第十六話『切先の行方(後編)』

 御影石の墓石が、うっすらと土埃を被っている。亮介りょうすけは取っ手の付いた木桶から柄杓ひしゃくで水をすくい、上からそっとかけた。

 墓碑に刻まれた銘は『宮坂家之墓』。墓の下には機十郎とその妻――小枝子の遺骨が納められている。

 亮介はもう一度柄杓で水をかけ、墓の周囲を見渡した。むしり取った大量の草が、焼却炉の近くにまとめて置いてある。

 毎年行われる大清掃は七月下旬なので、園内の至る所に草が生い茂っている。

 宮坂家の墓とその周囲に限って草むしりをしたが、それでも夏草の勢いは手に余り、放課後すぐにやって来て作業を始めたにもかかわらず、草むしりが終わったのは午後六時過ぎだった。

 自分がむしった草の中に美しい花があることに気付き、胸に小さな痛みを覚える。

 初夏から秋にかけて、白く美しい花をつけるヒメジョオン。その可憐な見た目とは裏腹に猛烈な繁殖力を持ち、侵略的外来種としてマークされている厄介な植物でもある。

 亮介はヒメジョオンの生物学的な位置付けはおろか、その名前すら知らない。ただ、美しい花をむしってしまったことに心を痛めていた。

 やがて小さくため息をついてから、水に漬けた雑巾を絞って墓石を磨き始める。

 早く終わらせなければ日が暮れてしまう。暗闇の中で墓石を磨くという事態だけは避けたい。

 右の側面を磨き上げただけで、雑巾の表面は真っ黒になっていた。再びため息をついてから、雑巾を桶に着けてすすぎ、水を絞る。

 雑巾はいくらか白さを取り戻した。

 今度は墓石の後に回り、背面を磨く。無意識のうちに、正面から向き合うことを避けていた。

 亮介はふと手を止め、右の掌をじっと見つめた。ついこの間、人を殴ったのと同じ手で墓石を磨いていることに、耐えがたい罪悪感を覚えた。

「くそ、親父の奴……」

 苦々しい表情で舌打ちして父――康介こうすけを罵る。

 酸で焼かれるような胸の痛み。墓参りを命じたのは間違いなく、自分にこの苦痛を与える為だろう。

 胸の痛みはじわじわと広がり、やがて背中にまで波及する。

「ぐッ……」

 亮介は小さく唸ると、その場にうずくまった。

 とっくの昔に完治したはずの古傷が痛む。心臓のちょうど真後ろにある傷痕が、鼓動に合わせてずきずきとうずいた。

「……じいちゃん」

 絞り出すようにして声を発する。その目からは涙が滲にじんでいた。


「ぶえっくしッ!」

 機十郎が大きなくしゃみをした。

「もう、気をつけてください。材料に鼻水が入ったりしたら厭ですよ」

 機十郎と共に台所に立っていた由機は顔をしかめながら、ティッシュを箱ごと差し出した。

「すまん、すまん。きっと誰かが俺の噂をしているんだろう。ひょっとすると、さっきのかも知れん。ふふふ」

「自意識過剰ですよ」

「お前はさらっと、ひどいことを言うな。一体、誰に似たんだか」

 機十郎は口を尖らせながらティッシュを一枚取ると、半分に折り畳んで鼻をかんだ。

「知りませんよ」

 由機は鼻を鳴らしてそっぽを向いた。

 由機と機十郎はこの日も楓の自宅に身を寄せることになった。由機は両親が学校に連絡を寄越すのではないかと身構えていたが、授業が終了し生徒会の業務が終了するまで両親からのコンタクトは一切なかった。

 由機は安堵すると同時に、深く失望した。

 楓は三人で帰宅した後、用事があると言って出かけてしまった。由機は機十郎と二人きりで残されることに一抹の不安を覚えたが、自身が『祖父』と向き合う時間を用意されたのだと理解し、家に残って夕飯の用意を手伝うことにしたのだった。

「おっと。いけない、いけない」

 機十郎はふと、何かを思い出したように呟くと、蛇口をひねって流水で手を洗い、エプロンで拭った。

「どうしたんですか?」

 機十郎は質問に答えることなくスラックスのポケットを探り、一枚の五百円硬貨を取り出すとうやうやしく差し出した。

「えっ? ……何ですか、これ?」

「昨日借りたサイダーの代金だ。あの軍票と硬貨、思ったよりも高い金額で買い取ってもらえたぞ」

 機十郎は屈託のない笑顔で言った。

「あ……多過ぎますよ。三三〇円だったじゃないですか」

「利子だ。いいから、取っておいてくれ」

 由機は数秒の逡巡の後、そっと手を伸ばして真新しい白銅貨を受け取った。

「ありがとうございます」

「礼には及ばん。借りた金を返しただけからな。さて、気を取り直して飯の支度に取り掛かるか……楓が帰って来る前に、あらかた用意を済ませてしまおう」

 機十郎は口を開けた薄力粉と強力粉の袋を前に、不敵な笑みを浮かべた。


「なんだか、申し訳ない。私は食べるばかりのようではないか」

 食卓に着いた楓が、かしこまった様子で言葉を発した。

「由機、スープとご飯を持っていってくれ」

「はい!」

 食卓の上には香ばしく焼き上げられた焼き餃子に湯気を立てる水餃子、青梗菜ちんげんさいと椎茸の炒め物に胡瓜の和え物などが所狭しと並んでいる。

 餃子はそれぞれの大きさも具材の量も均一で、皮には美しいひだがある。その仕上がりは中華料理店のそれと比較しても、まったく遜色がない。

「それにしても……これは一体。お祖父様が、こんなに料理が得意だったとは」

 細切り豆腐と卵のスープにご飯を盆に載せて持って来た由機は、自分も分からないとばかりに、首を横に振った。

「おーい、お前達。冷めないうちに食べたらどうだ? 今、焼いているので最後だ。これが終わったら俺も席に着くからな」

 機十郎は台所から由機に声をかけてから、餃子を並べたフライパンに湯を回し入れた。そして勢い良く水分が蒸発する音と共に湯気が立ち昇ると、すかさず蓋をかぶせる。

 由機と楓は顔を見合わせ、困ったような笑みを浮かべると、互いに小さく頷いた。

「焼けるまで待ってますよ。一緒に食べましょう」

「……そうか、分かった」

 機十郎は背中を向けながら応えた。


「いただきます」

 機十郎が手を合わせて食卓を拝むと、由機と楓もそれに続く。

「こっちの皿のは焼いたばかりだ。さあ、食べてくれ」

 機十郎が笑顔で湯気を立てる餃子の皿を示す。

「……では」

 楓は待ちきれないといった表情で焼き餃子を箸で一つ取ると、何も付けず口に運んだ。

「…………っ!」

 そして餃子を一口かじるなり、小さく身体を震わせた。

「楓ちゃん?」

 楓は無言で餃子を口の中に収め、目を閉じてゆっくりと噛み締め……それを飲み下すとゆっくり目を開いた。

「……お、おいしい……!」

 楓がうっとりとした表情で発したのは、たった四文字の形容詞。しかし、その味を表現するのに余計な言葉は無用だった。

「わ、私も!」

 由機は唾を飲み込むと、辛抱たまらないとばかりに、美しく列をなす焼き餃子に箸を伸ばした。

 思い切って一個丸ごと口の中に入れ、静かに噛み締める。

「…………っ!」

 片面を香ばしく焼かれた皮はほどよい厚みで、上質の手延べうどんにも似た心地良い弾力。歯がそれを噛み切ると、肉と野菜のうまみが奔流となって口の中に迸ほとばしる。

 醤油の風味と仄かな甘みが豚肉と白菜、ニラと葱、椎茸の風味をまとめ上げ、生姜の風味が全体を引き締める。歯応えを残したそれぞれの具材が噛むたびに口の中で踊る――。

 一般に考える『餃子』の範疇を遥かに超えた、異常なまでの存在感。主食とスープと主菜と副菜を同時に、しかも全く違和感なしに味わえるような、圧倒的なまでの満足感だった。

 十回ほど咀嚼した後でそれを飲み込み、由機はようやく言葉を発した。

「こ……こんな……」

 ――こんな餃子……食べたことない――!

 重量にして三〇グラム弱……たった一つの餃子が、巨大化して目前に迫って来る錯覚に陥った。

「お祖父様、これは一体……どんな魔法を使ったのだ?」

 額に一筋の汗を流しながら、楓が機十郎に問いかける。

「魔法なんざ使っちゃいないさ。俺が五十年以上年前に満洲で覚えた作り方だ。まあ、その時々で具材や味加減を変えたりはしているが。ところで、他のも食べないと冷めてしまうぞ」

「あ……はい!」

 由機と楓は正気に戻ったように頷くと、スープをレンゲで一口すくって飲み、ほっと一息ついた。

「お気に召したようで何よりだ」

 機十郎は満足げに言うと、自らもスープを一口啜った。

「戦車学校にいた頃、たまに材料を買い込んで作っては皆で食べたもんだ。向こうでは水餃子が主流だから、茹でて食べることが多かったがな。軍の飯は和・洋中心で中華料理が少ない。せっかく満洲にいるのに満洲の料理が食べられないのは、つまらないからな」

「こんな、おいしい餃子……私、初めて食べました」

 由機が漏らした言葉に、機十郎が顔を綻ばせる。

「それは何よりだ。それにしても、初めて……か。お前が小さい頃にも何度か作ったんだがな。まあ、覚えていないのも無理はないが」

「そう……なんですか」

 由機は煮え切らない返事をした。自分には機十郎の作った料理を口にした記憶がない。その味を懐かしく感じたジャム入りの紅茶も、機十郎と共に飲んだ記憶はない。

 当時から両親が忙しかったことを考えれば、機十郎が代わりに食事の用意をしていたというのも十分にあり得ることなのだが……。


「うぅぅ……苦しいよぉ……」

「流石に食べ過ぎた……これでは太ってしまう……」

 由機と楓ははち切れそうな腹を押さえ、畳に転がっていた。食卓の上は綺麗に片付けられ、台所からは食器を洗う音が聞こえてくる。

「お祖父様……申し訳ない、洗い物まで……」

 横になったままで楓が言葉を発した。

「気にするな。食材の入手から後片付けまでが料理だからな」

 やがて、洗い物を終えた機十郎が居間へと戻って来る。

「餃子は生のものが冷蔵庫に二十四個あるぞ。明日の昼にでも食べてくれ」

「え……?」

 「食べよう」ではなく「食べてくれ」という言葉に、由機は違和感を覚えた。

「……ああ、明日だが」

 それに気づいてか、機十郎は座布団に腰を下ろして話を切り出した。

「俺は土浦に行ってくる。帰りは夜になるだろうな」

「土浦……もしかして」

 楓がゆっくりと身体を起こす。

「ああ、武器学校だ。何が起きているのか、この目で確かめたい」

 機十郎はいくらか表情を引き締めて言った。

「さっきニュースで観ましたけど、駐屯地の周辺は警察に封鎖されてるそうじゃないですか。きっと、入れてくれませんよ」

「心配いらん。今の校長が技本ぎほん(技術研究本部)にいた頃、何度か会ったことがある。武器学校にも何度か足を運んだ。頼めば、便宜を図ってくれるだろう」

「便宜を……って、一体どんなつながりですか?」

 由機もまた身体を起こし、問い質した。

「新型戦車開発と運用の参考に、実戦経験者として意見を求められたのさ。ソ連戦車と交戦しただけじゃなく、実際に搭乗した経験もある人間は、そうそういるものじゃないからな」

 機十郎はこともなげに言い放った。

「実際に搭乗……?」

 言いかけて、楓の脳裏に蘇ったもの。それは祖母ナターリヤと共にソ連軍の軍服を身に纏い、T‐34戦車の前に立つ機十郎の姿を収めた一枚の写真だった。

「話せば長くなる。昔語りはまたの機会にしよう」

 機十郎は苦笑すると、エプロンを外して手早く畳んだ。

「まあ、というわけで……十一時前には現地に到着したいと思っている。朝の五時半には出発するつもりだ。お前達、明日は学校も休みだろう? 俺のことは気にせず、ゆっくり起きるといい」

「……お祖父様」

 楓はその場に正座し背筋を伸ばし、機十郎に向かい合った。

「何だ、楓?」

「私も、連れて行っては――」

「駄目だ」

 機十郎は楓の言葉を途中で遮った。その目には鋭い光が宿っていた。

「決して、足手まといにはならない」

 機十郎の視線を真正面から受け止めながら、楓がなおも食い下がる。

「……何を言っているんだ、楓。戦いにでも行くつもりか」

「お祖父様こそ。一人で行こうとしているのは、何らかの危険を想定しているからだろう?」

 室内に重苦しい沈黙が訪れる。由機は、いつの間にか自分も居住まいを正していることに気付いた。

 初めて目にした、楓と機十郎の衝突。口を挟める雰囲気ではなかった。

「……であれば、どうだと言うんだ」

 機十郎は表情を変えることなく、再び楓に問いかけた。

「明日の夕飯は、コトレータ(スラヴ風カツレツ)を作ろうと思っている」

「……何?」

 楓が発したのは、意外な言葉だった。

「お祖父様は、必ず無事に帰って来る。そして、私の作った夕飯をユキと一緒に食べる。絶対に、だ。確約ができないと言うのであれば、私はお祖父様を拘束する」

 機十郎がかすかに口元を緩める。

「なるほどな。三人で食事をすることが、お前にとっての最優先事項か」

 楓は機十郎の瞳を捉えたまま、静かに頷いた。

「……いいだろう。お前も出かける用意をしろ」

「お祖父様、ありがとう」

 ――私は……

 楓と機十郎のやり取りを見守りながら、由機は心の中で呟いた。

 ――私は、どうすればいいの?


 ――どうしてだろう。

 由機は灯りの消えた天井をぼんやりと見つめていた。

 ――どうしてあの時、言えなかったんだろう。『私も行きます』って。

 静かに寝返りを打ち、隣の布団に横たわる楓を見る。

 ――楓ちゃんと、あの人にもしものことがあれば、私は――。

 由機はかぶりを振って、掛布団を顔の上まで手繰り寄せた。機十郎と楓に『留守を頼む』と言われ、ただ頷いてしまった二時間前の自分が……たまらなく憎い。

 ――せっかく、一緒に食事をしてくれる家族ができたのに。私の作った料理を『おいしい』と言って食べてくれる家族ができたのに。私においしい料理を食べさせてくれる家族ができたのに……。

 由機は声を殺して、布団の中で泣いた。


「何も異常はありません。ただ……眠ってるだけなんですよ」

 内科医――佐藤康晴さとう やすはるは、受話器の相手に困惑しきった声を伝えた。

「ええ……はい。同じ症状の患者が今夜だけで三人運ばれてきました。え? まさか、何も。こちらはただ、寝かせておくしかできませんよ。とにかくもう、病床はいっぱいです。さっきも急患の受け入れを断ったばかりなんですから……ええ、お願いします」

 佐藤がため息交じりに受話器を置いたところに、当直の看護婦が声をかけた。

「先生、二〇五号病室の田中たなかさんのご家族が見えています」

「分かった、今行く」

 佐藤は苦虫を噛み潰したような表情で席を立った。深夜にもかかわらず、病棟は慌ただしかった。

 この二日間で、急患は六件……いずれも症状は同じ。眠ったまま、目を覚まさないというものだ。

 奇妙なことに患者の住所及び発見現場は、いずれも阿見町と土浦市内に集中している。

 何か大変なことが起きているのではないか――そう思わずにはいられなかった。

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