第3話

 棠棣が門の前で少し待っていると、方違えのことを伝えに行った使いの者が帰ってきた。その表情は、返事の良かったことを表していた。

「棠棣様、今夜はこちらに泊まらせていただけるそうです。美しい調度などもご用意いただき、夕餉の用意もさせました。晴明様もぜひ棠棣様と語り合いたいとのことなので、さぁ、どうぞお言葉に甘えてお上がりになってください」

 その言葉を聞いて棠棣は胸をなでおろし、牛車を晴明の屋敷へと入れた。


 「あぁ、貴方が美貌で名高い棠棣の姫君。よく存じ上げておりますよ、小野小町の生まれ変わりとあちらの世界でもずっと話題になっておりますゆえ」

「……あちらの世界?」

 奇妙な言葉で出迎えられた。

美しく飾り立てられた寝殿はこぢんまりとしながらも凝っていて、棠棣の心を落ち着かせたが、ところどころに人の形に切られた紙が落ちている。

(これが、人形と呼ばれるもの…)

 そして目の前で頭を下げているのが、例の陰陽師である安倍晴明。もう50の坂に手が届くころだろうか、年を食っているはずなのに笑った顔はどこかにまだ青年の爽やかさを漂わせている。柔らかく叩いた紫の狩衣を身にまとい、いろいろな料理を運び込ませていた。

「突然の方違えの申し出、申し訳ございません。わがままなのはわかっているのですけれど、どうかお父様には内緒になさってくださいませんか?」

 棠棣が盃を受けながら言うと、晴明は大きく口を開けて笑った。

「わかっております。私だって娘御と知り合っていないわけではございません。いくら興風様の姫君とて、親御に言えないことくらいありましょうぞ」

(よかった…物わかりの良い人だ)

 思わず微笑みをこぼし、棠棣は盃を傾けた。

「ときに晴明殿、あなたのお噂は女である私の耳にも常常入ってきているのですが、その、陰陽道というのはどういうものなのでしょうか?」

 またとない機会だと棠棣は問うた。女がものを学ぶことをあまり許されなかった時代、直接陰陽道の者にこうして問える機会などもう得られないと思ったのだ。

「あぁ、やはり貴方は聡い姫君でいらっしゃるようだ。お話いたしましょう。

もとは海を渡った唐の国、当時は違う名前で呼ばれていましたが、そちらで発展した思想のようです。簡単に言えば、ものごとには陰と陽がある、と言ったものですね。そしてそこに日本古来の神道、仏教などを加えてできたものが私たちの知る陰陽道だと言われています」

「陰と陽…」

 そう簡単に言われても、棠棣は納得がいかない。自分が今目の前にしている男が、そんな二元論で済むようなことを操っているとは到底思えないのだ。

「そんな簡単そうなことが私には似合わない、とお考えでしょう?例えば蛙を引き裂くような、この男に」

 いたずらっ子のような目をして晴明は言った。驚く棠棣を気にもかけずに彼は続ける。

「私がこうして人の心を読み取ったり、人形を使っていろいろなことをできたりするのが何故なのかは私にもわかりません。ただ、京というこの地と一條の屋敷が私に力を与えてくれていることは確かでしょうな」

「京の都と一條が、ですか……?」

 思いもしなかったその理由に棠棣は思わず言葉を返す。

「ええ。京の都と言えば怨霊、でしょう?祇園御霊会なんかがわざわざあることだってそれを語っております。こんなに霊力に満ちた都は現世ではこの京以外にないでしょうから、私が身を置いているような陰陽道が栄えるのでございます」

「なるほど、では、一條は?」

 ここで晴明は勢いよく酒をあおった。

「棠棣の姫君は、一條戻り橋という橋を知っておいででしょうか?」

 一條戻り橋……あまり聞かぬ名に、棠棣は首をかしげた。

「私のこの屋敷の近くにあるのですが、この橋がまあ霊力の強いこと。昔ある僧侶が、父親の葬列に対してこの橋の上で祈りをかけたところその父親が息を吹き返したんだとか。そういう伝説が多々ありましてね、ある種の鬼門でもあるのですが」

「鬼門……」

「それに、私の式神もその橋の下に住まわせているのですよ」

 さらりと言った彼に棠棣は思わず笑った。

「式神を、橋の下にですか?」

 しかし晴明は至って真面目だ。

「ええ。本当は屋敷に住まわせたいのですが、なんでも私の妻とうまくいかないみたいでね」

 そう言って彼はまた盃を傾けた。ぽかんとしている棠棣の顔を見て大きく笑い、こう言った。

「神というのは難しいもので、私だって従えるのに大変な苦労を致しました。しかし妻に比べればそんな苦労はまだまだ甘かったようですね」



 夜が更け、晴明は棠棣を東の対の屋へと案内した。

「こちらに御帳台などご用意しております。ごゆるりとお休みくださいな」

「心遣い、感謝いたします。晴明殿もよくお眠りあそばしませ」

 挨拶を交わし棠棣が御簾を引き下ろそうとすると、晴明は慌てて彼女を呼び止めた。

「あ、棠棣の姫君。今夜どれほど眠れなかったとしても、決して庭を見てはいけませぬ。決して、決してですぞ」

 突然声色を変えて告げた晴明に半ば驚きながら、棠棣は「わかりました」と声を返した。



そして、今宵彼女に運命の出会いが訪れる。

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