第2話

 その夜。

棠棣の住む西の対を訪れた興風は、珍しく酒も飲まずに真面目な顔をしていた。しっかりと烏帽子をかぶり、濃紺の直衣をときの権力者らしく着こなしている。幾月か会わない間に美しく育った娘を前にして少したじろぎながらも、彼は畳に腰を下ろし、口を開いた。

「なぁ棠棣。母君にも聞いたと思うが、私は惟征殿とそなたとの縁談に踏み切ろうと思うのだ」

 風格さえも漂わせ、否とは言えぬ物腰で興風は切り出した。柔らかな火影に揺れる棠棣は表情を動かさない。しかしよく見れば、ほんの少し強情そうな口元が歪む様が見て取れる。自分の表情の変化に気づいたのか、薄青の小袿の袖で慌てて顔を隠しながら彼女は流し目で父を見やった。

「…どうせお断りすることができないのなら、いちいちお話などなさらないでくださいませんか?」

 小さな声で彼女は語る。

父の焦りもどこ吹く風、棠棣は少し声を震わせながら続けた。

「そうよ、私は右大臣家の娘ですもの。お父様の言うことに逆らうなんてできやしないんだわ、例え嫌なことだったとしても。私はまだ結婚なんてしたくはないのに、なのに…」

 おもわず溢れた涙に棠棣は顔を伏せた。結婚適齢期とはいえ、まだ齢十六の少女なのだ。幼馴染みの青年と結婚することになるのは思いがけない衝撃なのだろう。権門に生まれながらも力を持たない自分の身の上を、棠棣はつくづく実感したのだ。

「泣くな、泣くな棠棣…」

 突然泣き出した娘に狼狽えながらも父は言う。

「貴族の姫君というものは、いずれどこかから婿を迎えるものなのだよ。もう十六歳、少し遅いと言ってもおかしくはないのだ。私だってよくよく考えた結果、そなたが幸せになると思って惟征殿を婿に迎えようと決めたんだからな」

 気をなだめようと女房に果物や菓子を持たせ、必死に彼は棠棣を説得する。そんな父親に、娘は小さく息をついた。

「別に、本気で嫌だなどとは思っておりません。私は娘ですもの。」

 棠棣のころころ変わる機嫌に手を焼く父親を、いつの間にかいざり出てきた萌黄の宮がくすくすと笑いながら見やる。

「興風様、棠棣は子供のようで大人なのでございますわね、変わった姫だと思いますわ。惟征様のことも未だに兄のようにしか思えないのでございましょう。」

「そ、それもそうだな…。では棠棣、縁談は惟征殿と進めていくので良いのだな?あくまでもこれはただの確認でしかないのだが」

 視線をしっかりと据え、興風は言った。それに棠棣はすっと息を吸い、答えた。

「ええ、惟征様なら異論はございませんわ。昔から誰よりも親しんできた殿方でございますもの、きっと仲良く出来るはずです」



 縁談がゆるやかに進む中、棠棣はずっと考えていた。

(縁談の件以降、いえ、もっとずっと前から惟征様にお会いしていない気がする…)

 仮にも結婚する相手なのに、全然会えていないことを棠棣は案じていた。この時代、高貴な姫君はあまり男に顔を見せるものではない。しかし、棠棣と惟征は違った。小さい頃から、まるで本当の兄妹のように過ごしてきたのだ。今までこんなに長く会えなかったことはない。

(結婚なんて軽々しく言うけれど、人生を共にするってことでしょう?ちゃんと会って惟征様とお話しなくちゃ)

 思い立った棠棣は、こっそりと几帳の間をすり抜けて牛車を用意させ、真っ赤な袿の上に柔らかな白の小袿を手早く羽織った。

「一條の惟征様のお屋敷へ、早く!お父様には知らせてはだめよ、いいわね?」

 牛車に乗り込みそう告げると、彼女はこっそりと屋敷を抜け出した。都に伸びる真っ直ぐな道を、美しい出衣が目立つ牛車がゆっくりと進んでいく。山にはもう燃えるような夕陽が腰を下ろそうとしていた。


 「…様、姫様、棠棣様!」

外から自分を呼ぶ声に、棠棣は飛び起きた。優しく揺れる牛車に落ち着きすぎて、いつの間にか寝てしまっていたのだ。まだ重たくかぶさろうとするまぶたをこすりながら御簾を薄く開くと、付き添いの女房が少し申し訳なさそうな顔をして立っていた。

「棠棣様…、惟征様のお屋敷なのですが、博士に問うたところ、今日の姫様には少し悪い方角のようで…」

 この時代、その日によっていい方角と悪い方角があり、行きたいところが悪い方角に当たる場合は別の屋敷などに泊まって一晩過ごし、次の日にまたその屋敷からそこへ向かうということをしていたのだ。そしてこのことを方違え、と呼んでいた。

「あぁ…なんと運の悪い…」

 棠棣は何とも嫌そうな顔をした。黙って家を飛び出したのだ、そこまでして行きたかった惟征の屋敷が忌むべき方角に当たるなんて運が悪すぎる。

「このあたりに誰かの屋敷はないの?お父様に告げ口したりしないような人がよいのだけれど…」

 そう言うと、従者のひとりが声を上げた。

「一條ならば、高名な陰陽師の安倍晴明という方が住んでおられます。最近屋敷を建て替え、庭の前栽なども凝っているんだとか」

「安倍晴明様なら私も聞き及んでいるわ。葉で蛙を殺してみせたりする、変わったお人だと聞いているのだけれど…、そこしかないのなら仕様がないわね、向かおうかしら」

 安倍晴明といえば、このころ都で一番と言っていいほど有名な陰陽道に通じる者であった。帝の病を治したり朱雀門に棲みつく魔物を退治したり、常人では出来ないようなことをやってのける男なのだ。一條のあたりに屋敷を持つ彼ならば適任と、棠棣は晴明の屋敷へと牛車を向かわせた。もう日は沈みかけている。夏が近い。あたたまった路地を、京の柔らかく撫でるような夕風が駆け抜けていった。


 

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