第9話

そうつぶやいた夜刀神の声は小さかったが、晴明は聞き逃さなかった。

「小町殿とも違う……とは?」

問われた夜刀神は棠棣から手を離し、その細く白い指を灯にかざしながら語る。

「私はこのあいだ棠棣殿に初めてお会いしたときに思ったのですよ、何かが変わると。晴明殿のように人が生まれ変わる様はこの目で幾度も見てきましたが、小町殿と棠棣殿の間には何かはっきりとした違いがあるのです。それが何かは今の私にはわかり得ないのですけれどね」

語る夜刀神の声は、細いがしっかりとした自信の感じられるものだった。不安げな棠棣の表情に気づくと優しく笑みをこぼしてまた言った。

「大丈夫ですよ、棠棣殿。私がついていれば麻多智もそう簡単には手を出せませんから」

にっこりと笑う夜刀神だが、棠棣の不安は拭えない。

「でも…その麻多智殿とおっしゃる方はもうただ人ではないというお話でしょう?私ひとりの命ぐらいすぐに奪えてしまうのでは…」

その言葉に、今までだんまりだった晴明が大きな声をあげて笑った。

「ははは……棠棣殿、この夜刀神を見くびりなさいますな。このような色男に見えても、この男は幾代もの時を超えてきた神ですぞ?麻多智のような男に棠棣殿を奪われるほどの雑魚ではございません」

「雑魚……?」

「そうですよ、棠棣殿。あまり私を舐めていただいては困ります。まぁ、摘んで愛でたい薔薇そうびのように強がっている貴女も美しいが、そうして夕顔の花のようにか弱げになさっている姫君も可愛らしくて私は好きですけれどね。水をやって慈しんで、この手で守ってさしあげたくなるではありませんか?いかにも手弱女たおやめといった感じで、ね」

夜刀神の唇が紡ぐ甘やかな言葉に棠棣はその頬を紅に染め、晴明は小さくため息をついた。



夜も更けた頃棠棣が屋敷に帰ると、女房の右近から少し厚い手紙を渡された。それは名前もない陸奥紙で、ごわごわとした手触りは普段彼女が見慣れた風流とはかけ離れたものだった。嫌な予感がしながらも、恐る恐る棠棣はその手紙を開いた。


「小町の生まれ変わりの姫君、初めて貴女に文を出します。夜刀神のことだからもう私の存在は喋っているのでしょう、間違いもございません、私が麻多智と呼ばれる男です。800年の昔から夜刀神とは争ってまいりました」


そこまで読み終えたとき、棠棣は自分の手の中にある陸奥紙になにか異変を覚えた。しっかりとした厚みをもつはずの紙が、薄く柔らかい絹の布地に一瞬変わったような心地だった。気のせいだろうと手元を確かめてもう一度読み下そうとすると、やはりあるはずのない異変が起こった。

またさっきのように紙が柔らかくなり、「麻多智」と書かれたその三文字が揺らぎだしたのだ。

「ん…あれ……?」

目をこすろうと棠棣が手紙から右手を離すと、突然、紙が野分に煽られる花のような勢いを持って彼女の手を離れた。

「……え……?」

室内で読んでいたはずの紙はひらひらと踊りながら高くのぼる。呆然としながら棠棣が見つめていると、それは突然千々に破れた。桜吹雪のように陸奥紙が舞うさまをただ口を開けて見つめることしかできない棠棣に嘲笑を投げかけるかのように、さらにその紙は踊り続ける。

しかし、揺らめく紙の花弁は突然その舞を止めた。まるで時が止まるかのように、そしてまた息を潜めるかのように、空中で動きを止めたその花弁。その中でひとかけらだけ舞を続ける仲間外れを見つけ、思わず棠棣が手を伸ばして手にとると、そこにはこう書いてあった。


麻多智


「さっき揺れていた文字だ……」

そうつぶやいた刹那、その紙片は宙に飛び上がって霞み、霧が川面を撫でるように形を変化させた。その夢のような濃霧はますます濃さを極め、大きさも大きくなっていく。趣味の良い香の薫りを漂わせながらそこに現れたのは、思いもよらない、人間だった。



立ち烏帽子に髷をすっきりとおさめ、伸びをする背丈は夜刀神より少し低いくらいだろうか。濃紫の直衣の下に薄紅の衵、指貫は紋様のよく浮いた白菫色。顔つきは幾分か幼く整っていて、長いまつげが印象的だった。

「あぁ、人じゃなくなって何年経っても生き物じゃないものに化けるのは疲れるな。おれだってさっさと夜刀神を倒してこんな骨の折れるようなこととはおさらばしたいんだが…」

溌剌とした声で伸びをしながら目の前の男は言う。周りを見渡して棠棣と目を合わせると、彼はにっこりと笑って言った。

「君が棠棣ちゃんだね、よく知っているよ。おれは麻多智だ。夜刀神から聞いているだろう?800年もあいつと戦い続けている、半人半神の妖怪さ…、昔は人だったんだけれど」

心もち大きい口もとからは少し尖った犬歯がちらちらと覗く。目は楽しそうに細められているが、琥珀色の瞳にはどこか人を射抜くような光があった。

「貴方が……麻多智…様……」

思いもかけない現れ方に驚く棠棣を目の前に、麻多智はなおもにこにこと笑う。

「やっぱり君は小町によく似ているね。これは夜刀神がやっきになって守るはずだ。邪な蛇神は早く滅びた方が世の為だと800年も言い続けているのに、奴はまだ薄紅の唐棣花はねずの夢をその掌中で見ようというのか。全く、何を考えているのかわかりゃしない」

「邪な、蛇神?」

「そうさ。君はまだ何も知らないみたいだね。奴はずっと、姿を見た者は一族諸共滅びるという恐ろしい神として君臨していた。それを一度滅ぼしたのが800年以上も前の人間だったおれで、復活しやがった夜刀神は心を入れ替えたかのように女みたいな薄気味悪い笑顔を浮かべていろんなところで油を売ってる。あの阿漕とかいう忌々しい蛇と一緒にね。小町と仲良くなってからは一層その神としての力を強めた……あの女にはなにか謎めいた力があった。生まれ変わった君もその力をきっと受け継いでいるはずだ」

棠棣は耳を疑った。

夜刀神にそんな昏い過去があったことなんて思いもしなかったし、一度人間に滅ぼされていたとは宴の席ではひとつも口にしていない。しかも挙句の果てにはそのような嫌なご利益までついた神だとは。

「力って何のことですか?」

とにかく小町についての謎を解きたい棠棣はやっとのことでそう問うた。

「さあ、はっきりとしたことはわからないが、夜刀神を強くする何かだろう。第一、君、考えてもみろよ。何の発展も無しに100日も男を通わせられる女がこの現し世に存在し得ると思うかい?まずおれには常人とは考えられないね」

「ほんとだ……」

「それにしても君、敵を前にして緊張感がなさすぎないか?」

納得して彼の顔から目を離した途端、麻多智は突然そう言った。何のことかと思って棠棣が顔をあげた刹那、その目の前に白刃が閃く。


「ただ美しい奴らの話をしにわざわざ化けてきたとは思わないで欲しいな。これだから深窓の姫君は困る、殺し甲斐がないよ」


ため息とともにつぶやく声はなおも嬉しそうだ。獲物を見つけた猫のような表情で、麻多智は棠棣の鼻先に刀を突きつけていた。

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