第二十五話『Restructure―再編―』

 砲塔内部は血と硝煙の匂いに満ちていた。

 全身に走る激痛に歯を食いしばりながら、うっすらとまぶたを開く。

 エンジンが停止し車内灯も消えた薄暗い車内に、光が差し込んでいる。引き裂かれた装甲板の隙間から、太陽が見えた。

 車内の弾薬が誘爆を起こさなかったことが不幸中の幸いだった。

 左肩が熱を持ち、鼓動に合わせてずきずきと痛む。

 軍服の生地がべったりと肌に張り付いている。被弾時に負傷し、出血したのだろう。

 だが……まだ生きている。まだ戦える。

 そう自分に言い聞かせて、ゆっくりと身体を起こす。床に手を着くと、ぬるりと生温かいものに触れた。

川浪かわなみ……!」

 思わず砲手席を振り返って呼びかける。しかし返事はない。

 理由はすぐに分かった。頭を吹き飛ばされては、口が利けるはずもない。

「……そうか」

 川浪にとって、戦車は文字通り『鉄の棺桶』となった。いや……川浪だけではない。車内に漂う死の匂いは、川浪だけのものではない――。

 先程まで激しく空気を震わせていた砲声は、もう聴こえない。

 車外から聴こえてくるのは敵戦車のエンジン音と履帯が発する騒音、随伴歩兵が発するロシア語の怒鳴り声。

 それは、我が中隊の僚車全てが擱座し戦闘能力を失ったことを意味していた。

 倒れても放さなかった無線用の送話器を、そっと傍らに置く。コードは千切れ、無線機も壊れ、命令を送るべき僚車も存在しないのでは持つ意味がない。

 床に転がっていた血まみれの徹甲弾を両手で拾い上げ、抱き締めるようにして軍服の袖で血を拭う。

 照準器と砲が生きていれば、まだ戦える――。

 ゆっくりと立ち上がり、砲弾を装填する。尾栓の閉鎖する金属音が耳に心地良い。

 この状況にあって、心は妙に落ち着いていた。

 動かなくなった川浪の身体をそっと横たえて砲手席に立つ。そして、目を閉じて深く息を吸い込んだ。

 この射撃は自らの搭乗する九七式中戦車――『霊山りょうぜん』にとって最後の一撃になるだろう。そしておそらく、戦車兵たる自分にとっても――。

 この破損状況では、もはや砲塔を旋回させることは不可能だろう。

 だが、九七式中戦車の四七ミリ戦車砲は二〇度の仰角と一五度の俯角を取ることができ、左右にも一〇度ずつ可動する。

 もし射界に入った敵戦車がいれば、これで射撃を加えることができる。

 吸い込んだ息を全て吐き出し、静かに照準器を覗き込んだ。

「あれは……!」

 レンズの向こうで動くものがあった。

 十二時の方向、距離一〇〇メートル。土埃にまみれた一輌の戦車が履帯を止めて砲塔を旋回させ、我が方に主砲を向けようとしていた。

 敵の主力戦車であるT-34ではない。

 砲塔も車体も一回り大きく、ぬめるような傾斜装甲に身を包み、砲口制退器マズルブレーキの付いた長大な主砲を搭載している……まさに怪物のような重戦車。

 放たれた砲弾をことごとく跳ね返し、僅か数分間で三輌の僚車を撃破した恐るべき戦車が、自分をも殺そうとしているのだ。

 高鳴る鼓動。自然と口元が歪む。

 自らの最期を飾るに相応しい相手を得た。

 左手で俯仰ハンドルを握り、肩当てに力を込め、素早く照準できるように備える。

 敵の主砲がこちらを向いた瞬間が好機だ。どんなに重装甲の戦車であろうと、たった一つ……装甲に守られていない箇所がある。

 撃発機のグリップを握り、静かにその瞬間を待ち望む。

 運良く重戦車を撃破したとしても、後続の敵戦車がこちらを放っておくはずがない。或いは、重戦車と相打ちになるやも知れぬ。

 それでもいい。何を恐れる必要があろう。

 人車一体――。帝国陸軍の戦車兵にとって、戦車は自らの分身なのだ。

 我が命はこの戦車――霊山と共にある。霊山が擱座する時は、自らも死ぬ時なのだ。

 おそらく敵は、まだこちらが戦えると思っていない。こうして主砲を向けているのは、念押しの一撃を加える為だろう。

 だからこその戦法。あの重戦車を撃破し得る唯一の方法が、これだ。

 やがて、何分間にも思える数秒間が過ぎ――待ち望んでいた瞬間が遂に訪れた。

 重戦車の砲口が照準器の十字線レティクルに重なる。

 砲口の奥に金属の煌めきを捉えた瞬間。胸が躍るような喜びを覚えた。

 笑みを浮かべながら撃発機の引鉄ひきがねを引き絞ろうとした、その時。

 突如として、目の前が真っ暗になった。

 突然の異変に息を呑むと、次の瞬間には熱いものが喉の奥に流れ込んできた。

「うッ……ごほッ!」

 視界は塗り潰され呼吸もできず、もがけばもがくほど、身体は闇の底へと沈んでゆく。

 まだだ。まだ終わっていないというのに……!

 せめて、最後の一発をこの手で撃ちたい。あの重戦車を撃破しなければ、死んでも死にきれない。

「……霊山……!」

 薄れゆく意識の中、辛うじて発したのは……自らが搭乗する戦車の名だった――。


「……ユキ! しっかりしろ!」

 私の意識を呼び起こしたのは、少女の声だった。

「ユキ!」

 再びの呼びかけに、ゆっくりと瞼を開く。

「あ……楓、ちゃん……」

 楓ちゃんが一糸纏わぬ姿で、心配そうに私を見下ろしていた。

「あれ、裸……? なんで……」

 背中に濡れたタイルの感触がある。そこは……旅館の大浴場だった。

「……のぼせてしまったのだな。もう、上がろう」

 浴場に私達以外の客はいない。その広さも手伝って、どこか寒々とした雰囲気があった。

「あ……お風呂……? そうか……」

 そう呟いた後で、思わず身震いをした。湯船から立ち昇る湯気が、撃破された戦車の黒煙のように見えた。

「湯冷めしたのか、ユキ? もう一度湯船に浸かった方がいいか?」

 楓ちゃんがそう言って私の肩に手をかけ、抱き起こす。

「……いたっ……!」

 突然、左肩に激痛が走る。

「大丈夫か、ユキ? どこか痛むのか?」

 楓ちゃんが心配そうに、私の顔を覗き込む。

「あ、あれ……? ううん、もう大丈夫……」

 肩に走った痛みは、ほんの一瞬だった。

「……疲れたのだな」

 楓ちゃんは目を閉じて、私の肩を優しく抱いてくれた。

 肩を支える柔らかな手の感触に、安堵のため息を漏らす。肌に伝わる温かさが、生きている実感を与えてくれた。

 そう――。私は生きているんだ。


 由機と楓は共に浴衣姿で、大浴場から部屋へと続く廊下を歩いていた。

「ふぅ……さっぱりしたね、楓ちゃん」

「そうだな。もう大丈夫か、ユキ?」

 気遣いの言葉をかける楓に、由機は微笑んでみせた。

「大丈夫だよ。ありがとう、楓ちゃん」

 土浦駅前に赴く途中で見つけた一軒の旅館は、飛び込みで入った由機達を温かく迎え入れてくれた。旅館に辿り着いた時には、市内の停電も復旧していた。

 一連の騒動で予約が軒並みキャンセルとなった為、他に客はいなかった。「キャンセルされた分の食材を使えるので助かる」と夕食の用意も快諾、三人は大喜びで十畳の和室を利用することにした。

 三人で同じ部屋に泊まることに、異議を唱える者はなかった。


「きゃっ!」

 和室の引き戸を開けた由機は、思わず悲鳴を上げた。

「おっ。二人とも、上がったか。一汗かいた後の風呂は格別だな」

 部屋の中では機十郎がボクサーブリーフだけの姿で柔軟体操をしていた。

「ふ……服を着てくださいよ、ニコライさん!」

 てのひらで顔を覆って抗議する由機の隣で、楓が「そうだ、そうだ」とばかりに頷く。

「ああ……すまん、すまん。親しき仲にも礼儀あり、だな。ははは」

 機十郎は悪びれる様子もなく、傍らに広げた浴衣を羽織った。

「まったく、もう――」

 湯上りで火照った顔を更に赤らめつつ、横目で機十郎の様子を窺っていた由機はあることに気づいた。

「あの、ニコライさん……!」

「なんだ?」

 由機は無言で、帯を締めようとする機十郎のもとに駆け寄った。

「うわっ! なんだ、もう裸じゃないぞ」

 突然、目の前にやって来た由機に機十郎は困惑の表情を見せた。

「……肩を、見せてください」

「……は?」

 機十郎と、二人の様子を後ろで見守っていた楓が同時に声を発した。

「服を着ろと言ったかと思えば、今度は脱げとは……のぼせたか? 冷たい物でも飲んで、一息ついたらどうだ」

「見せてください……左肩です」

 由機は機十郎の言葉を黙殺し、念を押した。

「……ふぅむ」

 機十郎は一言唸ると左腕を袖から抜き放ち、時代劇に登場する名奉行のように勢いよく左肩を晒してみせた。

「これでいいか?」

「この傷は……?」

 由機は左肩にある傷跡に注目した。

「これか。満洲での傷だ。装甲板の破片で怪我をしたのさ」

 肩甲骨の上を稲妻のように走る傷跡を撫でながら、機十郎はこともなげに言い放った。

「……やっぱり……」

 由機の脳裏に蘇ったのは浴場で見た夢だった。

「あれ……?」

 やがて、由機は左胸に深い傷跡があることに気付いた。

「これって……」

 それは、長さ三センチほどの傷跡だった。ちょうど、開いた穴を無理やり縫い合わせたような――。

「……これも、戦闘での負傷ですか」

 由機は妙な胸騒ぎを覚えながらも、機十郎の目を見て問いかけた。

「……なに?」

 機十郎の顔から笑みが消えた。

「あっ……ごめんなさい、変なこと聞いちゃって。でも、私――」

「……ユキ」

 なおも言い募る由機の左肩に、楓が優しく手を乗せた。

「もういいだろう。もうすぐ夕飯の用意ができると仲居さんも言っていたぞ」

「うん……そうだね」

 由機は小さく頷き、機十郎から目を逸らした。

「うむ。飯だ、飯だ。腹が減っているから、今日の夕飯は格別だろう」

 機十郎はそう言って着衣を直し、由機と楓それぞれに微笑んでみせた。

 由機はしばし、機十郎の笑顔を見つめていた。

 ――私は、この人の記憶を追体験している。それは、私達にとって何を意味するんだろう――。

 容易に答えは見つからないと知りながら、どうしても考えずにはいられなかった。


「あぁ……! これが、すき焼き。初めて食べたが、実においしいものだな!」

 楓は湯気を立てる鉄鍋から取った牛肉をそのまま頬張ると、至福の表情で噛み締めた。

「半分諦めてたから、まさか食べられるとは思わなかったね」

 由機は隣に座る楓の笑顔を満足そうに眺めながら飴色の白滝しらたきを箸に取り、溶き卵にくぐらせてから口に運んだ。

「たまには外で食べるのも、いいもんだな。これほどの大盤振る舞いは予想していなかった。嬉しい誤算というやつだ」

 機十郎は様々な魚貝の刺身が美しく並べられた舟盛りに箸を伸ばし、湯引きされた鯛の刺身を取ると――。

「見ろ。この透き通るような身の色、艶。どれだけ新鮮かが分かるな」

 そう言って、醤油も山葵わさびもつけず口に運んだ。

「うむ。新鮮だから何もつけなくとも、うまい。肉は臭みもなく舌触りも滑らかで、歯応え十分。湯引きがしてあるから、皮のうまさも楽しめる」

「旅番組のリポーターじゃあるまいし」

 由機は向かいに座る機十郎に苦笑してみせながら、獅子唐ししとうの天ぷらに箸をつけた。

 食卓の上は舟盛りとすき焼きの鉄鍋を中心に、山海の珍味で溢れていた。天ぷら、鮎の塩焼きに煮物や酢の物。茶碗蒸しに吸い物、デザートの果物なども並んでいる。

 種類だけでなくそれぞれの料理の量も、優に五人分はあろうかというほどだった。

「あぁ……こんなに食べたら太ってしまいそうだ」

 そう言いつつも、楓は一向に箸を止めない。

「そうだね。体重計……見たくないなぁ」

 そう応える隣の由機もまた、箸を休めようとはしない。

 二人は「空腹は最高の調味料」という言葉の偉大さと罪深さを、その身を以て知ることとなった。

「ところで、由機。気になることがあったんだが」

 ウーロン茶で満たされたコップを手に、機十郎が話を切り出した。

「何ですか?」

「お前が助けた少年と犬は、三式中戦車の姿を見ても……何ともなかったんだな?」

「え……」

 一瞬の逡巡の後、由機は箸を置いて頷いた。

「……はい。だから、あの子を逃がすことができたんです」

「そうか……」

 機十郎は顎に手を当て、しばし考え込んだ。

「阿見町を中心に、数十人が意識を失って病院に搬送されたそうだが……おそらく、私達が倒した戦車や火砲に遭遇したのだろう。『音を聴いた』という証言はニュースでも報じられているが、『見た』という証言が取り上げられていないことを考えると、その可能性が高い」

「そうだな――」

 頷きかけた機十郎が突然、大きく目を見開いた。

「どうしたのだ、お祖父様?」

 機十郎は問いに答えるより前に箸を取った。

「話し込んでいる間に、肉を煮過ぎてしまったぞ。堅くなる前に食べてしまおう」

「やだ、忘れてた!」

 由機が慌てて鉄鍋の中へ箸を入れる。

「お祖父様、ユキ。案ずるな、肉も野菜もまだ沢山ある。これを食べたらまた投入しよう」

「そうだな、慌てる必要はない。まずは鍋の中の肉をさらってしまおう」

 瞬く間に鍋の中から肉が消えると、楓が代わりの肉を投入する。その手際は見事なもので、早くも鍋奉行としての才能の片鱗を窺わせた。

 由機と楓が再び食べることに専念し始めると、頃合いを見計らったかのように機十郎が再び口を開いた。

「由機。明日、氷山ひやまに戻ったら、そのまま楓と二人で帰ってくれ」

「ほぇ?」

 口をもぐもぐさせながら、由機が聞き返す。

「俺は家に『寄ってくる』。すまんが、刀も持って帰ってくれ」

「それって……」

「お祖父様、まさか」

 由機と楓が再び箸を止める。

和機かずき真由子まゆこさんに会ってくる。まあ、なんとかするさ」

 由機と楓が見せた不安げな表情とは対照的に、機十郎は穏やかな笑みを浮かべていた。


 翌朝、由機ら三人は朝食を摂るとすぐに身支度を整え、旅館を出発した。

 午前九時過ぎに上野行きの電車に乗り、水戸で氷山行きの電車に乗り換える。

 前日の疲れと安堵の為か、由機と楓は車内での時間の殆どを眠って過ごした。

 互いの肩にもたれ合って寝息を立てる二人の顔を、向かいに座る機十郎は嬉しそうに眺めていた。


 普通電車を利用した為、氷山駅に到着したのは午後二時過ぎだった。機十郎は駅前から徒歩で自宅に向かい、由機と楓はバスに乗り帰途に就いた。

「ユキ、心配はいらない。お祖父様を信じよう」

 バスの車内で、楓はそう言って隣に座る由機に微笑んだ。

 由機は思わず楓を抱き締めたくなったが、ぐっとこらえて微笑み返した。


 機十郎は目の前に置かれた客人用の湯飲みをそっと手に取ると、静かに口をつけた。

 向かい合って座る和機と真由子は困惑の表情を浮かべたまま、その所作を見守っていた。

「……ふぅむ」

 機十郎が一言唸ると、真由子はたまりかねたかのように口を開いた。

「あの……何か?」

「お茶っ葉が、多過ぎるな」

 濃緑色の水面みなもに目を落としたまま機十郎が答えると、和機と真由子は同時に身体からだをびくつかせた。

「……おい」

 和機が横目で真由子を睨みつける。

「あっ……! すみません。れ直しますので」

 席を立とうとする真由子を機十郎が手で制した。

「いや、その必要はない。座っていてくれ」

 機十郎は、そう言って真由子に微笑みかけた。

 ため息交じりに和機が頷いたのを合図に、真由子が再び腰を下ろす。

「真由子さんに対して随分ぞんざいだな。いつもそうなのか」

 機十郎から視線を向けられると、和機は不愉快そうに目を逸らした。

「そんなことより、由機は今どこに?」

 和機は目を逸らしたまま、問いを発した。

「楓の家にいる。当分の間、そこで暮らすつもりだ」

「なっ……」

 たちまち、和機が顔をこわばらせる。

「学業に生徒会、部活動。それに家事。これだけのことを由機は毎日続けているんだ、無理をさせてはいかん。それに、一昨日おとといはひどい仕打ちをしたようだな」

「なんで……あんたにそんなことを言われなくちゃならないんだ」

 和機は怒りと困惑に身体を震わせながら、機十郎を睨みつけた。

「決まっているさ、俺が由機の『おじいちゃん』だからだ」

 機十郎はそう言って和機の隣に座る真由子にも視線を送る。真由子は無言で肩をすくめ、目を逸らした。

「……何が『おじいちゃん』だ。言わせておけば……!」

「やれやれ。やはり、この姿では俺が父だと信じてくれんか。世の中には自分と瓜二つの人間が三人はいると言うしなぁ」

 機十郎は小さくため息をついた。

「いい加減にしろ! 生き返っただの何だのと……話を聞いてるだけで頭がおかしくなりそうだ。もう、話すことなんかない……出てけ!」

 和機は立ち上がって右手を大きく左右に振り、機十郎に退出を求めた。

「話はまだ途中だぞ。由機のことはどうするつもりだ? 楓のことも、まだ殆ど話していないが」

「ハッ……由機なら、家出人として警察に届けりゃいい。それなら、厭でも帰ってくるだろうが!」

 機十郎が口を開きかけたのと同時に、真由子が慌てて席を立った。

「あの――」

「お前は黙ってろ!」

 真由子が小さく声を発した途端、和機は怒鳴り声を上げた。

「……お前こそ、いい加減にしろ」

 機十郎の声には、まるで地の底から聞こえてくるかのような低く重い響きがあった。

「真由子さんを何だと思っているんだ。いや、お前は家族を何だと思っているんだ」

 機十郎の眼光に射すくめられ、和機は言葉を失った。怒りで紅潮していた顔は急激に青ざめていった。

「真由子さん」

 機十郎は声の調子を変え、優しく語りかけた。

「は、はい……!」

「話を聞こうと言ってくれて、ありがとう。今日はそれだけで十分だ」

 機十郎はそう言って微笑むと、湯飲みを手にして一気に飲み干した。

「今度は、もっと美味うまいお茶を淹れてくれると嬉しいんだが」

「あ、はい……」

 申し訳なさそうに頷く真由子に苦笑しつつ、機十郎はゆっくりと立ち上がった。

「では、帰るとするか」

 和機は隣を行き過ぎる機十郎から目を逸らしたままだった。

「ところで」

 機十郎は居間の入り口に置かれた客人用のスリッパに足を通しながら、思い出したかのように口を開いた。

「あの時のことを、由機は覚えていないようだな」

 和機と真由子が背後で息を飲むのが分かった。

「……心配するな、言うつもりはない。ただ、これだけは言っておく。隠し事はいずれバレるもんだ。その時の心構えだけはしておくことだな」

 振り返ることなく言葉だけを投げかけると、機十郎は玄関に向かって歩き出した。

 和機と真由子は、後を追ってこようとはしなかった。

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