第二章『よみがえる戦争』

第二十六話『英雄故事(前編)』

 舘林六郎たてばやし ろくろうは病室のベッドに横たわったまま、白い天井をぼんやりと眺めていた。

 テレビを観る気にもならず、時計が針を刻む音だけが一人きりの室内に鳴り響いている。看護婦が朝食の食器を下げてから、彼は二時間以上もそのままでいた。

 何をするでもなく、何を考えるでもなく――まるで、世界に自分一人だけが取り残されてしまったような感覚。

 目を覚ましたのは一昨日おとといの夜だった。

 担当医からは二日間も眠っていたと説明されたものの、自分の身に何が起きたのか、まるで理解できずにいた。

 稼ぎを終えてラーメン店で夕食をっていたことまでは覚えているが、その後のことが全く思い出せない。軽度の記憶障害との診断を受けたが、何故そうなったのかは分からないという。

 医師に「分からない」と言われてしまえば、自分にはどうしようもない。とりあえず明日の退院まで身体を休めることにした。

 舘林は自身が愛煙家であることもプロ野球ファンであることも忘れ、喫煙室へ足を運ぶでもなく、各球団の順位を見る為にテレビをつけるでもなく――ただ病室の天井を眺めていた。

 そうしているうちに、自然と涙が溢れてきた。

 医師と看護婦以外でこの病室を訪れたのは、あの夜に立ち寄ったラーメン店の店主夫妻だけだった。見舞いに来る家族もいない自分の人生とは、何なのだろう――。

 こぼれ落ちた涙を拭おうと手を伸ばした時、病室のドアがノックされた。

「……はい!」

 慌てて返事をすると、看護婦がドアを開けて室内に入って来た。二時間ほど前に食器を下げに来た、中年の看護婦だった。

「舘林さん、ご家族が見えてますよ」

 その言葉に、舘林は目を丸くした。

「えっ……今、何て……?」

 発せられた言葉が信じられず、思わず聞き返す。

「ご家族がお見えですよ」

 看護婦は優しく微笑んで言葉を繰り返すと、「どうぞ」と言って二人の女性を室内に招き入れ、自らは病室を後にした。

「あ…………」

 舘林はしばし言葉を失った。

 視線の先には、一年前に家を出て行った妻と娘がいた。

「昨日、連絡を聞いて。来るのが遅くなってごめんなさい……あなた」

 もうすぐ五一歳になる妻はそう言うと、目を潤ませて微笑んだ。

「……お父さん」

 ちょうど一週間前に一九歳の誕生日を迎えた娘は、それだけ口にすると涙を流した。

「二人とも……ごめんな」

 堪えかねたように舘林がそう言って頭を下げると、妻と娘はベッドに駆け寄った。

 病室はしばしの間、舘林が忘れかけていた『家庭』へと姿を変えた。


「……ええ、分かりました。それでは」

 内科医――佐藤康晴さとう やすはるは通話を終えて静かに受話器を置くと、背もたれに身体を預けて大きく息を吐いた。

 意識を失い搬送されて来た患者達は、土曜日の夜に全員が意識を取り戻した。意識回復後に行った検査でも何ら問題はなく、後は退院を待つばかりである。

 これで一件落着――そのはずなのに、心は晴れない。

 医学を以てしても対処できない事態に、自分は遭遇してしまったのではないか。そう思えてならなかった。

 木曜日から金曜日の深夜にかけて運び込まれた患者達は土曜日の夜、全く同時に目を覚ました。

 自身が勤務する病院だけでなく近隣の病院においても同じことが起きたというのは、もはや医学の常識が通用する話ではない。

 思案にふける佐藤の脳裏に蘇ったのは、幼い頃に夢中で観ていた特撮ヒーロー番組の一幕だった。

 怪人に襲われ奇病に罹患した人々が、感染源である怪人を倒すことで一斉に回復する――。大人になった今では『ご都合主義』として笑い飛ばすような演出。

 目の前で起きたのは、まさしくそれだった。

「燃やせ……正義の力……掴め……輝く未来……」

 白い天井を見上げながら、大好きだった主題歌のサビの部分を口ずさむ。

 正義の英雄ヒーローになれなかった代わりに、医師の道を選んだ。

 ヒーロー番組に登場するような悪の組織がなければ、それを倒すヒーローになる必要もない。ならば、それ以外の方法で人の役に立つことはできないか。そうした自身への問いかけが、医師としての現在につながっている。

 しかし医師となって十年、これ程までに自身の無力さを思い知らされたことはなかった。

 屈辱感にも似た無力感に苛まれ、思わず頭をかきむしる。

 対処法も分からず、自分がただ患者を寝かせていた間に……一体、何があったというのだろうか――。

 佐藤は目を閉じ、しばし考えるのをやめた。

 陸上自衛隊土浦駐屯地で発生した装備品紛失事件と今回の事態とを結びつけて考えられるほど、彼の思考は非常識ではなかった。


 楓は教室の窓から空の様子を窺いながら、教材をスクールバッグに仕舞っていた。朝から太陽を覆い隠していた雲は晴れ、夏の強い陽射しが地上に降り注いでいた。

「三宝荒神さん、またね!」

 後ろから声をかけられ、楓はゆっくりと振り返った。

 近くの席の小柳幸こやなぎ さちとその友人達が、緊張と期待の入り混じった表情でこちらを見ていた。

「うむ。また明日」

 楓が表情を変えることなく言うと、幸が顔を綻ばせる。

「ねぇねぇ、聞いた聞いた? 三宝荒神さんが返事してくれたんだけど!」

「すっごーい! あの三宝荒神さんが返事してくれるなんて!」

 幸は友人達と嬉しそうに顔を見合わせて、ひとしきり盛り上がると、笑顔で手を振りながら教室を出て行った。

 楓はにこりともせずに手を振って彼女達を見送った後、小さく首を傾げた。


「……失礼します」

 由機は両手を揃えて礼をすると、静かに職員室の扉を開けた。

「ユキ。もう終わったのか」

 廊下から声をかけたのは楓だった。

「うん。待っててくれたの?」

「いや……そういうわけではない。もうじき、用も済むだろうと思って……」

 楓は由機が扉を閉めて廊下に出るのを待って、問いに答えた。

「待っててくれたんだよね。ありがとう」

「うぅむ……」

 楓は白い頬をほのかに赤らめながら咳払いをすると、再び由機に向き直った。

「帰ろう、ユキ」

「うん」


「……カステラ、ですか」

 上機嫌でカップに紅茶を注ぐ機十郎に由機が尋ねた。

「そう。小枝子さえこが好きだった福砂屋ふくさやのカステラだ。俺もこれが大好きでなぁ。紅茶と一緒に食べるのは格別だ」

 食卓の上には三組のカップ&ソーサーと、切り分けられ皿に載せられたカステラ。

「見た目はシンプルなケーキだが……カステラというのか」

楓は初めて目にする菓子に興味津々といった様子だった。

 由機は無言で目の前に置かれたケーキ皿に目を落とした。厚さ二.五センチ程に切り分けたカステラが三切れ、体裁よく並んでいる。

 切りこぼしもなく、しっかりと角が立った断面は、機十郎がいかに刃物の扱いに長けているかを如実に物語っていた。

「さあ、食べようか」

 機十郎の合図で、和やかに午後のティータイムが始まる。

「う~む! このしっとりした生地の食感。焦げた砂糖の香ばしさ、口の中いっぱいに広がる豊かな卵の風味。甘さの加減が絶妙で、後口がなんと心地よいことか」

 機十郎がいつもの調子で、グルメ番組の食事レポートのような感想を漏らす。その傍らで、由機と楓も幸せそうにカステラを口に運ぶ。

「日本には、まだまだ私の知らない食べ物がたくさんあったのだな。実においしい」

 楓はうっとりしたように言うと、ジャム入りの紅茶を一口飲んでほっと息をついた。

「ところで、どうしてカステラを買ってきたんですか?」

 由機がふと気になったことを尋ねる。

 突然、機十郎は笑顔のままで深々と頭を下げた。

「……すまん、二人とも」

「……お、お祖父様?」

「ちょ、ちょっと……急にどうしたんですか、ニコライさん?」

 機十郎はおもむろに顔を上げ――。

「金が無くなった。手元に残ったのがちょうどカステラ一本分だったんだ」

 バツが悪そうに言った。

「えぇぇぇっ!」

 由機が素っ頓狂な声を上げ、楓がその勢いに少しだけ身を引いた。

「まあ、その……先日の電車賃と宿代で殆ど使いきってしまってな」

 由機が再び口を開こうとするのを手で制し、楓が手を挙げる。

「お祖父様、ユキ。生活資金の心配ならば必要ない。三人で生活するだけの余裕はある」

「そういうわけにはいかないよ、楓ちゃん……」

 由機はそう言いつつ、内心では自らの稚拙さを恥じていた。

 楓の家に身を寄せるようになって五日間、食材の費用などを負担してはいるが、今後の生活費については全く考慮していなかった。楓の好意に甘えることで、大事なことを遠ざけていたのだ。

 由機は態度にこそ出さないが、内心ではパニックを起こしかけていた。

 学校では生徒のアルバイトを禁止している。それ以前に学業や生徒会、部活動のことを考えれば、そんな時間は取れない。お年玉や小遣いをこつこつ貯めた銀行の預金も、卒業後のことを考えれば使える額には限りがある。

 ――どうしよう。やっぱり、家に帰るしか……!

「わ、私――」

 由機が言葉を発しようとしたところで、機十郎がぽん、と手を打った。

「……というわけで、だ。俺は働くことにした。三人分の稼ぎを得られる程度にな」

「三人分って……そんなに稼げる当てがあるんですか?」

 由機は内心で機十郎の言葉に安堵しつつ、念を押すように尋ねた。

「今の日本は不景気だが、いつの時代も水商売は人手不足だ。駅前の繁華街をあたって、どこかの店で用心棒として雇ってもらうさ。喧嘩で素人に負けはせんし、ロシア語や中国語なら少しは話せるしな」

 こともなげに言う機十郎の笑顔は無邪気で、とても夜の街で働こうとしているようには見えなかった。

 その美貌を以てすれば自身がホストとして勤める方が向いているのでは、とも思ったが、流石にそんなことを言う気にはならない。

「用心棒……ですか? それはちょっと……」

 難色を示す由機に機十郎が肩をすくめて見せる。

「そうは言うが、俺が働ける場所は限られているぞ。戸籍もないんだからな。ヤクザの用心棒になる、とか言わないだけマシだと思ってくれ」

「ヤクザって、冗談じゃないですよ!」

「……ユキ」

 身を乗り出して抗議する由機の肩に、楓が優しく手を置いた。

「あ……ごめん。楓ちゃん……」

 由機が落ち着きを取り戻すのを待ってから、楓は機十郎に向き直った。

「お祖父様。どうしてもそういう店でなければいけない、というわけではないのだろう。お金を稼ぐことができれば、他の場所でもいいのだろう?」

「まあ、それはそうだが」

「ならば問題ない、私に当てがある」

 楓は僅かに口角を上げ、機十郎と由機に微笑んでみせた。

「ユキも協力してくれ。せっかくだから、三人で同じ仕事をしてお金を稼ごう」

「……私も?」

 楓の提案に、由機は驚きと安堵の入り混じった複雑な表情を見せた。

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