第十夜 武士の証明
その日、土方に呼び出された。用件の凡その検討はついていたので気が進まない。数日前に脱走未遂した隊士がいたのだが、それが同時期に入隊した隊士だった。
部屋へ行くと、土方が厳つい顔で待ちかねていた。
「柄元君。入りたまえ」
「は。失礼仕ります」
一礼をして膝を進めた。
「本日、北村三郎君の切腹が執り行われる。ついては君に介錯をお願いしたい」
「承知しました」
土方は軽く片眉を上げて窺うように壮治郎の顔を見たが、彼が表情を変えずにいるのを見て「頼んだぞ」とだけ言った。
新選組の剣術の稽古は、実践に重きを置いている。道場剣とは訳が違い、稽古でも刃引きしてあるとはいえ真剣を使うこともある。夜に襲われても動じないよう月明かりの下で稽古を行うこともある。躊躇わずに切ること。そうしなければ自分が斬られる。戦いとなれば一瞬の判断が命取りに繋がる。
訓練の一貫の意味もあり、法度を犯し切腹を申しつけられた者の介錯は、仲間の隊士に任された。昨日まで同じ釜の飯を食った仲間ですら、必要とあらば迷わず斬る。そういった精神面の訓練でもある。また、人間の身体というのは水分が多くて上手く斬りにくいものだ。切腹の介錯と言っても一発で首を落とせなければ、悪戯に刀傷をつけて相手に苦痛を与えるだけとなる。いつも濡らした藁束を斬っているだけでは、動く対象に対する感覚も、生き物の脂が刃にまとわりつく感覚も得ることができない。
部屋を出て、ふと足をとめて軽く溜息をついた。北村とは別段親しくしていたわけでもないが、そうは言っても気は滅入る。
袂をたすき掛けにし、抜き身の刀を構えて後ろに立つ。座らされた北村が、怯えた顔で壮治郎をちらりと見上げた。
北村の腹に刃が突き刺さる。そこで力一杯刀を振り下ろした。
***
おれは勢いよくベッドの上に起きあがった。ヒーターもつけていない冬の部屋の中だっていうのに、汗をびっしょりかいていた。パジャマの中に着ているシャツが、べっとり肌に貼り付いて気持ち悪い。
自分の汗の匂いで、今見た夢の感覚が甦って吐きそうになる。
細かい話は殆ど覚えていなかった。今斬ったばかりの北村の首の断面のイメージが強烈に焼き付いていた。
「っ」
本当に吐きそうになってトイレに駆け込んだ。
いくら考えないようにしようとすればするほどはっきりと夢が思い出されてくる。
暑い夏。汗の匂い。飛び散る血の匂い。
吐き気は中々治まらなかった。
おれは元々、夢はリアルに見る方だ。フルカラーで匂いも音もついてる。夢の中で転んだら痛みも感じるし、トンカツが出れば旨そうな匂いがする。だけど、この夢は強烈だった。そんな今までの夢なんて比じゃなかった。人間の首があんなに重いものだなんて、おれは知らなかった。
入った刃は骨を切る以外はそんなに重い手応えはなく、どうやらオレは剣術が得意らしい。すっぱり北村の首を皮一枚残して切ってしまい、北村の身体はしばらく糸の切れた人形みたいにぼーっとしていたが、どさりと前に倒れてしまった。オレは少し飛んできた返り血も気にせず、落ち着いて刀の血を拭き取って、刃こぼれがないか確かめていた。
夢の続きを見るのが恐くて、この日はずっと起きていた。
「げっ。おまえ何読んでんだよ」
圭司に言われておれはちょっと引いた。覗かれて困ると言えば、少し困るページを読んでいたからだ。
「なに? お前もおれと共に外科医を志望するのか?」
茶化すように言われた。カラーでは無かったものの、おれが今開いているページには開腹手術の写真が載っていたからだ。
「あー、いや……」
言い淀んでいるおれの手元を祥太がばたんと引っ繰り返して本のタイトルを検め。まったくこいつら、遠慮も何もあったもんじゃない。
「切腹!?」
「おまえ今度は何に興味を持ってるわけ」
圭司が苦笑いをし、祥太は気持ち悪いと大袈裟に
て、潔く腹を切っておれらに詫びる気にでもなった?」
「あほか」
おれはどかんと机の下から圭司の足を蹴飛ばしてやった。
「ただちょっと……切腹ってなんだろうと思って」
「何って腹を切るんだろう。サムライ、ハラキリ、フジヤマ」
祥太は変なアクセントをつけて歌うように言った。今のおれには、軽く笑いで返してやれる余裕なんて無かった。
「じゃあおまえ、なんのために腹切るのか知ってるか?」
「なんのためって……死ぬためじゃないの?」
「ただ腹切っただけじゃ確実には死ねないぞ?手首や首切った方がよっぽど確実に死ねるぞ?」
「あ、そうか」
「なんでわざわざ腹なんだ? 痛いし、切るのだって大変だぜ?」
「………」
祥太は困ったように黙ってしまった。それでおれも、矢継ぎ早に言いすぎたなと反省した。おれだって、全然今まで知らなかったんだ。それがどんなことか。どんな意味があるのか。
「わからなかったから、調べようと思ったんだよ」
取り繕うようにぼそっと付け加えた。それを聞いて圭司が言った。
「まあな。意外に腹壁ってのは分厚いものだからな」
「え。そうなの?」
祥太は圭司までそんなことを言い出して、味方がいなくなったと首を竦めた。元々祥太はこういう痛い話やグロい話は嫌いなのだ。おれだって本当は好きじゃないんだが。
「皮膚の下には皮下脂肪がある。その下には筋肉がある。人によるけれど、数センチはあるんだ。十センチちかくあることもある」
「そんなに?」
怖々と祥太は言った。おれも本で調べだしてから手に入れた知識だった。
「デブだったら皮下脂肪がもっと厚いから、刺されても内臓まで達しないこともあるし」そこで圭司は一端言葉を切って後ろを振り向いた。「あいつみたいに鍛えた腹なら厚いわ固いわで切りにくいだろうな」
丁度将斗が登校して来たところだった。
「は? なんの話?」
「おまえの腹は筋肉で固いだろうけど、腕力があるからうまくやれるかもって話」
圭司は言って、またおれの手の本を引っ繰り返して表紙を見せた。
「なんだよ朝っぱらから血腥いなあ」
「だろだろ?」
やっと援軍が来たとばかりに、祥太が言った。
「なんでおまえまたそんなもん調べてんのよ?」
将斗は自分の机に手を伸ばして鞄を置いて、コートのボタンを外した。外の匂いがあたりに漂った。
「でまた、なんでおまえもそんな話にのってるの」
視線を転じられて、圭司は苦笑いをした。
「別におれは時代小説には興味はねぇけど」
「外科志望だからってそういうの詳しいわけ?」
「外科だって入試科目に切腹なんてあるかよ」と笑って、「昔読んでた漫画で、切腹自殺しようって考えたやつがいてさ。その知識」
祥太はあからさまに痛そうに自分の腹を押さえ出した。それを見て、面白がって圭司は続ける。
「腹切るには柄は絶対取って刃だけにしておかないとな。柄が邪魔して刃が入らなかったら上手く切れないからな」
「………」
「それに腹切った後、それだけじゃなかなか死に切れないから死のうと思っても、ある程度長さが無いと喉も貫き通せないしな」
「う~……」
祥太は真正直に今度は喉を押さえた。
「切るときはあれだぞ、臍より下を切るんだ。臍より上は痛点が下に比べて多いから、痛みも倍になる」
「もうやめようよ、いいよ」
「腸ってのは柔らかいから、うまく切れないんだ。腹壁を切るのだって難しくて、表面だけ切ることしかできなかったり、そもそも刺せないこともある。脂肪で撥ね返されるんだよ」
「刃物が?」
いいよと言った癖に、つい祥太が訊き返した。
「弾力があるからな。やっと刃物が入ったところで、内臓が邪魔をして途中までしか切れないこともある。あんまり深く切り過ぎても良くないからほどほどにな。内臓やらその中味やらがはみ出てきたら、もう収拾がつかないからな」
「は、はみでる?」
「そりゃあ入れ物が裂けたら、そこから中が出てくるに決まってるじゃないか」
「!!!」
祥太はもう言葉にならないと言った様子で、黙って目を白黒させている。おれはおれで、圭司の解説を聞きながら夢のことを思い出していた。オレは、あの後も何度か切腹に立ち会っている。介錯を任されなくとも、切腹は隊士みんなで見ることが決まりだった。
「圭司調子乗りすぎ。祥太は兎も角周りのことも考えろよ。なあ」
将斗の声でふと我に返った。やつが振り返って話題に巻き込んだのは、近くの席の村越可奈だった。
「そうだよお。こっちまで痛くなってくるじゃん。それに、男の癖にだらしない。怖がりすぎ」
水を向けられて、村越はさっくり言い放つ。
「なんだと? 男の方が痛いのには弱いんだぞ?」
「恰好悪い反論」
「村越が正しいな」
やっぱりさっくりと将斗に言われて、それでも祥太は悔しそうに言った。
「だって気持ち悪いじゃんよお。自分で自分の腹切るんだぜ? 麻酔かかってたって気持ち悪くてできねぇよ」
「大丈夫、うまく切れば命は助かるよ?」
「だからもういいから!」
村越だけじゃなく、周りの女子連中数人からつっこみが入った。
「もう、徳永のせいだからね。あんたがそんな本読んでるから」
「お、おれかよ?」
「自分だけ受験終わったからって、趣味の世界に没頭しないでよ」
うちのクラスは学年でも仲の良い方だったから、嫌味じゃなく冗談で言ってるのはよく分かってるんで、悪い気はしない。
「そうそう、もっと言ってやれ!」
今度は将斗と圭司が一緒になって村越たちを炊きつけたんで、おれは苦笑いするしかなかった。
村越がもし本気で言っていたなら怒り狂いそうな話だが、おれは自習時間も先生がいないのを良いことに本を読んだ。いや、正確に言うと、先生がいても教壇で椅子に座っていて、見回りしてこないのなら教科書とノートの問に隠して平気で読み続けた。
そもそもの切腹の起源っていうのは、どうやら自分は潔白だ、というのを表すためらしい。おれが調べた限りは。確かに腹黒いとか腹を割るとかそういう言葉って今も残っているし、本心を明かすっていうことなのかもしれない。刑罰として切腹させられて、それに納得していないのに腹を切らないといけないときに、精一杯体を張って敢えて凄惨な切り方をする、というのが昔読んだ本の中にもそう言えばあった。内臓をわざと出して投げつけるとか、そもそも内臓を見せる行為自体が、無念だという自分の気持ちを表すためって話も読んだ気がする。だから武士としての刑を受ける作法としては、不満は無い、と示すために内臓をはみ出させないように切るのが正解らしい。かの赤穂浪士も扇腹だったと言う。つまり、本当には切らないで刀に手を伸ばした段階で介錯人が首を落とすとか、刀の代わりに見立てた扇を腹に当てたら切り落とすとかいうやつで、飽く迄形式ってことだ。
でも、新選組では本当に腹を切らせた。武士身分ではない者もたくさんいるのに、いやだからこそ。武士ではないからこそ、武士らしく。規律に違反した者は厳しく罰せられたのだ。
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