第四話『見えるもの、見えざるもの』

 由機は担任教諭の早見が黒板にチョークで書いた試験範囲をノートに書き写していた。

 教室に聞こえるのは早見の男性にしては甲高い声と、校庭からのホイッスルのみ。私語をする生徒はいない。

 由機はそっと隣の席に目を移した。

 楓も無言でノートを取っていたが、由機の視線を感じて振り向いた。

「…………ッ!」

 声を出しそうになって、すんでのところでこらえる。

 楓は相変わらず表情を変えようとしない。

 呆れているのだろうか? それとも苛立っているのだろうか?

 無愛想を通り越して無感情にすら思える彼女を見ているだけで、由機は疲労を感じるようになっていた。

 楓が転校して来て今日で二日目。楓がその態度で誰かの不興を買わないか、二週間後の期末試験に対応できるのか。

 クラスメイトとして心配の種は尽きない。学級委員長の秋月実彦あきづき さねひことも相談し、空いた時間にこれまでのノートを見せたり、校内の案内をしたりすることにした。

 だが、うまくいくかどうか。少なくとも由機はあの凍りつくような瞳を前にしては平常心を失ってしまう。

 楓に対し、出会って一日ではっきりと苦手意識を持つようになってしまった。

 早く。早く放課後にならないものか。由機はそう考えたが、まだ一時限目さえ終わっていない。


「みんな、お疲れ様。私は部活に行くから、鍵はお願いね」

「はいよ」

 生徒会書記の丸山英嗣が手を挙げて返事をする。

「お疲れ様、由機」

 生徒会副会長の緑川麻衣子がウィンクをする。

「ありがとう、まいちゃん」

 由機は笑顔で感謝を述べると、静かに生徒会室のドアを閉めた。

 今日の仕事は――これで終わりだ。

 昼休みを利用して、由機は楓にこれまでの授業の進捗状況を説明した。

 昨日と同様、昼休みのチャイムが鳴ると同時にどこかへ姿を消していた楓だったが、この日は手早く昼食を済ませたのか、十五分ほどで教室に戻って来た。

 由機は自分の昼食を中断し、楓を昼食に誘うクラスメイト達をなだめすかした後で、ノートを見せながら丁寧に説明を行った。それは午後の授業が始まるギリギリまで続いた。

 楓は由機に「ありがとう」と感謝を述べたが、由機にはその言葉がひどく事務的なものに思えた。

 放課後にも時間が取れれば続きを行いたいと提案したが、楓はそれを断りホームルームが終わるなり姿を消した。

 隣に座る自分がふと目を離した隙に、楓はいなくなってしまう。自分だけでなく、クラスメイトも楓が教室から出る姿を目撃していないのだ。

 まさしく『姿を消した』としか言いようがなかった。

 周りは楓を『ミステリアス』と評するが、由機にとっては得体の知れない不気味な存在でしかない。


 時計の時刻は午後五時半を回っていた。文芸部の部室に聞こえるのは時計の音とペンを走らせる音のみ。校庭からも離れている為、運動部員達の声もここまでは届かない。

 部室に残っているのは昨日と同様、由機と園原初美だけだった。

「初美ちゃん。今日はこのくらいにしておかない?」

 腕時計で時間を確認し、由機が口を開いた。

「はい。先輩」

 初美は明るい声で返事をすると、両手を組んで大きく伸びをした。

「ふふっ。お疲れ様」

「先輩も、お疲れ様です」

 二人は互いに微笑み合ってから、机の上の整理を始めた。

「先輩、進み具合はどうですか?」

「うーん……あんまり、かな。図書館の本だけじゃ、思うように資料が集まらなくて。文化通りの古本屋さんを覗いたり、日本史の熊川くまかわ先生にもお願いして、戦時中の本や新聞を取り寄せたりしているんだけど」

「うわー、大変そう」

 初美が目を丸くすると、由機は困ったように微笑んだ。

「私が言い出したことだもの、文化祭で終戦五〇周年記念の文集を出そうって。大変なことになるのはある程度分かっていたし、しょうがないわ」

「……そして、最初に賛成したのが私というわけで」

 初美がにっこりと笑って言葉を続ける。

「せっかくだから記念になることがしたかったし、先輩の役に立ちたかったですからね」

「ありがとう。初美ちゃん」

 由機はやや恥ずかしそうな笑顔で、初美に感謝を述べた。

氷山ひやま市は模擬原爆が落とされた都市でもあるし、うちの高校では化学工場に勤労動員された生徒が空襲で亡くなっているんだもの。そういうことを語り継ぐのも私達の役目だと思って」

「そうですね。ここが女学校だった頃に教師をしていたおばあちゃんが近所にいるんですけど、その時に教え子さんを亡くしたって話してました」

 由機がその言葉に反応する。

「初美ちゃん。もし迷惑じゃなければ……私もその人に話を聞かせてもらえないかな。今年の戦没者慰霊祭には私も出席するし。できればの話でいいんだけど」

「いいですよ。明日お願いしてみますね。きっと大丈夫だと思いますから」

 由機は両手を合わせて小さく頭を下げた。

「ありがとう。お願いね」

「大げさですよぉ、先輩。ところで、私は自分ちのおじいちゃんとおばあちゃんにも話を聞いたりしてるんですけど、先輩もおじいさんやおばあさんに話を聞いたりとか、してますか?」

 由機は小さく首を横に振った。

「父方の祖父母はもう亡くなってるの。母方の親戚にはあまり会ってないし、話を聞くのも難しくて」

「そうだったんですか……ごめんなさい」

 由機が再び首を横に振った。

「いいの、祖父が亡くなったのはもう九年も前のことだし、祖母は私が生まれる前に亡くなってるし」

 由機は寂しげに微笑みながら答えた。

「先輩のおじいさんって、どんな人だったんですか?」

「……え……?」

 由機が動きを止める。

「あ、あぁ……ごめんなさい。ちょっと気になっただけです」

 由機が見せた表情から、言ってはいけないことを言ってしまったと思ったのか、初美が慌ててかぶりを振る。

 由機はしばし考え込む素振りを見せた。

「あ、あの……先輩。私が言ったこと、忘れてください。その……」

「……どんな人だったのかな」

 由機が独り言のように呟く。

「……え?」

「私が覚えている祖父の姿と、両親が話す祖父の姿が違いすぎるの。私にとっての祖父は無愛想だけど『優しいおじいちゃん』。でも父にとっては周りに迷惑ばかりかける『最低の父親』で、母にとっては『わがままなお義父とうさん』。周りでも、祖父を良く言う人は殆どいなくて。『軍国主義の亡霊』なんて言う人までいたわ」

 初美はどう返事をしていいのかわからず、ただ由機の言葉に耳を傾けた。

「戦時中は陸軍中尉だったそうなんだけど、戦友からも恨まれていたみたいなの。私が小さい頃に一度、当時の部下だった人が押しかけて来たことがあって。『あんたのせいで部隊は全滅したんだ』とか泣きながら怒鳴り散らして。とっても怖かったことを覚えてる」

「そんなことが……」

 由機は窓の外に目を向けた。夏至も近い為、外は昼間と変わらぬ明るさだった。

「祖父はその人を家に上げたんだけど、責められてもただ黙ってるだけだった。陰から見てた私には……大好きだった祖父がまるで罪人みたいに思えて、ショックだった。それからは祖父と一緒にいる時間が減ったような気がする」

 由機は小さくため息をつくと、もう一度寂しげに微笑んだ。

「祖父が亡くなったのはそれから一年後のことだったわ。その後で両親から聞かされたのはショックなことばかりだった。それからは、私が見てた『おじいちゃん』が何だったのかよく分からなくなっちゃって。仲の良かった友達と遊ばなくなったりとか、私自身も変わっていったような気がするの」

 そこまで話して、由機はハッとした。

「初美ちゃん。ごめんね……こんな話、聞かせちゃって」

 初美が大きく首を横に振る。

「いいんです。先輩が自分のことを話してくれて……私、嬉しいですから」

 そう言って微笑んだ。

「ありがとう……初美ちゃん」

 由機は心からの感謝を述べた。初美の優しさが、ただ嬉しかった。


 薄暗い室内で、アレクセイ=アゼフはモニター内の映像を食い入るように見つめていた。

 夜の街の交差点と、そこで縦に並んで信号待ちをする三台の自動車。それ自体は何の変哲もない光景だが――。

 突然、最後尾の自動車のトランクが上から押し潰されるように変形した。

 運転手が慌てて車外へ飛び出すのと同時に、車体が完全に潰れた。まるで、見えない巨人の足に踏み潰されるように。

 前方の自動車の運転手が異変に気づいて車外へ飛び出すと、彼らが乗っていた二台の自動車も最後尾の自動車同様、ぺしゃんこのスクラップになってしまった。

 アレクセイはリモコンの停止ボタンを押すと、椅子の背もたれに寄りかかって暗い天井を見上げた。

 何度も繰り返して観た異様な光景が、闇の中に浮かび上がる。

 その光景をかき消そうとしてアレクセイが右手を宙にかざすと、真っ白な光が視界を塗り潰した。

「目に悪いわよ、アレクセイ」

 眩しさに顔をしかめるアレクセイに一人の女性が語りかけた。

「……イリーナ」

 顔をしかめたままで、アレクセイが彼女の名を呼ぶ。

 イリーナ=パブロヴァはアレクセイと同じ部署に勤める女性だった。

 長く美しいブラウンの髪とグリーンの瞳が印象的な彼女は、三三歳という実年齢より若く見える。

 立場上はアレクセイの部下にあたるが、年齢が近く気が合うことも多い為、アレクセイとは互いを階級ではなく名前で呼び合っている。

「その映像、もう二時間も観てるわよ」

 イリーナが苦笑を浮かべるのを見て、アレクセイも苦笑する。

「ところでどうだ? 新しい物証は見つかったか?」

 イリーナは小さく頷いて、小脇に挟んだ書類の中からA4サイズに引き伸ばした一枚の写真を取り出した。

 アレクセイは、手渡された写真を一目見るなり顔を引き締めた。

「……車体に残されていた『足跡』か」

 軟鋼製のボンネットにくっきりと刻まれた格子状の凹凸おうとつ。アレクセイはこれが何かを知っている。

「そう。T‐34の履帯キャタピラの痕よ」

「……それも、五〇〇ミリ幅の後期型履帯。親父と一緒にベルリンへ行った204号車も、こいつを履いてたよ」

 アレクセイは父・ウラディーミルが遺した戦時中の記念写真を思い出しながらイリーナの言葉に付け加えた。

 接地面に施されたワッフルのような格子状の滑り止めが特徴の後期型履帯は、大戦後半のT‐34が一般的に装備していたものだった。

 ヨーロッパ各地の記念公園や博物館に展示されている車両もこれを装備したものが多い。しかしロシア国内において、それらが移動或いは輸送されたという情報は入っていない。

「つまり、目撃者が嘘をついているわけではない……というわけだ」

「そうね。人の目には見えてビデオカメラには映らないなんて、にわかには信じがたいけれど」

 アレクセイに手で促され、イリーナは傍らのパイプ椅子に腰かけた。狭い映像解析室では、膝が触れ合いそうなほどに互いの距離が近づく。

「二カ月前のパレードの時だって、映像に『何かを背負った犬』なんか映っていなかったろう?」

 イリーナが無言で頷く。

「しかし、負傷者は口を揃えてこう言う。『何かを背負った犬がT-34に走っていくのを見た』と。軍の記録班が収めた映像だけじゃなく、家庭用のビデオカメラで撮った映像を集めるだけ集めて調べても、犬の姿なんかどこにも映っちゃいなかったのにな」

「そして今回は、T‐34が夜の街に現れて、自動車を踏みつぶして何処かへ消えてしまった……幽霊か魔女の仕業としか思えないわね」

 イリーナはため息交じりに呟いた。

「幽霊や魔女が戦車を撃破したり戦車を使い魔にしたりできるというなら、ドイツ軍もクトゥーゾフ将軍の霊とバーバ・ヤーガ(スラヴ民話に登場する魔女)がやっつけてくれただろうよ。それはさておき……」

 アレクセイは背中を丸めて手を組み、自分の前に座るイリーナの目をじっと見つめる。

「君は、どこまでが俺達の仕事だと思う? イリーナ」

「……私には分からないわ。独立派武装勢力の仕業という推測はもう成り立たないし、私達にできるのは現場検証と証拠集めくらいだもの」

 イリーナはアレクセイの視線から逃げることなく答えた。

「それでいいんだ。俺達捜査班の仕事は詰まるところそれだからな」

 アレクセイは一度言葉を区切ってから、幾分声のトーンを落とした。

「お偉方は一連の事件を武装勢力との戦いと国威発揚に利用しているが、それにも限界がある。俺達は自分に与えられた仕事だけを全うすればいい。それ以外のことは考えなくていいんだ」

「……了解パニャートナ

 部下としての返事を確認し、アレクセイは力強く頷いた。

「……ところでイリーナ。これは仕事には関係ない話だが」

 アレクセイは一呼吸置いてから、幾分表情を和らげて言葉を紡いだ。

「夏の休暇は……俺の別荘ダーチャに来ないか」

「え……?」

 アレクセイの突然の誘いに、イリーナは戸惑いと喜びの入り混じった表情を見せた。

「レムの奴、君を気に入ったみたいだ。また会いたいって言ってる」

「……本当に?」

「ああ」

 アレクセイは笑顔で頷いた。

「二カ月前の事件でレムが怪我をして、よく考えたんだ。あいつには母親が必要だって。それに何より、俺は少しでも長く……君の側にいたい」

 イリーナは小さく唇を震わせていたが、やがてアレクセイに抱きついた。

「嬉しい……!」

 アレクセイは何も言わずにイリーナの身体を優しく抱き締めた。

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