第十七話『La Strada(ラ・ストラーダ)―道―』

 畳を踏み締める音と僅かな震動が、枕を介して鼓膜を震わせる。

 自然にまぶたが開き、薄暗い部屋の景色がぼんやりと視界に浮かび上がる。

「う……ん」

 由機は小さく声を漏らした。やがて鈍っていた五感が覚醒し、周囲の状況が次第にはっきりしてくる。

 隣に敷かれていたはずの布団は綺麗に畳まれ、視線を上に移すと楓の白い背中が見えた。

「……起こしてしまったか」

 背中を向けたまま、下着姿の楓が抑えた声で言った。

「……おはよぉ、楓ひゃん」

 由機はゆっくりと上半身を起こし、あくび交じりに挨拶した。

「おはよう、ユキ。まだ午前四時だ、起きるには早い」

 楓は真っ白なブラウスに袖を通しながら挨拶を返した。

「四時……出発は、五時半じゃなかったの?」

「食事の用意をする。空腹のまま出かけるのは好ましくない。昼食も持参して行く」

 ブラウスのボタンを全て留め終わると、楓はニーソックスに包まれた長い脚をスカートに滑り込ませた。

 由機はしばしその脚線美に見惚れたが、やがてあることに気付いた。

「制服……? 学校に行くわけでもないのに」

「自衛隊駐屯地という官公庁施設に出向くのだから、めかしこんだ服装は好ましくない。高校生という身分ならば、学校指定の制服を着て行くべきだろう」

 楓はそう言ってスカートのホックを留め、ベルトを締めた。

「ユキの分の朝食と昼食も用意しておく。もう少し眠ってはどうだ」

 リボンタイを留めると、楓はようやく由機に振り向いた。 

「ううん。私も手伝うわ。お昼は……自分で用意するから、大丈夫」

 由機はどこか落ち着かない態度で布団を畳み始めた。


「おっ。二人とも、起きたのか」

 両手の親指で指立て伏せをしながら、機十郎が言った。

「お祖父様、おはよう」

「おはようございます、『ニコライ』さん」

「うむ、おはよう」

 機十郎は動きを止めることなく、挨拶をする二人に笑顔で返した。

 昨日、自身で購入したタンクトップにハーフパンツを身に着けたその身体は筋骨たくましく、現役の軍人さながらの凄みを感じさせる。

「トレーニング……ですか?」

「ふふっ。せっかく若返ったんだ、だらけた生活を送って身体が鈍なまるなんざ御免だからな」

 由機の質問に答えながら、機十郎はちらりと時計を見た。

「こっちはもうすぐ終わる。お前達、歯磨きでもしてきたらどうだ」

「承知した。ユキ、行こう」

 楓は小さく頷き、洗面所へ向かった。

「うん……」

 由機も楓に続いて洗面所へ向かったが、一瞬だけ居間を振り返った。

「ユキ、どうした?」

 洗面所から楓が声をかけると、由機は慌てて居間から遠ざかった。

「……ううん。何でもない」

 居間に鎮座するペンギンのぬいぐるみ――『ペラちゃん』がこちらを見ているような気がした。


 茶碗に適量のご飯を盛り、ほぐした焼き鮭を中心にうずめる。水で濡らした手にご飯を移してひと塊にまとめると、丸めたご飯に塩を適量まぶしながら握り、形を整えてゆく。

 軽く炙った海苔を巻き、おにぎりの出来上がり。

 三人で軽い朝食を摂った後、由機は二人の弁当を作っていた。「一緒に作ろう」と言う楓を説き伏せ、一人で行う作業。

「この後、水戸で常磐線じょうばんせんに乗り換える」

「承知した、お祖父様」

 居間から聞こえてくる機十郎と楓の会話が耳に入る度、胸に痛みが走ったが、全て聞こえない振りをした。

 ――これで……終わり、っと。

 三合のご飯を九個のおにぎりにまとめ上げた時点で、由機はハッとした。

 ――しまった。つい――!

 二人分作ればよかったものを、気がつけば三人分用意してしまっていた……。

「なんだ? 随分、多いな」

 機十郎が横からひょい、と顔を出した。

「ひぁっ!」

 台所に由機の裏返った声が鳴り響く。

「素っ頓狂な声だなぁ。握り飯が……全部で九個。ふぅむ」

「あ、その……」

 ――言わなきゃ。『私も行きます』って、そう言えばいいだけなんだから。

「これは、その……」

「『その』?」

 言葉に詰まる由機に機十郎は屈託のない笑顔を向けて聞き返す。

「……ニコライさん、たくさん食べるでしょうから。後で『物足りなかった』なんて言われるのは御免ですからね」

 由機は目を伏せながら、素っ気なく答えた。

 ――しまった。つい――!

 そして、意に反する回答をしてしまったことに、内心激しく動揺していた。

「ん……そうか。すまんな」

 機十郎は一瞬だけ意外そうな顔を見せた後、再び微笑んだ。

「そんなことより、出かける用意はできたんですか?」

 由機は機十郎の顔を見ようともせず、突き放した。

「おっ、そうだった。忘れ物がないようにせんとな」

 機十郎はぽん、と手を叩き、踵を返して居間へと戻っていった。

「…………っ!」

 ――私のバカ! 私のバカぁー!

 震える手でおにぎりをラップに包みながら、由機は激しく自分を責めた。


「……行ってらっしゃい」

 由機は玄関から離れた機十郎と楓に手を振りながら、ぼそりと呟いた。

 機十郎と楓は未だ手を振る由機に時折振り向いては手を振って応えていたが、やがて背中を向け、バス停まで続く道を歩き出した。

 由機は静かに手を下ろすと、二人の背中が見えなくなるまで、玄関の前に呆然と立ち尽くしていた。


 ――どうしてだろう……きっと、私には勇気がないんだ。

 由機は自問自答した。

 どれ程の間、こうしているのだろう。由機は時計を見るのも忘れ、薄暗い居間の隅で、縋るようにしてペラちゃんを抱き締めていた。

 時計の針を刻む音が、まるで自身の存在を誇示するかのようで煩わしかった。

 ――『こいつを大事にしてくれていたんだな』――

 楓に連れられ、ぬいぐるみを手にこの家へ戻って来た由機に機十郎がかけた第一声が、脳裏に蘇る。

 ――私もついて行きたかったのに。『私も行きます』と言うだけでよかったのに。

 普段は誰に対しても人当たり良く接しているはずの自分が、あの青年の前では意に反する態度を……そう考えたところで、由機はかぶりを振った。

 ――違う。心を偽って接しているのは、あの人に対してだけじゃない。先生に友達……お父さんにお母さん。言いたいことをはっきり言ったことが、どれだけあっただろう。

 自身が言いたいことを我慢し続けた結果が……父親への暴力だった。

 由機は大きく息を吐き、壁に背中を預けた。焼けるような痛みが、胸から背中にまで広がっていった。

 ――勉強で頑張った。スポーツで頑張った。読書感想文や論文のコンクールで何度も賞を取った。文芸部長になって、生徒会長にもなった。先生も他の生徒も、私を頼ってくれている。でも、今の自分は……本当になりたかった自分なんだろうか。どこかで、道を間違えてしまったんじゃないだろうか。

 思案に耽る由機の耳に突然、無遠慮なチャイムの音が割り込んできた。

「…………っ!」

 驚いて身をこわばらせると、もう一度チャイムが鳴った。

 由機はペラちゃんを横たえると、慌てて玄関に向かった。届け物かも知れない。

 玄関にやって来たところで、もう一度チャイムが鳴る。

「はーい……どなたですか?」

「……由機か」

 低く押し殺したような声に、由機は再び身をこわばらせた。

「いるのはお前一人か? 家出ごっこはもう終わりだ。帰るぞ」

「……どうして、ここが分かったの」

 由機はドアの向こうの父に、責めるような声を投げかけた。

「住んでる場所を割り出すくらい、簡単なことだ。この辺じゃ外人なんて――」

「『外人』って言わないでください!」

 それは、自分でも驚くほどの大きな声だった。

「……どこの国の人間だろうと帰国子女だろうと、似たようなもんだ。ところで、いつまでそんなことを続けるつもりだ? 高校の学費や生活費はどうする。進学は? 世の中は甘くないぞ」

 父――和機は呆れたような声で由機を問い詰めた。

「……わ、私は……!」

「俺に一本背負いを喰らわせたことはもういい。だが、そうやって家出まがいのことを続けるのだけは許さないからな。分かったら早く出て来い。俺は、こんなことの為にわざわざ半休を取ったんだぞ」

 由機はぐっと拳を握り締めた。投げ飛ばされて手も足も出なかった男が、自分に対して偉そうな口を利くのが許せなかった。

「返事はどうした、由機? 分かってるだろうが、親父の刀も持って帰るんだぞ」

「……分かりました……今、行きます」

 しばしの沈黙の後、由機は抑揚のない声で答えた。


 ラジオが午前九時を伝えた。

 氷山ひやま市内を東西に走る幹線道路――通称『うねめ通り』はいつになく渋滞している。

 由機は信号待ちで停止する一九九二年型・白い国産4ドアセダンの後部座席から、隣の車線で停止している軽ワゴン車をぼんやりと眺めていた。

 若い両親に、小学校低学年と思しき兄妹を乗せたその車。ハンドルを握る父と助手席の母が時折、後部座席の兄妹に笑顔で何かを語りかけている。それに応える兄妹の活き活きとした表情から、家族仲の良さが見て取れた。

 対して、由機の乗る車を運転する和機は道路を埋め尽くす車両の群れを無言で睨みつけていた。

 車内に会話はなく、ラジオから聞こえるアナウンサーの落ち着いた声が、気まずい空気を一層際立たせていた。

 和機はそれに耐えられなくなったかのように舌打ちをし、ミラーで後部座席に座る由機の様子を窺った。

 由機は座席の空いたスペースに鞄を置き、二振りの刀を納めた刀袋を抱えていた。

「……まったく。そんなものまで持ち出すとは、何を考えてるんだ。『サムライのカタナは珍しいから見せてくれ』とでも言われたのか?」

「私の友達をバカにしないでください!」

 由機は刀袋を抱き締めながら、声を張り上げた。和機はその勢いに一瞬怯んだが――。

「……お前、変なモノにでも取り憑かれたか? 昨日から、どうかしてるぞ」

 そう言ってため息をつくと、前方の信号が変わったのを確かめて車を発進させた。

 由機はただ無言で、ミラー越しに父を睨みつけた。

 父――和機の顔は、祖父にも祖母にも似ていない……改めてそう感じた。

 自分やその友人をぞんざいに扱うこの男は、本当に自分の家族なのだろうか。

 そんな父の顔を見るのも厭になり、自身の周りに目を落とす。刀と鞄は持って来たが、宝物であるペンギンのぬいぐるみ――ペラちゃんは置いて来た。

 これから帰る家に連れて行くことが、どうしてもためらわれた。

「次のニュース。陸上自衛隊の装備品紛失問題で、与野党から自衛隊に対する批判の声が高まっていることを受け、山浦やまうら内閣総理大臣は……」

 ラジオが伝える、駐屯地で起きた事件の続報。紛失した戦車と火砲は未だに見つかっておらず、駐屯地の人員と地元の警察が大規模な捜索を続けているという。

 ――あの人は、現地に行って何をするつもりなんだろう。一体、何ができるというんだろう……。

「……チッ。今日は何だって、こんなに混んでるんだ」

 和機が苛立ちを込めた声を発するのと同時に、車が止まった。

 由機は窓の外に顔を向けたまま、横目でミラー越しに父の表情を窺った。

 ――違う。

「……何だ。どうかしたのか」

 和機が由機の視線に気づき、吐き捨てるように言った。

 ――この人は……あの人とは、全てが違う。

「一方、武器学校の所在地である阿見町と隣接する土浦市で、意識を失い昏睡状態に陥る人が現在まで数十人に上っていることが、NHCの調べで明らかになりました。これについて――」

 ラジオが伝えたその言葉。由機は凍りつくように動きを止めた。

 機十郎の刀に触れた楓が意識を失い倒れたこと、庭に現れた九七式中戦車――『霊山りょうぜん』に触れた自分もまた意識を失ったことが脳裏をよぎった。

 ――偶然じゃない。これは……偶然なんかじゃない!

「おい、由機。どうした?」

 和機が後部座席を振り返った時、由機は既にシートベルトを外していた。

「由機、何をしてるんだ! おい!」

 慌てて声をかける和機には目もくれず、由機は刀袋を手に車を飛び出した。

「由機、待ッ――!」

 そうこうしている間に、前方の信号が青に変わる。

「ぐッ……クソッ!」

 和機はダッシュボードに思い切り拳を叩きつけてから、ギアを前進に入れ換えアクセルペダルを踏み込んだ。

 固く奥歯を噛み締めたその顔は、敗北感に満ちていた――。


「次の停車駅は、常陸鴻巣ひたちこうのす。常陸鴻巣です」

 水戸行きの電車は玉川村たまがわむら駅を発車し、次の駅へと向かっていた。

 機十郎と楓の乗る車両は時間が早いこともあってか乗客も少なく、車内は静かだった。

「お祖父様。さっきの駅……矢祭山やまつりやまといったか。素晴らしい景色だったな」

 機十郎と向かいの席に座した楓が、感慨深そうに言った。

「うむ。車窓から久慈川くじがわが見えただろうが、あそこは鮎が名物でな。これからの季節は鮎釣りで賑わうぞ。釣りたての鮎の塩焼きは格別だ」

 そう言って機十郎は竿を振る動作を真似てみせる。髪と瞳の色を誤魔化す為にパナマ帽をかぶり、リムレスのサングラスをかけたその姿は若々しさに満ちていた。

「なるほど、それは楽しそうだ。ところでお祖父様、喉は乾かないか?」

「おお、助かる」

 機十郎が頷くと、楓はサイドバッグの中から缶のサイダーを二本取出し、一本を機十郎に差し出した。

「すまんな」

 言うが早いか機十郎は缶の上部にあるプルトップを人差し指で起こし、そのまま力任せにもぎ取った。

「……うむ?」

 機十郎は笑顔のまま、固まった。

「……何だ、これは。不良品か?」

「お祖父様。今の缶ジュースはプルタブを取らなくていいのだぞ。こうして……」

 楓はもう一缶のサイダーを手に実演してみせた。

「プルトップを起こして……戻す。飲み口が開いただろう?」

「なるほど、なるほど。無駄なゴミが増えなくて済む、というわけか。こうすれば外したプルタブで怪我をする危険も少ない。よくできているな」

 感心する機十郎に楓は自身が開けたサイダーを差し出したが、機十郎は小さく手を掲げて首を横に振った。

「気持ちだけで結構だ、楓。こうすれば飲める」

 そう言って、人差し指で飲み口を押し込み、穴を開けた。いとも簡単に行っているが、相当な握力とそれを制御する技がなければできない芸当だった。

「おおっ」

 楓は逆に感心してそれを見守っていたが、機十郎が缶に口をつけるのを待って、自らもそれに続いた。

「……こうして、のんびり電車に揺られての旅も悪くないもんだ」

「ユキも一緒なら、もっと楽しかっただろうに」

 楓が寂しそうな笑みを浮かべて、言った。

「……そうだな」

 機十郎は缶を小さく呷ってから、車外に目を移した。

「ユキも……本当は来たかったはずだ。ユキが用意した弁当の分量を見て、お祖父様は何とも思わなかったのか?」

「まさか。俺はそこまでボンクラじゃないぞ」

 楓は眉をひそめ、小さく息を飲んだ。

「だったら何故、声をかけてやらなかったのか、と言いたいんだな」

 楓が無言で頷くと機十郎は口元を緩め、楓に向き直った。

「なあ、楓。お前も由機も、俺の愛する孫であり家族だ。それは分かるな」

 楓は機十郎の発した言葉に身体をびくつかせたが、やがて頬を赤らめ頷いた。

「そうだ、俺はお前達を愛している。だが、大人が子供にすべきことは限られている」

 機十郎はそこで言葉を区切り、小さく頷いた。

「俺は、由機が自分から言い出すのを待っていた。俺達大人がすべきことは、地図を指し示すことまでだ。道を選び、実際に歩くのは子供に任せなきゃならん。行き先が同じであれば同行して手助けはする。だが、『来い』とも『行こう』とも言ってはならん。少なくとも、俺はそう考えている」

 楓の表情に影が差すのを見て取った機十郎は、「ふふっ」と笑った。

「そんな顔をするな。由機は必ず来る。あの刀を持ってな」

「どうして、分かるのだ?」

 楓は身を乗り出して機十郎に迫った。

「簡単さ。『あいつ』の力が必要になるからだ。そして、由機は俺の孫だ」

 機十郎は不敵な笑みを浮かべた。

「乾杯といこうじゃないか、楓。俺の孫、由機に。お前の従姉妹、ユキに」

 楓はしばし戸惑っていたが、やがて機十郎の差し出した缶に自らの缶を突き合わせた。

「……うむ」

 機十郎は満足げに頷くと、缶を大きく呷って中身を空にした。

「さて……楓。そろそろいいだろう。お前の知っていることを、話してもらおうか」

 しばしの沈黙の後――。

「…………分かった。私も、話すべきだと思っていた」

 楓は缶を両手で温めるように持ち替え、機十郎の目をまっすぐ見据えた。

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