第十五話『切先の行方(前編)』

「……足元が涼しいな」

 由機の隣を歩きながら、楓が呟いた。

「まだ朝だからね。でも、日が上がると……って」

 由機は楓の足元を一瞥してから、言葉を続けた。

「楓ちゃん。まさか、スカートを履いたことがないわけじゃないよね?」

 楓が無言で由機の瞳を見つめる。それが抗議の意味であることを察し、由機は「ごめん」と小さな声で詫びた。

 楓は普段履いているスラックスではなく、スカートと黒いニーソックスを履いていた。軍刀も機十郎に預けてある為、その装いは他の女子生徒と変わらない。

「謝るほどのことではあるまい。事実、スカートを履くのは久し振りだからな」

 その言葉に、由機が歩みを止める。

「どうした、ユキ?」

 楓もまた立ち止まり、由機に声をかけた。

「楓ちゃん。つまり……普段はズボンを履いてるってことだよね」

「ああ。ジーンズやショートパンツなども履くが。それがどうした?」

 由機は目を伏せ、言いにくそうに切り出した。

「だったら……制服じゃなくて、そっちを貸した方がよかったんじゃ……」

 楓はしばし無表情で由機の目を見つめていたが、やがて頬を赤く染め、両手で顔を覆った。

「ごめん。もっと早く気がつくべきだったね」

 由機は苦笑しながら楓の肩に手を置いた。


 楓が由機を伴って自宅に戻った際、機十郎が二人に相談を持ちかけた。

「外に出るにも、軍服じゃ目立つだろう? 服を貸してくれないか」

 楓の行動は素早かった。部屋の奥に飛び込むと、すぐにワイシャツとスラックスを持って「ならばこれを」と差し出したのだった。

 笑顔の機十郎に送り出された後で、由機はようやく楓がスラックスではなくスカートを履いていることに気づく。

 つい先ほどまで自身が履いていたスラックスを躊躇ためらうことなく差し出したことに驚きはしたが、それも楓なりの愛情表現なのだと考え、敢えて触れずにいた。

 寧ろ、家族の為にそこまで思い切った行動を取れることに敬意さえ抱いた。


「……私は、なんとはしたないことを……」

「本当は、ちょっと気になったんだけど。分かっててやったものだとばかり……」

 由機は肩を落とす楓の背中を優しく押し、再び歩み出した。

「あーっ!」

 由機と楓が気を取り直して二、三歩進んだところ、突然、背後から大声が上がった。

「由機ぃ! おっはよぉ!」

 声を弾ませて駆け寄ってくるのは、生徒会副会長の緑川麻衣子だった。

「あ……麻衣ちゃん、おは――」

「三宝荒神さんだよね、おはよう! どうして由機と一緒に登校してるのぉ?」

 麻衣子はまるで由機の声が耳に入らないかのように、目を輝かせながら楓に迫った。

「ああ、私は――」

「あっ、ごめん、ごめん! 自己紹介がまだだったね。私は緑川麻衣子! 由機からは『麻衣ちゃん』て呼ばれてるの。由機と同じ生徒会にいるんだよ、よろしくね!」

 呆気に取られる由機をよそに、楓は落ち着き払って居住まいを正し、両手を揃えてお辞儀した。

「三宝荒神楓だ。よろしく頼む」

「よろしくっ、三宝荒神さん! ねえ由機、生徒会室に行くんでしょ? 早く行こ、三宝荒神さんも一緒に! あっ、そういえば今日はスカート履いてるの? ざーんねん。スラックス姿が見たかったのになぁ。それにしても、足長~い! いいな、いいなぁ。ちょっとでいいから分けてよぉ。あっ、そういえば刀は持って来てないの?」

 麻衣子が矢継ぎ早に言葉を浴びせると、さしもの楓も勢いに押されて言葉を失う。

「ま、麻衣ちゃん。話は、その……とりあえず校舎に入ってからにしようよ、ね」

 由機は周囲を気にしながら、麻衣子を宥めた。

 校舎の大時計は午前七時半を指していた。始業まではまだ時間がある為、校門を通る生徒の数は少ない。


「……何それ、まるで映画みたい……!」

「私も驚いたんだけどね。でも、旧ソ連に抑留された旧日本軍の軍人が現地の女性と結婚することも、場所によってはあったらしいわ」

 由機と楓は互いの関係と現在に至るまでの経緯を麻衣子に説明した。

 無論、自分達が体験した超常現象と、祖父――機十郎が生き返って同居していることには触れていない。

「でも……よかったの? 私に話しても」

 麻衣子は小さく身を屈め、声をひそめるようにして二人に問いかけた。

 生徒会室には由機と楓、麻衣子の三人しかおらず、他の役員もこの時間に訪れる予定はない。しかし、友人のプライバシーに立ち入った話だけに、麻衣子も慎重な態度を見せた。

「うん。私は麻衣ちゃんのこと、信頼してるから」

 そう言って由機が微笑むと、楓も安心したように微笑んだ。

 両親以外の誰かに楓を自分の家族として認めてもらいたいという気持ちが、由機の心には芽生えていた。

「ところで麻衣ちゃん、今朝のニュース観た?」

 由機は気を取り直して、尋ねようと思っていたことを口にした。

「今朝の……って、自衛隊の戦車と大砲が失なくなったって話?」

「うん。麻衣ちゃん、前に話してたでしょう? ロシアや東欧で、昔の戦車が夜中、独りでに動き出したり、何もない場所からキャタピラの音が聞こえたりするっていう。それと同じことが日本でも起きたのかしら」

 由機の発した言葉に麻衣子が目を丸くする。

「ねぇ、由機。そんなことが本当に起こると思うの? 私はただ、そういう噂があるって言っただけだよ?」

 由機は一瞬だけ楓と顔を見合わせてから、言葉を紡いだ。

「でも、駐屯地の入り口やフェンスに破られたような痕はないって言ってたわ。それなのに、街の人は戦車が走るような音を聴いたって。どう考えても、おかしいと思わない?」

 麻衣子の表情に困惑の色が浮かぶ。

「だからって、ちょっと発想が飛躍し過ぎ。その言い方だと、戦車がフェンスをすり抜けて飛び出してったみたいじゃない。きっと、事務処理上のミスとかだよ。他の場所に移動したのに、書類ではそのままになってたとかさ」

「……それはない。今回、紛失したとされるのは、いずれも同地に駐屯する武器学校が研究用として保管していた資料だ。駐屯地の外へ持ち出す可能性は皆無に等しい。仮に何らかの事情で持ち出すとしても、戦車二輌に火砲四門を移動するとなれば、厳正な手続きが必要だ。書類の一枚や二枚でどうにかなる話ではない」

 沈黙を保っていた楓が、落ち着き払って反論した。麻衣子は尚も困惑の表情を浮かべていたが、やがてためらいがちに口を開いた。

「それじゃ、本当に戦車が『消えた』っていうの? ……幽霊じゃあるまいし」

「幽霊か。日本には付喪神つくもがみという伝承があるな」

 楓が呟くように言った。

「つくもがみ?」

 由機が聞き返すと、麻衣子が小さく頷いた。

「平たく言えば、道具のお化けのこと。『から傘お化け』とか、漫画やテレビで見たことあるでしょ? 日本には元々『八百万やおよろずの神』って考え方があるけど、自然物だけじゃなくて人工物にも魂が宿るって言われてるの。道具は使い続けて百年経つと化けるって昔の人は考えてたから、九十九年経ったらそれを捨てるようにしてたって本で読んだことあるよ」

 由機は思わず身震いをした。傘のお化けどころか、自分は戦車のお化けを目の当たりにし、しかもそれに触れてしまったのだから。

「そういえば、アメリカ映画には自動車が意思を持って人を襲うという内容の作品がいくつかあるな」

「えぇっ! 人を襲う?」

 一瞬にして由機の顔が青ざめる。

「映画の話だって言ってるじゃない……」

 麻衣子は苦笑しながら由機をたしなめた。


 放課後の図書室は静かだった。

 テスト勉強の為に図書室を利用することは禁止されている為、室内に生徒の数は少ない。

「……三宝荒神先輩」

 背中に控えめな声を受け、楓はゆっくりと振り返った。

園原そのはら君か」

 後に立っていたのは、同じ文芸部員の園原初美そのはらはつみだった。

「あの……隣、いいですか?」

 初美は数冊の本を手にしながら、緊張を隠せない様子で尋ねた。

「構わないが」

「ありがとうございます」

「礼には及ばない」

 初美が自分の左隣の席に着くのを認めると、楓は手にしていた本に再び目を落とした。

「何を、読んでるんですか?」

「……『こころ』」

 視線はそのままに、タイトルのみを答える。

夏目漱石なつめそうせき、好きなんですか?」

「小説はあまり好きではない。あくまで教養と思って読んでいる」

 初美が一瞬だけ眉をひそめた。

「読書の在り方として、あまり褒められたものでないことは分かっている」

「えっ。はい……」

 自分の心を読んだかのような楓の言葉に、初美が小さく肩をすくめる。

「君は文集の資料集めか」

 初美が机に重ね置いた本の背表紙に視線を移して、楓が言った。

「はい。戦前の地域史を調べてて。こういう本は持ち出せませんから」

 分厚い本の背表紙にはいずれも『禁帯出』のラベルが貼られていた。

「来週の期末試験よりも四カ月先の文化祭に備えている、というわけか。君は堅実だ」

 初美が再び眉をひそめる。

「皮肉を言ったつもりはない。言葉通りの意味だ。普段から予習と復習をしっかり行っていれば、試験直前に慌てる必要もない」

「え、はい……」

 初美は拍子抜けしたような表情で頷くと、自らも本を手に取った。

「あの……三宝荒神先輩」

 初美は落ち着かない様子でページを手繰たぐりながら、小さな声を発した。

「何だ」

「意外と、喋るんですね。もっと無口な人だと思ってました」

「……相手による。誰とでも、こうして話すわけではない」

 楓は明朝体の小さな文字を目で追いながら答えた。

「そう……ですか」

 初美は何か言いたげであったが、楓がそれ以上口を開こうとしないので、やがて自らも無言で本と向き合った。

 二人の会話が終わると同時に、図書室には再び静寂が訪れた。


「初美ちゃん」

 文字通り資料に没頭していた初美は、背後からの声にハッとして振り返った。

「あ……先輩」

 振り返った視線の先で、由機が微笑んでいた。

「……生徒会の活動は終わったのか?」

 楓は本に目を落としたまま、言葉を発した。

「滞りなく、ね。明日は第二土曜でお休みだし、試験期間終了まで生徒会活動もお休みになるわ」

「……そうか」

 楓は静かに本を閉じると、顔を上げて初美に視線を向けた。

「帰ろう、園原君」

「えっ?」

 初美は予想外の言葉に唖然とした。

「君に知っておいてもらいたいことがある。ユキと話し合って決めた」

「あ、はい……」

 初美は頷きかけて、楓が『宮坂君』ではなく『ユキ』と口にしたことにようやく気付いた。

「私はこの本を借りてくる。君も帰り支度をしてくれ」

 楓は表情を変えることなく言うと、席を立った。

 戸惑いの表情を浮かべる初美に由機が微笑みかける。

「ごめんね、きっと驚くと思うんだけど」

「はぁ……」

 初美は気の抜けた返事をしてから、自らも本を閉じて席を立った。

「その本、借りるんじゃなかったの?」

 貸出カウンターではなく本棚に向かう楓に、由機が声をかけた。

「『それから』」

 楓は背を向けたまま、ぽつりと呟いた。

「え? 『それから』……どうしたの?」

「そうではない。夏目漱石の『それから』も借りてくる」

 楓は振り返り、わずかに口元を緩めてみせた。

 初美が初めて見る、楓の笑顔だった。


 夕陽に染まった街に、懐かしくも物悲しい童謡のメロディが流れる。由機が話し終えたのは、午後六時の時報とほぼ同時だった。

 由機と楓、初美の三人はそれぞれ飲み物を手に、学校近くにあるスーパーの屋外ベンチに腰かけていた。

「何ていうか……映画みたいな話ですね」

 話を聞き終わった初美は呆然として感想を述べた。

「何はともあれ、これからよろしく頼む」

 楓が缶入りのミルクティーを手に小さく頭を下げると、由機もそれに続いた。

「私からも、よろしく」

「わっわっ、急にかしこまらないでください! その、私からも……よろしくお願いします」

 初美も慌てて頭を下げる。

「ふふっ」

 やがて由機が顔を上げて含み笑いを洩らすと、続いて初美も顔を上げ、困ったように笑った。

「でも、なんだかずるいです。いつの間にか仲良くなってたと思ったら、まさか従姉妹同士だったなんて。他人の私には、出る幕ないですね」

 そう言って初美は小さく肩をすくめた。

「すまない」

 楓が再び頭を下げる。

「いえ、謝るようなこと――」

「学校帰りに買い食いとは、感心せんな」

 突然浴びせられた男の声。由機達は驚いて声のした方へ振り返った。

「よぅっ」

 白のワイシャツに紺色のスラックスを身に着けた小柄な青年――機十郎が、両手に食品を詰めたスーパーの買い物袋を持って微笑んでいる。

「脅かさないでください……それに、校則に『買い食い禁止』とは書いてませんよ」

「ははは、そうか。すまん、すまん」

 由機が大きくため息をつくと、初美が「あの……」と小さく声を上げた。

「お知り合い……ですか、先輩」

 初美は機十郎の白い髪と赤い瞳を恐る恐る見た後で、由機に尋ねた。

「あ……!」

 口を開きかけて、由機は楓と顔を見合わせる。数秒間の無言のやり取りを経て、由機は小さく頷いた。

「初美ちゃん。この人は……そう! 楓ちゃんの親戚で、ウクライナの大学に通うニコライさん。大学がお休みで、日本に来てるのよ」

「ニコライ……さん。ウクライナの方、なんですか?」

 機十郎はきょとん、として目の前のやり取りを見守っていたが、楓が目配せをすると小さく頷き、咳払いをしてから――。

「ターク(はい)。ワタシ、ニコライ=クラウチュークと言いマース。アナタは、カエデとユキの、トモダーチデスかー?」

 身振り手振りを交え、日本人の思い描く欧米人のイメージを体現してみせた。

「あ……はい。園原……初美です。お二人の後輩なんですが……その」

「シショー(何ですか)? 何デスかー?」

 初美は数秒の沈黙の後で、言いにくそうに言葉を発した。

「どうして……急に片言かたことになったんですか?」

「アー…………」

 機十郎は二、三度瞬きをしてから、由機と楓に助けを求めるような視線を送った。

 ニセ外国人そのものといった機十郎のわざとらしい演技を困惑の表情で見守っていた二人は、ようやく我に返って顔を見合わせた。

「あっ……やだなぁ、ニコライさん! そういう冗談は受けないからやめてくださいって、言ったじゃないですかー!」

 由機が上ずった声でその場を取り繕うと、楓が「そうだそうだ」とばかりに頷く。

「えっ……冗談……だったんですか?」

 初美がきょとん、として聞き返すと、楓は小さく咳払いをして機十郎に向き直った。

「ユキの言う通りだ。笑うどころか、困っているではないか」

「アー……」

 どう返事をすればよいか機十郎が迷っていると、初美がクスリ、と笑った。

「……面白い人ですね、ニコライさんって」

 機十郎の顔が、ぱあっと明るくなる。

「おい、聞いたか! 面白いと言ってくれたぞ!」

「あぁ……はいはい。ところで、こんなところで何してたんですか?」

 安堵と呆れの両方を顔に浮かべながら由機が尋ねると、機十郎は両手のビニール袋を掲げて見せた。

「スーパーに来たのだから、目的は買い物に決まっている。夕食の買い出しは済んだぞ」

「えっ? 夕食の買い出し……ですか?」

 機十郎はにっこりと微笑んで頷いた。

「それにしても、今の日本には消費税などというものがあるんだな。百円の品を買うのに三円も払えとは、まったくもってしからん」

 笑顔から一転、機十郎は口を尖らせて不満を漏らした。

「あの。日本語……とってもお上手なんですね」

「お上手……うむ。キエフ大学で日本文化を学んでいるからな」

 機十郎はそれらしい言葉を述べ、初美に微笑んだ。

「キエフ大学……キエフって、ウクライナの首都ですよね。日本でいうと東大みたいなものじゃないですか。優秀なんですね!」

 賞賛の言葉を受けて機十郎は「いやいや」と手を横に振り、謙遜して見せたが、満更でもないといった表情である。この役柄を演じるのを楽しんでいるようだった。

「それにしても、実に可愛らしいお嬢さんだ。君さえよければ、一緒に夕食をどうかな? 満洲仕込み……じゃなかった、ウクライナ風の餃子ぎょうざをご馳走しよう」

「え……っ」

 初美はぽかん、とした顔で機十郎の赤い瞳を見つめていたが、やがて顔を真っ赤にして立ち上がった。

「わっわっ、私! その……家の手伝いがあるので! お……お気持ちだけ頂戴ちょうだいします! それじゃ、あの……これで失礼します!」

 初美は一方的に言うと、慌ててその場を走り去った。

「初美ちゃーん! またね!」

 由機は初美の背中に別れの言葉をかけたが、初美は振り返ることなく走り続け、そのまま視界から消えてしまった。

「……お祖父様」

「何だ、楓?」

 初美の後姿を楽しそうに眺めていた機十郎を、楓が上目遣いに見る。

「お祖母様にも、あのようにして声をかけたのか?」

 質問をはぐらかすかのように機十郎が声を上げて笑うと、由機と楓は同じタイミングでため息をついた。

「さて……帰ろう」

 楓は缶を呷ってミルクティーを飲み干すと、立ち上がって由機に微笑んだ。

「うん」

 由機も同じように缶の中身を空にすると、席を立ち――。

「行きましょう、『ニコライ』さん」

 目を伏せたまま、機十郎に声をかけた。

「俺は……ニコライ、か」

「……誰かと話す時にボロが出たら困りますから。これから、そう呼ばせてもらいます」

 由機は小さく咳払いをして、付け加えた。

「ふぅむ……それも面白いな」

「喜ばないでくださいよ」

 由機が小さくため息をつくのを合図にしたかのように、三人は家路に就いた。

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