第二話『ハジメマシテ』

「初めまして。宮坂由機みやさか ゆきです。よろしくお願いします」

 少女のよく通る声がさほど広くない会議室に響き渡った。

 一呼吸置いてから、室内を見渡す。

 少女の声に応える者はなかった。

 視線の先にあるのは、向かい合うように並べられた長机と六人分のパイプ椅子。そこに人の姿はない。

 半袖のブラウスに薄手のプリーツスカートという夏服に身を包んだ少女――宮坂由機は深呼吸をしてから、同じ言葉を繰り返した。

「初めまして。宮坂由機です。よろしくお願いします」

 声色を少し変えて、やや高い声を発してみた。

「うーん……」

 由機は小さく唸ると、もう一度繰り返した。

「初めまして。宮坂由機です。よろしくお願いします……よしっ」

 スカートのポケットからコンパクトミラーを取り出し、鏡の中の自分に微笑む。

 それを二、三度繰り返すと、今度は折り畳みのヘアブラシを取り出し、ポニーテールにまとめた後ろ髪をく。

 櫛の歯が滑らかに黒髪を通る感触を確かめると、由機はもう一度深呼吸をした。

 そして、鏡の中の自分と再び向き合う。

 ――大丈夫。うまくいくから。

 鏡の中で微笑む自分が、そう言ってくれたような気がした。

 由機は小さく頷くと、コンパクトミラーとヘアブラシを畳んでポケットにしまった。


「それでは、これにて部活動会議を終わります。お疲れ様でした」

 先程の倍の広さがある会議室に、由機の声が響き渡った。

「お疲れ様でした!」

 各部の代表として出席していた生徒達は由機の声に応えると、席を立ち始めた。

「お疲れ様、由機」

 生徒達があらかた会議室を退出したのを見計らって、由機の隣に座っていたショートカットの少女が控えめに声をかけた。

「ありがとう、まいちゃん」

 由機は隣の少女――副生徒会長の緑川麻衣子みどりかわ まいこに微笑んで返した。

「無事に終わってよかったね。周りはみんな三年だから、ちょっと緊張しちゃった」

 麻衣子はそう言いながら、肩をすくめて見せた。

「男子運動部の人って、ちょっと怖そうな人もいるしね。お疲れ様」

 由機はその顔に微笑みを湛えたまま、麻衣子を労った。

「何はともあれ、生徒会最初の仕事がうまくいってよかったよ」

 傍らで書類をまとめていた長身の少年――生徒会書記の丸山英嗣まるやま えいじが落ち着いた様子で口を開いた。

「うん。二人とも、これからもよろしくね」

 由機は麻衣子と英介の顔を交互に見てから小さく頭を下げた。

「はいっ、生徒会長殿!」

 英介が仰々しく挙手敬礼で応えると、由機の隣に立つ麻衣子がたまらず吹き出す。

「もう……やめてよ、丸山君」

 由機の端正な顔に赤みが差すのを英嗣は満足そうに眺めていたが、やがて幾分表情を引き締めた。

「それにしても、宮坂も大変だよな。文芸部の活動も両立しなきゃいけないなんてさ」

「そうだよね。生徒会長と文芸部長も兼任なんて。本当に大丈夫なの、由機?」

 英介に続いて麻衣子も心配そうな表情を見せた。

 由機はにっこりと微笑んでみせた。

「心配してくれてありがとう。でも、私はできると思ったから文芸部を引き継いだんだし、できると思ったから生徒会選挙にも立候補したの。だから大丈夫」


「ただいま」

 由機は玄関のドアを開けながら、その言葉を発した。

 外は既に日も落ちて薄暗くなっており、家の中も同様に薄暗い。通学用のローファーを脱いで玄関に揃えてから、玄関と廊下の灯りをつける。

 由機はそのまま階段を上がり、自分の部屋へと向かった。

 五年前に洋間へとリフォームした六畳の自室。日頃から整理整頓を心がけている為、室内は清潔だった。

 由機は鞄を机に立てかけると、机の上にあるペンギンのぬいぐるみの頭に優しく手を置いた。

 由機が六歳の頃に亡き祖父から贈られた、オレンジ色をしたペンギンのぬいぐるみ。その日から『ペラちゃん』と名付け、本物のペットのように可愛がってきた。

 勉強机と本棚が並ぶ、いかにも勉強部屋といった雰囲気のこの部屋において、数少ない少女らしさを感じさせるものの一つだった。

「……ただいま」

 由機はぬいぐるみに帰宅の挨拶をすると、外の空気を入れる為に窓を開けた。部屋の隅にかけられた室温計は二七度を示していた。

 制服を脱いでハンガーにかけてから、部屋着に着替える。七分丈のTシャツにショートパンツというラフなスタイル。

 着替えが済むと由機はまるで何かから解放されたかのように、大きく伸びをした。


「いただきます」

 焼き魚を中心にした一汁三菜の食事を前に、手を合わせる。そして右手に箸を取ろうとして、エプロンを着けたままだったことに気づいた。

 一呼吸置いてエプロンを脱ぎ座布団の横に畳んで置くと、由機は気を取り直して箸を取り、味噌汁に口をつけた。

「……まあまあかな」

 わかめとネギ、豆腐を入れた味噌汁はうまくもまずくもなかった。

 平日の夜は、決まって一人で食事を摂る。

 商社勤めの父は忙しく、まず午後一〇時前には帰って来ない。母は八年前から地元のスーパーに社員として再就職し、これまた午後九時前に帰って来ることは珍しい。

 気がつけば自然と料理や洗濯、掃除といった家事を身に着けるようになっていた。

 何の気なしに時計を見ると、時刻は午後七時を回っている。帰宅してからまだニュースを見ていなかったことを思い出し、一旦箸を置いた。

 テレビのリモコンを手に取り電源を入れると、ブラウン管には何度も観た映像が映し出される。

 大勢の観衆の前で突如として爆発、炎上する一輌の戦車。それは二ヶ月前にロシアで起きた事件の映像だった。

「ロシア政府は一連の情報を今年の五月、対独戦勝記念パレードで起きた爆破テロと関連付けて捜査を行っており、首都モスクワでは自動小銃を手にした兵士が街の警備にあたるなど、依然として市内では物々しい雰囲気が感じられます」

 映像の後で入る、モスクワ駐在の特派員からのリポート。

 それは今朝のニュースで報じられたものとほぼ同じ情報だった。ロシアからの分離独立を目指す勢力が暗躍しているという。

 ゴシップ記事や都市伝説が好きな麻衣子によれば、爆破事件以来ロシアや周辺の国々では怪現象が相次いでいるとの噂がある。

 それらはいずれも夜中に昔の戦車が動いているのを目撃したとか何もない場所からエンジン音や履帯キャタピラの音が聴こえたといった胡散臭いものだった。

 しかしこれは怪現象でも何でもなく、独立派勢力が首都モスクワで大規模なテロを行う為に廃棄されるはずだった旧式兵器を密かに運び込んでいるのだ、と大真面目に言う軍事評論家もいるらしい。

 国内の政治・経済の動きや国際情勢は一通り把握してはいるものの、由機はそれらに別段興味を持っているわけではなかった。

 だから、この件についても特に詳しく知りたいとは思わない。

 その他のニュースは施行されたばかりの製造物責任法や東京でサービスがスタートした簡易携帯電話など、当たり障りのないものだった。

 由機は時折ブラウン管に目を向けつつ、無言で食事を続けた。


 「これで終わり……っと」

 食べた分の食器を全て洗い、水切りかごに置く。

 由機は洗い桶の水を捨てて、小さくため息をついた。今日の夕飯はろくに味わうこともなく食べてしまったような気がする。

 今日の料理は疲れて帰って来た両親の口に合うだろうか、胸の中に小さな不安がよぎる。

 しかし、今からもう一度味見をして味を調えるほどの精神的余裕が今の由機にはない。

 再び小さくため息をつくと、由機は台所の灯りを消して風呂場へと向かった。


 由機はため息交じりに服を脱いだ。薄手のTシャツとショートパンツが、ひどく重いものに感じられた。

 服も下着も全て脱いで脱衣かごに入れ、最後に髪をまとめていたリボンをほどく。

 浴室の戸を開けて中に入ると湿気を含んだ暖かい空気に肌が触れ、ようやく気分が落ち着くのを感じた。

 浴槽の蓋を外すと、浴室内にはたちまち湯気が立ち込める。由機は蓋を立てかけて、鏡の前に立った。

 手で鏡の曇りを軽く拭い、鏡の中の自分に心の中で声をかける。

 ――お疲れ様。

 鏡の中の自分は昼間とはうって変わって、ひどく疲れた顔をしていた。


 由機は両親がまだ起きない時間に家を出て学校へと向かった。

 時刻は午前六時半を回ったばかりで、学校へと続く県道にも車の姿は少ない。

 街はまだ目を覚ましたばかりだった。自宅から三キロ離れた氷山ひやま駅からは、電気機関車がレールを踏みしめる音が聴こえてくる。


「おはようございます」

 由機は職員用玄関の隣の事務室に回り、事務員の鈴木すずきに声をかけた。

「おはよう。今日も早いね、会長さん」

 今年で五七歳になる鈴木はにっこりと微笑んで挨拶を返した。

「本日もよろしくお願いします」

 由機は両手を揃えて頭を下げた。

「こちらこそよろしく。はい、生徒会室の鍵ね」

「ありがとうございます」

 由機は鍵を受け取ると、再び頭を下げる。

「どういたしまして。相変わらず会長さんは丁寧だねぇ。ウチの娘にあんたの爪の垢を煎じて飲ませてやりたいよ」

「いえ、そんな……」

 由機がはにかんで手を横に振ると、鈴木はそれに負けじと手を横に振って言葉を続けた。

「いや、ホントだよ。もうすぐ成人するっていうのに親の言うことは聞かない、自分のことは何にもできやしない。困ったもんだよ」

「……そうなんですか。でも、娘さんには娘さんの考えがあるのかも知れませんよ」

 由機は返答に窮したが、知恵を絞って鈴木にもその娘にも失礼にあたらないよう言葉を選んだ。

「そうだといいんだけどね……おっと、いけない。朝から愚痴を聞かせて悪かったね。それじゃ、また後でね」

「いえ、そんな。それでは失礼します」

 由機は微笑んでもう一度頭を下げると、生徒会室の鍵を手にその場を後にした。


 由機は生徒会室の鍵を開けて室内に入ると、ポケットからコンパクトミラーを取り出し、鏡の中の自分に微笑んだ。

 ――大丈夫。私は笑えるんだから。

 心の中で自分を励ましてから、コンパクトミラーを畳んでポケットにしまった。

 生徒会のメンバーが登校して来る前に、資料を整理しておかなければいけない。

 手始めに昨夜遅くまとめた各行事の詳細な予定表を鞄から取り出すと、記入漏れなどがないかもう一度チェックすることにした。


 他の生徒会メンバーとの打ち合わせが終わってから、由機は自分のクラスのドアを開けた。

「おはよう!」

 由機が挨拶をすると、男子・女子を問わず周りの生徒が挨拶を返す。

 現在のクラスになってから三ヶ月しか経っていないが、由機は学業やスポーツで優秀な成績を修めていることや誰に対しても親切に接することから、クラスメイトと担任に深い信頼を寄せられていた。

「…………?」

 由機は席に向かおうとして、自らの席の隣にもう一つ席が用意されていることに気づいた。

「ああ、それ? 転校生が来るらしいよ、宮坂さん」

 由機の反応を見て、近くの席の小柳幸こやなぎ さちが声をかけた。

「転校生?」

「そう。高校二年で、しかもこの季節に転校して来るなんて珍しいよね」

「うん……そうだね」

 由機は自分の隣に転校生の席を用意した担任の判断に不快感を覚えた。

 ただでさえ忙しい自分に対して更に仕事を押しつけようとするのは、自分を信頼しているからではなくただの便利屋だと考えているからではないか。

 そう思えてならなかった。


「みんな。もうわかってると思うが、このクラスに転校生が来ることになった。仲良くするようにな」

 そう言って担任の男性教諭・早見はやみはクラスの生徒全員に視線を送った。

 由機は早見が他の生徒よりも少しだけ長くこちらを見ていたことに気づき、心の中でため息をついた。

「先生! 転校生は女子ですか?」

 男子生徒の一人が、待ちかねたように声を上げた。他の生徒達が笑い声を漏らす。

「こらこら、静かに。女子か男子かは名前を見て判断しなさい」

 そう言って早見はチョークを手に取り、黒板に名前を書いた。

 ――『三宝荒神楓』――

 その字を見た生徒達の間で、にわかにざわめきが起こる。

「なんて読むの、あれ?」

「名前は『かえで』じゃないか? そうすると女子だよな」

「男で『楓』って名前のキャラもいるよ? 漫画だけどさ」

 黒板に書かれた名前について憶測を立てる生徒達。早見が再び声を上げた。

「こらこら! 静かにしなさいと言っただろう!」

「先生、その名前、なんて読むんですか?」

 先ほど転校生は女子かと質問を浴びせた猪俣いのまたが、今度は名前について質問した。

三宝荒神楓さんぽうこうじん かえでさんだ。変わった名前ではあるが、みんな仲良くするんだぞ」

 早見は転校生が女子か男子かは明かさないまま、黒板側入り口のドアを開けた。

「さあ、もう入って来なさい」

 早見に促され、教室に入って来た生徒の姿にクラス中がどよめいた。

 きらきらと輝く長い金髪に宝石のような青い瞳、透けるように白い肌……まるでおとぎ話の世界から飛び出してきたかのような、美しい少女。

 その外見は、日本的な名前からはおよそ想像しがたいものだった。

 生徒達を驚かせたのはそれだけではない。少女は男子用のスラックスを履き、その左手には黒革の刀袋を手にしていたのだ。

「さ、自己紹介しなさい」

 少女は早見に対して無言で頷くと、周囲のざわめきを何ら意に介することなく口を開いた。

「お初にお目にかかる。三宝荒神楓だ。よろしく頼む」

 それは不自然さの全くない、日本人が話すのと変わらないレベルの日本語だった。

「こらこら! 静かにしなさい!」

 早見が騒ぎ立てる生徒達を叱りつける中、由機は楓と名乗る少女が自分を見ていることに気付いた。

 彼女と目が合った瞬間、由機は全身に鳥肌が立つのを覚えた。

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