第二夜 上京の準備
目が覚めた。
一瞬何がなんだか分からなかった。高揚感が、まるで現実のことのように胸に残っている。思わず腰の刀を確かめたくらいなのだが、第一おれが着ているのはパジャマな訳で。どう考えても今のは夢な訳だ。
ただなんとなく残念な気持ちがした。
沖田と言えば、日本史に疎いおれでも知っている新選組の沖田総司だ。元々リアルな夢を見る方だけど、俯瞰じゃなく自分視点の夢を見るのは初めてだった。しかも自分じゃない誰かになっていて、他の登場人物に名前を呼びかけられるなんて。まるで時代劇の俳優になったみたいで、面白い夢だった。
のんびりベッドの上でそんなことを考えていたら、目覚し時計代わりの携帯電話がスヌーズ機能で再び鳴り出す。
おれは慌てて夢の余韻を振り捨てて起き上がった。
***
「おはよう、壮。なにぼんやりしてるんだよ」
昇降口で、夢の中で沖田に言われたのと同じようなことをまた言われた。
「おぅ、おはよう」
おれは我に返って、下駄箱から上靴を出して履き替える。
「あ」
履いてきた革靴を下駄箱に仕舞い、扉をぱたんと閉めた所で思いついた。
「ん?」
将斗はわざわざ立ち止まって振り返って確認してくれる。
「おまえ、日本史とってたよな」
おれが取ってるのは地理で、というか最早地理ですら大してよく覚えていないくらいの勢いなんで、思いついたことをそのまま将斗に訊いてみることにした。
「新選組の沖田総司ってさ、池田屋事件の頃って病気だったんだっけ」
言い終わるか終わらないかのところで、後頭部に拳骨が入った。
「んなもん入試に出るかー」
「いって。何すんだ。つかいつの間に来てたんだよ圭司」
振り返って圭司に文句を言いつつ、まぁ確かにそりゃあそうだよな、入試に出ないもんなこんなこと、などと思ってもみる。
「なんだよ、藪から棒に」
教室へ向かいながら、将斗が促す。
「いやー……」
夢で見たから気になって、なんていう理由を説明するのもどうなのかなと、自分から始めた話題の癖に言い淀んでいるおれに、将斗が言葉を継いだ。
「昔は結核が進行していて斬り合いの最中に血を吐いたって言われてたけど、最近は、熱射病とか夏バテの類で倒れたっていう説が有力になってきてるよ」
「へぇ。なんでおまえそんなこと知ってるの」
おれより先に、圭司が尋ねた。
「新選組好きだから、昔調べてたことがあったからさ」
「そうなんだ」
教室のドアを開けつつ、相槌を打つ。
「一昔前だと、池田屋の最中に喀血ってのがお約束の名シーンになってたけどね。でも今と違って栄養取って大人しく寝る以外に治療法が無かった時代に、そんな時期から血を吐くほど病状が悪化していたら、敵味方に名前が知られるほど剣客として活躍できなかったはずなんだよね」
「ほほぅ」
なんとなく、廊下から一番近いおれの席で滞留して、将斗の解説が続く。
「この頃って確か、江戸から京都へ行って一年ちょっとしか
「え、なになに? なんの話?」
既に教室の自分の席に座っていた
「たとえばよ。祥太は夏休み、京都も行ったんだったよな」
「うん。行った」
「どうだった、京都。西国、しかも盆地の京都の暑さは半端じゃなかったろ」
「うんうん。やばかった」
祥太はぶんぶんと頷く。
「もうそこら中湯気があがってる感じ。ねっとりとかじっとりとか、そういう感じの。湿度が高い系の」
それを聞いて圭司が腕組みをして呟く。
「おれらが京都行ったら、まずは夏バテするよね。一年かそこらで暑さに適応出来るかも怪しいな」
「そう。そのとおり」
将斗はなんだか先生みたいに、ぴんと長い人差し指を立てて続ける。
「その頃新選組の隊士は夏バテやらなんやらで寝込んでいる人が多かったって説があるんだ。だから動ける人数が大していなかったと」
「ん? なんの話?」
再び祥太がきょとんとするが、おれは将斗の話に納得してしまう。
「うーん。そうか」
「確か池田屋の時期って雨続きだったんだよね。そんな湿度の高い中、鎖帷子や鉢金をつけて町中走り回って、しかも命をかけて斬り合いだよ」
「やってられないな!」
その感想で合っているのかよくわからないが、圭司がすぱっと言い切って、おれのとなりの自分の席に腰を下ろす。
「そりゃぁ、
「だろ? そう思うよね」
将斗は圭司の前の前にある自分の席に鞄を置くと、コートを脱ぎ始めた。それを見ておれも思い出したようにコートを脱ぐ。祥太は小動物のように小首を傾げつつ言った。
「なんかよくわかんないけど、ほんよ夏の京都は辛かったよ。もう滝汗」
「そうそう。汗で鉢金が滑って、ずれたか付け直そうとしただかしたところを、斬られちゃった人もいたはず」
「へーっ」
なんというか、リアルな話だ。気を張っていたはずなのについうっかり油断してしまう隙をつかれる感じ、人間臭い感じ。二百年近く前だけど、おれたちと同じ人間なんだっていう感じがすごくする。
あ、そうだ。
「そう言えばさ、夏バテに甘酒って効くの?」
土方さんが言ってたよな。沖田さんに。甘酒を飲めとかなんとか。
言われて、将斗は頷いた。
「ああ、甘酒ってほら、飲む点滴って言われてるだろ」
「え、なになに? 甘酒おれ大好き」
相変わらず話の流れがわかっていない癖に、祥太が無邪気に言葉を重ねてくる。それを完全にスルーしつつ、圭司が言った。
「甘酒はビタミンとかブドウ糖とか、栄養剤の点滴とほぼ成分が一緒なんだよ」
「ほぅ。流石医大志望」
「体力回復に良いってんで、昔は専ら夏に売られるものだったんだよ。それこそ、江戸時代とかは」
「あー、そう言えば甘酒って夏の季語だもんね」
そうなのか祥太。ていうかさらっとおまえもそっち側行くなよ。おれの無知が際立つじゃないか。
「マジか。そっか、そうなんだ……」
「で。なに。それが」
矛先がおれに戻ってきた。
「いや、ちょっとね」
適当に苦笑いをしたところでチャイムが鳴って、廊下で待っていたのかっていうくらい速攻のタイミングでガチャッとドアが開いて担任の先生が入ってくる。
「はーい、席に着けー」
おれたちは慌てて自分の席に座る。
「はい日直」
「起立。気を付け。礼」
「おはようございます」
おれは、頭を下げながら、夏バテかぁ、池田屋かぁなどと、まだぼんやり考えていた。
四時限目は、担任教諭受持ちの現代文の授業だった。チャイムが鳴って教室中がふわっと緩んだ空気になったときに、
「あ、徳永。後で職員室来いなー」
と言われた。
「え、なんで」
「アルバイトの許可降りたから。生徒手帳忘れずに持って来いよ」
「あ、そっか。んじゃ今行く」
「今でいいのか? 昼飯は」
「後でいいよ。先生は平気?」
「うん。おれも大丈夫よ」
じゃあ覚えている内にと思って、そのまま一緒に本館の職員室まで行くことにする。先生は、抱えている資料の一番上に載せている手帳から、
『徳永にアルバイトの許可証出す』
と書きつけた付箋をぴっと剥がして指先で丸めた。忘れないように、わざわざ付箋に書いてくれたんだなと思うと、先生可愛いなぁなんて思って、嬉しくも思った。
年齢が若いから兄貴分な感じで、生徒に人気もある先生である。おれたちも、この先生のことは好きだ。
「ごーちゃん、おれ教材持つよ」
今の授業で使った本やなんかがとても重そうだった。面と向かって愛称で呼ばれても特に気にしない先生は、
「いいか? 悪いな。じゃあ頼む」
と言う。おれたちは一旦立ち止まって、廊下の端に寄った。ずっしり重い資料を受け取って、再び歩き出した先生の後をついていく。先生は手帳だけ持って身軽になって、途中廊下に備え付けてあったゴミ箱に、先程の付箋をぽいと放り込んだ。
「失礼しまーす」
先生の後からするっと職員室に滑り込みつつ、申し訳程度に挨拶をする。誰か店屋物を頼んだみたいで、蕎麦つゆの良い匂いがしていた。途端に空腹を覚える。
先生は自分の席まで行くと、脇机を指さした。
「ありがとな。ここ置いてくれ」
「はーい」
おれが資料をどさっと負いている間に、 先生は椅子に座った。机の前のボックスに立ててあるクリアファイルの束からひとつを抜き取り、ちらっと確認するとそのままぽんとおれに渡してくれた。この前郵送で送って親に判子を押して返送してもらって、先生に提出したアルバイト申請用紙である。許可の文字の判と、校長の署名捺印がされて挟まっていた。
「徳永、生徒手帳出せ」
「うん」
ブレザーの胸ポケットに入れたままの手帳を出して渡す。我が校の生徒手帳には、巻末に各種届出書が綴じ込まれている。先生はぴらぴらとページを捲って、アルバイト許可証明のページを見つけるときゅっきゅっと拳で机に押し付けて、手帳を出来るだけ平に開いた。ペン立てからボールペンを取り、枠内に日付と先生の名前を書く。引き出しをあけて三文判と朱肉を取り出し、判子を構えてはーっと息を吹きかけた。おれはつい笑ってしまった。
「先生、それ意味あるの」
「いやー」先生も笑いつつ首を傾げる。「もう、癖なんだよ。直らん」
ぐりぐりと捺印したあと、判子を取って印面を確認。
「ちょっと曲がったかな」
「ほんのちょっとじゃん。許容範囲、許容範囲」
なんて会話をしつつ、ティッシュを一枚とって、印面の上において余分な朱肉を吸い取ってくれる。非常にマメで丁寧である。相変わらず。その作業を続けながら、言った。
「どうよ、一人暮らしは」
「うん。ぼちぼち」
「寂しくない?」
「いやー。気楽でいいよ」
「まぁもうおまえは受験終わったしな。しっかりしてるし大丈夫か」
「かな」
しっかりしているかは微妙だが、まぁそれなりに、問題なく日々は過ごせている。
「ちゃんと飯食ってる?」
「うん。結構自炊してるよ」
「へー、えらいな。おれなんかよくサボるのに」
なんてぼそぼそ言いながら、ティッシュを剥がした。もう一度ティッシュの綺麗なところを押し付けて、何もついてこないのを確かめると「うん」と頷いて、手帳を閉じるとおれに返してくれた。
「ありがとう」
ティッシュをくるくるっと丸めて足元のくず入れに放り込みながら、
「冬休みバイトするって、年末年始親御さんのところには行かないの。えっと、……転勤先、どこだっけ」
「カナダ。遠いし面倒臭いよ。金もかかるしさぁ。それよか、金稼いどきたいもん」
「春から東京だもんな。ここでの一人暮らしとはまた違うもんな」
「うん。うちの親はうちの親で仲良くやってるし、大丈夫」
「おとうさんの転勤にあっさりおかあさんがついてくのが凄いよな」
「母親は英語喋れないのにね。偉いよ」
「一人息子でしかも受験生なのに、残していくのもご心配だったろうにな」
「だけどこうして推薦入試もお蔭様で受かったわけだし。ついていくほどおれも語学力無いし。あとあと三ヶ月くらいだもん。ひとりでなんとかなるなる」
「おまえらしいわ。そしておまえの親御さんらしいわ」
苦笑される。そういうことになったので一人暮らしするから住所変わります、と報告したときにも、先生にはかなり心配してもらったのだが。
「良かったな。推薦入試受けてみて」
「うん。流石に、一人でこのまま受験勉強春まですることになってたらきっついわ」
「だよなぁ。あ、これやるよ。合格祝い」
「え。なんか適当だな。貰い物じゃないの」
「うん。まぁそうなんだけどな。すごく旨いから。はい」
そう言って誰かの土産物らしい豆大福を二個、ぽんとおれの掌に載せてくれた。
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