リミテッドライト

舞島 慎

リミテッドライト

 舞台袖は独特の空気を持っている。

 高揚、緊張、焦り、不安、期待、充実感、等々。様々な感情が混ざったその空気は、観客席からでは絶対に感じることが出来ないものだ。

 自分自身、緊張してないと言えば嘘になる。なんとか今自分がすべき事を考え、動き、それでも自然と視線は舞台上へと向いていた。

 舞台上では、主役が観客の目を惹き付けている。

 光が降り注ぐあの場所に、今日、自分が立つ。

 そう、今日が自分にとっての初舞台なのだ。


「次の書き割り出てるな?」

「はい」

 先輩の声にうなづく。重ねた稽古とリハーサルで、流れは頭に入っているし、袖には台本と香盤表も置いてある。

 それでも声をかけてくれるのは、当然自分が初めてだから、ではない。

 誰でもミスはするもの。だから皆が確認し声をかける。それが決まりだった。

 劇団とはいえ商業ではない。当然団員の数は限られているし、所属していなくても手伝ってくれるボランティアの方々――主に団員の友人達――の手があっても、一人一役というわけにはいかない。

 大道具や小道具作りには、手の空いている人全員が携わっている。本番である今日も、舞台に立たない監督、音響、照明担当以外は、袖や裏で道具や衣装の用意をしている。それは主役等メインの人もそれは同じだ。

 一人で出来る事は多くない。皆で作り上げていくものだと、しみじみと感じていた。


 高校では部活に演劇部を選んだ。だがうちの演劇部は、お世辞にも良い環境とは言えなかった。

 体裁上人数を確保する必要もあり、名前だけの所属という人もいた。

 その影響もあってか、活動に参加している学生間での熱量の違いも顕著だった。

 そういう状況下だと、自然と派閥も出来上がる。強いリーダー格の存在は無く、両陣営から求められる同意の声に、ただただうんざりするばかりだった。

 そんな現状に嫌気が差し、入部数ヶ月をもって退部をした。なぁなぁな態度の部長に啖呵を切ってしまった以上、部に戻ることは不可能だろうし、したくない。

 ここで自分は一度、舞台に立つ事を諦めた。


 それからしばらくして長期休みに入り、暇を持て余していた。

 そんな時にふとネットの海を漂っていたところで、この劇団のサイトを発見し、そのページにあった「学生歓迎」の四文字を見て、稽古場へ飛び込み見学を申し込んだ。それが数ヶ月前の事だ。

 それから稽古もそれなりに積んできた。もちろん通しもこなした。

 それでも本番はまた違った。まして初日公演ともなれば、この緊張感はこれまでに味わった事の無いものだった。

 自分のせいで舞台を壊したくない。思えば思うほど、不安はつのる。

 必要な道具を確認して、舞台袖から控え室へと続く通路に出て、一つ大きく息を吐く。

 舞台袖は熱気であふれている。人が多く出入りし、舞台上の空気も流れ込んでくるからだ。

 熱いのはそれだけじゃない。自分自身も高揚していると、今ならば分かる。

 軽く頬を叩いて舞台袖へと戻ると、先輩が声をかけてくれた。

「そろそろ出番近いからな」

「はい」

 分かっている。いま舞台上で行われている主役の掛け合いが終わると、自分達の出番となる。

「緊張してるか?」

 同じ様に出番を待つ先輩に、苦笑いで応じる。

「ま、するなと言うほうが無理か。セリフは入ってる。ミスってもフォローするから、心配するな」

 自分に割りふられたセリフは多くない。いや、少ない。端役なので当然かもしれない。

 相手役である先輩は、主要ではない登場人物を複数演じている。役作りが大変だと思うのは、素人考えなのか。視線を向ければ、先輩は落ち着いた表情で舞台上を見つめている。

 大丈夫。出とちりさえしなければ、なんとかなる。

 熱い空気を吸って、吐く。そのたびに体が熱くなっていく気がする。

 見つめる舞台上。掛け合いの相手がはけ、残された主役はセリフを放ちながら下手側により、ベンチに腰を下ろした。

 出番が、もう目前に迫っていた。


 下手袖より通行人B役が、スマホを耳に当てながら舞台上に進み出る。中央で立ち止まり、リアクションを取りながら通話をする芝居を演じている。

 そんな舞台上を、今度は上手袖から通行人C役がスマホをいじる演技をしながら横切っていく。

 電話の芝居をする通行人B役が上手袖にハケれば、自分達の出番だ。

 袖幕の陰に立ち、出番に備える。自分の鼓動が高鳴っているのが分かった。

 袖からは舞台上の一挙一動が見える。照明が当たらない雑多な袖と、光が降り注ぐ舞台上はまさに別世界。まだ見たことのない景色。

 右の手のひらを胸にあて、服を握る。その服も少し汗ばんでいた。

 通行人B役が舞台上をこちらへと歩いてくる。

「さ、行くぞ」

 先輩の声。軽く背中を叩かれる感触。

 その勢いに押されるように、光の中へと足を踏み出した。


 瞬間、目がくらんだ。

 舞台全体を照らす照明。向けられたピンスポットライト。

 さらには突き刺さる視線。視線。視線。

 包み込む熱気。いずれも感じた事が無かったもの。

 それでも体は動く。光の中、視界に映るのはバミリのテープ。

 本当に見えているのか。稽古で焼きつけられた距離感が、イメージとして浮かんでいるだけなのかもしれない。

 聞こえるセリフ。掛け合う先輩の声。

 口も動く。自分のセリフも忘れていない。

 でも、きちんと声は出ているだろうか。観客席まで届いているだろうか。

 自分にそれを確かめる術などない。

 視線を動かし先輩を見る。練習どおり、いや、それ以上に集中しているのか。

 気付けば中央、バミられた場所まで来ていた。ここで立ち止まり、体を観客席の方へと向ける。

 そして体が観客席と正対した瞬間、思わず息を飲んだ。

 埋まった座席。向けられる視線、表情。

 プレッシャーか緊張か、それとも熱気のせいか。息苦しい。呼吸が速まる。

「やからな、おぅ、聞いてるか?」

 すぐそばで聞こえた先輩の声に、声が上ずりながらも何とか応じる。

「ならええけどな」

 再び会話へと戻る先輩。如才なく相槌を打つ演技をしながら、ゆっくりと場内を見渡す。

 ほどほどに埋まった客席。その視線を今、自分達は浴びているんだ。

 吐き出す息。熱い。それにセリフをのせていく。

 稽古と同じリズム。自然と紡がれる言葉。

 上体を軽く捻る。それから軽くうつむく。

「せやから、もろてええって思うやん?」

 先輩のセリフ。その言葉尻を食うように、先輩の胸元へと裏拳気味に右手をしならせる。

「なんでやねん!」

 リテイクにリテイクを重ねた、渾身のツッコミ。

 一瞬の間。感じたのは一陣の風。

 腕を戻しつつ観客席を一瞥。視界に映るはただ笑顔、笑顔。

 談笑する体を演じながら、下手袖へと向かう。

「せやな」

 ハケる直前、それが舞台に残した最後のセリフだった。


 下手袖へとハケて後、ほっと息を吐き出す。相変わらず熱い。

「お疲れさん」

 先輩に肩を叩かれて顔を向ければ、先輩は舞台上を見つめていた。

 舞台上では再び主役が一人、視線を集めている。

「お客さん、笑ってました?」

「そう見えたか?」

 問いかけ、返された質問に、小さく首を縦に振る。

「なら、それが答えだ」

 先輩はもう一度こちらの肩を叩いて、通路の方へと足を向けた。この後も先輩は別な役での出番がある。衣装も変えるはずだ。

 複数の役をこなす。今の自分には相変わらず想像できない。

 ただ、今ならそれも楽しそうだと思える。

「お疲れ。次のシーンの小道具、用意できてるかい?」

 かけられた声に思わず体がビクついた。

「あ、すぐ確認します」

 そうだ。自分の出番が終わっても、話が終わるわけじゃない。やらなければならない事は、まだまだある。

「ん。焦らなくても大丈夫だからね」

「はい」

 感慨に浸っている時間じゃない。最後まで終わってからでいい。

 近くで観ることもまた、勉強だから。


「お疲れ様でした!」

 初回公演が終わり、夕食を経て解散となった。明日の午後にもう一公演予定されているので、撤収や打ち上げは明日になる。

 回収されたアンケートにはざっくりと目を通した。概ね評判は悪くなかったように思う。

 当然というか、自分が出た場面に対する記述は見当たらなかった。

 期待があったわけじゃない。つなぎのシーンのチョイ役というのが現実だと分かっている。

 電車に揺られて家路を辿る。明日のもう一公演に備えて、体は休めておきたい。

 ただ頭の中だけがざわついている。

 本当にお客さんは笑ってくれただろうか。それっぽく見えただけなのではないか。

 すべったところで、話の中身に影響をおよぼす場面ではない。むしろ飛び込み見学からの参加で、チョイ役ながらも役を振ってもらえた事には、本当に感謝感謝の他にない。

 自分が舞台上でライトを浴びた時間は、たったの三十秒ほどでしかない。

 そのわずかな時間の中で何を見たか、何を聞いたか。そして何を感じたか。

 明確に覚えているようで、どこか曖昧で。

 まるで電車の窓から流れる風景のように、シーンが流れていく。

 はっきりと記憶しているのは、当てられた照明。熱気。

 さらにはひりつくような視線。

 手のひらに汗をかき、それが乾くほどに緊張をしていた。

 それでも体が動いたのは、重ねてきた稽古とそれに付き合ってくれた先輩のおかげだ。

 つまり、先輩のおかげで自分は三十秒間、舞台上に立っていられたというわけだ。重ね重ね感謝の言葉しか出てこない。

 あの場所の人たちは、自分に居場所をくれている。決して優しくはないけれど。

 望んで来たのだから歓迎する、という事なのだろう。同時にその先の居場所は、自分で掴まないとならない。

 もちろん居場所云々は全部自分の都合だ。学校での事なんて、ここでは関係無い。

 それでもただ迎え入れてくれて、公演に向けて色々やってきた事が楽しかったのも事実で、ありがたい事だと思う。


 電車を降りて改札を抜け、夜風に当たりながら家へと足を向ける。

 居場所云々は後でいい。まだ明日の公演が残っているんだし。

 明日は今日ほどの緊張はしないだろう。今日見えなかったものも、見えるかもしれない。

 同じ演目を演じても、同じ演劇にはならない。そう言っていたのは代表だったか。

 お客さんが変われば空気も変わる。やる方にも慣れが出るし、全員が同じテンションというわけにはいかないからだ、と言う。

 確かにそうかもしれない。自分も今日と同じ心持ちで舞台に立つことは出来ない。

 視界には見慣れた地元の商店街が広がっている。夜九時を過ぎたこの時間になると、ほとんどの店が今日の営業を終了していた。

 商店街の終点にある公園の入り口が目に留まり、足をそちらに向ける。公園の中は街灯が点いているが、人の気配は感じられない。

 ゆっくりと足を動かし公園の中へと歩き出せば、すぐに芝生の広場に行き当たる。その奥には野ざらしのステージが見えた。

 劇らしい劇を初めて観たのは、このステージだった。芝生の中央辺りから、友達と一緒に観ていたはず。小さい子どもの頃の事で、同時にその劇の登場人物に憧れていたのを思い出した。

 ステージ上で挨拶をする団員達は、とても仲良さそうに見えたんだった。

「今になって舞台に立てるなんて」

 当時の自分からは想像もつかない未来に違いない。それに一度は諦めた道でもあった。

 伸びた芝生を踏みしめてステージへと上がる。昔の遊び場という懐かしさが込み上げてくる。

「あまり変わらない」

 視点の高さこそ変わったが、印象は変わっていない。そしてその広さも、今日上がった舞台と大して変わらないように見える。

 ステージ中央に立って、空を見上げる。雲の切れ間から月明かりが照らしている。近くの街灯と相まって、十分に明るい。

 明日はどんな風に見えるのだろう。正直、今日は舞台上を見ている余裕がそんなに無かった。いや、見ていたけど覚えていないと言うべきか。

 ステージを見渡す。あるはずもないバミリのテープが、書き割りが、そのイメージがありありと浮かんでくる。

 大丈夫。明日はもっとやれるはず。

 あの光の中でも、きちんと客席を見ることが出来るはず。

 その中で自分の居場所を掴むために。

「さぁ、これから始まるは、なんとも情けない一人の人間のお話。その一部始終、どうか笑ってやってくださいまし」

 開幕冒頭のセリフを口にしながら大仰に腰を曲げれば、街灯によって作り出された影も大きく曲がる。

 稽古で見ていた動きをトレースするも、当然上手くなんて出来やしない。それでも体を動かし、独り芝居を続けていく。

 そして回って来る自分の出番。歩く距離を気にしながらの会話劇。そして、走る右手。

 そこまでやって大きく息を吐き、ステージ上へと座り込む。

 たった三十秒。でも、今出せるものは全部出したい。

 ゆっくりと右手を上げる。月を掴むように右手を握れば、その影は芝生の中心へと伸びていた。

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