第一章『帰ってきた戦車兵』

第一話『君は犬を見たか』

 勇壮な行進曲の響きに合わせて、精悍な顔つきの兵士達が隊列を組み、アスファルトで舗装された道路の上を一糸乱れぬ歩調で行進していた。

 軍楽隊により演奏される曲は愛国歌『スラヴの娘の別れ』。

 作曲家・アガープキンにより作曲されたこの歌は第一次世界大戦、ロシア内戦、そして『大祖国戦争』を通じ、歌詞を変えながらロシアの将兵達に唄い継がれてきた。

 今回のパレードには陸・海・空・三軍を中心に一万人を超える部隊が参加している。

 その中にあって、サーベルを携えた指揮官と旗手を先頭に行進する狙撃兵(他国では『歩兵』に相当する)の一団は異彩を放っていた。

 他の部隊が制帽と式典用の礼服という礼装に身を固めているのに対し、この一団はヘルメットと野戦服という戦時のスタイルで行進している。

 半球状のM40ヘルメットとM1943ルパシカ型野戦服にマント状の防水ケープを身に着け、胸の前に構えるのはPPSh‐41短機関銃。

 いささか地味で古臭い印象を与えるその装いは、ドイツ・日本との戦争を戦い抜いた第二次世界大戦当時のソ連軍将兵そのものだった。

 西暦一九九五年五月九日、モスクワ。

 赤の広場からモスクワ郊外のポクロンナヤにある戦勝記念公園にかけて、ロシア軍による対独戦勝五〇周年記念パレードが行われていた。

 四年ぶりの開催となった今回の対独戦勝記念パレードには、国威発揚と国際社会へのデモンストレーションという大きな目的がある。

 現大統領ガリーツィンは式典に招待したアメリカ・中国など第二次大戦の勝利国の首脳を前に「ファシズムと戦い勝利した我らは一体である」と演説し、ロシアもまた第二次大戦に勝利した偉大な国家であることをアピールした。

 大祖国戦争の英雄に扮した将兵を今回のパレードに参加させたのも、祖国の経済低迷と国際的地位の低下に嘆くロシア国民を勇気づける狙いがあってのことだった。

 パレードに集まった何万人もの観衆の中、第二次大戦当時の軍服と戦功章を身に着けた退役軍人達は壮絶な戦いの日々に思いを馳せながら、目の前のパレードを見守っていた。

 やがて各部隊による行進が終わると、航空機による展示飛行が始まる。

 ジェットエンジンの爆音を伴って、巨大なAn‐124輸送機一機とSu‐24M戦闘爆撃機二機がV字型の編隊を組み、クトゥーゾフスキー通りの上空を飛び去って行った。

 道路の両側でパレードを観覧していた観衆からは、大きな拍手と歓声が上がる。

 MiG‐29戦闘機やSu‐27戦闘機の編隊がそれに続いて展示飛行を行うと、その後にMi‐24戦闘ヘリやMi‐17輸送ヘリの編隊がけたたましいローター音を伴って人々の頭上に飛来する。

 軍事大国ロシアがいまだ健在であることを国内外に知らしめる為、今回のパレードには戦闘機から輸送ヘリに至るまで数多くの航空機が投入されていた。

 航空機による展示飛行が終わると、凱旋門の向こうから猛獣の唸り声のようなエンジンの排気音と、履帯キャタピラとアスファルトが擦れ合う耳障りな音が聞こえて来る。

 次第にその音は大きなものとなり、やがて音の主がその姿を現した。

 T‐80U。1985年に生産が開始されたロシア軍の最新鋭主力戦車である。

 機動性向上の為に高出力のガスタービンエンジンを搭載し、主砲には対戦車ミサイルの発射をも可能とした一二五ミリ滑腔砲を採用している。

 長大な主砲を備え、砲塔・車体ともにERA(爆発反応装甲)で覆われたその姿は、槍を携えた中世ヨーロッパの重装騎兵を思わせる。

 鋼鉄の履帯に削られたアスファルトが粉塵となり、戦車の周囲には靄が立ち込め始める。

 T‐80Uに続いて姿を現したのはT‐80BV。砲塔・車体共にブロック状のERAでびっしりと覆われたその複雑な外見は、T‐80Uとは別種の不気味さがあった。

 四年前の湾岸戦争では性能を落とした輸出仕様とはいえ、旧ソ連製のT‐72主力戦車が多国籍軍の戦車に一方的に撃破される映像が世界に配信された。

 そのことから、今回のパレードでは新型戦車であるT‐80シリーズを先頭に立ててロシア軍の装備が最先端であることをアピールする必要があった。

 履帯を軋ませながら目の前を通り過ぎる戦車を前に、子供達が興奮して声を上げる。再び沸き起こる盛大な拍手と歓声。

 大統領は周囲の軍高官達に満足げな笑顔を見せた。評判は上々だ。

 主力戦車に続いて自走榴弾砲や巨大なロケットを搭載した自走式多連装ロケット発射機、最新型のBMP‐3歩兵戦闘車などが姿を現し、人々の喝采を浴びる。

「すごいね、パパ! あんなに大きいよ!」

 目の前を走り去る巨大なS300自走式地対空ミサイル発射機の姿に、八歳の少年――レムは大喜びだった。

「本当だ。大きいなぁ」

 傍らに立つアレクセイ=アゼフは息子・レムの頭を優しく撫でながら応えた。

 アレクセイの父――ウラディーミル=アゼフ中佐はかつてヴァシリー=チュイコフ将軍の指揮する第八親衛軍に所属し、スターリングラードからベルリンまでを戦い抜いた戦車兵だった。

 一年前に他界したウラディーミルはその戦功からレーニン勲章を授与されたほどの有能な軍人であり、アレクセイとレムにとっての誇りだった。

「パパ、おじいちゃんは戦車に乗ってドイツ軍と戦ったんだよね」

「ああ、そうだよ。五十回もドイツ軍の陣地に突撃したのに、一度も怪我をしなかったというのが自慢だったなぁ」

 それは父――アレクセイが、祖父――ウラディーミルが何度も語って聞かせた話だったが、レムは青い瞳を輝かせて父の言葉に耳を傾けていた。

「ねえパパ! おじいちゃんが乗ってた戦車は来てないの?」

 それぞれの車両が足回りとエンジンから発する騒音、周囲の歓声に負けじと、レムは声を張り上げてアレクセイに問いかけた。

「今日のパレードに来ているのは全部、今の軍隊の車両だからな。おじいちゃんが乗ってたT‐34は来てないよ。後で戦勝記念公園に行こう。あそこならT‐34もある」

「うん!」

 息子の愛らしい笑顔にアレクセイも顔を綻ばせた。

 五年前に妻と死別し、一年前に両親が相次いで世を去り、今では二人きりの家族となったアレクセイとレム。

 アレクセイは息子に寂しい思いをさせないよう、休日には可能な限り二人の時間を作るよう普段から心がけていた。

 主力戦車から自走式ミサイル発射機まで一通りの車両が親子の前を走り去った後、独特なエンジン音と履帯の軋みを響かせながら近づいて来る車両があった。

 沿道からは一際大きな歓声が上がる。アレクセイはその車両の姿を認めると、目を大きく見開いた。

「レム! T‐34が来たぞ。おじいちゃんが乗っていた戦車だ!」

「本当だ!」

 今回のパレードで最後に現れたのはT‐34/85中戦車だった。

 大祖国戦争当時の装備に身を包んだ狙撃兵同様、ソ連勝利の原動力となったT‐34を登場させることで今回のパレードをより強く印象づける狙いがあった。

 巨人が咳き込むようなディーゼルエンジンの排気音を伴い、T‐34が近づいて来る。

 世界に先駆けて本格的に傾斜装甲を取り入れた合理的な設計の戦車だが、やはり現用の兵器と比べるとその外見は古めかしい。

 しかし、ソ連の勝利の象徴が往時と変わらぬ姿で稼働しているという事実はロシア人にとっての誇りだった。

「パパ、T‐34がこっちに来るよ!」

「よぉし」

 アレクセイはレムの身体を担ぎ上げると、肩車をして戦車がよく見えるようにした。

「どうだ、レム! よく見えるか?」

「わぁ! パパ、ありがとう!」

 アレクセイとレムは大きな声で笑った。

 T‐34がいよいよ二人の目の前へとやって来る。レムはアレクセイの肩の上で大きく手を振った。

「……あれ?」

 レムがあるものに気づいた。

「どうした、レム――」

 アレクセイの声は轟音によってかき消された。


「……うぅ……」

 どれほどの間、こうしていたのだろう。アレクセイはゆっくりと身体を起こし、周囲の状況を確認した。

 目の前でT‐34が激しく炎を噴き上げながら燃えている。自分の周りに人々が倒れているのが見えた。次第に聴覚が回復すると、人々の悲鳴や怒号が聞こえてくる。

「……レム。レム! どこだ!」

 ようやく状況を理解し、アレクセイは息子の名を呼んだ。

 地面に手を着いて立ち上がろうとしたアレクセイの手が、柔らかい何かに触れる。

 振り返ってそれが何かを確かめた時、アレクセイは全身を震わせて絶叫した――。


「……レム。レム!」

 自らを呼ぶ父の声に、レムはゆっくりと目を開けた。

「……パパ……?」

 涙を流しながら自分を見つめる父・アレクセイの姿がそこにあった。

「ああ、レム! よかった。本当によかった……!」

 アレクセイはその太い腕で息子を抱き締めた。

「パパ……ここ、どこ?」

 レムは静かに言葉を発した。

「病院だよ……心配はいらない。大した怪我はしてないからな」

 そう言われてレムは周囲を見渡した。カーテンに囲われた簡素なベッドの上に寝かされていることが分かった。

「うん」

「今日はパパが一緒にいるからな。明日、家に帰ろう」

 レムがにっこりと笑って頷くと、アレクセイは流れ出る涙を手で拭った。

「パパも、怪我してるよ」

 レムがアレクセイの額や頬に貼られた絆創膏を見て言った。

「こんなもん、かすり傷だ」

 アレクセイは頬を緩ませ、包帯が巻かれたレムの頭をそっと撫でた。

「ねえ、パパ」

「何だ」

 レムは右手に巻かれた包帯を見つめながら言葉を続けた。

「僕、どうして怪我したの」

 アレクセイは口を開きかけてやめたが、十秒ほどの沈黙の後で問いに答えた。

「……俺達の前を走っていたT‐34が、いきなり爆発したんだ。俺もお前もその時の爆風で吹き飛ばされたんだよ」

「爆発……」

 アレクセイは小さく頷くと、レムの身体に布団をかぶせた。

「あの犬は、何だったのかな」

 レムが発した言葉にアレクセイは小さく身体を震わせた。

「犬……お前も、見たのか」

「うん。背中にカバンみたいなのを背負った、シェパードがT‐34に向かって走って行くのが見えたよ。そしたら……」

 そこまで話して、レムは額を包帯の巻かれていない左手で押さえた。

「少し休め。話すのは後でいい」

「うん」

 アレクセイはもう一度レムを抱き締めると、その場で立ち上がって微笑んだ。

「看護婦さんを呼んで来るからな。すぐに戻る」


 病室を出たアレクセイは、他の怪我人と同様にレムが口にした『何かを背負った犬』という言葉に妙な胸騒ぎを覚えた。

 自分はそれを見ていないが、怪我をして運び込まれた意識のある者は皆、口を揃えて『犬を見た』と言う。

 ――犬。まさか……

 大祖国戦争当時、ソ連軍では背中に爆薬或いは対戦車地雷を括りつけた軍用犬をドイツ戦車の迎撃に用いた事実がある。

 エンジンのかかったトラクターの下で餌を食べるように調教された犬達。

 対戦車犬、または地雷犬と呼ばれる犬達。

 戦闘の二、三日前から餌を与えられず、飢えた彼らは解き放たれると敵戦車の下へと潜り込む。あの音がする所には食事があるのだと考えて。

 そして、背中のレバーが戦車の底部に引っ掛かって倒れると、信管が作動して爆薬が炸裂し、敵戦車を道連れにするのだ。

 しかし、対戦車犬の全てがこのように戦果を上げられたわけではない。

 中には、友軍戦車のエンジン音に反応してしまい味方に損害を与えてしまった例が少なくないことをアレクセイは知っていた。

 対戦車犬が撃破した戦車の中には、あのT‐34もあったことだろう。

 ――目的はテロか? いや、そうとしか考えられない。大統領や国賓が居並ぶ対独戦勝記念パレードは絶好の舞台だろう。

 アレクセイはしばし思案に耽った。それにしても腑に落ちない点が多すぎる。

 厳重な警備の中、どうやって犬と爆薬などというものを持ち込んだのか。何故、大統領や政府・軍の高官ではなく一輌の戦車を狙ったのか。

「わからない……」

 アレクセイは額を押さえて呟いてから、廊下にある公衆電話の受話器を手に取った。

 いずれにせよ、国家に仇なす輩を放置するわけにはいかない。

 体制が変わってしまったとはいえ、この国は父や母が命がけで守り抜いた祖国だ。

 父や母が命がけでドイツ軍と戦ったのと同じように、自らもまた命をかけてこの国を守らねばならない。

「レム……」

 愛する我が子の為にも、命をかけてこの国を守らねばならない。

 アレクセイは双頭の鷲の紋章をあしらった黒革の手帳を取り出してしばし見つめていたが、やがて大きく息を吸い込んで電話機のボタンを押した。

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