第五話『うちにおいでよ』
「あの……どうかなさいましたか?」
カウンターの向こうで目を丸くして自分を見る女性の郵便局員に対し、由機は静かに問いかけた。
「あぁ……ごめんなさい。お名前は『みやさか ゆき』さん、ですね」
中年の女性局員は気を取り直して微笑んだ。
「はい。私のこと、男性だと思ったんですね」
由機の少し困ったような笑顔を前に、局員は小さく頭を下げた。
「ええ。提出された書面には性別欄がないから、『よしき』さんだと思ってしまって」
「あっ! いいんです、いいんです……時々あるんですよ。ふつう、女の子の名前に使わない漢字ですからね。『機械』の『機』なんて」
局員は安堵した表情で「そうですね」と言いかけ、「でも、いいお名前だと思いますよ」と慌てて言い直した。
由機は「ありがとうございます」と局員に感謝を述べながらも、胸の奥が微かに痛むのを感じていた。
――『機械』の『機』なら、まだいいんだけど。
幼い自分に容赦なく向けられる蔑みの眼差しが、由機の脳裏に蘇る。
自分の名前を漢字で書けるようになってからというもの、『由機』の『機』が『高貴』の『貴』や『希望』の『希』であればよかったのに、と思ったことは数知れない。
男女に関係なく長子は『機』の一字を受け継ぐべきだ、と主張して譲らなかったという祖父・機十郎が恨めしかった。
祖父が陸軍中尉であったことから、それ以上の意図があったのでは……という周囲の指摘には、さすがにそれはこじつけだと反論したが、それでも由機は自分の名前が好きにはなれなかった。
郵便局での用を済ませ、由機は学校へと足を向けた。既に放課後だが、今日も生徒会と文芸部での活動がある。
この日は朝から雲が出ていることもあり、昨日に続いて涼しい日となった。
記録的な猛暑だった昨年に比べて今年は梅雨が長く、七月に入った現在も沖縄・奄美地方を除いては未だに梅雨が明けていない。
ふと、道路脇の水田に目を向ける。緑に茂る稲草の群れが、不安げに天を仰いでいるように見えた。
二年前に日本を襲った、戦後最悪の凶作とその後の米不足を思い出す。
母が勤務するスーパーから押しつけられて食卓に上った売れ残りの『ブレンド米』は、お世辞にもおいしいとは言えない代物だった。
食卓を預かる者からすれば、柔らかく粘りのある国産米とパラリとして粘りの無いタイ米をごちゃ混ぜにして売るなどという発想は、正気の沙汰とは思えない。
同じ水加減、同じ炊飯釜で一緒に炊いてしまえば、硬い粒と柔らかい粒の混じった食感の悪いご飯が出来上がる。
何故こんな簡単なことが分からないのかと、当時中学三年生の由機は首を傾げるばかりだった。
――今年は、冷夏にならないといいけど。
由機の胸に、じわりと痛みが走る。
あの冷害で大損害を被った一軒の農家があった。
実らぬ稲を前に膝をつく一人の男の後姿が、由機の胸に深く刻み込まれている。
感傷に浸る由機の頬を、そっと風が撫でた。小さな音を立てて波打つ水田の緑が、「今年は大丈夫だから」と言ってくれたような気がした。
市役所の裏通りへと続く人気のない道を、由機が歩いていた時のことだった。
「ねぇ! いいじゃんよぉ。ちょっと付き合ってくれるだけでいいんだからさぁ……」
「そうそう。ヒマなんっしょ?」
由機は思わず足を止めた。
その下卑た声は進行方向の右側にある路地から聞こえてきた。このまま進めば、鉢合わせになる。
――厭だなぁ。
しかし、こうして足を止めている間にも、品性と知性の欠片もない誘い文句が聞こえてくる。
声をかけられている子は困っているのではないか。変な連中に関わりたくはないが、見て見ぬふりをするわけにもいかない。
意を決して、由機は物陰からそっと様子を窺った。
三人の少年が誰かを取り囲むようにして退路を塞ぎ、しつこく語りかけているのが見える。
スラックスを腰の下で
思った通り、由機が最も関わりたくないと思うタイプの人間だった。
制服は他校のもの、趣味の悪い私服を着ている少年も見たことのない顔だった。
「あのさ……なんで黙ってんの? なんか喋ってくれてもよくねぇ?」
「何なの? 感じ悪りぃんだけど」
少年達は口を開こうとしない相手に苛立ちを見せ始めていた。放っておくのはまずい。
怖がって声も出ないのか、無言のままでいる少女の様子を窺った。
「…………ッ!」
思わず声が出そうになり、慌てて口を押える。由機はその少女を知っていた。
「……もしかして、シカトこいてる? 俺らのこと、バカにしてんの?」
恫喝めいた言葉を投げかける少年達を青い瞳で見据える一人の少女。
「何だよ、その目は!」
それは由機にとって最も顔を合わせたくない人間の一人――楓だった。
――よりにもよって……!
由機は思わず奥歯を噛み締めたが、困っているクラスメイトを捨て置くわけにはいかない。覚悟を決めて大きく息を吸い込むと、足を一歩踏み出した。
「あーっ! ケイト、こんな所にいたのーっ?」
なるべく大きな声を出して路地の奥に入って行くと、少年達が振り返って自分を見た。
体温が急激に低下するような錯覚に身震いを覚えたが、それでも平静を装って声をかける。
「すみませーん。この子、私のクラスメイトなんです! 留学生で日本語がよく分からないから、失礼なことをしてしまったみたいで。ほら行こう、ケイト」
由機は咄嗟に思いついた仮の名前を呼びながら、楓に目配せした。
この手の輩は横のつながりが広く、顔と名前の両方が知れてしまうと後々面倒なことになる。優等生の由機もそれくらいのことは知っていた。
しかし、楓は由機と目を合わせていながら、その場を動こうとしない。
「ケイト! もう時間がないんだから!」
業を煮やして由機は少年達の中に割って入り、楓の腕を掴んだ。
楓が不思議そうな目をこちらに向けたが、構わず手を引いてその場を離れようとする。
「……ちょっと待ってよ、由機ちゃん」
背後からかけられた声に、由機は凍りついた。
「え……っ」
恐る恐る振り向くと、制服を着た茶色い髪の少年がニヤニヤ笑いを浮かべながら由機と楓に歩み寄って来た。
「なんで名前、知ってんのかって?
指先が小さく震え出す。不良達の間では各校の卒業アルバムがやり取りされているという話を、由機は思い出した。
「君さぁ、生徒会長やってんでしょ? アルバム見てさ、モロ俺のタイプだって思ったんだけど……実際に見るとやっぱいいわぁ」
少年と目が合った瞬間、背中に虫が這い回るような悪寒が走った。
自分に向けられる、舐め回すような三つの視線。指先の震えが全身に波及する。
「
由機の脳裏に、一人の少年の顔が思い浮かぶ。
――『友達』って……!
由機はその少年に激しい怒りを覚えた。
――相変わらず……ろくなことをしないんだから!
「……あのさぁ、聞いてる?」
苛立った少年の声が、由機を現実に引き戻す。
「…………!」
少年達が由機の目の前に迫っていた。
「ごめんなさい! 急いでるんです!」
反射的に言い放ち、由機はその場を離れようとした。
「待てよ!」
その言葉と共に、由機の右腕に痛みが走る。
「い、痛ッ……離してください!」
「シカトしてんじゃねえよ!」
Tシャツを着た少年が腕を掴んでいた。
「こいつもお前も、何なんだよ! バカにしてんのか?」
腕を掴んで怒声を浴びせる少年は、よく見れば筋肉質で身体も大きい。とても振り切ることはできない。
――どうしよう! どうしよう!
ひたすら心の中で悲鳴を上げる。自分はただ、困っているクラスメイトを助けようとしただけなのに。
由機は自分が柔道の有段者だということも忘れていた。或いは生徒会長という自身の立場が、武力による解決という選択肢を無意識のうちに排除していたのかも知れない。
「いぁぁぁぁぁ!」
突然、耳元で悲鳴が上がる。右腕を掴む手の力が抜けるのを感じた。
「え……?」
少年の手から逃れた由機の目に映ったもの。それは、自分より身体の大きい少年の腕をねじり上げる楓の姿だった。
「……汚い手で彼女に触れるな。その濁った目で彼女を見るな。私を見るな」
怒りを含みながらも、落ち着きはらった楓の声。
「……てめぇ!」
少年が残った手を振りかざした瞬間、楓が身を屈めて鋭い膝蹴りを繰り出す。
「あがぁッ……!」
「ぐぇッ!」
僅か数秒間の出来事に全く対応できなかった残る二人の少年は、足元に転がる仲間の有様にようやく正気を取り戻した。
「な……何すんだ、てめぇぇッ!」
坊主頭の少年が怒鳴り声を上げる。
「うるさい。黙れ」
楓は全く動じることなく、少年に言い放った。
由機からは楓の後姿しか見えなかったが、その姿はこの上なく逞しく、頼もしいものに感じられた。
「ンだと、てめえ!」
茶髪の少年が一歩踏み込んで楓の前に迫る。
前方からの敵に楓が身構えると、坊主頭の少年が彼女の背後に回り込んだ――!
「ぶッ!」
楓は瞬時にその動きを見切り、背後の敵に肘打ちを見舞った。
「うぁッ……あぁーッ!」
少年が血のしたたる鼻を押さえてのけ反る。腹部がガラ空きとなったのを見逃さず、楓が追い打ちをかけた。
「ごぼぉッ!」
腹部に重いボディブロー。少年がたまらず鼻と腹部を押さえてうずくまると、とどめとばかりに首の後ろへ手刀を叩き込む。
坊主頭の少年は、声もなくその場に崩れ落ちた。
「ヒッ……!」
楓の青い瞳に見据えられ、一人残された茶髪の少年が情けない声を上げる。
「ちょ、ちょっと待って……マジ、悪かったって! ていうか、まだ俺は何もしてねえじゃん!」
後ずさりしながら、顔面蒼白となった少年が必死に声を絞り出す。
「……それもそうだな」
楓が無表情のまま、ぼそりと呟く。
「だ、だろ! だから俺は見逃してくれよ! 頼むからさ!」
楓はふむ、と頷いて後ろを振り向き、座り込む由機と目を合わせた。
「……と言っている。君はどう思う?」
楓から急に水を向けられ、由機は一瞬だけ、その身を震わせた。
「えっ……と……」
楓の顔と、少年の顔を交互に見やる。少年が命乞いするような目をこちらに向けていた。
「お願い。もう……やめて」
「……本当にいいのか?」
由機は無言で首を縦に振った。
楓は小さく息を吐くと、少年の方へ向かって歩き出した。
「……な、何だよ」
楓は少年の前に立つと、無言のまま右足でローキックを見舞った。
「ぎぁぁぁぁ……ッ!」
茶髪の少年が激痛に悶絶し、その場に崩れる。
「待って! やめてって言ったのに、どうして!」
「意見を聞いただけだ。君の言う通りにするとは言っていない」
抗議の声を上げる由機に、楓は背中を向けたまま答えた。
「こういう連中には恐怖を叩き込んでおく必要がある。甘い顔をしておくと、つけ上がって何をしでかすか分からないからな」
楓はそう言うとその場にしゃがみ、痛みに悶える少年の腕を右手で無造作に引っ張り上げた。
「待って! 何するの!」
「指を折る。仕返しができないように」
楓は全く声のトーンを変えることなく答えた。
「お願い! お願いだから、そんなことやめて!」
背中に浴びせられる、泣き出しそうな声。楓は振り返って由機の目を見た。
数秒の間、互いの視線が交錯する。
「……そこまで言うなら、仕方ないな」
楓は少年の腕を掴んだまま立ち上がった。
「うぁッ……!」
腕がねじれる格好になり、少年が小さく悲鳴を上げた。
「彼女に感謝するんだな」
楓は一言呟くと同時に、腹を蹴り上げた。
「おごぉぉぉ!」
少年は腹を押さえてのたうち回った。
「こいつらが私達の後をつけて来ないように、な」
そう自身の行動を説明すると、楓は踵を返して由機の前へ歩み寄った。
「立てるか」
楓はその場にしゃがんで、由機に語りかけた。その声には僅かながら、温もりが感じられた。
「うん……大丈夫」
地面に手を着いて立ち上がろうとするが、足腰に全く力が入らない。
「あ……あれ……?」
恐怖と驚きのあまり……腰が抜けてしまっていた。
「……無理はするな」
楓の手が由機の背中と膝の下に伸びる。
「きゃっ!」
由機が恥ずかしさに声を上げるのも構わず、楓は彼女の身体を抱き上げた。
「は……恥ずかしいよ……!」
「私は恥ずかしくない。この方が運びやすいしな」
楓は眉一つ動かさずに由機の抗議を一蹴し、両手で由機の身体を抱き上げたまま、その場を立ち去った。
「あの……三宝荒神さん。どこへ行くの? 私、学校に戻らなきゃいけないんだけど……」
由機は自分を『お姫様抱っこ』で運ぶ楓に、控えめに語りかけた。
「私の家が近くにある」
「え……三宝荒神さんのおうち?」
思わず声が裏返る。
「茶の用意ぐらいはする。学校に行くのは、少し落ち着いてからの方がいいだろう」
「え……」
由機は自分の置かれている状況が分からなくなった。
――なんで、こんなことになっちゃったんだろう?
「あの……三宝荒神さん」
「なんだ」
数秒の沈黙の後で、由機は言葉の続きを口にした。
「その……どうぞお構いなく」
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