第二十七話『英雄故事(後編)』

「今月六日に陸上自衛隊土浦駐屯地で装備品が紛失した問題について、五木いつき内閣官房長官は記者会見で『発見された状況から、何者かによって盗み出され破壊された可能性が高い』との見解を示しました。また、同駐屯地が存在する阿見町を中心にして多くの建物や施設が損壊したことと併せて、テロの可能性も視野に入れて調査を進める意向を示しています」

 ラジオが伝える事件の報道に、由機が机から顔を上げて聴き入る。真実とかけ離れた情報を発信する政府と、それをそのまま伝えるラジオ局の報道姿勢に、思わず眉をひそめた。

「この問題に関して、土浦駐屯地司令と武器学校長を兼任する米山徹夫よねやま てつお1等陸佐は責任を取って駐屯地司令と武器学校長の職を辞任する意向を示しており……」

「米山も、とんだ貧乏くじだな」

 機十郎は机の上の原稿に目を落としたまま、ぽつりと呟いた。

「自衛隊の人達は何も悪くないのに。こんなのって、納得いきません」

没法子メイファーズ。今回のように想定外の事態が起きてしまった場合、こういった形で責任を取る奴が必要になるんだ。米山も、それくらいのことは分かっているだろう」

「お祖父様、『めいふぁーず』とは? 聞いたことのない言葉だ」

 パソコンデスクに向かってキーボードを叩いていた楓が、振り返って機十郎に問いかけた。

「俺達、陸軍の兵隊がよく使っていた中国語さ。意味はこれだ。どうしようもない、仕方がない」

 そう言って、機十郎は両手を上げて見せる。

「なるほど。お手上げということか」

 楓は感心したように大きく頷くと、再びディスプレイに目を向けてキーボードを叩き始めた。

「楓ちゃん。さっき渡された分は、もうすぐ添削が終わるわ。そうしたらお茶を淹れてくるね」

「ありがとう、ユキ。この仕事を手伝ってもらってよかった。思った以上にペースが早くて助かる」


 楓の言う仕事とは、日本語とウクライナ語の書籍の翻訳作業だった。

 複数の出版社や団体から委託を受け、フリーの翻訳家として活動しているのだという。小説に絵本、漫画やコラムに戦記、在日ウクライナ人団体の会報など、扱う書籍は幅広い。

 三人で過ごす時間を確保しつつ収入も得る――楓の提案を由機と機十郎は快諾。それぞれの役割を分担して作業に当たることにした。

 古今の戦史と軍事に精通しウクライナ語を理解する機十郎は、軍事用語など専門用語の注釈と解説に翻訳補助。

 由機は小説や絵本など、楓が日本語に訳した文章の添削。

 報酬は出来高払いなので、効率よく翻訳作業が進めばそれだけ収入も増える。楓の試算では、三人で作業を行うことで収入は現在の倍になる。三人分の生活費を賄うには十二分といえる金額だった。

 家事を交代で行うなどして時間をやり繰りし、由機と楓が学校に行っている間は機十郎が一人で作業を行うことにした。

 家の奥にある書庫には大量の書籍に加えデスクトップPCとプリンタが置かれており、三人はこの一室で作業に取り組んでいた。


「飲み慣れると、日本茶もいいものだな」

 楓はそう言って緑茶を満たしたカップに口をつけ、ほっと息を吐いた。

「ティーポットでもお茶は入れられるけど、やっぱり急須と湯呑が欲しいね。今度、買って来ようね」

 由機の提案に、楓が微笑んで頷く。

「……ふふふ」

 ふと、機十郎が笑い声を上げた。

「何ですか? 笑い方がちょっと気持ち悪いですよ」

「いや、なぁに。日本での暮らしを気に入ってくれたようで何よりだと思ってな」

 機十郎は嬉しそうに頷いてみせた。

「……日本には『住めば都』ということわざがあるが」

 数秒の間を置いて楓が口を開いた。

「この諺が意味するものを、ようやく理解した。人の暮らしにとって大切なことは『どこにいるか』ではなく、『何をしているか』、そして『誰と共にいるか』なのだと。私が日本での暮らしを楽しいと思えるのも、ユキとお祖父様がいるからだ」

 言い終わると、楓は照れ隠しをするように緑茶を飲み干した。由機はそんな楓に無言で微笑んだ。

「ありがとう、楓」

 機十郎は感謝の言葉を口にすると、静かに席を立った。

「お茶を淹れ直そう」

「あ、お茶なら私が――」

 由機が言い切る前に機十郎はティーポットを手に取り、書庫を出て行ってしまった。

 残された由機と楓は不思議そうに顔を見合わせた。


 台所に立った機十郎は出涸でがらしの茶葉を流しに捨てると、静かに窓を開けた。

 そして、陽の傾きかけた西の空を見上げ――寂しげに微笑んだ。

「誰と共にいるか……か。そうかも知れないな」


 地平線の向こうに陽は落ち、空は藍色に変わり始めていた。

 陸上自衛隊・土浦武器学校敷地内の屋外展示スペースには規制線が張られていた。

 展示されていた戦車や火砲は既に撤去され、コンクリートの床に刻まれた履帯キャタピラわだちが、かつてそこにあった物が何かを伝えている。

「班長、ここにいたんですか」

 規制線の外に一人で佇んでいた小三坂こみさかは、声のした方向に振り返った。

「……なんだ、槙野か」

「『なんだ』はないでしょう、『なんだ』は」

 槙野まきのは苦笑しつつ言葉を返した。その右腕には未だに包帯が巻かれていた。

「ここ、寂しくなっちゃいましたね」

「そうだな」

 小三坂は短く答えると、再び空の展示スペースに目を向けた。

「班長、そろそろ戻りましょう」

「ああ」

 小三坂はそう言った後も名残惜しそうに展示スペースを眺めていたが、やがて踵を返し槙野の傍に歩み寄った。

「班長」

 小三坂が足を踏み出すのを待って、槙野が後から声をかける。

「何だ?」

「あれから……もう二日ですね」

 槙野は半ばほうけたように言った。

「終わったような言い方をするな、調査はこれからだぞ。街で起きたことを上の連中がどう処理するかによって、俺達の立場も変わってくる」

「……すみません」

 槙野は二日前の出来事を振り返っていた。

 動く戦車を目撃したという少年の証言と街の破壊状況を考えれば、紛失した兵器こそが破壊活動の当事者であるとしか考えられない。

 しかし、そこで行われていたことを目の当たりにした者はいない。少なくとも、自衛隊関係者の中には――。

 あの日、事件の核心に最も近い場所にいたはずの自分は意識を失っていた。

 傍観者ですらなく、ただ一方的に助けられた。

 助けられる存在ではなく、誰かを助ける存在でありたいと考え続けている自分の無力を思い知ったのだった。

 ふと、小三坂が何かを思い出したかのように立ち止まった。

「班長……どうかしましたか?」

 小三坂はしばし黙り込んでいたが――。

「……『あの人』がいなければ、今頃どうなっていたんだろうな」

 藍色の空を見上げ、独り言のように呟いた。

「班長、もう行きましょう」

 槙野は問いに答えず、小三坂に前進を促した。

 ややあって、小三坂が再び足を踏み出すと、槙野も後に続く。

「……班長」

 小三坂の背を追いながら、槙野が口を開いた。

「何だ」

 小三坂は歩みを止めず、槙野もそれに続きながら言葉を紡いだ。

「班長が言っているのは……『あの人』がいなければこの街がどうなっていたか、ということだと思います。自分にはその答えが分かりませんが、これだけは言えます」

 小三坂が再び歩みを止める。

「自分は『あの人』がいなければ……恐らく生きていなかったでしょう。『あの人』は、自分にとって英雄です」

 小三坂は振り返って槙野の顔を見た。

 自身の言葉に一切の疑いも持たない――確信に満ちた表情がそこにあった。


 宵闇の沖合を航行する船舶が発する汽笛の音が、静かな港町に響き渡る。

 水瀬晴之みなせ はるゆきは愛犬レオンと共にベランダに佇み、陽の沈んだ水平線を眺めていた。

 昼食を終えてレオンの散歩に出かけた後は、何をするでもなくベランダから海を眺めていた。

「おーい、晴之」

 背後からの声に晴之が振り返ると同時に、暗い室内に明りが灯った。

「お父さん……」

 声をかけたのは父――晴信はるのぶだった。

「もう七時だぞ。電気もつけずにどうしたんだ」

「うん……」

 晴之は返す言葉が見つからず、ただ曖昧に返事をした。

 晴之は、あの日の体験を父に教えていない。それを語って聞かせた相手は、自身を保護した小三坂だけである。

 自身の証言を自衛隊がどう分析するのか、誰が知るところとなるのか、晴之は知らない。

 しかし、あの体験がいかに異常で重大なものか、九歳の彼にも容易に理解できた。自身の体験したことは家族であっても口外しないという小三坂と交わした約束にも抵抗はなかった。

 また、子供と侮ることなく真剣に接してくれた小三坂の誠実さを思えば、間違っても約束を違えてはいけないと考えていた。

 この約束は大人と子供の約束ではなく、男同士の約束なのだと考えていた。

「お腹、空いただろう。夕飯食べに行くぞ」

「わかった」

 短い返事をするとレオンの首輪にリードをつなぎ、外出の準備を始める。

 晴之は父とレオンと共に房総半島のリゾートホテルに滞在していた。

 被害が交通・通信施設のみに留まった土浦市とは違い、晴之らが住む阿見町の被害は深刻だった。

 全半壊した家屋や商店は一〇〇戸を超え、最寄りの送電所や通信施設が破壊されたことで市民生活に支障が出ることは確実だった。

 その上、街で起きたことの原因について各行政機関から明確な説明が無く、テロの可能性も示唆されていることから、人々の不安は解消しなかった。

 街を離れた住民の多くは、週が明けても戻って来なかった。

 町内の学校は全て休校となり、公共機関や企業は休業を余儀なくされた。水害への対応で派遣された自衛官達は引き続き町内で復旧活動を続け、一部メディアはこれを「事実上の治安出動では」と揶揄した。

 晴之はそんな大人達の事情が飲み込めた訳ではなく、自宅にも被害はなかったが、学校が休みとなった現在の状況が決して喜べるものでないことは分かっていた。

 日頃から忙しい父が休業を機に自分と時間を過ごしてくれることを嬉しいと思いながら、父の笑顔やおいしい食事も心から楽しむことはできなかった。

 ――来ては駄目!――

 晴之の脳裏に自らを叱咤する少女の声が蘇る。

 実の姉のような優しい笑顔を見せた、あの少女が発した――空気を裂くような鋭い声。

 由機がその時に見せた表情が、眼光が……脳裏に焼き付いて離れようとしなかった。

 ふと空を見上げると、左側が僅かに欠けた大きな十三夜月じゅうさんやづきが地上を照らしていた。

 煌々と輝く月の光にあの時の眼光を思い出し、小さく身震いをする。

 親愛。憧れ。敬意。感謝。そして畏怖――。

 晴之の中で、由機に対する様々な感情が渦を巻いていた。

 ――あのお兄さんなら、君の見た戦車を倒してくれるかも知れない――。

 小三坂はそう言った。

 しかし、誰かがあの戦車を倒したのだとすれば、それは『お姉ちゃん』なのではないか――。

 あの眼光を思い出す度に、そう思わずにいられなかった。

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