第七話『帰ってきた戦車兵(前編)』

 時計の針は午後五時を回っていた。

初美は一人、文芸部の部室で机に向かっていた。

 部長である由機と自分以外の部員は期末試験が近い為、既に下校している。

 翌日からは一部を除き、部活動停止期間に入る。初美は本日中に可能な限り執筆を進めておこうと考えていた。

 一時外出した由機が戻って来るまで、部室にいるのは自分一人。心細いが、それも自分が信頼されている証だと考えると嬉しかった。

「ふぅっ……」

 大きく息を吐き、資料と原稿用紙のにらめっこで疲れた目を閉じる。まぶたが痺れるような感覚に、思わず顔をしかめた。

 目薬をそうと机にかけた鞄に手を入れたその時、部室のドアがノックされた。

「……はぁい!」

 小さく胸を躍らせながら返事をする。自然と顔が綻ぶのが、自分でも分かる。

「初美ちゃん。ただいま」

 待ち望んだその声と共に、ドアを開けて入って来たのは――。

「おかえりなさい! せんぱ――」

 初美は半分席を立ったまま、動きを止めた。視線の先――由機の隣に、見たことのない顔があった。

「あ……」

 由機の隣に立っていたのは……スラックスを身に着け刀袋を手にした、金髪碧眼の美しい少女。

 会ったことはなくとも、彼女が誰であるかはすぐに理解できた。

 一年生の間でも話題になっている転校生だ。

 ――先輩のクラスに来たっていう外国人の……ううん。先輩は帰国子女じゃないかって言ってたけれど。

「お邪魔する」

 青い瞳の少女――楓が一歩前へ歩み出て、頭を下げた。

「あっ……はい。あの、先輩……?」

 初美はか細い声で返事をすると、戸惑いの表情を由機に見せた。

「……驚かせてごめんね、初美ちゃん。この人は三宝荒神さん。今日から文芸部に入ってくれることになったの」

「え……入部、ですか……?」

 初美が眉をひそめながら、呟くように聞き返した。

「三宝荒神楓だ。よろしく頼む」

 楓が両手を前に揃え、再び頭を下げる。初美から助けを求めるような視線を向けられると、由機は困ったように微笑んだ。

「急な話だけれど、私からもよろしくお願いするわ」

「先輩……」

 辛うじて聞こえる程度の声で口走ると、初美は頭の天辺てっぺんから爪先まで楓の身体を見回した後で、胸にそっと右手を添えた。

「あ……あの、私。園原初美です。よろしくお願いします!」

 数秒のためらいの後で初美は勢いよく頭を下げ、挨拶を返した。半ば自棄やけになったかのような声だった。


「それじゃ、お先に失礼します」

 筆記用具と資料を全て鞄に収めた初美が、由機に背を向けながら言った。

「気をつけてね、初美ちゃん。テスト勉強、頑張ってね」

「はい」

 教科書から目を離して声をかける由機に、初美は振り返ることなく応えた。

「園原君。またな」

「はい。三宝荒神先輩」

 由機の隣でノートをとっていた楓にも背を向けたまま応えると、初美は早足で部室の入り口へ向かい、ドアを開けた。

「それじゃ、また――」

「さよなら」

 由機が言い切る前に別れの挨拶をして、初美はドアを閉めてしまった。

「初美ちゃん……」

 由機は閉め切られたドアを見つめながら呟いた。

「あの子に、悪いことをしてしまった」

 ノートにシャープペンシルを走らせながら、楓が言った。

「え……」

「君の護衛をするつもりで学校までついて来たが……配慮が足りなかった」

 由機は動きを止め、しばし楓の横顔を見つめた。出会ったばかりの相手を気遣う言葉が彼女の口から聞かれるとは思わなかった。

「そんな。三宝荒神さんが謝ることないわ。私の為について来てくれたんだし、私も一緒にテスト前の勉強がしたかったし」

「……そうか」

 楓は目を伏せ、考える素振りを見せた。

「それに、私は三宝荒神さんが文芸部の活動に興味を持ってくれたのが嬉しかったよ。だから気にしないで」

「ありがとう、宮坂君」

 楓は無表情のまま感謝を述べると、再びノートに目を移した。

 由機が参考書を開いて試験範囲の説明に戻ろうとした時、楓が再び口を開いた。

「園原君は、君が好きなんだな」

「えっ!」

 思わず声を上げる由機の瞳を、楓が覗き込む。

「どうした。それとも君は、あの子に嫌われていると思っていたのか?」

「そんな、まさか」

 由機が慌ててかぶりを振ると、楓は小さく頷いた。

「君も、あの子が好きなんだろう?」

 楓の視線は由機の瞳を射抜くようだった。からかっている様子は微塵」《みじん》もない。

「うん。初美ちゃんはいい子だもの」

 数秒の間を置いて由機は答えた。


「ただいま」

 由機はいつものようにペンギンのぬいぐるみの頭に手を乗せて帰宅の挨拶をした。

 誰もいない家に、一人で帰る。いつもと変わらぬ平日の夕べ。

 カバンを机に立てかけると、制服のままベッドに倒れ込んだ。

 仰向けになった由機の目に蛍光灯の光が降り注ぐ。てのひらで光を遮り、静かに目を閉じた。

 ――私は君が好きだ――。

 突然、由機の脳裏に楓の声が蘇る。

「…………っ!」

 例えようのない恥ずかしさを覚え、寝返りを打って枕に顔を伏せた。

 ――どうして、真顔であんなことが言えるの?

 自分では顔を合わせたくないとまで思っていたクラスメイトから、まさかあんなことを言われるとは思ってもいなかった。

 無論、『好き』とは友人としての感情であり、それ以上のものではないはず。それでも自分は、友人に対してそこまではっきりと言葉にすることはできない。

 ――伝えたいことは、言葉にしなければ伝えられない――。

「それは……確かにそうだけど」

 耳に残る楓の声に応えるように、由機は呟いた。

「そうだよね……うん。言葉にしなきゃ……伝えられないよね」


「うん、原稿は今度見せてもらうね。いつもありがとう、初美ちゃん。またね」

 受話器の向こうから聞こえる初美の嬉しそうな声を聞き届けると、由機は静かに受話器を置いた。

「さてと」

 由機は笑顔で深呼吸をすると、台所に向かった。

 冷蔵庫を開け、野菜室から食材を取り出す。じゃがいもと人参、玉ねぎ。

 学校帰りに楓と立ち寄ったスーパーで鶏もも肉を安く売っていたので、今日の夕飯はトマトシチューに決定している。

 中身を取り出そうとじゃがいもの袋を手に取ると、「北海道産」というラベルが目に入った。

「北海道……」

 そこから連想するのは、またしても楓とのやり取りだった。


「君は、正しければ黙っていても相手が折れてくれると思っているのか?」

「そんなことはないけれど……でも、元々は日本の領土でしょう?」

 地理の授業の説明をしているうちに、話が北方領土に及んだ時のこと。楓が平然と「北方領土はロシア領だ」と言い切ったことに由機は驚き、反論したのだった。

「歴史的にどうとか、そんなものは関係ない。武力で奪い取ってしまえば、そこはその国の領土になるんだ。それが厭なら、犠牲を覚悟してでも戦うしかない」

「戦うって……無条件降伏した日本に、そんなことができるわけないじゃない」

 由機は楓の物騒な言葉に困惑しながらも、更に反論した。

「スターリンはそこに付け込んで停戦発効後も攻撃を続けたんだぞ。これを看過せずソヴィエト軍と戦い続けた部隊がどれだけあるか、君は知らないのか?」

 由機は絶句した。楓が当然のように述べたこと。それは自分が知らない事実だった。

「当時の日本にはまだ戦力が残っていた。日本軍はソヴィエト軍に対して戦闘を継続すべきだったんだ。現に占守シュムシュ島や内蒙古うちもうこの守備隊は停戦後も戦闘を続け、敵部隊を撃退しているではないか」

「わ……私はそんなこと分からないわ」

 その言葉に楓が眉をひそめた。彼女が不快感を露わにするのを初めて見た瞬間だった。

「君ほどの人間が『そんなこと分からない』だと? 日本の歴史教育はどうなっているんだ。方程式で例えれば途中式を飛ばしてかいだけを教えているようなものだぞ」

「三宝荒神さんがどこで歴史教育を受けたのか知らないけど、日本は平和主義国家なのよ。教育だってそれに基づいて行われるの。『戦うべきだった』なんて文言を教科書に載せられるはずがないじゃない」

 由機は反論を行った後でようやく、自らの胸の高鳴りに気づいた。

 言われるがままでは収まらない。珍しく感情的になっている自分がそこにいた。

「平和……か。そんな言葉、めったに使うものではない。莫迦ばかを陶酔させる麻薬に過ぎない。実にくだらない言葉だ」

 楓はいくらか声のトーンを落とし、呆れたように言い放った。

「ばっ……私が馬鹿だって言うの?」

「そうは言っていない。君はその肩書に相応しく優秀で責任感の強い人間だ。ならば猶更、その人間性に見合った見識を身に着けるべきだと言っているんだ」

「もう、いい!」

 由機は思わず机に手を着いて立ち上がった。

「せっかく……友達になれそうだと思ったのに。なんでそんな……偉そうな言い方ばかりするの」

 由機は目に涙を溜めながら座ったままの楓を見下ろした。

「宮坂君……」

 ややあって、楓は静かに席を立った。

「私は……君と喧嘩などしたくはない。その……すまなかった。この通りだ」

 バツが悪そうに言うと、楓は深々と頭を下げた。

「え……っ」

 楓の振る舞いに由機はただ戸惑うばかりだった。

「三宝荒神さん。顔を……上げて」

 楓はゆっくりと顔を上げ――。

「宮坂君。私と友達になれそうだというのは、本当か」

 由機の目を見つめながら問いかけた。

 青い瞳に射すくめられるようにして、由機は戸惑いながらも頷いた。

「そうか」

 陽は傾き、窓辺から差し込む光が楓の金髪に琥珀のような輝きを加える。由機はその美しさに言葉を失った。

「宮坂君……私は君が好きだ」

 楓の表情は真剣そのものだった。

「三宝荒神さん……」

 再び心臓が高鳴るのを感じる。しかしそれは、明らかに先ほどとは違う類のものだと分かる。

「私は……見ての通りの人間だ。喜びや好意をうまく表現することができない。だから……伝えたいことは、言葉にしなければ伝えられない」

 由機の胸に小さな痛みが走った。

「どうか……私と友達になって欲しい」

 楓はそう言うと、両手を揃えて頭を下げた。


「おじいちゃん、今日はトマトシチューを作ったの。口に合うか分からないけど」

 小さな皿に取り分けたシチューとサラダ、ご飯を紫檀製の仏壇に並べながら、由機は妻の位牌と並んで立つ機十郎の位牌に呼びかけた。

「月命日でもないのに、どうしたんだって思うよね」

 仏壇の前に正座し、蝋燭ろうそくにマッチで火をつける。

「今日ね、新しい友達ができたの。その人と一緒にいたら、何故かおじいちゃんのことを思い出しちゃって。変わった人なんだけど、もしかしたらおじいちゃんに似てるのかも知れないわ」

 線香を取り、そっと火にかざす。先端に赤く光が灯るのを認めてから、そっと香炉に立てる。

「……お上がり下さい」

 小さく一礼してから、りんを鳴らして合掌した。

 普段は人気のない仏間に、線香の香りが立ち込めてゆく。目を瞑って位牌を拝む自分の身体が、煙に巻かれて軽くなってゆくような錯覚に陥る。

 それは、忙しい日常を忘れさせるような不思議な安らぎだった。

「……さてと。それじゃ、後で下げに来るね」

 由機は位牌に優しく呼びかけると蝋燭の火を消して席を立ち、壁にかけられた機十郎とその妻・小枝子さえこの遺影に目を向けた。

 五三歳で世を去った小枝子の遺影は、髪も黒く祖母と呼ぶにはあまりにも若すぎる。

 機十郎と小枝子の息子にして由機の父である和機かずきによれば、機十郎のせいで苦労が絶えない人生を送り、若くして世を去ったのだという。

 機十郎がかつて営んでいた金物店は扱う品の良さで評判が高かった反面、客とのトラブルも多かったと聞いたことがある。

 隣に並べられた機十郎の遺影は小枝子のものに比べれば年齢を感じさせるが、それでも六六歳という享年よりはずっと若く見える。

 髪には白髪が混じっているが、日本人にしては目が大きく彫りの深いその顔には、目立ったしわもない。

 額の左側には戦闘による負傷だという傷痕があるが、それも彼の男ぶりを下げるには及ばず、遺影からは若かりし頃の美貌が十分に窺える。

 いかめしい顔つきをした機十郎の遺影とは対照的に、小枝子の遺影は和服に身を包み、穏やかな笑みをたたえたものだった。

 小枝子は細面ほそおもてに切れ長の目という日本的な美人で、機十郎と結婚するまでは引く手あまただったという。

 機十郎の三回忌でそれらの話を語って聞かせた母方の親戚は、由機の顔を機十郎と小枝子の両方に似ていると評していた。二人の良いところを受け継いだのだと。

 小学四年生だった由機はその言葉を喜んだが、同席していた両親はよい顔をしていなかったことを覚えている。

 祖父母の遺影に寂しげに微笑むと、由機は静かに仏間を後にした。


「わっ、もうこんな時間」

 由機は小さく声を上げた。机に置かれた目覚まし時計の針は午前一時を指している。

 読書をしているうちに、つい時間を忘れてしまっていた。

「……もう寝なきゃ」

 本を閉じて机の上を片付ける。その拍子にペンギンのぬいぐるみに手が触れ、机から落としてしまった。

「あっ……」

 ぬいぐるみは床に顔をぶつけると、もんどりうって仰向けにひっくり返った。

「ごめんね、ペラちゃん」

 慌ててぬいぐるみを拾い上げ、そっと元の位置に戻した。

「おやすみ」

 そっとぬいぐるみの頭に手を置いて就寝前の挨拶をする。

 当然ながらペラちゃんは返事もせず、ただじっとこちらの視線を受け止めている。

 黒いビー玉の瞳を見つめているうちにふと、このぬいぐるみをもらった時のことを思い出した。

 それは、十年前の出来事。

 由機は些細なことで機十郎に叱られた。自室で刀の手入れをする機十郎に話しかけたことが原因だった。

 いつもは優しい祖父が見せた怒りに由機は恐怖し、泣きながら部屋を逃げ出したことを覚えている。

 その日の夕方、部屋の片隅で膝を抱える由機に機十郎が差し出したのが、オレンジ色をしたペンギンのぬいぐるみだった。

「怒鳴ったりして悪かった。仲直りしよう、由機」

 その時に機十郎が見せた申し訳なさそうな表情は、今でもはっきりと覚えている。

 仲直りの印として受け取ったぬいぐるみは、こうして由機の宝物となった。

 そして――機十郎が手にしていた刀も、機十郎の死後、由機の所有物となった。

 ――おじいちゃんの刀、きっと錆びてるんだろうな。

 仏間の袋棚に閉じ込められた刀がどうなっているのか、由機には分からない。

 大切な形見であるはずの刀が粗末に扱われていることに胸の痛みを覚えながら、由機は部屋の灯りを消した。

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