第廿八夜 見識
「!」
おれは心臓が止まりそうだった。実際痛くなって無意識に手を当てたぐらいだ。なぜって、勉強なんて殆どしてない、日本史も専攻してないから中学くらいの知識しかないこのおれでも、教科書で見た覚えのある人が立っていたからだ。
一一一坂本龍馬。
他の隊土たちは、一向に気付いた様子は無い。それはそうだろう。多分この中で気付いているのはおれだけだ。気付いているというか、分かっているのはおれだけだ。教科書に載ってた写真で見た覚えがある。あの人は、坂本龍馬だ。
おれはどうするべきか悩んだ。あの人は厳密に言うなら、おれたちの敵なのだ。
「柄元さん?」
目が覚めたら、力が不思議そうな顔をしておれを呼んでいた。
「魘されてはりましたよ」
「すまん」
思い出し夢だった。一年くらい前の話になる。あの時のおれは結局、何も出来ずに通り過ぎるしかなかった。
当時の坂本龍馬は大して暗躍しているわけでもなくて、勝海舟の下についていた頃だ。だからまだそこまで敵っていう訳ではないので、捕まえる理由も無いから何もしなくて正解だったんだけど。
気がつけば大力はもうすーすーと寝息をたてている。おれは駄目だ。寝付けそうにないな。
すっかり目が覚めてしまった。体を動かして疲れさせれば眠たくなるし鍛錬にもなるわけだし。そう思ったおれはそっと部屋を抜けだして、木刀を持ち出すと庭でひとり黙々と稽古に励んだ。
半時も経った頃だろうか。
「殊勝なことだな」
後ろから声をかけられて振り向いたら、汗みずくの顔に手拭いが降ってきた。
受け取って声の主を確認すると、それは近藤先生だった。
「局長」
「感心なことだが寝ずにいるのは体に毒だぞ」
「はい」
おれは思わず唇を噛んだ。局長にそんなことを言ってもらえるのが気恥ずかしかった。おれが物音を立てて先生を起こしてしまったのだろうかと思ったが、部屋には明かりがついているのが見て取れた。
「先生こそ。また手習いですか」
「うん。それもあるが、郷里に手紙を書いていた」
「そうですか」
まだおれたち平隊士には内緒にされていることなのでオレは知らないことになっているんだが、間も無く先生は長州へと出発するのだ。多分その辺りのことだろう。おれの知りうる限りの歴史では無事に戻ってくるけれど、敵地に新選組の局長が乗り込むなんて相当命懸けだ。事実先生は死も覚悟していて、遺言めいた手紙なんかも遺している。今書いていたのもそれらのひとつかもしれない。
「先生は、長州征伐についてどうお考えですか」
「どう、とは」
太い眉をぐいと持ち上げて訊き返してくる。確かに愚問だった。近藤先生の新選組局長としてのお考えは、既にみなの前で話していることだ。
「すみません、忘れてください」
そう言ってみたが、先生は腕を組んで微笑んだ。
「君はどう思っているんだ。反対ならそう言ってくれても構わんぞ。今なら土方君も聞いていないし」
緊張をほぐそうとしてくれているのがまるわかりの軽口に、おれはちょっと笑った。
「反対はしていません。藩主父子の態度はあまりに酷い。仮病だと偽って延ばし延ばしにしている間に、何をしようと企んでいるのか知れたものではありません。これを放置すれば朝廷と幕府の権威にも関わります」
「うむ」
「でも賛成だとも言い切れません」
「何故かね」
「今の国難のとき、みなで一致団結して外敵に備えなければなりません。それなのに内輪揉めをしている場合ではないからです。長州のせいでもありますが、すぐに黙らせる力がない幕府のせいとも言えます。ただでさえ財政的に問題もあるのに無理をして出兵するのも金銭的に勿体無いし、ケチった戦いをしようとすれば勝てません」
言葉はそれなりに選んだつもりだったが、おれが知っていて可笑しい知識があったかもしれない。先生はうーんと唸って黙ってしまったので、やばいだろうかと焦って木刀の柄頭の部分を親指でぐりぐり触った。柄には手汗でくっきりと両手の跡がついている。
「柄元君」
「はいっ」
「君は、何がしかの文学を修めているのか」
と訊かれた。
「え。いえ、あの」
先生が言っているのは儒学とか軍学とかそういうもののことで、高校生ですとか日本史がどうとか、英検2級ですとかくだらない返答は頭を過ぎったものの口に出せるはずもない。
「特にそのようなことは」
「左様か。いや、見識が広くしっかりした意見を話すので、もしやと思ってな」
もったいない。付け焼刃の知識だというのに。恐縮して黙っていると、
「ならば如何様にしてその知識を得たのだ?」
「……強いて申し上げるなら、旅のせいかと」
「旅」
近藤先生は興味を覚えたように呟いた。
「色々なところを旅して、色々なものをこの目で見てきた経験が、役に立っているのではないかと存じます」
「ほぅ」
あながち嘘ではなかった。オレにとっても、俺にとっても。
「なるほどな」
大きな口をにんまりと曲げて、先生は笑った。
おれはなんとなく居心地が悪くて、さっき投げてもらった手拭いで既にだいぶ引いている汗をしつこく拭った。それを見てなんだか余計に先生は苦笑いみたいにして笑った。先生の笑顔は好きだ。口が大きくてにっかりという表現がしっくり来る、眩しくて人好きのする笑い方だ。
「さてと。いい加減に寝ようじゃないか」
「はい。あの、これありがとうございました。洗ってお返しします」
「いや。構わないよ。じゃあ、おやすみ」
そう言ってくるりと背を向ける。
「おやすみなさいませ!」
おれは慌てて返した。
今にして思うと、この時の会話がきっかけだったのかもしれない。なんでおれが選ばれたのか。
それから数日経った。
非番だったおれはひたすら稽古に打ち込んでいた。体を動かすと余計なことを考えずにいられるし、何より自分を、みんなを守るにはスキルも体力も何もかも、いくらでもあるに越したことはない。この時は道場で稽古をしていたら、そこまでわざわざ大力がやって来た。道場の入口できっちり正面の神棚に礼をしてから中へ入ると、おれの方へ駆けながら呼びかけた。
「柄元さん。稽古中に堪忍」
聞こえるように張った声が耳に届いて、おれは手を止めて振り返る。
「りきか。なんだい」
大力は困ったように答えた。
「へぇ。副長がお呼びなんです」
「副長が」
首にかけていた手拭で額の汗を拭いた。何かやらかしただろうか。
「なんやお使いを頼みたいとかで。おれも呼ばれてますのや」
「そうか。悪いな。わざわざ呼びに来てもらって」
それならすぐに行かないとと思ったが、かなりの時間稽古に没頭していて稽古着もびしょびしょだ。自分でくんくん嗅いでみた。
「水浴びしてからの方が良いかな。臭うだろうか」
「いいえちっとも。そのまま行きましょう。副長お急ぎのようでしたし。それに、お見通しでしたし」
「お見通しって」
「柄元はどうせ稽古場にいるだろうから急いで呼んで来いと言われました」
「それはそれは」
苦笑いしつつきっちりと汗を拭ききって、稽古着の乱れを簡単に整えた。
「なら、急いで行くとしよう」
「はい」
おれは木刀をしまうと、大力と揃って正面に礼をして道場を退出し、副長の部屋へと向かった。
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