第二十八話『崩れゆく日常(前編)』
機十郎は一人、早朝の街を走り続けていた。
午前四時三〇分に起床し、軽いストレッチの後でランニングに出かけた。
目覚まし時計は必要なかった。いつでも起きたい時間に起きられることが特技の一つだった。
付近を軽く走るだけのつもりが、大きく様変わりした街を眺めつつ走っているうちに、自宅からすっかり遠ざかっていた。
そうして馴染みのない商店街へと足を踏み入れた時、機十郎の嗅覚が何かを捉えた。
やがて、機十郎は商店街の隅にある一軒の豆腐店の前で足を止めた。
「いらっしゃいませ。あっ……」
機十郎を出迎えた少女が小さく声を上げた。
「この間のお嬢さんじゃないか。
「ええと……ニコライ、さん……ですよね。おはようございます」
高校の制服の上にエプロンを着た少女――
「うむ、おはよう」
機十郎は満足げに頷くと、古びた店内を見渡した。
「あの……何か?」
「いや、なぁに。この辺りを走っていたら、うまそうな豆腐の匂いがしたものでな」
機十郎はそう応えると、白い歯を見せて笑った。
「えっ……豆腐? ニコライさん、豆腐を知ってるんですか?」
初美が目を丸くする。
「そりゃ、知ってるも何も――」
そこまで言いかけて、機十郎は自身がウクライナ人『ニコライ』であることを思い出した。
「まあその……キエフで一度だけ食べたことがあってな。日本に来たら、本場の豆腐を食べてみたいと思っていたんだ」
機十郎が照れ笑いを浮かべて誤魔化すと、初美が僅かに表情を和らげる。
「あの……よかったら、食べてみますか?」
「……いいのか?」
「はい。ちょっと待っててください」
初美はガラスの陳列棚からパック詰めされた絹ごし豆腐を取り出して手際よく開けると、包丁で一口大に切り出して発泡スチロールの小皿に載せ、プラスティックのフォークを添えて差し出した。
「お醤油、いりますか?」
「いや、このままいただこう。どうもありがとう」
機十郎は切り分けられた豆腐を一口で食べた。
「あの……どうですか?」
緊張の面持ちで問いかける初美に、機十郎は満面の笑みで返した。
「実にうまい。軽く歯を当てただけで口いっぱいに広がる、豊かな大豆の風味と香り。そして、この滑らかな舌触りに優しい甘み……良い大豆と水を使っているだけでは、この味は出せない。味わうほどに、丁寧な仕事ぶりが伝わってくるようだ」
「あっ……」
初美は小さく声を上げ、呆気に取られたように機十郎の顔を見つめていたが、やがて恥ずかしそうに微笑んだ。
「あ、ありがとう……ございます。なんだか、グルメ番組のリポーターさんみたいですね」
「……こんなに買ってきちゃったんですか?」
呆れた表情を浮かべる由機に、機十郎は悪びれる様子もなく頷いた。
台所の流し台に置かれたのは木綿豆腐に絹ごし豆腐、油揚げに厚揚げ、がんもどき。加えてビニール袋いっぱいに詰まった、おからだった。
「うまい豆腐だったからな。豆腐は味噌汁に冷奴、湯豆腐。厚揚げは煮ても焼いても、炒めてもうまい。がんもどきは煮物にして、おからは卯の花和えに……おっと、そうだった。『先輩によろしく』と伝言を預かっているぞ」
「えっ、『園原豆腐店』って。ひょっとして……」
由機はビニール袋に印字された店名にようやく気がついた。
「何だ、知らなかったのか。それにしても早起きして家業の手伝いとは、感心な
「恥ずかしいからやめてください!」
楓は居間で洗濯物を畳みながら、台所でのやり取りを興味深そうに見守っていた。
由機と楓は食卓に並んだ絹さやと豆腐の味噌汁を口にするや、感嘆の声を上げた。
「おいしい……! お豆腐が違うと、お味噌汁はこんなに味が変わるんですね!」
「驚いた。スーパーで売っている豆腐も悪くはないが、これは格段に風味が違う!」
機十郎は満足げに頷いて自らも味噌汁を一口すすった。
「ところで今度、静岡へ行って来ることにした」
「唐突ですね……」
由機は眉ひとつ動かさずに応えると、丸干し鰯を頭からかじった。
「静岡に何か用でもあるのか、お祖父様?」
楓もまた全く動ずることなく、ほうれん草のお浸しに醤油をかけながら問いかけた。
「ああ、昔の戦友に会おうと思ってな」
機十郎の発した言葉に由機の表情が曇った。
「……目的は何だ、お祖父様」
楓が箸を止めると、由機もそれに続く。機十郎は小さく唸ると、静かに箸を置いた。
「ロシアやウクライナで何が起きているのか、この目で確かめたい。その為に渡航手段を確保せねばならん。中国やロシアとの貿易に携わっている人間の手を借りる必要がある。そこで、静岡で貿易会社を営んでいる昔の戦友に頼むのさ。出発はまだ先のことになるが」
楓の視線が厳しいものに変わる。
「つまり密航をするつもりか、お祖父様」
「俺は既に死んだ人間だ。パスポートを申請するわけにもいかんからな。心配するな、お前達に面倒は――」
「いい加減にしてください!」
突然、由機が大きな声で機十郎の言葉を遮った。
「由機……?」
由機は涙に曇った目で機十郎を睨みつけた。
「どうして、そんなことをする必要があるんですか! 三人で楽しくご飯を食べて、話をして、一緒に仕事をして。それじゃ駄目なんですか?」
「駄目だ」
機十郎は全く動じる様子を見せなかった。
「俺は幸せを得る為に軍人になったわけじゃない」
「軍人って……! いつまで陸軍中尉でいるつもりですか?」
「将校は
機十郎はさも当然とばかりに答えた。
「何、言ってるんですか……! 日本軍なんて、もう存在しないんですよ!」
「そうか……では、俺が戦車に乗って現れたのは何故だ。帝国陸軍の軍装を纏っていたのは何故だ。知るはずのない死後九年間の戦争や紛争を知っていたのは何故だ。俺の戦車――
機十郎の鋭い目に、由機が一瞬だけ怯んだ。
「先日の戦いで確信した。この世界は俺に『戦え』と言っている。俺に帝国陸軍の機甲兵として再び使命を果たすべき機会を与えてくれたんだ」
機十郎の顔に笑みが浮かぶのを見た瞬間、由機は背筋が凍る思いがした。
「俺が怖いか? 無理もない。俺は軍国主義の亡霊だからな」
機十郎は冷たい笑みを浮かべたまま箸を取り、鰯を頭からかじった。
やがて、由機と楓も無言で箸を取り、食事を再開した。
その日の朝食は、いつになく静かなものとなった。
由機と楓は並んで机に向かい、本を読んでいた。まだ登校する生徒は少なく、文芸部の部室は静寂そのものだった。
七月も半ばを過ぎ、夏の強い陽射しが室内に差し込んでいた。由機は汗ばむ額を手の甲で拭い、小さくため息をついた。
「……ユキ」
「何? 楓ちゃん」
由機は小説のページをめくりながら返事をした。
「先ほどのことを、気にしているか?」
「え……うん。あの人が、あんなことを考えてたなんて」
由機は呟くように言った。
「日本陸軍の中尉として戦うってことが……そんなに大事なのかしら。私には理解できないわ」
その刹那、楓が眉をひそめたことに由機は気づかなかった。
ややあって、楓は静かに本を閉じた。
「帝国陸軍の中尉として戦う……それだけが目的とは思えない」
「えっ?」
ページをめくる由機の指が止まった。
「お祖父様が大陸に渡ろうとしているのは、軍人としての理由だけではなく……お祖母様との約束を果たす為かも知れない」
「約束……?」
楓が無言で頷く。
「お祖母様が天に召された後、お祖母様と同じ部隊にいた人から聞いた。お祖父様がウクライナに抑留されていた頃の話を」
由機がようやく顔を上げた。
「お祖父様は日本に帰らず、お祖母様と結婚してウクライナに残ると言っていたらしい。ウクライナ人として生きてゆくと」
「それじゃ、どうして……」
「詳しいことは知らないが……結局、お祖父様は他の将兵と共に帰国してしまった。何があったのか、お祖母様は教えてくれなかった」
楓は寂しそうに言った。
「お祖父様は、お祖母様を裏切った……私はずっと、そう思っていた。今では、やむを得ない理由があったのだろうと思っているが」
「楓ちゃん……」
「お祖父様がウクライナに行きたいと言った時……私は嬉しかった。お祖母様が眠る場所にお祖父様が来てくれれば、お祖母様も喜んでくれるだろう」
「……うん、そうだね」
由機は意識して明るい声を出そうと努めたが、その声は沈んでいた。
「そうだ。だが……」
楓は言葉を区切り、微笑んでみせた。
「私にとって何より大切なのは、今の生活だ。これからも三人で食事をして、仕事をして、共に楽しく暮らしたい」
「それじゃ……」
「私もユキと同じ考えだ。家族三人で暮らせる奇跡と幸せを失いたくはない」
楓が言い終わらないうちに由機は席を立ち、楓を抱き締めた。
「……ユキ?」
「ありがとう……私、楓ちゃんが大好き」
楓はそっと目を閉じ、由機の腕を優しく握った。
「私もだ、ユキ」
由機と楓は互いの言葉に安堵し、しばし時を忘れた。
心地良い沈黙の後で、楓が徐に口を開いた。
「ユキ。聞いて欲しいことがある」
その声の厳粛さに気圧されながらも、由機は大きく頷いた。
「……いや。それを話すのは、またの機会にしよう……」
楓の声が困惑を含んだものに変わった。
「え……?」
気まずそうな表情を浮かべる楓の視線を目で追うと、視線の先――部室の入り口に、放心状態で立ち尽す初美の姿があった。
「ふぁぁ……」
高校の制服を着崩し、髪を逆立てた少年――
授業は全て出席したが、その殆どを眠って過ごした。もはや、学校は昼寝をして昼食を摂る為の場所でしかない。
科目の半分以上が赤点に終わった期末テスト。その惨憺たる結果を突きつけられても、向学心や危機感は全く湧いてこなかった。
どうせ追試で何とかなる。これまで何とかしてきたのだから、今回も大丈夫だろう。そう考えていた。
「おい、リョウ。今、帰り?」
背後から声をかけられ、振り返る。
他校の制服を自分以上にだらしなく着崩し、髪を茶色に染めた少年と、それと同じ制服を着た坊主頭の少年。名前は覚えていないが、街で何度か顔を合わせたことがあった。
「ああ……そうだけど」
亮介はぶっきらぼうに答えると、
友人と言えるほど親しくもないくせに、自分をあだ名で呼ぶ馴れ馴れしい奴ら――。亮介は心の中で彼らを軽蔑していた。
「ンだよ、ノリ悪りぃな」
坊主頭の少年が駆け寄り、亮介の肩に手を置いた。
瞬時に頭が熱くなり、その手を払いのけようとする衝動に駆られたが、拳を握って堪えた。
「待てって、リョウ! 俺、走れねぇんだから」
そう言って、茶髪の少年がぎこちない足取りで追いすがった。
「……足、どうかしたの?」
何かを思い出したのか、茶髪の少年が怒りに顔を歪める。同じ表情を浮かべる坊主頭の少年は鼻が曲がっていた。亮介はそれ以上、追求するのをやめた。
「いや……それよりもよ。この後さぁ、時間あんだろ?」
坊主頭の少年が小さく舌打ちした後で、話を切り出した。
「ねぇよ。夕飯の用意しなきゃなんねぇし」
亮介の言葉に、二人は目を丸くして顔を見合わせると――。
「はぁぁぁ? 何それ。自分でメシ作ってるって、マジ?」
「ウケるわー! お前の母ちゃん、メシ作ってくんねぇの?」
指を差して笑い出した。
「……あ?」
亮介は低い声を発して自分を笑う二つの顔を見据えた。笑い声が消えた。
坊主頭の少年は面倒くさそうに頭をかくと、もう一度舌打ちした。
「まあ、いいんだけど。六時に集合って、テツヤさんが言ってんだよ。お前も来いよ」
「え? ちょっと待てよ」
難色を示す亮介を無視して、二人が踵を返す。
「ったく、ポケベル買えよ。遅れんじゃねぇぞ!」
茶髪の少年が振り返って叫んだ。
遠ざかる二人の背中を見ながら、亮介は舌打ちした。
「交友関係……か。確かに、そうかもな」
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