りなく魔王ぽい店員らしき人物(あるいは限りなく店員ぽい魔王らしき人物)が、やれ決めろそれ決めろと、接客業にはまこと相応しくない、王者の如き圧倒的な威圧感を撒き散らしつつ急かしてくる。が――



(決められるわけねぇだろ……)



 その迫力に押されるように一層縮こまりながら、口には出さず胸中だけで呟いた。確かにメニューはどれも美味しそうだ。この目の前にいる黒くてデカくて邪悪そうな魔の化身ぽいのが考えたとは到底思えないような、キャッチでポップなフレーズの数々。これほど魅力的な文句であればなるほど、来る客がどれにしようかなと悩んでしまうのも分からなくはない。だが、だがしかし。いま友也が頭を悩ませている理由は、そんなことではなかった。



 確かに、望むものはある。ここ最近、節約のために袋ラーメンぐらいしか食べていない。誰かの作ったまともな――たとえその相手が魔王とはいえ、いやそもそも魔王が作った時点でまともかどうかも怪しいが、とにかく手作りの――料理。それも、こんな美味しそうなメニューの数々ともなれば、是非とも食べたい。が、彼にはどうしてもそれが出来なかった。その資格がなかった。なぜならば……



(だって俺、財布の中カラッポなんだもん……)



 本来ならば、素直に頭をさげてさっさとこの店から退場したい。だが、なんか黒くてデカくて角が生えているような魔王が相手では、怖くてそんなことも言い出せない。



(ど、どうしよう……)



 この店に足を踏み入れたことを深く深く後悔しながら、友也はなぜこんなことになってしまったのかを考えていた。




  ◆◇◆◇◆◇◆◇




 その日、友也は酷くついていなかった。



 ついに失業保険が切れてしまったのだ。



 定職にこそついていないが、彼はニートというわけではない。いや、確かに仕事はしていないが、少なくとも働く気はあるのだ。そのために、ハローワークにもちゃんと通っている。



 しかし就職して一年で退職した若者に、世間は想像以上に冷たかった。正確に言うと、世間はともかく再就職の道は冷たかった。一度の挫折程度で未来ある若者を容赦無く切り捨てる社会。この国の未来が非常に危ぶまれる世の中である。



 そもそも彼が仕事を辞めたのだって、別に上司とトラブルを起こしてだとか、社会人生活が嫌になってだとか、よくある軟弱な理由ではない。



 その年、彼の大切な家族が行方不明になったのだ。



 もちろん、彼は必死に捜した。新人に使える有給なんてものは限られていたが、それを使い切って方々探しまわった。ネットで拡散希望もし、警察にも届け、寝る間も惜しんで駆けずりまわった。



 しかし、残念ながらどれだけ捜しても家族は見つからず、おまけに友也自身も無理がたたって身体を壊してしまった。会社を休もうにも有給はとうに使い切っており、結局そのまま退職を余儀無くされた、というわけである。



(別に横領したとか、仕事サボったとかいうわけじゃないのに、酷すぎる話だよな。そりゃ、入社したての新人の分際で、連続で三週間ぐらいいきなり休んだけど。だってそれは仕方ねーじゃん。あの子がいなくなっちゃったんだから……)



 それでもせめて、大切な家族さえ見つかればまだ救いもあったのだが。結局、その後もどれだけ捜してもあの子は見つからなかった。ああ、俺の可愛いピー子。こんなことになるなら、あの日鳥カゴ掃除なんかするんじゃなかった。その上、たまたま窓まで開いていたなんて。あの空の向こうに旅立った君は、今頃どこでなにをしているんだろうか?



 そんなわけで、友也は大事な家族と共に仕事まで失ってしまったのだ。



 もとより、会社勤めを始めて一年目の新人だ。さほど貯金もあるわけではない。それでも彼は、派遣やバイトでちょこちょこと稼ぎつつ、可能な限り節約をしながら頑張った。たとえ食うものに困ろうと、面接用のスーツとシャツだけは、いつもクリーニングに出したものを用意しておいた。なのに。



 せっかく久しぶりに二次面接までこぎつけた会社。給料は前に比べて多少落ちるが仕方ない。この際贅沢は言ってられぬと、張り切って挑んだ大本命の面接で。



『……残念ですが、弊社ではあなたの持つスキルが活かせる環境だとは思いません。他をお探しになられた方がよろしいと思いますよ』



 似合いもしない眼鏡面の面接官は、あっさりと――本当にあっさりとそう言い捨てて、彼の未来を打ち砕いたのだ。



 確かに、その会社の業務内容は以前の職場とは全然違う、だが、このところ何度も一次落ちしていて、やっと二次まで辿り着いた会社。うまくいけば、先の見えないこの生活にようやく終止符を打てると期待していただけに、彼の絶望は大きかった。一瞬、息をすることも忘れてしまったぐらいだ。



 その後、どうやって面接会場を出たのかは覚えていない。



 だが、気づくと友也は面接用のシワ一つない綺麗なスーツ姿のままで、ひとけのない夜の道をふらふらと一人で歩いていた。



 仕事もない。

 


金もない。



 家族(セキセイインコ、3歳)も、もういない。



 なんなんだ。なんだったんだ俺の人生は。



「は、は……」



 この手の中は。呆れるほどにカラッポだ。財布にだって、ロクに金も入っていない。一体いつまで、こんな生活が続くんだろう?



 いや、いつまでも続けられるとは思わない。貯金もないし、失業保険だって今日切れた。実家に帰っても仕事がないのは分かってる。そもそも、帰ろうにも部屋がない。家には姉貴がお婿さんと姪っ子と共に居座っているはずだ。



「すっげ……俺の人生って、こんな簡単に、詰んじゃう程度のもんだったんだなぁ……」



 一体どこで間違えたのだろう?



 夜遅い時間だが、周りを見渡せばそこは宅街。暖かそうな灯りがポツポツとついている家もある。あの灯りの下にはきっと、そこで暮らす人々の生活があるのだろう。



 家があって。

 家族がいて。

 飯にも困らず。



 不満はあるかもしれないけど、それでもキチンと仕事もあって。



 そんな当たり前の、失うことなんか考えたこともないような、平凡でかけがえのないものに囲まれて、不幸でも幸せでもない、満たされた生活を送ってるんだろう。



 なのになんで。なんで俺は。



 こんな時間に。こんな場所で。まるで仲間外れの祭りのように、一人で歩いてるんだろう。



「なんか……もーやだ」



 もう、嫌だ。



 ポツリと漏れた呟きは、しかし紛れもない彼の本心だった。



 心の底からの、彼の言葉だった。



 だから、きっと血迷ったんだ。



 他所の家の灯りと、幸せそうな家と、美味い飯と、今の俺にはない何もかもが羨ましくなっただけなんだ。



 食い逃げを、してやろうなんて。そんなことを、思いつくべきじゃなかったのに。




「真夜中カフェ(元)魔王……?」




 灯りの消えた住宅街。静まり返った暗い夜道に、ポツンとまるで場違いな迷子のように、その店はあった。木造住宅の二階建て。外見だけなら、さして広くもない、ごく普通の一軒家である。造りの古そうな木の扉。その上にちょこんとかけられた看板と『Open』の掛札。暗くひとけのない住宅街の中にあって、まるでそこだけが童話の世界を切り取ってきたような、可愛らしい印象の店だった。森で迷っていた白雪姫が、見つけ出した小人の家。家を追い出されたヘンゼルとグレーテルが辿り着いた魔女の家。そんな非日常感を彷彿とさせる、小さな店。

 


厚みのある硝子窓から、暖かそうな光が漏れている。真夜中にあって主張し過ぎない、それでも確かに存在を感じさせる光。



 誘蛾灯に吸い寄せられる虫のように。友也はその店の扉を開けた。





  ◆◇◆◇◆◇◆◇





「こんな時間にカフェなんてやってるんだなぁ……」



 古ぼけた木製の扉をまじまじと見つめて、友也は感心したように呟いた。



 小さな店だ。扉は最近では珍しい、本物の木製。硬く重厚な質感で、小窓もついていないため中の様子は窺えない。代わりに、横の壁には覗き防止用のレースのカーテンがかかった窓があった。



 よほど目の細かい生地なのか、薄ぼんやりと影は分かるものの、細かい様子まではハッキリしない。それでも店内にはロクにひとけもないことは分かった。見えたのはせいぜい、店員らしき人影が一人分だけだ。



(そりゃそうだよな。こんな時間に店を、しかも住宅街なんかで開いても、大して客が集まるとは思えねぇし。おおかた、どっかの酔狂な人間が趣味で始めた店ってとこだろ)



 だとすると逆に、丁度いいのではないか。



 これでも昔から瞬発力には自信がある。学生時代は陸上部だったのだ。客が一人もいないような状態だったら、好きな席を選べるだろう。一番扉近くの席につき、食べ終わったらダッシュで逃げる。こんな真夜中じゃ大声をあげて呼び回っても、誰かが駆けつけるとも思えないし、なによりこの夜の闇が自分の味方になってくれるはずだ。



(なんか、メニューも美味そうな感じだし……)



 ちら、っと表に立てかけてあるメニューを見ると『口の中でほろほろ蕩ける柔らかさ! 牛スネ肉の本格シチュー!』だの『寒い夜にはやっぱりこれ! お野菜たっぷり特製ポトフ!』だの、やたらと食欲をそそる文句が書き連ねられている。思わず喉がなりそうだ。



(よし……行くぞ!)



 友也は、これでも今まで人生を真面目に生きてきたほうだった。



 酒は飲むけどタバコはしない。万引きだってしたことはない。二十四年間の人生の中で、そりゃ少しはヤンチャもしたけど、少なくとも人様や世間に顔向けの出来ないようなマネは一切したことがなかった。



 そんな真面目な彼であっても、世間は助けてくれなかった。



 俺は何もしてないのに、誰も助けてくれなかった。



 だから、もういい。



 世間が何も与えてくれないのなら。誰も救ってくれないのなら。



 この世界にどこにも優しさがないのなら。俺だっていつまでも律儀に『いい奴』でいる理由なんてない。



 友也は決心して、一世一代の勇気をこめて、店の取っ手に手をかけた。



 それが、最大の後悔になるとも知らずに。







 ギィ……と、見た目どおりに重々しい音を立てて扉を開ける。中からこぼれてくるのは、明るい光と暖かい空気。夜の冷たさに慣れた自分にはありがたい。そして――



「!?」

「ほぅ……客人か。このような夜更けに、良くぞ来た」





 なんか黒くてデカくて禍々しくで邪悪で、角と牙が生えた魔王っぽい青年からの、歓迎の言葉だった。





「――え?」



 思考とともに。

 全身が一瞬で硬直する。



 人間、本当に驚きすぎると、動けなくなってしまうのだということを、この日友也は始めて知った。驚愕のその更に先にあるものは、パニックでもヒステリーでもない。思考の停止だ。少なくとも、この時の彼はそうだった。溢れかえる情報量に処理能力が追いつかず、安全弁が作動する。それがゆえの、思考停止。



「どうした? 今時分、外の風は冷たかろう。そのようなところにぼさっと突っ立っておらずに、扉を閉めてとっとと中に入るがよい」

「あ、はい……」



 思考を放棄してしまった彼は、だからただの動く肉に過ぎない。言われるがまま、ノロノロと素直に扉を閉める。頭の中のどこかにある冷静な部分は、今すぐもう一度扉を開けて振り返らずにダッシュで逃げろ! と的確な指示を飛ばしていたが、残念ながら行動の伝達回路が一時的に遮断されてしまった今の友也では、その指令に従うことは出来なかった。あげく「入口付近は冷えるゆえ、席はここでよいな」と強気上から目線で指図されてしまえば、自動人形と化した彼は「はぁ……」と素直にその命令に従うことしか出来ない。その上さらに、腰掛けた席にコトリとお冷まで置かれてしまっては、もはやどう足掻いても席替えなど言い出せない。



(え? え? これってなん――え?)



 湧き上がる動揺にまたしても冷静な思考を阻害されつつ、なんとかこの状況を客観的に理解しようと脳のCPUをフル回転させる。だが、何をどこからどの角度で解析しようとも、目の前にある現実は何一つとして変わらなかった。暖かな店内。カウンター奥にいる、絶対にフェイクじゃないっぽい角と牙が生えた、エプロン姿の激烈に魔王っぽい青年。その対面に座ってる自分。一人もいない他の客。そして今の俺の財布の中身(全財産)はなんとビックリ三十一円。



(オワタ……)



 冷静に現実を分析し終えて。



 友也は胸中で静かに認めた。詰んだ。完全に詰んだ俺の人生。



 禁断の扉を開け、この店に足を踏み入れてしまった数分前の自分を罵りたい。むしろ殴り殺したい。どうして、どうして食い逃げなんてことを思いついてしまったのか。そしてよりにもよって、どうしてそのターゲットに、こんな黒くて禍々しくて極めつけに邪悪そうな存在がいる店を選んでしまったのか……!!



 こんな凶悪そうなのがいる店で食い逃げをするぐらいなら、いっそコンビニ強盗でもしたほうがよっぽどマシだ。明るくても、ひとけがあっても、コンビニに魔王はいない。たとえ警報や監視カメラがついていようと、頭からナチュラルに角の生えた店員はいない。なんで、なんで俺は潔くコンビニ強盗の道を選ばなかったんだ!?



 それとも、もしやこれは、食い逃げという許されざる大罪を犯そうとした自分への天からの罰なのだろうか? 天網恢恢疎にして漏らさず。たとえ人目のないところで犯罪を犯そうとしても、神は、天は全てを見ているというのか!? だったらこうなる前に仕事くれよ神様! 俺はちゃんと就活してただろぉ!?



 冷静になろうと頑張った結果、一周回ってもはや思考が暴走しかけ、天に向かってなにやらよく分からないクレームを入れ始めた友也に、魔王(ぽいもの)が声をかけてきた。



「おい、おぬし」



「は、はい!?」



「何を一人でブツブツ言うておるのだ。そんなことより、さっさとメニューを選ぶが良い」



「あ、はい。どうも……」



 初対面の(現時点では)客に対して、驚くほど尊大な物言いだが、これだけ圧倒的なオーラを備えた相手だとはまりすぎていてもはや怒りも湧いてこない。むしろ反射的にこちらが土下座してしまいそうになる。友也は言われるがまま、素直に差し出されたメニューを覗き込んだ。セットメニューに単品メニュー。デザートにドリンク。決して種類が多いとは言えないが、それでもどれもこれも目移りするほど魅力的なメニューの数々。そのわりには比較的良心的というか、リーズナブルなお値段設定。だがしかし。



 どんなに目を皿にしようと、友也がどれほど天に奇跡を願おうと、やっぱり渡されたメニュー表の中に三十一円の商品はなかった。分かっていたことだけどやっぱりなかった。あればいいのにどうしてもなかった。一番安いメニューでも、パン単品で百八円。



(ど、どうすればいい……!? どうすれば……)



 内心の動揺を悟られぬようにと、メニューを眺めるふりをしながらこそこそと顔を隠す。せめて、せめて他の客さえくれば……!



 きゃーくよ来い、はーやく来い、と動揺を押し殺すべく童謡を替え歌にしてひっそりと歌ってみるが(ただいま絶賛大混乱中)、当然のごとくそんな都合のいい存在は現れなかった。どうやら、友也に召喚魔法の才能はないようである。なぜだ。魔王が存在するという異空間であれば、たかが普通の人間の召喚ぐらいごく自然に行えてもおかしくないはずなのに。なぜだ。



 友也が答えの出ない謎にうんうんと悩んでいると、魔王は「ちなみに、本日のオススメはビーフシチューである。地獄の業火にて三日三晩火責めを続けた力作よ」と、聞いてもいないのに親切なアドバイスをしてくれた。調理法が軽く何かの拷問のように聞こえてくる点にはこの際目を瞑ることにした。



 そんなことより――



(に、逃げられない……)



 ちらりとメニューごしに窺うと、血色の瞳でこちらをしかと見つめたまま、魔王(ぽいもの)が今か今かと注文を待ち続けているのが見えた。せめてちょっとよそ見でもしれくれればと思うものの、そんな様子はまったくない。むしろ、こちらの一挙一動全てを見逃してたまるかとでも言いたげに、じっとこちらを見つめている。完全に獲物を狙う眼差しだった。



(が、ガン見されてる……)



 ひょっとして、本人(人?)にはそんなつもりはないのかもしれない。ただ単に、いつまでたっても注文しない客人を、じっと待っているつもりなだけかもしれない。だが、デフォルトと言い張るにはあまりに鋭すぎる眼差しに晒されてしまっては、たとえ自分のように疚しいところがない客であれ、落ち着いてメニューを選ぶことも出来ないのではないだろうか。



(にしても、くそっ――どうする? どうする!?)



 と、ここまでが今までの経緯。



 そして場面は冒頭に繋がり――






 友也はその日、人生最大の(そして下手すると最後の)ピンチを迎えていた。





  ◆◇◆◇◆◇◆◇




~魔王特製賄いご飯~



 プチプチした食感と喉越しが癖になる!? お夜食にもピッタリ! 栄養満点山かけ丼!



 ほかほか炊きたての麦飯に、たっぷり贅沢に山芋をかけた丼です! これ一つで栄養も満点! 疲れた夜には精のつく丼ご飯で、明日の元気をチャージしよう!




~作り方~



 生き物の寄り付かぬ山中深くにあるマンドラゴラ(呪草科ヤマイモ属)の根を、すり鉢で滑らかになるまで丁寧に擦り下ろす。引きこもりが多いマンドラゴラは、自宅(地中)から引き抜く時に悲鳴をあげて嫌がるので、本人(マンドラゴラ)に気づかれないよう、周りの土から少しづつ丁寧に掘っていくのがポイント。



 擦り下ろしたマンドラゴラに朝産みたてのコカトリスの卵、出汁を加えて、よく混ぜます。ムラがなくなるよう、まんべんなく混ぜること。



 混ぜ終わったら、土鍋で炊いた炊きたての麦飯、マグロのヅケを丼によそい、上からたっぷりの山芋(マンドラゴラ)をかけたら出来上がり!



 パリパリの海苔をふりかけて、温かいうちに召し上がれ♪



  ◆◇◆◇◆◇◆◇




「おぬし」



 迫力のあるバリトンボイス。さながらベートーベンの第九のごとき重厚なる低音からの呼びかけに、友也は反射的に背筋を伸ばした。



「はっ、はい!!」



「一体、いつまでそのようにメニューと睨めっこをしておるつもりか。おぬしも日本男子であれば、いい加減腹を決めい」



「あ、は、はい……そう、ですね。でも……」



「なんだ? それとも、もしやおぬし――」



 圧倒的な王者の風格に、まともな言い訳すら思いつかず、もごもごと口ごもる。そんな日本男子らしくない友也が癇に障ったのか、魔王(ぽいもの)の眼光が当社比一・八倍ぐらいにより鋭さを増した。



(まさかバレたか!?)



 そうだ。なにせ相手は、そんじょそこらのカフェ店員なんぞではない。笑う子も泣き、泣く子はいよいよ泣く恐怖の魔王だ。いや、本当に魔王かどうかはこの際置いといて、少なくとも魔王に匹敵するだけの迫力とビジュアルを備えている存在だ。とりあえず真実なんていう胡乱なものの探索は、どこぞの蝶ネクタイつけた年齢詐称小学生に任せておいて、角と牙とオーラがある時点で、魔王(確定)でもいいと思う。



 ともかく、魔王なのだ。自分のような矮小なる人類の考えなんぞ、とっくにお見通しなのだろう。いや、あるいは心の中ぐらい読めるのかもしれない。なにせ魔王なのだから。そのぐらい出来て当然だろう。むしろ出来ないわけがない。なんということだ。一体、どこで何をいくつぐらい間違って、このような人生の危機を迎えてしまったのか。いや、財布の中身が三十一円な時点で、社会人的にだいぶピンチではあったが、魔王に目をつけられるというのは、きっとそれ以上のピンチだ。



 どうするどうなる俺? 警察に突き出される程度ならまだいい。運が良ければ、人情家の刑事さんがカツ丼食わせてくれるかもしれないし。だが、だが、もしそうでなかったら? 魔王が人の世の法なんて、守る気がなかったら?



友也は急に背筋にぞくりとした寒気を覚えて、ちらりと魔王を見た。人間とは思えぬ耽美な顔。その口元からは犬歯と呼ぶには鋭すぎる、明らかに何人か(あるいは何十人かの)喉笛を噛みちぎってそうな物騒な牙が覗いている。気のせいか、飢えに煌めく邪悪な瞳が、値踏みするように友也を捉えた気がした。薄い唇が薄っすらと開き――



「もしやおぬし――なにかアレルギーでもあるのか?」



「いや、そういうのはないっす。ちょっとピーマンは苦手だけど、苦手なだけで別にアレルギーとかじゃないし」



「ならばなぜ斯様に惑う? おぬしが来店してよりかれこれすでに十五分。これはもはや優柔不断というレベルではないぞ」



「ええー。あ、はい。すんません」


 計ってたのかよ。とか。

 細かいなあ。とか。



 色々思い浮かぶ言葉はあったが、全部まとめて空気と一緒に呑み込むと、魔王は呆れ混じりのため息をつき「まあよい」と寛大なお言葉を下さった。



「今は他の客もおらぬゆえ、好きにすればよかろう。ところでおぬし、まことにピーマン以外に食べれぬ食材はないのだな?」



「え? ああ、はい。そうっす。でも、ピーマンも食べようと思えば食べれないことはないっす」



「左様か。ならばもしや、余の考案したメニューが気に入らぬということも――」

「ない! ないです! うっわー、スゲー美味しそうだなぁ! どれもこれも魅力的すぎてついつい迷っちゃうなぁいつまで経っても決めらんないなぁ!!」



 疑惑の視線を断ち切るように、声を張り上げ再びメニューと睨めっこすると、相手は「ふむ……」とか言いながら、くるりとこちらに背を向けて、なにやらごそごそ準備しだした。一瞬、チャンスか!? と思い、立ち上がりかけるものの、軽く重心を移動しただけで、後ろを向いたままの魔王(ぽいもの)から「厠は右奥の扉である。遠慮せず使うが良い」とか、気配だけで状況を察知するという、武道の達人みたいな特殊スキルを披露され、ああ、こいつは無理だ。と諦めて座り直した。



 逃げられない。



(くそっ……仕方ない、こうなったら――)



 食べることも、逃げることもかなわないのならばいっそ。



(覚悟を決めて、土下座しよう)


 

それが、男友也の下した最終結論だった。



 土下座で済むなら安いものだ。なんなら、より土下座をつきつめた完成形としての逆立ちを披露したっていい。男が簡単に頭を下げるな、下げる時は相手を選べと昔から親父にはよく言って聞かされたものだが、さすがの親父も謝罪相手が魔王ともなれば、諸手をあげて賛同してくれることだろう。



 そうとなったら、善は急げだ。友也が椅子を引こうとすると――



 コトリ。



「――え?」



 白いボウルが、カウンター越しに彼の目の前に置かれた。



「食べよ」



「へ? いや、あのこれ――」



「おぬしはどうも、優柔不断というか決断力に欠けるようであるからな。仕方ないので、余が自ら選んでやったのだ。これは、余の賄いとして用意しておいたもの。疲労に良く効く。栄養が不足している時にはうってつけよ。ありがたく食すがよい」



 目の前に出されたのは、白いボウルに入った山かけ丼だった。大きめの器にほかほかの麦飯が盛られ、その上から飯が見えなくなるぐらいにたっぷりとトロロがかかっている。続いて出てきた小鉢には、漬物と海苔の細切りが入っていた。これは、あとから好みで乗せろということなのだろうか。見かけによらず芸が細かい。



「どうした? アレルギーはないと言っておったであろう」



「いや、でも俺――」



「なんだ。まだ不満でもあるのか? それともおぬし、もしや――余の料理が食べれぬとでも申すのか」



「ワァすっげー美味そういっただっきまーす!!」



 日本人であれば想像もしないような上から目線の慈悲の押し売りに、頭を下げて辞退しようとしたところ、物凄い凶悪な目つきで睨まれた。



 視線だけで魂が凍りつくかと思った。



 絶対的な王者の眼差し。



 明らかに国家レベルで虐殺を行っていそうな目つきに、友也はよく躾けられたパブロフさん家のわんこのごとく、咄嗟に箸を握った。セリフに句読点を挟むことすら忘れて必死に握った。かつて小学生の学芸会で小川の役を演じた演技力でもって、可能な限り嬉しそうに歓声をあげた。



 それに、演技するまでもなくトロロ飯は彼の大好物だった。山と盛られた米の上に、一足早い初雪の如くとろりとした山芋がかかり、その中からまるで宝石のように鮮やかな赤身のヅケが覗いている。



 ゴクリ。



 演技ではなく喉が鳴る。ふうわりと空気を含むように盛られた米に、箸はすんなりと滑り込んだ。



 まずは、一口。



 ずるっ



 食べる、というより流し込む。



「!?」



 味が。

 驚くほどに濃い。



 いや、山芋自体になにか味付けをしてあるわけではない。あるにしても、出汁をほんの少し加えた程度のものだろう。なのに。




 この味の、力強さはどうしたことか。

 この味の、どっしりとした豊かさはどうしたことか。



 ずるるっ、ずるるっ、ずるる!



 本当は、金がないからと固辞するつもりだった。一口食べて、頭を下げて、ついで土下座でも決めたら、そっとダッシュで逃げ出すつもりだった。



 なのに。

 止まらない。



 もとより、腹が減っていたというものある。温もりに満ちた明るい部屋で、相手の視線から逃れるためとはいえ、美味しそうなメニューと睨めっこしていたせいで、空きっ腹がより一層刺激されていたということもある。



 だけど、決してそれだけでなく。

 止まらない。



 卵かけご飯は飲み物だ。しかしそれを言うならきっと、山かけ丼だって飲み物だ。



 トロロは箸でつまむとびよーんと力強い粘り気を見せるものの、一度啜るとそののど越しは驚くほど滑らかなだった。まるで本当の飲み物のように、ズルズルと勢いよく喉の奥、さらにその先に続く胃の奥まで流れ込んでいく。しかしそこで一旦飲み込むのをやめて噛み締めてみると、ふうわりと空気のようなふわふわのトロロに包まれた麦飯が、プチプチと歯で噛み潰される。その、至福の食感。



 うまい。



 それ以外に、なにも思い浮かばなかった。力強い大地の味。そこに時折光る新鮮なマグロの刺身が、この丼をただ優しいだけのものにせず、絶妙なアクセントを加えている。



 一口、一口とすするたび、身体に新しい力が漲ってくるようだ。



 気がつけば。



 返そうと思っていた丼はいつの間にか空っぽだった。



 あっという間に食べ尽くし、どさくさに紛れて新しく淹れてもらったお茶で、ほっと一息までついてしまったあとで、ほっこり寛いでいた友也は、唐突に正気に返って呆然とした。



 実に勢いのある食べっぷりが気に入ったのか、魔王(ぽいもの)も、なにやら満足げに頷いている。



「うむ。どうやらその様子だと口に合ったようだな」

「あの、俺――」



 山かけ丼は怖い。食後のお茶も怖い。もちろん、魔王はもっと怖い。だけど。



 そんなことよりも。なによりも。ここで恩知らずになるほうがよっぽど怖かった。



 そりゃあ、もともとは食い逃げするつもりで入った店だけど。だけどそれでも。



 こんな美味い飯を食わせて貰って、礼も言わずに逃げ出すような、そんな情けない人間にだけは、成り下がりたくなかった。



 友也は。



 まるで、告解室で懺悔する信者のように。慚愧の念に耐え兼ねて、魔王(ぽいもの)に首を垂れた。



「あの……すみません。本当は、もっと早く言わなきゃならなかったんですけど、実は俺――今、金がないんです。だから今日の代金もお支払い出来なくって……すんません! 食い終わった後でこんなこと言って、本っ当にすんません! 皿洗いでも、なんでもします! 舐めろって言われれば靴でも舐めます! だから、だから――!!」


 

切羽詰まった様子で、必死に頭をさげる友也に、しかし魔王(ぽいもの)は驚くこともなく、ゆるりと王者の余裕をもって首を振った。



「案ずるな。余は、最初に申したであろう」

「え?」

「これは余の賄いである。客人のために用意したメニューではないため、もとより料金を取る気などない」

「はっ――?」



 驚きに目を見張る。呆気に取られる思いでまじまじと相手の顔を眺めると、魔王(ぽいもの)は、その透み渡りすぎて逆に非人間的な美しい血色の瞳を、ふっと笑みの形に歪めて、



「皆まで言うな。分かっておる。そもそも余は、すでにその座を退いたとはいえ元魔王。人間相手に心の一つも読めぬわけあるまい。おぬしが文無しであることなぞ、一目見たときからお見通しよ」



 くっと誇らしげ且つ邪悪に語る様子に、友也の中に浮かんできたのは、ああやっぱり魔王だったのか。とか、やっぱり人の心とか読めるのか。という、さして意外性のない感想だったが。それでも、魔王が友也の財政状況を最初から見抜いていたことだけは、純粋に意外だった。



「……あの、だったらなんで俺にこの丼を出してくれたんですか?」



 おずおずと尋ねる。すると、魔王(確定)はごく当たり前のように応えてきた。



「たわけが。当然であろう? ここカフェで、訪れた者に食べ物を振る舞う場所だ。もとより、余は別に金を稼ぐためにこの店をやっているわけではない。あくまで、腹を空かせた哀れな民草に、美味くて栄養のある絶品の余の料理を振る舞ってやるために店を開いたのだ。金を持っていようと持っていなかろうと同じことよ。目の前の飢えた者に、食事一つ施してやれぬような狭量な者になった覚えはない」



「………………」


 

照れもせず、悪びれもせず。



 あまりにも堂々と、あまりにもまっすぐに、あまりにも当然のように語られた内容に、友也は一瞬言葉を失った。



 じんわりと、視界が滲みそうになるのを慌てて堪える。



 ほんの少し前まで自分を支配していた、自分の中に燻っていたどんよりとした冷たい思いが、するすると一気に溶けていく。

 


するすると。溶けて、消えてなくなっていく。


 心が。身体が。嘘のように軽い。



 やばい。

 泣きそうだ。



 この世界に優しさがどこにもないなんて。誰も助けてくれないなんて。



 俺はなんて馬鹿だったんだろう。



 確かに、世間は冷たかったかもしれないけど。誰も、救ってくれなかったかもしれないけど。



 でも、差し伸べてくれる人は確かにいた。



 いや、人じゃない。厳密に言えば人じゃないけど、助けてくれる魔王はいた。



「ありがとう……ございますっ……」



 言葉もない。



 だが、それ以外に言うことも思いつかず、友也は振り絞るような声でお礼を告げた。



「ありがとう、ございます! ありがとうございます!! 俺、俺、ここ最近、ずっとついてなくて……腹も、ここ来る前はすげェ減ってて……正直、もういろいろと、駄目かと思ってました……本当に、本当に、ありがとうございます!!」



 歯を食いしばり堪えようと思うものの、溢れる涙を止めることは出来ず、いい年してボロボロと大粒の涙を流す大の男。しかし魔王は慌てるでも驚くでもなく、淡々としたクールな声で、ただ「そうか」とだけ言った。



「うまい飯を食べ、腹が満ちれば不運も去ろう。おぬしに施してやった飯は、疲労回復にもよいことで有名だ。せいぜい明日への英気を養うがよい。そしてまた飢えるような羽目になったら、いつでも我が店を訪れよ。余は逃げも隠れもせぬ。いつでもここでおぬしを待つ」



 ――ただし、営業時間内だけだがな。



 まるで物語の英雄のように、ひどくかっこいいセリフを言いながら、その全てがもれなく台無しになるような、ニヤリとした邪悪な笑みを浮かべる魔王に。



 友也は、何も言わずまっすぐに頭を床に擦り付けた。



 謝罪ではない。ありったけの感謝を込めた土下座だった。





  ◆◇◆◇◆◇◆◇




 翌日。



 以前の日々が嘘のような爽快さで、友也は目を覚ました。



 冷たい夜気の名残を残す澄んだ朝の空気が、布団から出たばかりの肌に突き刺さる。が、今はそれすらも心地よい。逆に目が冴えたぐらいだ。



 別に、昨日までの日々と何かが変わったわけではない。相変わらず仕事はないし、相変わらずピーコはいない。昨日、なんかちょっと変わったカフェで、なんか黒くてデカくて邪悪そうな魔王に食事をご馳走してもらっただけだ。



 それなのに。



 今では身体中に力が漲っている。何か新しい感覚が目覚めたようだ。やはり食事は大切なんだぁ、しみじみ思い知った。



 そうだ。今日はちゃんと朝ごはんを食べよう。



 冷凍ご飯とそろそろ賞味期限の怪しい卵ぐらいしかないけど。



 それで、卵かけご飯でも食べて、また一から職探しを始めよう。



 何も終わってない。

 何も変わってない。



 何を一人で諦めることがある。俺の人生、まだまだこれからじゃないか!



 そうと決まったら善は急げだ。朝ごはんの前に、まず顔を洗おうと洗面台に向かう。なぜか、妙におでこが痒いのが気になった。



「……? なんか痒いなー」



 治りかけの傷口のように、むずむずとくすぐったく痒い。季節外れの蚊にでも刺されたかな、と鏡を覗いてみると――



 ――べきょんっ

「ん……?」



 聞きなれない異音とともに、視界が異様にクリアになる。視界が妙に高くなったような違和感。視野が一気に広がったような違和感。



 恐る恐る鏡を覗き。そして。



「っっっっっっっっ!?!?!?!?!?!?!?」



 友也は声にならない絶叫をあげた。



 その日、友也の額に第三のサードアイが開眼した。




  ◆◇◆◇◆◇◆◇




「そういえば――」



 店じまいの仕度をしていた魔王は、ふと思いついて呟いた。



「山芋は、疲労は疲労でも眼精疲労の回復向けであったが……まあ、あれだけうまそうに食っていたのだ。問題なかろう」



 そして、一人納得したように頷くと、店の外にCloseの看板をかけた。






 後日、早くも邪眼の使い方をマスターした友也は、その千里眼の能力を持って行方不明になっていたピーコを無事発見した。

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