『Intermission―小休止―』

 あてもなく、未舗装の道を歩き続けていた。

 地面はぬかるみ、黒革の長靴ちょうかは既に泥まみれだった。

 ――「夏はバケツ一杯の雨がスプーン一杯の泥となる。秋はスプーン一杯の雨がバケツ一杯の泥となる」――

 ウクライナに古くから伝わることわざを思い出した。

 頬に触れる空気は冷たく、吐く息が白い。

 ウールの軍服だけでは事足りず、外套が欲しいと感じる。

 凍える肩を手でさすりながら、ひたすら歩く。

 道は地平線の向こうまで続いていた。

 ふと、首筋に冷たいものが触れる。

 雨か――。

 立ち止まって鉛色の空を見上げているうちに、雨は土砂降りの豪雨となった。

 雨宿りできる場所を求めて周囲を見渡すと、道端に立つ一本の木が目に入った。

 赤く色づいた枝葉を大きく広げる広葉樹――ヨーロッパに広く生息するセイヨウカジカエデ。

 こんな木は先程まで無かったはずだが――。

 腑に落ちないものを抱きつつも、駆け足で木陰へと入る。

 冷たい雨から逃れ、ようやく足に疲労を感じる。

 そっと木の幹に背を預け、そのまま腰を下ろした。

 長い道の途中での、束の間の休息。

 目を閉じて、深く息を吸い込む。

 雨に濡れた枝葉の匂いが心地良かった。

 ――キージェ。あなたはウクライナ人よ。ウクライナ人を愛し、ウクライナの大地を愛するあなたは、サムライの魂を持つウクライナ人よ――。

 脳裏に蘇る、あの日の言葉。胸を貫くような、鋭い痛みが走った。

 ……ナターリヤ。

 心の中で、愛する人の名前を呼ぶ。

 かえでの木。ナターリヤが愛した、楓の木。

 二人で愛を誓った、楓の木。

 しなやかな身体を抱き締め、柔らかな唇に初めて触れた、あの日を思い出す。

 あの日と同じ、雨に濡れた枝葉の匂い――。

 こうしていると、ナターリヤに会えるのではないか。

 つい、そんな思いを抱き……すぐに後悔した。

 自分がナターリヤと同じ所に――小枝子さえこと同じ所に行けるはずがない。

 敵・味方を問わず、大勢の人間を死に至らしめた自分の行先は――おそらく修羅道だろう。

 きっと、これまで歩いてきた道は新たな戦場へと続いているのだ。

 今も軍服に身を包んでいるのは、その為だろう。

 新たな戦いの為に。

 いつ終わるとも知れぬ戦いの為に。

 目を開けると、雨が上がっていた。

 再び深く息を吸い込み、重い腰を上げる。

 歩こう、地平線の向こうまで。

 新たな戦いが――いつ終わるとも知れぬ戦いが、待っている。

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