第7話

「……よかった、ばれてはないみたい……」

 自分の屋敷に棠棣が戻ると、まる二日黙って出かけていたことなど誰も知らぬようないつもの暮らしがそこにあった。約束を守ってくれた晴明に心の中で感謝をしながら西の対に入ったところへ、女房の右近が来て告げた。

「姫様、安倍晴明という方から文が参っておりますが…」

「晴明殿から…?」

 まるで彼女がこの時間に家に着くことを知っているかのような都合の良さだ。半ば驚きつつも彼女は文を受け取り、畳にゆっくりと腰をおろしながらはらりと文を開いた。


「棠棣の姫君、昨日は楽しいひとときをどうもありがとうございました。またおいでくださいと言ったのは今朝方のことでしたが、もうその時がご用意できそうなので御一報させていただきます。

 今日より三日後、夜刀神がまた私の屋敷に降りてくるそうにございます。是非貴女とお話をしたいと申しておりましたので、次はお父君にしかとお許しを得た上で一條へおいでなさいませ。では、これにて。」


 あまりに早い再会の約束だった。

あの謎めいた陰陽師、そしてあの美しい神とまた相見えることになるのかと思うと棠棣の心はますます落ち着かない。気が進まないとは思いながらも、棠棣は了解の旨を伝える手紙を返させた。


「……安倍晴明殿のお屋敷へ?」

「まぁまぁあなた、そんなにお口を大きく開けなくとも」

 棠棣の目の前にはこの上なく驚いている父・興風と、それを楽しそうに見つめる母の萌黄の宮。彼女が晴明に招かれたことを聞き、開いた口が塞がらないようだ。

「いやしかし、晴明殿とは、名の知れた陰陽道のお方と聞いておる。何故そのような方と棠棣が接点を持つんだ、まるでかけ離れているのに」

 そのもっともな意見に、棠棣は咳払いをした。

「一度…ずいぶん前に惟征様のお屋敷に遊びに行かせていただいたとき、方違えに泊まらせてくださったのです。そのときの縁か、私が惟征様との縁談を成立させたとお聞きになられ、小さな祝宴を催してくださるのだとか」

 濃紫がよく透けた薄い桃色の小袿を口元にあて、棠棣はすらすらと語る。

(まるっきり嘘ってわけじゃないから……)

 心の中で、こっそり父親に謝った。

「ま、まぁ、行っておいで。結婚してしまえばこのように自由にできることもないだろうからな」

「ありがとうございます、お父様。たっぷりとお話を聞いてきますから、土産話を楽しみにしておいてくださいね」

気が進まないくせに必死になっている自分、その影にちらつく夜刀神を思うと馬鹿らしくも思えたが、少し棠棣は三日後が楽しみだった。


 そして、その三日後。また一條にある晴明の屋敷を訪れようと、棠棣は念入りに準備をしていた。浅葱色の単に幾枚かの朱の袿、そしてその上に夏らしい牡丹(表が白、裏が紅梅)の小袿を重ねる。艶やかな黒髪を垂らせば、夏の暑さも癒えてしまいそうな美しい姫君の姿がそこには出来上がっていた。よし、と小さく気合を入れ、可愛らしく整った唇に紅をさし、彼女は牛車に乗り込んだ。

 (何故こんなに胸が落ち着かないのかしら)

 牛車の中、ひとりになった棠棣の心をその思いが取り巻いた。惟征との愛情はついこの間確認しあったばかりなのだ。今から会いに行く人…いや、神に、何をそこまで緊張することがあるのだろうか。首を振り、惟征との思い出を抱きしめるように手をぎゅっと握る。

 一條はもう近い。


「おぉ、棠棣殿、よく参られました。もうしばらくしたら夜刀神も降りてくるはずです、しばしこちらでお休みください」

 あの爽やかな笑顔で出迎えられた。今宵の晴明は深い青の狩衣をまとい、この間の方違えのときと同じように豪勢な料理を用意して待っていた。

 控える女房が少ないことにも棠棣への配慮が感じられ、彼女は改めてその人柄を好ましく思った。初めこそ陰陽道の者だと怪しく思っていたけれど、実際の晴明は好ましい壮年の男なのだ。小町の生まれ変わりだとか白蛇の神だとかいろいろなことを言われはしたが、棠棣はこの男が好きだった。

 

「おや、もうお揃いで?

私が一番遅かったようですね、申し訳ない」


 きき覚えのある、澄んだ声がした。


 棠棣が声のした方へ恐る恐る目を向けると、あの月夜と同じように、寝殿の表の庭に男が立っていた。

 今日の夜刀神はあの日と変わらぬ出で立ちで、やはり何よりも美しかった。闇を透かした雪色の狩衣に、血よりも深い緋の指貫。星明かりを受けてきらきら輝く白菫色の髪を夏の夜風になびかせて、彼は優しく微笑んだ。

「お久しぶりですね、棠棣の姫君。再びお会いできて嬉しい限りだ」

 蛇を思わせる笑みを浮かべて夜刀神は言う。その神々しさと美しさに気圧される棠棣に近づき、言葉を選んでいる彼女の唇に細い指を当てた。

「大丈夫、言わなくてもわかっていますよ。挨拶は要りません。今宵は時間も長くあることだし、晴明殿と共にゆるりと語らいましょう。ただ、そろそろ私の姿には慣れてほしいものですけれどね」

 そう告げて、夜刀神はきざはしをゆっくり上った。

「あ、あのっ、私は今日小野小町についての話を伺いたくて…!」

 慌てて振り向いた棠棣を見て、夜刀神と晴明は顔を見合わせてくすくす笑った。

「それもこれも全て後で。とりあえず今は、晴明殿の人形が用意してくれたご馳走を味わってからにしましょうね」

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