第八話『帰ってきた戦車兵(後編)』

「どうぞ、上がって」

「お邪魔します」

 由機に促された楓は玄関で靴を脱ぎ、来客用のスリッパに履き替えた。

「立派な家だな。庭も広くて綺麗だ」

「そう? あ、居間はこっちね。私の部屋には大きな机がないから、居間で勉強しましょう」

 由機は楓に微笑みかけると、廊下の向こうを指して案内した。

「わかった。ありがとう」

 期末試験まで十日。試験期間終了までは部室を使うことができないので、由機は楓を自宅に招いて勉強を教えることにした。

「こっちに座って。今、飲み物を持っていくから」

 由機はそう言って楓を座らせた。

「どうぞお構いなく」

 楓が無表情で返すと、由機は思わずクスリと笑った。

「どうした」

「三宝荒神さんがあんまり普通のことを言うから、なんだかおかしくって」

「ひどいことを言う」

 楓が小さく口を尖らせたように思えた。

「ごめんね」

 いたずらっぽく笑うと、由機は台所へ向かった。楓の小さな表情の変化が見て取れるようになったことが、嬉しかった。


「三宝荒神さん。ちょっと休憩しない?」

「……そうだな」

 楓がペンを置いたのを見計らい、由機もペンを置いて大きく伸びをした。

「ん……っ! さてと。今、お菓子でも持ってくるね」

「ありがとう、宮坂君」

 由機はにっこりと微笑んで席を立った。楓と自然な会話ができるようになったことが、嬉しかった。

 台所へ向かおうと踵を返したところで、由機はあることを思い出した。

「どうした、宮坂君」

 ややあって、楓は由機の視線が傍らに置いた刀袋に注がれていることに気がついた。

「これが気になるか。無理もないな」

「うん。気にはなっていたんだけど……その中には刀が入っているの?」

 楓は無言で頷くと、刀袋を手にした。

「そうだ。竹刀や木刀ではない。見たいのか?」

「え……そういうわけじゃないんだけど。ただ、三宝荒神さんは刀のお手入れの仕方とか、分かるのかなって」

 楓が目を丸くした。

「妙なことを言う。こうして持ち歩いているからには、それくらいできて当然ではないのか」

「当然……確かに、そうだよね。自分の持ち物なのに、手入れもしないなんて……おかしいよね」

 うつむく由機を前に、楓が表情を引き締めた。

「私で力になれることなら、相談に乗るが」

「本当?」

 楓は大きく頷いた。

「当然だ。友として君の力になりたい」


「それでね、その刀はこっちにあるの。戦後に作られた刀だから美術的価値は無いって私の父は言ってるんだけど」

 由機は居間から仏間に通じるふすまを開けて、一歩足を踏み入れた。

「ずっと仕舞ったままだったから、それもいけないと思って。でも、刀の手入れができる人が周りにいなくて……三宝荒神さん?」

 振り返ると、楓が自分の後ろで呆然と立ち尽くしていた。

「……どうしたの?」

 楓の目は壁にかけられた遺影に向けられていた。

「ポルーチク・キージェ……? いや、そんなはずは……」

 うわ言のような楓の呟きには、聞いたことのない言葉が含まれていた。

「三宝荒神さん。私の祖父母の遺影がどうかしたの?」

「宮坂君。君がお祖父様から受け継いだという刀を、見せてくれないか」

 楓の頬を汗が伝うのが見えた。彼女が動揺するのを初めて見た瞬間だった。

「もちろん。その為に、この部屋へ呼んだんだから」

「ありがとう……あっ」

 楓は何か思い出したかのように、小さく声を上げた。

「どうしたの?」

「仏間に上げてもらいながら、不作法ぶさほうをするところだった。その前に線香を上げさせてほしい」

 自分を落ち着かせるように言うと、楓は小さく頭を下げた。


 線香の香りが漂う仏間で、由機は古びた袋棚を開けた。

 棚の中には機十郎が生前に使っていた道具などが入っており、その奥に由機が形見として受け継いだ刀があった。

由機は木綿の刀袋に包まれたそれを取り出すと、紐を解いた。

 中から現れたのは、登録証を巻きつけた白鞘しらさや(白木で作られた柄と鞘のみの拵え)の刀だった。

 柄と鞘を含めた全長はおよそ九〇センチ。反りの少ない、やや短めの刀であることが分かる。

「やはり……!」

「どうしたの?」

 楓は由機の問いかけには答えず、自らの持つ革製の刀袋のジッパーを開け、綿の刀袋に包まれた刀を取り出した。

 楓が丁寧な手つきで刀袋の紐を解くと、中からは茶褐色の鞘とつか、金色のつばを備えた一振りの刀が現れた。

 拵えは時代劇で見るものとは大きく異なり、由機にはそれが古風なものに思えた。

「これ……古いものなの?」

 楓は首を横に振った。

「これは昭和に入って作られた日本陸軍の軍刀だ。刀身は南満洲鉄道の刀剣製作所で二〇世紀の冶金やきん技術を用いて打たれたもの。この拵えも昭和一三年に制定された様式で、古くはない。それより……」

「えっ? あ……!」

 楓の言わんとしていることを、由機も理解した。

 機十郎の形見の刀と楓が持ち歩いている軍刀は、長さも反りも、目釘めくぎ(刀身と柄を結合する釘)の位置までも一致していた。

「……宮坂君」

 それは、喉から絞り出すような声だった。

「私は……君に話さなければならないことがある。だが、その前に……お祖父さまの刀を手に取って見てみたい」

 楓の鬼気迫る表情に気圧されて、由機はただ無言で頷いた。

 楓は白鞘の刀を前に、畳に手を着いて一礼した。そして口に一枚の紙を咥えると、右手に柄、左手に鞘を持ち、刃を上にしてゆっくりと鞘を抜き払った。

 十年ぶりに鞘から解き放たれた刀の全貌を目にして、由機は思わず声を漏らした。

「不思議な色……綺麗」

 その刀身は、水に濡れたような青く美しい輝きを放っていた。

 静かな湖の水面みなものような、吸い込まれそうなほどに深い青。その美しさは、およそ武器とはかけ離れたものに思えた。

 楓は刀身全体を見渡すと、傍らに置いた長さ三〇センチほどの刀枕の上に刀身を横たえた。

「おそらく偶然できたものだろうが……表面に黒錆の膜ができている。どうやら、そのおかげでこの刀は腐食を免れたらしい」

 自らの吐息が当たらないよう、刀から顔を背けながら楓が説明した。

「えっ、これが黒錆……? でもよかった。ボロボロになってな――」

「宮坂君。頼みがある」

 楓は由機が言い終わる前に口を開いた。

「な……何?」

「お祖父さまの刀が……この軍刀の拵えに合うか確かめたい」

 楓の瞳には刀の青い輝きが宿っているようだった。

「……うん」

 戸惑いつつも由機が頷くと、楓は一礼して刀を鞘に納め、自身の軍刀を手に取った。

 真鍮製の目釘抜きで柄の目釘を押し出して抜き、柄に備えられた駐爪ちゅうそう(鞘が柄から抜けないようにするストッパー。陸軍軍刀に多く見られる機構)のボタンを押して柄と鞘の結合を解く。

 静かに鞘から刀身を抜き放つと、表面に真っ直ぐな刃文はもんの浮き上がった、鏡面のように磨き上げられた白刃はくじんが姿を現した。

「すごい……ピカピカで、顔が映りそう」

 由機が漏らした感嘆の言葉に楓は無言で頷いて賛同の意を示すと、左手で柄を握り右手で握り拳を作って、左手首をとんとんと叩いた。

 叩くたびに刀身が少しずつ柄から抜け出し、そのうちに普段は柄の中に隠れたなかごの部分が露わになる。

 楓は茎をそっと掴み鍔と切羽せっぱ、ハバキ(茎を通して刀身の付け根にはめ込む金具)を外すと、刀身を柄から抜き取ってそっと鞘に納めた。それは、刀の扱いを知らない由機に配慮してのものだった。

 茎に刻まれた『興亜一心刀』の文字が由機にも読み取れた。

 楓は居住まいを正すと再び白鞘の刀を手にした。

 目釘を抜いて鞘を抜き払い、先ほどと同様の手順で青く輝く刀身を柄から抜き出すと、真鍮製のハバキを外して刀身を身一つの状態にする。

 青黒く変色した茎には銘も年号も刻まれていなかった。

 楓はしばしその刀身を無言で見つめていたが、やがて意を決したように軍刀から外したハバキを刀身にはめ込んだ。

 ハバキはまるで測ったように寸分の狂いもなく刀身に合致する。それは切羽や鍔も同様だった。

 楓の左手が軍刀の柄を掴む。由機はいつしか彼女の所作に見入っていた。

 茎を静かに柄へと納めると、楓は切先を上に向けて柄頭つかがしらを下から軽く叩き、刀身が完全に柄に納まったことを確認した。

 軍刀拵えに収められた、青く輝く刀。

 その姿に古代の祭器にも似た威容を感じ、由機は思わず唾を飲み込んだ。

 楓は一呼吸置くと、切先を上に向けたまま、柄を目の前に持ってくる。

 目釘穴からは部屋の向こう側が見える。茎と柄の目釘穴が一致している証だ。

 機十郎ののこした刀がこの軍刀拵えに合わせて作られたものであることは、もはや明白だった。

「三宝荒神さん……」

 楓は小さく頷くと軍刀から取り外した目釘を取り、柄に差し込んだ。

 それは一振りの刀が長い歳月を経て、本来の住まいに辿り着いた瞬間だった。

「これって……一体、どういう……」

 尋常ならざるものを感じ、由機が呟いた。

 楓はしばし思案に耽っていたが、由機の目を見てもう一度頷くと、刀を傍らに置こうとした。

 異変が起こったのは、その時だった。

「…………ッ!」

 由機は目の前の光景に息を呑んだ。

 楓が手にした刀が――青い光を放っていた。

 太陽光や蛍光灯の光を反射したものではない。刀身そのものが、鬼火のようにゆらゆらと燃えるような光を放っていた。

「……三宝荒神さん……!」

 思い出したかのように、由機は楓の名を呼ぶ。しかし楓は全く反応を示さなかった。

 楓はまるで魂を抜かれたような表情で、目の前で光る刀身をただ見つめていた。

「三宝荒神さん、どうしたの……?」

 楓は問いに答えることなく虚ろな表情のまま軍刀の鞘を取り、なおも光り続ける刀を落ち着いた動作で納刀して立ち上がった。

「ちょ……ちょっと! 三宝荒神さん! どうしちゃったの?」

 楓は由機に背を向けて歩き出すと、仏間の障子戸を開けて庭に面した縁側に出た。ガラス戸の向こうでは、先ほどまで晴れていたはずの空に雲が立ち込め、不気味に色を変えていた。

「ま……待って!」

 目の前で何が起きているのか分からなかった。ただ、楓を止めなければとんでもないことが起きてしまうように思えた。

 ――妖刀――!

 雷鳴と共に由機の脳裏に浮かび上がった、不気味な語感を持つ言葉。手にした者を狂わせるという、魔性の武器。

 ――止めなきゃ……何としてでも止めなきゃ!

 由機は額の汗を拭うと、楓の背中に勢いよく飛びつき羽交い絞めにした。

「目を覚まして、三宝荒神さん! お願い!」

 渾身の力で絞め上げているにもかかわらず、楓の身体はびくともしなかった。

「あっ……イヤっ、待って!」

 楓を止めるどころか、由機はその身体に飛びついたまま引きずられていった。

「お願い! お願いだから……目を覚ましてぇ!」

 鳴り止まぬ雷が由機の心を絶望へと追い込む。目からはいつしか涙が溢れていた。

 それでも楓は何ら反応を示すことなく縁側のガラス戸を開け、靴下のまま足を踏み出した。

「ちょ……ちょっと! せめてサンダル履いてよぉ!」

 由機の訴えも虚しく、楓は庭に降り立つと刀の柄に手をかけた。

「やめてぇぇぇ!」

 由機が叫ぶのと同時に、楓は勢いよく抜刀した――!


 ――一体何が……起きてるんだろう?

 自宅の庭ではない、どこかにいる。

 虚ろな意識の中、由機は辛うじてそれだけを認識していた。

 目の前に、幾筋もの青い光が滝のように降り注いでいる。

 周囲は真っ白で聴覚は麻痺し、身体が宙に浮いているような感覚があった。

 何が起きているのかなど、分かるはずもない。

 それでも――由機は不思議な心地良さを感じていた。

 それは、大好きだった祖父の腕の中のような――。


 ……どれほどの間、そうしていたのだろうか。

 由機は自分が地面に横たわっていることに気がついた。うっすらと目を開けると、目の前に黒い靴下を履いた楓の足が見えた。

 ――よかった。三宝荒神さん、ここにいたんだ。

 由機はゆっくりと身体を起こした。

「…………え?」

 身体を起こした由機の視界に、見慣れぬものがあった。

 庭の木々に囲まれるようにして佇む、錆色の大きな物体。

 上から下に広がるようなシルエットを持ち、全高は二メートルあまり、全長は優に五メートルはある。

 まるで非日常を具現化したかのような、異様な存在感を放つ鋼鉄の獣がその側面を由機に見せていた。

「せ……戦車……?」

 由機の視線の先にあったもの。

 それは、大型乗用車より大きな車体を片側六個の転輪と履帯キャタピラで支え、箱型の砲塔から長さ二メートル近くある細長い主砲を突き出した、リベットだらけの古めかしい戦車。

 表面は赤錆に覆われ、まるで長きに渡ってこの場所に放置されていたかのようだ。

「どうして……どうしてこんなものが庭にあるの……」

 由機は唖然としながら、突如出現した戦車を前に呟いた。

「うぅ……」

 傍らから聞こえる声に、由機はハッとして振り返った。

 すぐ横で、楓が仰向けに倒れている。左手には鞘が握られていたが、右手に握られていたはずの軍刀は姿を消していた。

「三宝荒神さん! しっかりして!」

 由機は両手で楓の上半身を起こすと、大声で呼びかけた。

「……どうしよう、気を失ってる」

 楓の顔は蒼白となっていた。このままではいけないと、由機が楓の身体を抱きかかえようとした、その時――。

「あーっ!」

 苛立ちのこもった叫び声と共に、突然砲塔のハッチが開かれた。

「あちぃあちぃ。たまらんな、こりゃ」

 ハッチから上半身を見せたのは、古めかしい軍服を身に纏った小柄な青年。

 カーキ色に染められた詰襟の軍服に、つばの短い略帽。それは映画や記録写真でよく見る、旧日本陸軍の軍装だった。

「ふーっ。やれやれ」

 もうたまらないとばかりに青年が帽子を脱ぐ。

 由機の心臓が、大きく脈を打った。

 これまでの人生で、これほどの美男子を見たことはなかった。

 大きな目にすっと通った鼻筋。頬から顎にかけての美しい曲線と自然な膨らみの唇からは、男性的な魅力と女性的な魅力の両方が感じられた。

 中でも特筆すべきはその頭髪だった。若々しい声と外見にも関わらず、短く刈られた髪は真っ白で、それが現実離れした不思議な魅力を放っていた。

「……ん」

 やがて青年は自分を見つめる少女の存在に気がつくと、にやりと笑って略帽を上着のポケットに突っ込んだ。

 そして車長用展望塔キューポラに両手を着いて勢いよく砲塔から抜け出し、そのままふわりと地面に降り立った。

「よっと」

 二メートルの高さから飛び降りたにもかかわらず、着地の音はほんの僅か。軽やかな身のこなしは、小さな体躯と相まってまるで猫か兎のようだった。

「よぅっ」

 青年が小さく手を上げて、由機に微笑みかける。

「は……はい」

 由機は力なく頷くと、目の前に現れた青年を上から下まで眺め回した。

 年齢は十代後半から二〇歳前後。身長は一六〇センチほどで、上下カーキ色の軍服に黒革のブーツを履き、革と布で二重にベルトを締めた腰の右側には、その身体に見合わぬ大きな革製のホルスターを提げていた。

 一方で、その服装に全く似つかわしくない、短く刈られた真っ白な髪。その甘いマスクと相まって、ヴィジュアル系ロックバンドのメンバーと言っても通用する雰囲気がある。

 由機は青年の顔を見ているうちに、妙な既視感を覚えた。

 それは、額の左側にある傷痕。『く』の字型の切り傷の痕。

 ――この傷痕は……!

「気づいてくれたか」

 青年は嬉しそうに言うとその場にしゃがみ、由機の顔を覗き込んだ。

「もしかして……でも、そんな――」

「ああ。お前のおじいちゃんだよ」

 由機の困惑を断ち切るように、青年がすっぱりと言い切った。

「久しぶりだな、由機……九年ぶりか」

 自らを祖父だと名乗る青年が顔を綻ばせる。屈託のない、爽やかな笑顔だった。

 由機は楓の身体をその手に支えながら、青年の赤い瞳をただ見つめるばかりだった。

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