第6話

「姫様…?もう日が高う昇っております」

 御帳台の外から棠棣を呼ぶ女房の声がした。棠棣が薄く目を開けて几帳から出ると、なるほど外はもうすっかり朝だった。

(あれ…?私、昨夜御帳台に戻ったかしら?)

 何も考えずに御帳台から出ようとした時、そんな思いが棠棣の頭をよぎった。昨晩、夜刀神という神を見て……、南廂で彼が姿を消したところで記憶が途絶えている。

 何故だろうと考えこもうとしたけれど、棠棣は思い出そうとしている自分を思わず笑ってしまった。

(神様に会うなんて、あるはずがないじゃないの。夢見なんだから記憶がなくて当たり前だわ、何を考えているのかしら)

 軽く頭を振って彼女はそのことを忘れた。蛇の神なんて実際見られる筈がない。

 そうだ、なにより今は惟征に会いに行くことを考えなければならないのだ。思わず忘れてしまいそうだった大事なことを思い出し、棠棣は御帳台からすべり出た。


 急な方違えを受け入れてくれた礼を言おうと棠棣が晴明のいる寝殿を訪ねると、彼は人形を風に靡かせて遊んでいた。

 「晴明殿、昨夜はお世話になりました。急な方違えをお受けいただき、また晴明殿のようなお方とお近づきになれたことを光栄に思います」

 棠棣の声に晴明はふっと笑い、顔を向けた。

「昨晩のこと……夜刀神とのことは聞き及んでおります。小町のことも聞いたのですね」

 その言葉に棠棣が少したじろぐと、晴明は一瞬懐かしむような目で彼女を見つめたが、また普段通りの爽やかな笑みを浮かべた。

「気にしないでください。夜刀神は貴女が気に入ったからその姿を見せたのでしょう。私も貴女に会えて嬉しいと思っています。小町の生まれ変わりだとかいうのを抜きにしてね。また一條へおいでなさい、夜刀神も呼んで一度酒でも酌み交わしましょうぞ」


「まぁ、右大臣家の棠棣の姫君ではございませんか、ひとりでここへいらっしゃったのですか?」

 内大臣家の門扉を叩いて迎え入れられた棠棣に、そう言って驚きながら対応したのは惟征の母・紫苑しおんの君だった。先帝の四の宮の娘である彼女は優しくおおらかで、ふくふくと肥えたその顔にはいつも笑が浮かんでいる。

「ええ、突然お邪魔したのは申し訳ないのですけれど、どうしても惟征様にお会いしたくて、それで誰にも内緒で‥‥」

 申し訳なさそうな顔を少し赤らめながら言う棠棣は、語尾を濁らせて顔を背けた。

 初夏の少し尖った陽射しを受け、柔らかな艶に変えて流す髪は小袿の裾にゆったりとたまっている。白の上にほんのりと紫に色づいた袿、そしてその上におうちの襲(表が淡紫、裏が薄青)の小袿を重ねた棠棣は絵巻物から出てきた姫君のようで、その姿は優しく垂れる藤の花の風情だ。紫苑の君はその棠棣の姿を見て、気後れするような心持ちになりながらも頷いた。

「え‥‥えぇ、そうね、貴女たちはもう結婚を取り決めた幼馴染みの仲なのですものね。さぁ、惟征様は西の対にいらっしゃいます。式部、案内してさしあげて」

 そして、女房の式部に案内され、棠棣は惟征のもとへと向かった。



 惟征は、自室でひとりだというのにしっかりと薄緑の直衣をまとっていた。首元から覗く衵は濃紫で、洒落た色遣いに彼の趣味の良さが感じられる。どこまでも柔らかい表情はほのかに凛々しく、夏の風に心を洗いながら書に向かっていた。

「惟征様、御客人がお見えでございます」

 そう告げる女房の声にちらと目を上げると、几帳の影からほのかに淡い紫の小袿がのぞいているのが見えた。

「姫君の御客人……?はて……通せ」

 訝しがりながらそう言った惟征に、その客人である棠棣はくすくすと笑った。

「しばらくお会いしない間に、随分とよそよそしくなってしまわれたのね」

「……棠棣……!」

 几帳からいざり出てきた幼馴染みに、惟征は頬に薄紅を浮かべながら喜びの表情を見せた。書をたたんでほとんど投げるように床に捨て置き、棠棣のもとへ駆け寄った。

「本当に久しぶりだね、棠棣。

しかしどうして今更ひとりでこんなところへやってきたんだい?君のお父様がよく許してくれたね」

 しばらく会わぬ間にあまりに美しく育った棠棣を目の前に、惟征は少し照れながらもそう言った。

「お父様になんて言ってるはずがないではありませんか。そんなことしたら私はここへは来られないわ。今ではもう許婚の間柄なのですから」

 目を伏せて棠棣は言う。許婚、という言葉を背負うにはまだ少し幼い彼女が口にするとなんだかちぐはぐなのだが、それでもやはり、急に突きつけられた現実は惟征を圧倒するに足るものだった。

「あ、あぁ、そうだったね。…でも棠棣、本当にぼくでよかった?君ならもっともっと素敵な殿方じゃないと釣り合わないんじゃないかな…」

 消極的な言葉を零す惟征に、棠棣は頬をふくらませた。いつもの絵のように美しいかんばせが少し剽軽ひょうきんに崩れ、少女のように愛らしい表情を作り出す。

「惟征様は私と結婚するのが嫌なのですか?」

「……え、えぇ……?」

 棠棣の様子に気圧されて身を引く惟征の胸に、彼女は白い指をつん、と突き立てた。

「私はそれを問いに参ったのです。あの文を頂いて以来惟征様があんまりなにも言ってくださらないから、もしかしたら、お気持ちが消えてしまったのではないかと思って」

 その言葉に、惟征はその形の良い唇をふっと緩ませた。

「そんなことはないよ、棠棣。ぼくの気持ちはきっと10年前から変わりはしないんだ、それは帝にも天帝にも、誰よりもまず君にだって誓えるさ。ただ少し忙しかったのと、やはり結婚というのは家同士の取り決めだからぼくが口を挟むところがなかったというだけだ」

 今度は棠棣が顔を赤らめる番だ。若いふたりの恋の押し問答はどこまでも柔らかく繊細だった。

 しかし、そうして惟征と笑い合いながらも、棠棣の心のどこかには引っかかるものがあった。

 昨夜見た神のことだ。夜刀神と名乗ったあの恐ろしいほど美しい男のことがどうも気にかかり、それとともに頭の中を晴明と小野小町が行き来する。だめだと思いながらも、棠棣は心の底からこの幸せに浸ることができない。勿論、そのことは惟征には言えなかった。

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