第六話『まぼろしの弾道』

 茨城県南部・稲敷郡阿見町いなしきぐんあみまちに存在する、陸上自衛隊土浦駐屯地。

 昭和十五年に霞ヶ浦海軍航空隊予科練習部がこの地に移転してから終戦まで、土浦海軍航空隊の本拠地であったことがこの駐屯地の発祥である。

 戦後は米軍による接収と体育専門学校の同地への移転などを経て、昭和二七年に警察予備隊武器学校が移駐。

 その後、警察予備隊が保安隊、自衛隊へと改組されるに伴い、武器学校は後方支援を担当する兵站へいたん部隊の指揮官及び幕僚ばくりょうの育成や各種装備品の整備員及び不発弾処理技術者の育成など、後方支援部隊に特化した教育機関としての役割を本格化させてゆく。

 そして昭和三四年には、全国の陸上自衛隊武器科隊員の範となるべく教育支援を任務とした『武器教導隊』が編成を完結し現在に至る。

 駐屯地内には最新鋭の90式戦車を含む現役の戦闘車両や火砲が研究を目的に配備されている他、一九五〇年代に米軍から供与されたM24軽戦車やM4中戦車、国産の61式戦車から90式戦車まで歴代の自衛隊装甲戦闘車両が資料として屋外展示されている。

 更に八九式中戦車や三式中戦車及び榴弾砲や速射砲(他国でいう対戦車砲)、小火器など旧帝国陸軍の兵器に加え、旧ソ連製の対戦車砲や野砲、対戦車銃や機関銃などの各種兵器をも保有する国内有数の軍事資料施設である。

 駐屯地内外には現在でも旧帝国海軍の関連施設が数多く残り、建物はそのままに用途を変えて使用されている。

 駐屯地の正面玄関近くに佇む、幅一〇メートル・奥行き五〇メートルの古びた平屋の木造建築物――旧海軍土浦航空隊医務課棟。

 現在では『車両館』として車両のエンジンなど各種機材が収蔵されている施設もその一つである。

 館内の異変に気づいたのは、機材の点検の為に部下を伴って入館した小三坂篤こみさか あつし2等陸曹だった。

 入り口で歩哨ほしょうに立つ隊員に敬礼し長い廊下を歩き始めた小三坂は、廊下の中央部に木屑が落ちているのを見つけた。

槙野まきの、ちょっと来てみろ」

「はい!」

 小三坂はすぐ後を歩いていた槙野和隆まきの かずたか陸士長りくしちょうに声をかけると、その場所へ駆けつけた。

「これは……」

 その木屑が何であるかを即座に察した小三坂が天井を見上げる。

 長い建物の中央部、その場所の真上に位置する天井に、直径八センチほどの穴が空いていた。

「トタンの屋根に穴を開けるなんて……外から砲丸でも投げ込まれたんでしょうか?」

 小三坂と槙野は周囲の床を見回したがそれらしきものは見当たらず、重い物が落ちたような痕跡も無い。

「砲丸投げの世界記録は二三メートルだぞ。駐屯地の外から投げるとしたら、そいつは金メダリストを遥かに超える筋力を持ってるってことになる。考えられない話だ」

「じゃあ、一体どうやって……」

 槙野が頭をひねる横で小三坂はしばし考え込んでいたが、やがて腰を上げて振り向いた。

「槙野、このことを報告して来い。俺は現場を見張っておく」

「了解!」

 槙野は勢い良く返事をすると、その場を立ち去った。

 他に異変がないか周囲を見回すうちに、小三坂の目は長い廊下の突き当たりに吸い寄せられた。

 小三坂は廊下の突き当たりへと静かに歩を進めた。

「……ここにも……?」

 廊下の突き当たりの壁に、直径八センチほどの穴が開いていた。天井に開いていた穴とちょうど同じ大きさである。

「まさか……」

 小三坂は知っている。この廊下の向こうに何があるか。

 高鳴る鼓動、背筋を伝う汗。小三坂は意を決して、穴の中を覗き込んだ。

「…………ッ!」

 穴の向こうから、一門の砲が小三坂をまっすぐ睨みつけていた。

 Zis‐3、M1942・七六ミリ野砲――。

 その名の通り、一九四二年に制式化された旧ソ連製の野砲。

 重量一.八トンと比較的軽量ながら最大一三キロという長大な射程距離を誇り、その高初速と低伸ていしん弾道から独ソ戦では対戦車砲としても用いられた傑作火砲。

 その優秀さは、現在でも北朝鮮やモンゴルなど一部の旧東側諸国で配備されていることからも証明されている。

 車両館の陰になる屋外展示スペースには旧陸軍の戦車や速射砲、そしてこの七六ミリ野砲を含む旧ソ連製の火砲が展示されている。

 切り立った防盾ぼうじゅんと長い砲身を上下から挟み込むような形状の駐退復座機ちゅうたいふくざき(砲身を発射の反動で後退させ、油気圧で元の位置に戻す装置)が特徴的なこの砲は、その中でも際立った存在感を放っていた。

 小三坂は小さく歯噛みすると後を振り返り、穴の開いた天井に目を向けた。

 この角度で野砲から砲弾を発射すれば、それは間違いなく壁と天井を撃ち抜くだろう。

 ――そうだ。砲弾はちょうど、ここを撃ち抜いて天井に穴を開ける。発射されたのが榴弾でなければの話だが……。

 小三坂はもう一度唾を飲み込むと、壁の穴の向こうを覗き込んだ。

 先ほどと変わらず、野砲がこちらを睨みつけている。

 五〇年前に製造された野砲は各部が固着し、照準器などの部品も既に取り去られている。仮に砲弾があったとしても、発射できるわけがない。

 仮に各部を修理し発射できたとしても、その大きな発射音は拳銃や小銃のそれとは比較にならない。駐屯地の人員だけでなく、近隣の住民も必ず異変に気づくはずだ。

 小三坂は制帽を脱ぎ、額の汗を手で拭った。

 ――そうだ。そんなこと、あるはずがない。何を考えてるんだ、俺は――。

 起こり得ないはずのことを真剣に考えてしまった自分を責める。

「班長!」

 自らを呼ぶ声に、小三坂はハッとして後を振り返った。

 槙野が応援を連れて戻って来ていた。

 小三坂は制帽を被り直すと、踵を返して槙野らの元へ向かった。


「おじいちゃーん! ただいまぁ!」

 おじいちゃんが、にこりともせずに頷く。

「ねぇねぇ、おじいちゃん。抱っこして、抱っこ!」

 求められるままに、おじいちゃんは私を抱き上げてくれる。

 私が大好きだった『お嫁さんの抱っこ』。小柄な祖父の腕が、まるで揺り籠のようで心地良かった。

「おじいちゃんっ。このまま、おうちまでつれてってぇ」

 おじいちゃんは「仕方ないな」と言わんばかりに小さくため息をついてから、私を抱いたまま歩き出す。

 右肩を優しく支える腕の先に、私はそっと左手を伸ばす。

「おじいちゃんの手、あっためてあげるね」

 冷たくて、ゴツゴツとしたおじいちゃんの手。それでも、私はそんなおじいちゃんの手が大好きだった。

 握り締めているうちに、冷たい手が段々と温かくなってくる。私はその感覚が大好きだった。

 仕事で忙しいお父さん、パートで忙しいお母さんに代わり、おじいちゃんはいつも私のそばにいてくれた。

 幼稚園のバスに乗る私を見送るのも、幼稚園のバスから降りる私を出迎えるのも、決まっておじいちゃんだった。

 いつも仏頂面で、滅多に笑わないおじいちゃん。

 お父さんやお母さんに嫌われ、近所の人からは避けられていたおじいちゃん。

 そんなおじいちゃんが、幼い私にとっては一番身近な大人だった――。


「もうすぐ、私の家だ」

 楓の声が、由機を現実へと引き戻した。

「……うん」

 風になびく金色の髪が由機の頬を撫で、甘い香りが鼻腔をくすぐる。由機は自らを抱く楓の顔をそっと見上げた。

 相変わらずの無表情。相変わらず、何を考えているのか分からない。

 それでも……自分を嫌っている人間がこんなことをするとは思えない。

 由機はそっと目を閉じた。

 ――『お嫁さんの抱っこ』をしてもらうのなんて、何年ぶりだろう。

 腕に押し当てられる豊かな胸の膨らみ。膝と肩を支える腕と手は温かく、柔らかい。こうして目を閉じていると、全身が甘い香りに包み込まれるような感覚に陥る。

 それは、由機の記憶に刻まれた祖父・機十郎のものとは全く違う。

 機十郎は幼い由機から見ても小柄で身体は細く、浅黒いその手足は堅い木のようだった。

 ――おじいちゃんの手は……こんなに柔らかくなかったな。

 楓の腕の中で、由機はいつしか眠りに落ちていった。


「今日は涼しいからな。熱い紅茶の方がいいだろう」

 シンプルだが品の良いデザインのソーサー付きカップに注がれた紅茶が、テーブルの上で湯気を立てている。

「ありがとう、三宝荒神さん。助けてくれた上に、お家にまで上げてもらって」

「気にするな」

 楓はにこりともせずに応えた。

「今いるのは、三宝荒神さんだけ?」

「ここには私一人で住んでいる」

 茶箪笥の中から皿やスプーンを取り出しながら、再び楓が応えた。

 ――なんで、こんなことになっちゃったんだろう?

 由機はそれとなく室内を見渡した。

 そこは茶箪笥ちゃだんすと二六インチのテレビが置かれた六畳の和室だった。

 コタツとしても使える夏冬兼用の四人用テーブルの下には座布団が敷かれ、いかにも『お茶の間』といった佇まいの部屋。

 家そのものはといえば、小さな庭のついた木造モルタル平屋建ての簡素な一軒家だ。

 瀟洒しょうしゃな洋風住宅か高級マンションを想像していた由機にとっては、意外といえばあまりにも意外だった。

 それでも、由機の心はいくらか落ち着きを取り戻していた。

「これはお茶請ちゃうけに。昨日焼いたクッキーだ」

 楓が差し出した皿には、数種類の小振りなクッキーが綺麗に並べられていた。

「えっ? これ……手作りなの?」

 楓はにこりともせずに頷いた。

「すごい。とってもおいしそう」

 目に優しいきつね色に焼き上げられたプレーンクッキーに、チョコチップクッキー。ドライフルーツやアーモンドを混ぜたものもある。

 ほのかなバターの匂いが紅茶の香りと共に鼻腔をくすぐり、由機の食欲を刺激した。

「三宝荒神さん、このお皿は?」

 由機はカップ&ソーサーのそばに置かれた直径六センチほどのガラスの皿に気づいて尋ねた。

「これを。欲しい分だけ取るといい」

 楓はそう言ってクッキーの皿の横に、蜂蜜とジャムの瓶を置いた。

 見れば蜂蜜にはスーパーでよく見る桜の印をあしらったラベルが貼られていたが、握り拳大のジャムの瓶にはラベルが無い。

「私が作ったイチゴジャムだ。砂糖を多めに入れてあるから甘いぞ」

 由機の疑問に気づいたかのように、楓が言葉を添えた。

「これも自分で……? 三宝荒神さん、何でもできるんだね」

 由機が素直な感嘆の言葉を述べると、楓は首を小さく横に振った。

「私は……まだまだ精進が足りない。現に、君には勉強を教えてもらっている身だ」

「そ、そんなことないよ! 三宝荒神さん、ちゃんと授業にもついて行けてるし。英語や数学なんか、私が教える必要ないんじゃないかって思うもの」

 由機は慌ててかぶりを振った。

「そうでなければ、君に迷惑がかかる。君には面倒をかけてすまないと思っている」

 楓は膝に手を着きながら、由機に頭を下げた。

「えっ、ちょっと! やめてよ、三宝荒神さん!」

 由機が慌てて声を上げると、楓はゆっくりと顔を上げて由機の瞳を覗き込んだ。

「……君は、私が感謝を述べても不満そうな顔をしていたからな。これくらいしなければ気持ちは伝わらないと思って」

「え……っ」

 言葉を失う由機の瞳を楓が見つめる。いつも自分を困らせる、相変わらずの無表情だった。

 やがて、由機が小さく頭を下げた。

「ごめんなさい。私……三宝荒神さんが何を考えているか、分からなくて」

「君が謝ることはない。それより、紅茶が冷めてしまう」

 楓は小さく首を横に振ると、ジャムの瓶を手に取り、蓋を開けた。

「ジャムか蜂蜜か、好きな方を使ってくれ」

 そう言いながら大きめのスプーンでジャムをすくい取ると、ガラスの皿にたっぷりと載せた。

 由機はしばし楓の様子を見ていたが、やがて両手を合わせて小さく頭を下げた。

「いただきます」

「どうぞ」

 楓は短く返事をしてから、皿に取ったジャムをティースプーンでカップに投じ、静かに混ぜ始める。

「ロシアンティー……?」

 由機が呟くように問いかけると、楓は手を止めて由機と目を合わせた。

「それは違う。こうしてジャムを入れるのはウクライナの飲み方だ。ロシア人はジャムを食べながら紅茶を飲む」

「えっ……? ジャムを、食べるの?」

 由機の脳裏に浮かんだのは、レーニンとスターリンがジャムの大瓶を手にせわしなくスプーンを口に運ぶ、珍妙な光景だった。

「君も試してみるか」

 楓がそっとジャムの瓶を差し出す。

「うん」

 由機は瓶からスプーン一杯程のジャムを皿に取ると、しばし考えた後で、楓と同じようにティースプーンでカップにそれを投じた。

「君も、ウクライナ風がいいか」

 楓の声に、どこか安堵したような響きが感じられた。

「うん。ジャムを直接食べるっていうのは……ちょっと、ね」

 苦笑しながら、由機はカップに口をつけた。口の中が紅茶の香りと砂糖の甘さで満たされたところに、苺の酸味が加わり風味が変化してゆく。

「……おいしい……」

「お口に合って何よりだ」

 由機はもう一度カップに口をつけた。

 ほのかな苦みと共に口の中を満たす、甘酸っぱい風味。その味は、自らの記憶のどこかにつながっているように思えた。

 ――どうしてだろう。前にも飲んだことがあるような気がする。

「クッキーも、よかったら食べてくれ」

 楓が右手でクッキーの皿を示した。

「ありがとう。これも……ウクライナ風?」

 由機の問いに、楓は小さく口角を上げた。

「残念。これは、アメリカ風だ」

 それは……由機が初めて見た、楓の笑顔だった。

 ――このも、笑えるんだ。

 由機はそっと手を伸ばしてプレーンクッキーを一枚取り、一口かじった。

 さっくりとした歯触り。噛み締める度に口の中に広がる、バターの風味と砂糖の甘さが心地良い。

「……おいしい……」

 クッキーを頬張りながら、由機は楓に笑顔を見せた。

「お口に合って何よりだ」

 楓は控えめに微笑むと、いつもの無表情に戻ってしまった。しかし、そのクッキーの味には目に見えない優しさが込められているような気がした。

 眉一つ動かさずにあれほどの暴力を振るう少女がこんなおいしいものを作れるのかと考えると不思議だったが、それでも由機は心躍るものを感じていた。

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