第8話

 宴は滞りなく進んだ。酒の力も手伝ってか棠棣はすっかり夜刀神に慣れ、晴明とともにその話に興じていた。

「私が生まれたのは…、そうですね、貴方たちの時の流れで言えば800年ほど前でしょうか。それよりも前は覚えておりません。まだ人と神がもっと自由に話せていたころでありました。そう、皆が晴明殿のようで」

 嬉しそうに昔語りをする夜刀神はやはり蛇のような笑みを浮かべている。相づちを打ちながらそれを聞く晴明の姿に、棠棣は聞きたかったことを思い出した。

「そ、そうです、人と神と言えば……」

「棠棣殿、どうなされましたか」

 思い立ったように切り出した棠棣に、ふたりは不思議な顔を見せる。小さく咳払いをして、彼女は言った。

「あの、小野小町について聞きたいのです…、私が彼女の生まれ変わりだということについても」

 その言葉を聞いて夜刀神にちらと目線を送り、晴明は語り始めた。

「あれは私が安倍晴明としての人生を送るよりも前のことでございました。その頃の記憶がしるく残っているのは珍しいことなのだそうですが、私はその珍しい中に入るのだそうで、前世の記憶をしっかりと持っております。

 あの頃の私は、小町のその美しさと澄んだ心にすっかり惚れておりました。小町の姉君が宮中に出仕していて、私はその姉君と懇意にしている若い宮人だったのです。彼女の住む屋敷に出入りしているうちに恋い慕うようになりましたが、小町はそういう関係ではないどこまでも清潔な間柄を望んでおり、私もその思いを汲んで友人として仲良くしておりました。

 さて、前世を生きていた頃から、私は陰陽道に通じておりましてね。いろいろなことをやって遊んでいたものです。今ほど自分の力を抑制したりすることができなかったもので、それなりに多くの失敗もしでかしていました。そのひとつが……、小町の屋敷にこの夜刀神を降ろしてしまったことなのです」

 晴明はそこで言葉を切り、懐かしそうに微笑みながらまた続けた。

「夜刀神が降りてきたときの私の驚きもさることながら、その姿を見た小町の姿は生まれ変わった今でも鮮やかに思い出すことができます。私と歌を詠みあっているときに目の前にこの美しい神が現れたのですが、目を見合わせた夜刀神と小町はまるで絵巻物のようでした。夜刀神の照り映える美しさを全身に浴びても負けない彼女の可憐さ…、幾度輪廻を繰り返しても忘れることはありません。

あの日彼女は優しい色の着物を身にまとっていた、まるで彼女の愛した棠棣の花のような色でした。本当に愛らしい姫君だったのです。

 その夜から、私と夜刀神、そして小町は比類ないほどの友人と相成りました。残念ながら、小町は若くしてその薄紅のような命を風に散らし、私もその思い出を抱いたまま死に絶えた。

 しかし……、しかし、今目の前に、貴女が、棠棣殿がいる」

 ゆっくりと噛み締めるように彼は言う。

その目に映るのはきっと棠棣ではなく小野小町の影なのだろう、慈しむように棠棣を見つめ、彼は穏やかに続けた。

 「貴女が気づいていなくとも、棠棣殿は小町の生まれ変わりです。私と夜刀神が保証する。その名を背負って生まれ落ちたときからこの運命は動き始めていたのでしょう」


「晴明殿、長い話は娘御に嫌われます」

沈黙を夜刀神が破った。

 晴明はしばらく小町との思い出話に耽り、少しばかり棠棣を困らせていたのだ。返答に困っていた棠棣は、思わぬ助け舟にほっとしながら言った。

「私が小野小町の生まれ変わりだとして、それが何か、問題になるのでしょうか…?」

 袿を口元に当ててそう言うと、夜刀神は居住いを正しながら小さな声で告げた。

「問題というかなんというか…。

私には、800年前から争い続ける者がいるのです。麻多智という男で、私に深い恨みを持つあまりいつの間にか死すことすらままならなくなってしまったという強者でしてね。彼がずっと狙っていたのが、小町殿の美貌、すなわち命でした。彼も小町殿に心を奪われていたようで……。そして、彼は小町殿が貴女という存在となって生まれ変わったことを知っています。このままのうのうとしていれば、彼も下界に降りてきて、貴女の命を狙うでしょう」

「命……を……?」

 唐突に繰り広げられる物騒な話に、棠棣は空いた口が塞がらない。右大臣家の姫として生まれた彼女が、前世のせいで、まさか神に命を狙われるはめになるなんてあんまりではないか。

 しかし夜刀神は相変わらず落ち着いている。

「まぁ当面は何も無いとは思うのですけれどね。貴女が何もしない限り、彼も心を刺激されることはないでしょう」

「でっ、でも、神様に命を狙われるなんてことになったら、抗う術がないじゃありませんか…!」

 もっともな意見に、夜刀神は例の笑みを見せた。

「そうですね…、あの男はなかなかに強いですから棠棣殿のような姫君ならすぐに倒されてしまうでしょうね」

 ますます血の気を失う棠棣の顔を見て、晴明はこの蛇の神をたしなめた。

「こら夜刀神、棠棣殿が怖がっているであろう、余計なことを言うな。

大丈夫ですよ、姫様。まだそんなに不安がることはありません」

「まだ?まだってことは、結局は不安な状況に陥るってことじゃありませんか!」

 長いまつげに露を宿らせ、棠棣は小さく叫んだ。熟れた果実のような口元はふるふると震え、真っ白な指は袿をぎゅっと握りしめている。その様子を見た夜刀神は、幼子を見つめる親のような目でふっと笑い、その手を棠棣の頭にのせた。

「落ち着いてください。私がいれば大丈夫ですよ。しばらくの間は私も貴女が心配だから、下界に降りてくることにしましょう」

「本当ですか…?」

 不安げに見つめ返す棠棣の頬を、夜刀神はそっと包み込む。

「ええ。私だって、小町殿の生まれ変わり、それを抜きにしたとしてもこんなに美しい姫君が、麻多智のような男の手にかかるようなことにはしたくありません。こうなったからには、貴女のことを守らなくては」

 どこまでも深く暗い瞳に見つめられ、棠棣は何も言い返せない。

 この男の瞳の奥には夜空がある、と棠棣は感じた。自分を移しているはずの瞳には何も見えず、その中には煌めく光が夢見る色に瞬いていた。

「夜刀神、また君の悪い癖だ。美しい姫君とあらばすぐにそうやって甘く接するな」

 晴明の拗ねたような声でふと我に返る。

くすくすと笑いながら夜刀神は目をそらし、その手でゆっくりと棠棣の髪を梳きながら言った。

「晴明殿、棠棣殿のことを他の姫御と同じにしているとお思いですか。

 この姫君ばかりは別だ、そして小町殿とも同じだとは思っていませんよ。

 ……彼女となら、この800年の長い闇を打ち破ることが出来るやもしれぬ」

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