第十八話『逢魔時(おうまがとき)の開戦(前編)』

 執務室の壁にかけられた時計の針が午前九時三〇分を指した。

 陸上自衛隊土浦駐屯地で展示品の紛失が発覚してから三七時間が経過していた。

 土浦駐屯地司令にして武器学校長をも務める米山徹夫よねやま てつお1等陸佐は、前日からほぼ不眠不休で事態の収拾に当たっていた。

 己の不運を呪わずにはいられなかった。着任から僅か一ヶ月足らずで、自衛隊史に残る汚点となるであろう不祥事に遭遇。しかも、把握できているだけで数十人もの近隣住民が昏睡状態に陥るという、極めて異常な事態まで起きている。

 奇妙なことに、倒れた住民が発見された場所は「キャタピラのような音を聴いた」「エンジンの音を聴いた」という証言のあった場所と一致している。

 牛車の車輪の中央に鬼のような顔がついた妖怪の姿が、ふと脳裏に浮かんだ。

 夜ごと街を徘徊し、見た者の魂を奪うという恐ろしい妖怪。息子がまだ幼かった頃に買い与えた妖怪図鑑に載っていたことを思い出す。

 恐怖に泣き叫ぶ息子の姿と共に、その妖怪は米山の記憶に強い印象を残したのだった。

 米山は白髪交じりの頭を掻きむしりながら、叫び出したい衝動を必死に堪えていた。

 この日は孫娘の通う幼稚園で学芸会が予定されていたが、この騒ぎで周辺の学校・幼稚園・保育園は軒並み閉鎖。家族皆が楽しみにしていた学芸会も延期となってしまった。

 机の引き出しから取り出した息子夫婦と孫の写真を未練がましく見つめる米山の耳を、電話の着信音が打ち叩く。

「……何だ」

 米山は反射的に受話器を取り、しわがれた声を発した。

 本来であれば電話を受ける第一声も少しは形式ばったものになるが、もはやそんなことは、どうでもよくなっていた。

 受話器の向こうから聞こえる言葉を聞いている間に、米山の疲れ切った顔に怒りの色が浮かぶ。

「宮坂……き、機十郎……?」

 こめかみに血管を浮かび上がらせながら、米山は受話器の向こうの部下が口にした名前を繰り返した。

「……誰だ、こんな時にたちの悪い悪戯を! あの人は、九年前に亡くなっ……カハッ!」

 怒りに任せて大声を出した為か、息を吸い込んだ拍子に唾液が気管に入り込んだ。

 数秒の間、激しく咳きこんだ米山だったが、やがて呼吸を整えて部下に言い放った。

「とにかく、くだらん電話を取り次ぐんじゃない! 今、どういう状況か分かってるだろう!」

 一呼吸置いて受話器を置こうとした米山の手が、ぴたりと止まる。

「何……?」

 しばしの沈黙の後、米山は大きく息を吸い込んでから言葉を紡いだ。

「分かった。つないでくれ」


「……これで、よし」

 機十郎は不敵な笑みを浮かべながら、水戸駅のホームに設置された公衆電話の受話器を置いた。

「お祖父様」

 少し離れてソーダ味のアイスキャンディーを舐めていた楓が、控えめに声をかけた。

「心配ない。土浦駅に着いたら連絡して欲しいとのことだ。迎えの車を出してくれることになった」

「おおっ」

 感嘆の声を上げる楓に、機十郎は親指を立ててみせた。

「やはり人脈は大事だ。私も、お祖父様を見習おう」

「俺を見習う? よせ、よせ」

 機十郎が大袈裟に手を振りながら苦笑すると、楓も何かを察したのか、二、三度目をしばたたいてから苦笑した。

「さて。発車時間まで、あと五分だ。車内に戻るとするか」

「承知した、お祖父様」

 楓は頷いてからアイスを一口かじった。

「…………!」

 その瞬間、機十郎は何かに気づいて立ち止まった。

「お祖父様、どうしたのだ?」

 楓が怪訝な表情で聞き返すと、機十郎は突然、楓の目の前に迫った。

「ど……どうしたのだ」

 自分の胸元に注がれる真剣な眼差しに戸惑いながら、楓はもう一度問いかけた。

「楓……!」

 楓は思わず唾を飲み込んでから小さく頷いた。

「……もう一口、かじってみろ」

「…………えっ?」

 祖父の口から発せられた言葉の意味がすぐには理解できなかった。

「アイスだ。いいから、もう一口かじってみろ」

 腑に落ちない表情のまま、言われるままに楓がもう一口かじると、機十郎の表情が笑顔に変わった。

「……やったな、楓」

 楓がなおも腑に落ちない表情を浮かべていると、機十郎はアイスの棒を指差した。

「棒を裏返してみろ」

 言われるままに、三分の一ほどアイスが残った棒を裏返してみると――。

「……『当たり』……!」

 棒に記された文字を声に出して読んだ楓の表情が、笑顔に変わった。

「お祖父様、これは……もう一本もらえるということか!」

「その通り。急いでさっきの売店に戻るぞ!」

 機十郎と楓は歩を早めて、反対側のホームにある売店へと向かった。


「すみません。常磐線じょうばんせんのホームはどちらですか?」

 息を切らしながら駅員に尋ねたのは、由機だった。

 氷山駅で東北新幹線に乗り、一時間あまりで上野に着いた。この後、常磐線の特急に乗り土浦へ向かう。

 特急料金で電車賃は嵩むが、先に出発した機十郎と楓に少しでも早く追いつく為には仕方ない。

 時刻は午前一〇時四〇分。予定通りならば既に二人は土浦に到着している。連絡を取る手段もないが、それでも追いかけずにはいられなかった。

「一六番と一七番ホームですね。ありがとうございます」

 由機は丁重に礼をすると、駆け足でその場を去った。

 行き先を案内した駅員は気圧されたような表情で、遠ざかる由機の背中をしばしの間、見つめていた。


「しかし……ひどい有様だな」

 土浦駅の二階入り口から階下の道路を見下ろし、機十郎が呟いた。密集した無数の自動車の排気により、周辺には熱気が立ち込めている。

 不安を感じた駐屯地周辺の住民が次々と街から避難を始めたことで、前日の夕方から土浦市内では大渋滞が発生。夜を徹して市内各所で行われている警察の検問と道路封鎖がそれに拍車をかけた。

「お祖父様。これでは迎えの車がいつ来るのか、分かったものではないぞ」

 機十郎の隣に立つ楓が、額に手を当てながら言った。

「まったくだ。これなら歩いた方が早いだろう」

「歩いて……?」

 機十郎が顎に手を当てながら頷く。

「距離にして四キロメートルと少しだ。俺とお前の足なら、四〇分もかからんだろう。この騒ぎで武器学校まで通っているバスも運行中止だ。他に方法はあるまい」

 楓が頷きかけたその時、不意に辺りが暗くなった。

 空を見上げると、暗雲が立ち込め太陽を覆い隠そうとしていた。

「これは……」

「天気予報は大ハズレだ。アイスは『当たり』だったのにな」

 機十郎が皮肉を言った次の瞬間、それに応えるかのように雷鳴が轟いた。

「……降ってくるぞ。一旦、屋内に戻ろう」

 機十郎と楓が踵を返すと同時に大粒の雨が降り始め、二人が駅の構内に入る頃にはバケツの水をひっくり返したような土砂降りになった。

「お祖父様。いっそのこと、ユキが来るのを駅で待つというのはどうだ? 氷山から土浦までの交通手段を考えれば、ユキも鉄道を使うはずだ」

 腕を組んで考え込む機十郎に楓が提案すると、機十郎は大きく首を横に振った。

「無駄だ、この雷雨は尋常じゃない。そのうち常磐線が止まるだろう」

 機十郎の言葉を肯定するかのように空が一瞬光る。そして、数秒遅れて雷鳴が轟いた。そうしている間にも、人々が悲鳴を上げながら雨を逃れて構内へ入って来る。電車での避難を試みてか、両手に荷物を抱えた家族連れが目立つ。

「では……どうやってユキと合流するのだ?」

 不安げな表情で楓が尋ねた。

「それは俺達が考えることじゃない。どうやってここまで来るか、どうやって俺達を探すかは由機が考えることさ」

 機十郎はこともなげに言い放った。

「……それでいいのか、お祖父様?」

「その程度のことは、できて当然だ。ナターリヤが旅立った後、お前が由機と出会うまでの努力と苦労は、そんなものではなかっただろう?」

 機十郎はそう言って近くの公衆電話に歩み寄った。楓はもう反論せず、窓ガラス越しに暗い空を見上げた。


 茨城県内に入った上野発仙台行きの特急電車は速度を大きく落として運行していた。

 激しく打ちつけられる雨粒が窓ガラスの表面に小さな滝を作り、その向こう側で稲光いなびかりが走るのが見える。

 乗客達が不安そうな表情を浮かべる中、車内のスピーカーから無機質な声が聞こえてきた。

「お客様に申し上げます……これより先は、落雷と天候不順により、運転を休止いたします……再度運転の目途が立ちましたら運転を再開いたしますので、ご乗車してお待ちください」

 乗客達の間から上がるざわめきをよそに、やがて電車は藤代ふじしろ駅で停車した。

 由機は再び窓に目を向けた。雷雨はますます勢いを増し、まだ午前中であるにもかかわらず周囲は薄暗くなっていた。


 土浦駐屯地からの迎えの車が土浦駅に到着したのは、午後一時過ぎだった。

 一般の国産乗用車で機十郎と楓を迎えに来た小三坂篤こみさか あつし2等陸曹と槙野和隆まきの かずたか陸士長りくしちょうは怪訝な表情を隠そうともせず、しぶしぶといった様子で二人を車に乗せ、駐屯地へ向かった。

「……言いたいことがあるなら、はっきり言ったらどうだ? 陸士長殿」

 運転席からミラーで後部座席の様子を窺っていた槙野に、機十郎が笑顔で声をかけた。

「ハッ。いえ、自分は……」

「おい、運転に集中しろ」

 助手席の小三坂に叱りつけられ、槙野は「すみません」と小さく頭を下げた。

「おっと。あまり叱らないでくれないか」

「はっ……失礼しました、宮坂さん」

 機十郎にたしなめられ、小三坂は後部座席を振り返って頭を下げた。

「ふふふ。あんた方が驚くのも無理はない。旧軍の戦車兵中尉と聞いて来たのに、待っていたのがこんな若造と女子高生ではな。とはいえ、役得と思ってもらいたいものだ。こんな美少女は滅多にお目にかかれるものじゃないぞ。楓は、俺にとって自慢の孫だ」

「お祖父様……恥ずかしいからやめてくれ」

 楓が恥じらう様をミラー越しに見て、槙野は思わず頬を赤らめた。

 確かに、その美しさは文句のつけようがない。幼い頃に思い描いた『お姫様』のイメージを具現化したかのようだ。

「……お孫さん、ですか。確かに、美人でらっしゃる」

 小三坂は一呼吸置いてから返事をし、再び前方に目を移した。

 フロントガラスには大粒の雨が激しく打ちつけられ、ワイパーで何度拭き取っても追いつかないほどだった。

 豪雨の為に視界は劣悪を極め、道路は一部が冠水。これでは思うままに運転などできない。

 太陽を覆う黒雲、空を裂くように走る稲光。一向に衰える気配のない雨。そして、先を争って街から逃げ出す住民達――。

 まるで、この世の終わりのような光景だった。

「降り出してから、まだ三時間も経っていない。何も、四〇日間降り続けるわけじゃないさ」

 機十郎は口元を緩め、ミラー越しに微笑んでみせた。

「ノアの大洪水ですね」

 小三坂は前方に目を向けたまま応えた。

「とはいえ、これほどの雨量では川の増水が心配だ。桜川さくらがわ花室川はなむろがわは氾濫したりせんだろうな」

「……駐屯地を出た時点では、そういった情報は入っていませんでしたが」

 小三坂が返事をすると同時に空が一際激しく光った――かと思うと、たちまち大地を揺るがすような雷鳴が轟いた。

 異変に最初に気づいたのは、槙野だった。

「班長、信号が!」

「なにッ……!」

 小三坂が小さく声を上げた。前方の信号機が光を失い、その機能を停止しているのが分かった。

「停電だ。落雷で送電線がやられたか」

 機十郎が落ち着き払って言うと、小三坂はハッとして懐から私物の携帯電話を取り出した。乗っているのは小三坂の自家用車の為、無線機など装備されていない。

 慌ててボタンを操作する小三坂を尻目に、楓は小さく窓を開けて付近の様子を窺った。

「街路灯にネオン、コンビニの店内照明。どれも消えている」

 前髪と額を雨粒で濡らしながら、楓が言った。

「……そうか。電話はどうだ?」

 機十郎はいささかも慌てることなく、助手席の小三坂に尋ねた。

「駄目です、通じません。駐屯地には非常用電源がありますから、もう少しすれば――」

 小三坂が言い終わる前に、前方から凄まじい音が聞こえてきた。

 雷鳴とは全く異なる轟音……重い物が激しくぶつかり合う音が連続して三度。視界の悪さと冠水した道路、信号機の停止という悪条件が重なって起きた自動車同士の多重事故だった。

「楓、様子を見に行ってくれ。気をつけてな」

「承知した、お祖父様」

 言うが早いか、楓はドアを開けて雨の中へ飛び出して行った。

「……さて。小三坂2曹、槙野陸士長」

 それは胸の奥に響き渡るような声だった。小三坂と槙野は同時に後ろを振り返り、思わず息を飲んだ。

 英雄の彫像を思わせる隙のない表情、そして射すくめるような眼光――。

「突拍子もない話だと思うだろうが、聞いてくれ。この街は戦場になる」

「な、何をッ――!」

 思わず声を上げる槙野を小三坂が手で制した。

「……続けてください、『宮坂中尉』」

 自衛官としての誇りと責務を湛えた小三坂の表情に、槙野は再び息を飲んだ。

「ありがとう……二日前に姿を消した戦車と砲は、おそらく今も街を徘徊している。放っておけば、必ず死者が出るだろう。その前に付近の部隊や警察、消防と協力して、一人でも多くの住民を避難させて欲しい。米山司令にそう伝えてくれ、頼む」

 言い終わって、機十郎は深々と頭を下げた。

「……分かりました。そのようにします」

「班長……!」

 戸惑いを隠せない槙野に小三坂が振り向く。

「俺はまずこの事故を警察に連絡し、その後で急ぎ駐屯地に戻って詳細を説明する。お前はここの交通整理だ。警察の現場検証が終わったら、速やかに駐屯地へ戻れ」

「班長……今の話を、信じるんですか?」

 槙野がまさかといった表情で問い質す。

「今の状況なら、何が起きても不思議じゃない。三日前のことを思い出せ。車両館の屋根と壁に穴が空いた件だ。弾道計算の結果はお前も見ただろう。紛失した装備には、あの七六ミリ野砲も含まれてるのを忘れたか?」

「……偶然です!」

 槙野の反論をまるで意に介さず、小三坂は携帯電話を操作し始めた。

「おい、現場をあの子一人に任せる気か? 別命ある時はポケットベルにメッセージを送る。復唱はなくていい、急げ」(『ポケットベル』……一九九〇年代半ば頃まで広く普及していた受信専用の小型通信機器。電話からの着信を伝える他、機種によってはメッセージを表示可能だった)

「……了解!」

 槙野は吹っ切れたように返事をしてから、ドアを開けて事故現場へと駆けていった。

 機十郎はそれを見届けると、再び頭を下げてからドアに手をかけた。

「協力に感謝する。それでは」

「いえ……どうか、ご武運を」

 小三坂に見送られ、機十郎は雷雨の中へと降り立った。


 豪雨の中、車の通りも少ない国道6号線を北上する一台の自転車があった。

 ハンドルの前にかごのついた安物の自転車に乗るのは、ビニール製の合羽かっぱを身に着け、厳重にビニール袋を巻き付けた革製の刀袋を背負った少女――由機だった。

 特急電車が藤代駅で停止した後、常磐線は取手とりでから日立ひたちの間で終日運休となった。

 土浦市と阿見町で発生した大規模な停電と止む気配のない雷雨。

 最初はタクシーを使うことも考えたが、「土浦へ」と言った途端に乗車拒否された。

 七台目でようやく諦め、店を閉めようとしていた自転車店に駆け込んで一番安い買い物用の自転車を購入。その後、コンビニエンスストアで合羽とゴミ袋を購入し、一路土浦駐屯地を目指した。

 激しい雨の中、自転車で二〇キロ先の目的地へ向かうことは正しく無謀としか言いようがなかった。

 肌に叩きつけられる雨の衝撃と冠水した道路に苦しみながら、由機は必死にペダルを漕いだ。

 記録的な豪雨に付近の河川が急激に水位を上げ、一部で住民の避難が開始されたと途中で立ち寄ったコンビニエンスストアで聞いた。その言葉は却って由機の心を奮い立たせた。

 霞ヶ浦に隣接する土浦駐屯地を目指し、ひたすらペダルを漕ぐ。

 幼い頃に聞いた有名な詩が、由機を支えていた。迷うことはない。

 由機は大きく息を切らしながら停車し、防水仕様のデジタル腕時計で時間を確認した。

 時刻は午後二時三八分。

 まだ昼下がりにもかかわらず、太陽を覆い隠した雲は地上に夜のような暗さをもたらしている。

 由機は雨と汗に濡れた顔を両手で拭うと、再びハンドルを握った。

 目指す彼方の空は黒雲の蠢く下で絶えず稲妻が走り、その光景は魔界さながらの不穏さだった――。

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